第4章 組織内女性差別問題


◆社会的秩序に組み込まれた差別への無自覚

 総括の最後に、組織内女性差別問題について触れたい。女性差別問題の経過は、MELTのホームページに掲載されている以下の文章を参考にされたい。(注参照)

 ここでは、組織内女性差別が内包していた組織的、綱領的総括を明らかにしたい。
 その根幹に存在したのは、序列である。すなわち、運動や党組織の指導と被指導の関係と結びついた無自覚な女性差別意識の構造が、運動的序列と結合した組織内女性差別問題を生み出していった。三里塚現闘でも各地域でも、そこで生み出された組織内女性差別の多くは、指導部が指導関係を利用して、強姦を始めとする女性差別を強制する関係を作り出した。そこで生じた事態は、まさしく日常に習慣として蓄積された無自覚な差別意識と底流で結びついており、だからこそ深刻だったのである。
 それは、戦後労働運動の総括の中で述べた「差別を社会的秩序の中に組み込むことによって中流社会の支配構造が作り出された」ことと関連している。男女の歴史的差別を秩序の中に組み込み、それを無自覚のうちに正当な社会のシステムと捉えてしまう意識の構造が、左翼組織の中でさえ女性差別を蔓延させる事態を作り出す背景として存在していたのである。
 その意味で、社会的な支配秩序が差別構造の基盤の上に成り立っていたことに対する運動上の無理解が、闘争主体の側に女性差別を作り出す要因となっていたのである。組織内女性差別問題は、差別への無自覚が社会支配を支えていることと不可分の関係にあったこととして捉えなければならない。
 その側面を国家論的にいえば、国家概念の社会的拡大が検討されなければならない。国家を旧来的に官僚や軍隊などの装置として捉え、それが社会を支配しているという国家概念が問題なのである。国家は日常的な差別を利用した社会的権力として機能する。国家支配のシステムが、そのように拡大したのであり、グラムシが指摘した政治社会と市民社会の結合が国家であるという概念である。
 当時、我々は三里塚闘争にしても労働運動にしても、「国家との対決」を主要なスローガンに掲げた。ところが、政治社会と市民社会の結合が国家を構成するのであれば、その国家支配システムの一翼を差別に無自覚な闘争主体が担っていることになる。国家は差別を利用して、社会的権力として機能するのだが、その権力の一翼を女性差別という形で無自覚に担っていることになるのである。国家に包摂されている主体が、「国家と対決する」というスローガンのもとに、闘いを展開した。これは、そのような性格の"茶番"であり、"裏切り"である。
 女性メンバーによる糾弾は、その構造に対する告発であった。差別を通じて国家支配の社会的基盤に包摂されている男性メンバーに対する、女性の側からの告発と言い換えてもよい。

◆性別役割分担への無理解

 それに対して、何が無自覚であったのかを具体的にいえば、差別が性別役割分担として秩序化されていることに対してである。60年代から70年代にかけて作り出された社会的権力、すなわち、その国家概念拡大の基盤の一つは、企業社会と核家族の中で組み立てられていった。
 50年代までは三世代が同居する中家族であり、それを熟練労働者が自らの腕一本で支える構造にあった。それが労働の誇りであり、家父長的共同体の基盤であると同時に、職場において、自立した職人的秩序の核になるのである。50年代はこのような構造として、家族と熟練労働、職場における職人的ヘゲモニーの関係が成り立っていたし、相対的にだが経営に対抗する力となってもいた。
 ところが60年代から70年代にかけての高度経済成長の中で、日本の家族関係は中家族から核家族に転換し、核家族が中心になっていった。この転換は、企業社会の成立とその生産体制と一体のものであり、企業戦士として企業共同体を支える労働を、核家族が全面的に保証した。すなわち、企業社会の一環としての核家族であり、三世代同居の中家族関係は解体した。
 企業の利益、利潤は、企業内の労働力商品の収奪だけから生み出されるのではなくて、それを支える家族の無償労働を収奪することを通じて成り立つのである。そこから、核家族における家事労働、育児労働をどのように位置づけ直すのかという問題が出てくる。
 核家族における家事労働は基本的に無償労働である。その無償労働が、労働者の長時間労働や企業への忠誠心を支えた。しかも企業社会と核家族の関係は、社会的に正当な秩序として成立するものと考えられたから、家事労働、育児労働が無償労働であることの不当さの認識は全くなかった。無償労働は、夫婦愛や家族愛という"愛情問題"にすり替えられ、社会的な秩序として正当化されていたのである。このようにして、女性の家事労働、育児労働を無償労働として収奪する体制が、社会的差別の基盤として作り出された。
 家事労働や育児労働は、商品価値として機能せず、商品として無価値とされる。そのようなブルジョア的価値観によって、家事労働や育児労働は無償労働として、"愛情"という形をとってすり替えられる根拠を作り出したのである。使用価値、交換価値の問題でいえば、交換価値以外は評価しないという社会的通念が作り出され、ここから差別の正当化が生み出されることになった。
 女性差別の本質は、男女の役割分担が有償労働と無償労働へとブルジョア的価値論によって分断されたことから基盤を与えられてきた。国家のGNPの算出にとって家事・育児労働は完全に切り捨てられ、労働生産性にとって商品価値を与えられないものは評価されない。こうしたブルジョア的価値基準に無自覚のうちに合意した左翼の意識のままで、差別構造を女性から告発されたとき、全く対応力を失った。告発の根拠を理解できないし、なぜそのようなことが起こったのかを理論的に解明できないから、自己批判もできないという結果をもたらした。

◆なし崩し的、ご都合主義的対応と自壊

 ここから生まれてくるのが、なし崩し的、ご都合主義的対応である。組織内規約的に女性の自己決定権を無条件に承認するが、旧来のレーニン・ボルシェビズムの規約からするならば、許されない事態である。にもかかわらず、その規約をなし崩し的に放棄して、女性の主張に対しては論拠を示すことなく合意するという解党主義に陥ったのである。こうして70年代同盟は党としての規範を失って、自壊せざるを得ない状況となった。
 一人ひとりのメンバーが、主観的に「この問題は特殊なもの」「今回だけは特別扱い」などと対応するが、なぜ特別扱いなのかの根拠も明らかにできない。そのような過程を通じて、大混乱に陥ったのだと思う。
 根本的には価値論や国家論の問題として、組織内女性差別を捉え直すことができなかった。そのような問題を孕んでいたのである。女性差別問題を明確に総括しない限り、今後の社会運動の主体を形成することはできない。女性差別問題を放置したままでは、社会的運動との連帯は成り立たないし、対抗社会の主体を作り出すこともできない。男女間の差別問題を抜きにして、社会的差別の秩序への組み込み、権力支配のシステムとして作り上げられる構造への対抗力を生み出すことはできないのである。
 女性差別問題は、以前から自覚されてはいた。例えば女性労働は、お茶くみ要員などの補助労働として位置づけられ、まともな労働を与えられない。そのような側面から女性差別問題への批判が展開されていた。しかし、社会権力として日常的生活の根拠の中に組み込まれていることに問題があったところまでは、解明されていなかった。しかもそれを、国家概念の拡大による敵の側の日常支配の貫徹と闘争主体が位置づけ、日常と権力の結合を一貫したものとして捉えられるのか。そうした方法論が欠落していたがゆえに、国家との対決は機動戦的に街頭闘争における機動隊との対決に矮小化して理解されてしまう。そのような限界を持っていたのである。
 その意味で組織内女性差別の総括は、道徳的限界としてのみではなくて、その理論的根拠を明らかにすることが重要である。階級闘争の主体形成の要の問題として、総括すべきであると考えている。

(注)

@「組織内女性差別問題の総括その一 三中委決定と組織内女性差別問題」・夏井萌 (『労働者の旗』創刊準備二号:一九八八年六月刊)
A「組織内女性差別問題の総括その二 『同盟』のイデオロギー的空洞化と組織内女性差別温存構造」・夏井萌 (『労働者の旗』創刊準備四号:一九八九年一月刊)・
B「 "綱領的蘇生"の中断から"綱領的再建"にむけた闘いの連続性」・木戸文子 (『労働者の旗』創刊準備二号:一九八八年六月刊)
(ホームページアドレス=http://www014.upp.so-net.ne.jp/tor-ks)


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