組織内女性差別問題の総括 その二

「同盟」のイデオロギー的空洞化と組織内女性差別温存構造

(労働者の旗準備4号:1989年1月15日発行:掲載)                                    夏井萌


1、組織内女性差別問題が問うたもの

 八十二年の告発以降、「同盟」における女性への性的犯罪が明るみにだされた。強姦を極限とする女性への性的犯罪は歴史的社会的に根拠をもつ女性差別を基盤にし、女性の人格をふみにじる暴力的な女性に対する性的抑圧行為である。女性の全人格を破壊しかねない打撃を女性に与える許しがたい行為が、共産主義者を名乗る者によってなされたのだ。これは女性に対する敵対であり、共産主義に対する裏切りである。私有財産制にねざし、資本制的単婚と結びつき近代化された女性への社会的抑圧を打ち破ろうとする事業に対する敵対なのだ。革命をめざす組織におけるこうした行為は、革命をめざすたたかいの団結、信頼関係を利用してなされるがゆえに、女性にいやしがたい傷と不信を与え、組織の「信頼関係」を破壊する。告発によって明らかにされた組織内女性差別問題は、「同盟のマルクス主義』とその下での「団結」がどのようなものであったのかを問い、革命党として名乗れる組織なのかを鋭くつきつけるものであった。
 「同盟」は、その持てる「力」のすべてをだして三・二六を頂点とする三里塚闘争にとりくみ、以降、その「力」の限界・矛盾を顕在化させてきた。それは戦後世界の再編の「同盟」における貫徹でもあった。「七0年代同盟」の政治的破綻は、女性への性的犯罪という「革命をめざす」タテマエをすてさったところのホンネとなってあらわれた。政治的破綻がこうした女性の犠牲となってあらわれること自体、女性にとって許せない不条理である。こうした不条理をもたらしたものーマルクス主義をタテマエ化していた思想とその団結のあり方が問題なのである。
 共産主義者、その組織といえども、ブルジョア社会の影響から自動的に自由ではありえない。女性差別が歴史的社会的基盤を持つ以上、共産主義者が決意したからといって即時に差別をなくせるわけではない、(このことは、もちろん女性差別に対するたたかいを放棄していいなどという開き直りの理由にはならない)。この当たり前のことと、強姦をはじめとする女性への性的犯罪をおかすこととの間には決定的な違いがある。社会的性格を持っている女性に対する差別・抑圧と個々の女性への性的抑圧行為は同じではない。もちろん、性的抑圧行為・性的犯罪は歴史的社会的な根拠をもつ女性差別を裾野としているが、個人や組織の意識のありかたによって克服しようとすることはできるはずである。
 いかなる契機であれ、革命をめざすマルクス主義の組織に自ら参加するということは、自らの生き方に貫かれたある種の思想的飛躍の決意をともなう。そこには字句上の規律ではなく、自らのうちに自らを律するものがあるはずである。しかし、こうした共産主義者たらんとする決意は、組織活動を通じて生きたイデオロギーとして形成されていかなければ、日々浸食してくるブルジョアイデオロギーに対して独立していくことは困難である。レーニンは「資本主義社会において教育され、資本主義社会によって堕落せしめられた人間」から成る党を均質な階級意識へと鍛えるために、不断の党員の教育、点検を党建設上の重要な政策であるとした。「同盟」の実態は、組織を通してブルジョアイデオロギーに対して不断にたたかい、メンバーを鍛えていく能力も政策も致命的なまでに不在であったことを示している。
 「同盟」は女性への差別・抑圧が歴史的社会的に根拠をもっている以上、その克服は社会革命を通じねばなされない、ということを「原則的立場」としていた。しかし、その社会革命はプロレタリアートによる意識的な事業である。そのプロレタリアートの前衛たろうとする組織の思想の重要性は多言を要しない。そうした組織や、組織の成員の前衛としての階級意識をどのように形成していくのかということをぬきにしては社会革命の展望も見いだせない。「同盟」でおきた女性を自らと対等な人格ととらえられない行為、ましてや党建設の主体とみなしえない、党に獲得しようなどとは思わない行為とは、「同盟」がかかげた「原則的立場」が自らの行動の規範となっていないことを示している。「同盟」の「原則的立場」は日々の現実を通じて問題をとらえ、組織とその成員の行動を律するイデオロギー的立場に立ったものではなかった。社会革命を通じた差別の克服という展望は、不断にタテマエ化され、現実の組織とその成員は実際上ブルジョアイデオロギーに武装解除されていたのである。
 組織活動と私生活の機械的分断という「同盟」の実態はその典型的あらわれである。ブルジョア社会における性関係と家族のありかたに貫かれている男性の女性に対する支配、優越をそのまま受け入れる意識は温存されている。日常生活の諸問題を政治的にとらえ直し、性的権威主義との不断のたたかいのなかで日常生活と政治生活を一体化すること、すなわち性と政治の統一を意識し、つとめること、がなされない中では、共産主義者といえども男性は女性を革命をめざすたたかいの主体とはとらえられない。実際の「同盟」において、日常生活の矛盾を背負い、なおかつ活動家、共産主義者として自己を育てようとする女性のたたかいは、組織的に全く位置づけられないまま、個々人の努力にまかされていたのである。「同盟」が、この点における階級意識の形成やカードル政策を致命的に欠落させていた以上、その努力の必要は男女をとわない。しかし、ブルジョアイデオロギーの浸透に対して非武装な中では、私生活に貫かれている女性への抑圧と性的権威主義は組織活動の中でも貫かれるのだから、女性のたたかいは矛盾にみち、困難にみちている。
 こうした組織活動の中では思想的団結、政治的信頼関係は確立しえない。私生活における性的権威主義は組織活動においても貴かれ、それは容易に組織上の権威主義を受け入れる態度となる。戦後世界の再編のただ中で「七0年同盟」をおおった政治的ゆきづまりと大衆運動の停滞は、「同盟」に官僚主義的組織運営をもたらした。官僚主義と受動性が「同盟」をおおうことになったのである。「信頼関係」を利用した女性への性的犯罪は、こうした「同盟」の実態からもたらされたのである。組織内女性差別問題の告発の多くは、過去の悲惨な実態を明るみにだした。事件がおこっても直ちに問題にしない、あるいは問題にされない状況をつくっていた。たしかに女性が自ら受けた傷を再び俎上にのせることは非常につらく勇気のいることである。同時に問題にすることによって組織に打撃を与えることへの躊躇、いってどうにかなるとは思えないという組織に対する不信とがあっただろう。官僚主義と受動性は組織内女性差別問題に最も深くあらわれていたのである。
 こうして、組織内女性差別問題の告発は、女性による自らの自立のためのたたかいであり、組織をつくりかえることを通じた、党建設を通じた革命への意志がこめられていたのである。

2.とりくみにおける問題

 マルクス主義革命党として名乗る資格があるのか、を鋭く問うた組織内女性差別問題のとりくみを通じて、結局「同盟」は自らの誤りとその根拠を解明できぬまま、女性を党建設の主体としては切り捨て、解党主義の立場にたった。解党主義に至ったとりくみの問題は、女性差別問題をひきおこした「同盟」の問題と根は同じである。
 「同盟」再建という課題にむけた組織的とりくみはどうであったのか。労農合宿所での告発を受けて当初とりくみにあたった政治局は” 個人の不祥事”としてとらえ、 三里塚闘争にとって”ヤバイ”という水準であった。しかも組織全体に対する報告や提起は、問題のとらえ方の誤りと結びついていたとはいえ合宿所で討論された後であったのだ。「同盟」の問題としてとらえられないことから、当該に対する討論は「同盟」の政治組織総括を媒介にしようとするのではなく、彼の個人史の追及としてなされていった。Aさんという女性をふみにじった彼が「同盟のマルクス主義」の下にあるという痛苦なとらえ返しがないままに行われた討論は、結局のところ彼に自分の個人史を盾にして開き直ることを許してしまったのである。組織的にとりくむということは、犯罪行為をうみだした組織の根底的切開を必要とする。「同盟のマルクス主義」のもとでの男女の団結の破綻が問題とされている以上、個人の生きざま、思想は「同盟」総括を媒介になされなければならない。マルクス主義をタテマエ化してきたことそのものにメスが入れられなければならないし、機械的に分離してきた組織活動と私生活に光があてられねばならない。中央委員会ー政治局という機関の頂点のところから政治指導が崩壊し、組織的に問題をとりあげるイニシアチブがない中で、「同盟」総括を明らかにして「同盟」再建の共通基盤を築くことはなされなかった。  組織的にとりくむ、組織・機関を防衛するということは一般的には正しい。しかし、その組織・機関の破綻が問題になっている以上、その組織の思想の根底的な切開を必要とする。そうでなければ組織機構はそれ自身の維持という現実の圧力にたやすく屈してしまう。それは現状維持的組織防衛にしかならず、組織の根底的変革を希求した告発の意志と対立するのである。「同盟」は、労農合宿所での公開討論直後に開かれた十一回大会において「同盟」の現状を「自然発生主義」と規定したが、なぜ「自然発生主義」であるのか、その根拠・総括には立ち入れなかった。「自然発生主義」である場合、「同盟」のイデオロギー的内容は何なのかふれられなかった。十一回大会の後、告発された者を大衆運動の責任ある部署に配置するという人事案を中央委員会が決定したことは、まさに指摘された「同盟」の現状そのままである。党建設の根本問題と大衆運動の要請がつきつけられ、中央委員会ー政治局は党建設の根本問題を大衆運動の要請と切断し、大衆運動の要請に応えることを選択したのだ。三・八分裂を必至とした三里塚現地における情勢の圧力は、カンパニア主義では突破できないものであり、その指導をなしうるのは政治的に独立した指導部によってのみ可能である。大衆運動の工作にあたっては大衆と習熟した信頼関係をもっていることが前提ともいうべきことであるが、そうしたメンバーが「同盟」では不断に再生産されることがないまま非常に限定されていた。しかしそうしたメンバーが致命的な犯罪を犯しているにもかかわらず"他にいない、やむなし"と判断した根拠には、大衆連動と党建設を統一してとらえるのではなく、プラグマチックな大衆連動への対応がこめられていたのだ。致命的犯罪をおかした者を大衆運動の責任ある部署に配置するということは、表面的には大衆運動の要請に応えるかのごとくであっても、本質的にはその大衆運動に責任をもたないものである。女性をふみにじった者のそうした配置は、その大衆運動に女性はいらないということでもある。
 この人事案は当該の逃亡という事実によって破産を告知された。自ら指導の誤りをとらえたのではなく、事実によって誤りを告知されたということは、誤りと対立を自ら止揚したのではないだけに自己批判ー総括が明確にされにくい。それまでにも「同盟」は様々な誤りや対立が起きても論争として発展させ止揚するのではなく、事態や情勢の推移によって「合理化」することが多く、総括は後送りにされてきた。同じことがまたくりかえされたのである。
 「同盟」の政治組織総括とその思想の解明は五年間の三つの大会(十一、十二、十三回大会)でのとりくみを通じてもなされなかった。
 当該の逃亡によって破産した人事案以降、不信・対立・分散が進む中で、「同盟」は「レーニン主義」をもって再建の基盤としようとした。この「転換」は十一期六中委「レーニン主義のために」から意識化され、十二回大会で全面化された。十一期六中委でのレーニン主義の強調は、中央委員会ー政治局が組織内女性差別問題をとらえられず、告発・糾弾に敵対し、指導できずにきたことについての自己批判、総括と結びついていず、状況を打開するどころか、告発・糾弾への教条的対置として抑圧的に機能した。十二回大会での「レーニン主義的党建設」論は、「組織内女性差別問題」を別議題として立論されており、内容的に直接言及しないまでも組織内女性差別問題が党建設にとっての根本問題を提起していることを明確にして論じられてはいない。プロレタリアートの前衛的階級意識の形成と党建設というレーニン主義の核心的な方法的立場は明確にされず、したがって組織内女性差別問題のとりくみのレーニン主義的な、生きた反省はないまま、レーニン主義が規範的に強調された。十二回大会は十一期六中委の誤りをより全面化したのである。こうして十二回大会は問われているのが「同盟」のイデオロギーそのものであるということを明確にできず、政治的に判断停止状況におちいっているという「同盟」の危機の本質を明らかにすることはできなかった。十二回大会は、危機意識は共通していても、危機の認識を明らかにし、統一することができないままであった。従って「同盟」再建の戦略・戦術を確定することはできず、組織内女性差別問題は緊急課題として確認はされても手つかずにされていたのだった。女性差別問題が解決の道筋を見いだせなかったとはいえ「同盟」の敗北は明らかであり、この二重の圧力の下でこれまで不問にされてきた私生活に否応なしに光が当てられ、タテマエがはぎとられて行くのに応じて、男性同盟員は沈黙しあるいは女性に拝跪していったのだ。
 確定できなかった「同盟」再建の戦略・戦術ををめぐって、直接には労働情報とI問題を契機として「同盟」は分派闘争の局面に入った。労働情報の再編をめぐる路線問題、うわさ先行の徒党的なやり方に始まるI問題は、ともに「七0年代同盟」の政治的思想的破綻をどのように認識するのか、を問うものであった。それは革命と党についてのマルクス主義の再獲得が同時に問われるもので、組織内女性差別問題が問うた問題と一体のものなのだ。準備された分派闘争ではなかったとはいえ、結局のところ現実の分派闘争は自らの基盤(官僚機構、大衆運動)の防衛という水準ー「同盟」の現状を維持するという水準にととまるものであり、それが十三回大会を規定したのである。現実に十三回大会は暫定的な中央委員会体制を決めたのみであった。分派闘争の飛躍、それもほかでもなくプロレタリア派の政治的飛躍が待ったなしにつきつけられたのである。だが「同盟」の現状維持を最優先とする中央委員会は、「同盟」の現状に屈服して十三期三中委で女性同盟員を規約の外におくことを決め、組織内女性差別問題にとりくむ主体をなげすててしまったのである。十三期三中委決定は「女性を党建設の主体とみなさない」という意味で「同盟」が女性差別問題でおかした誤りの集大成であった。それは女性の自立と「同盟」再建のたたかいへの敵対の集大成であり、女性に怒りと不信をより一層つのらせた。マルクス主義革命党として名乗る資格があるのかという問いは、マルクス主義革命党を否定するものではない。女性をきりすて現状を維持しようとする「同盟」の実態は、革命をめざす組織の理念の必然ではないのだ。自らが選択し、自らがその下にあった「同盟のマルクス主義」を問い直すことは、革命とマルクス主義という思想をタテマエ化していたことにメスを入れることである。男性同盟員が変わらねば「同盟」再建はありえないが、だからといって女性が自ら党建設の主体、革命の主体であることを放棄するとすれば、組織内女性差別問題での苦闘を清算してしまうことになる。組織内女性差別問題は、歴史的社会的基盤をもつ女性への差別・抑圧に対する思想と生き方をタテマエではない党建設の問題として問うているのだ。そうでなければ女性もまた政治的に解体される道に入り込んでしまう。

3、「七0年代同盟」のマルクス主義

 イデオロギーが自らの行動の規範になりえない「同盟のマルクス主義」とはいかなるものであったのか。「七0年代同盟」は自らについて「自然発生主義、大衆運動主義」であるという指摘を何度となくしてきている。そしてその都度、ブルジョアイデオロギーからの独立ということも言われてきた。しかしなぜ「自然発生主義、大衆運動主義」であったのか、そうした「同盟のマルクス主義」とはイデオロギー的にどういうものであったのかは一貫して明らかにされてこなかった。歴史そのものに鍛えられたボリシェビキニレーニン主義=トロッキズムの政治潮流としての日本でのたたかいにおいて「同盟」はトロッキズムをどのように"誤って理解していたのか"。女性を革命の主体として位置づけられない革命とはどのようなものであったのか。その思想と組織へのあらわれを明らかにすることが、組織内女性差別問題の総括の核心であると考える。
 ここではまず、「七0年代同盟」の理論的組織的基盤を形成した「同盟」四-六回大会の政治路線について検討してみる。
 四回大会「極東解放革命論」とその転換を図ろうとした六回大会「全人民の急進化と党建設」は「七0年代同盟」のイデオロギー的基礎であった。そして四回大会では「わが同盟は婦人運動の分野において意識的な活動をすべきである」ことを決定し、七二年に「女性解放闘争における階級的立場ー反帝国主義と社会主義的女性解放闘争」(女性解放テーゼ草案)が起草されている。ちょうどこの前後の時期に「同盟」では性的犯罪の告発が二つの地区においてなされた。八二年の告発以降明るみにだされた「同盟」の実態は、「七0年代同盟」がこの告発を党建設の問題として、路線と思想にかかわらせてとらえることができず、女性を位置づけられない組織活動のまま、ブルジョアイデオロギーに非武装であり続けてきたことを示している。むしろ性的犯罪を個人問題視し、差別を日常的社会的なものとして政治的組織的にとらえ返そうとする契機をつみとってしまったのである。政治活動と私生活は画然と分離されていったのだ。この同じ時期に起草された「女性解放テーゼ草案」がこの告発に何の影響も受けていないという悲惨な事実は、「同盟」における現実と経験を媒介にしたイデオロギー活動の不在のあらわれであるとともに「女性解放テーゼ草案」に貫かれている四-六回大会の誤りに根拠をもっている(女性解放テーゼ草案についての批判は「労働者の旗」第二号参照)
 「七〇年代同盟」は六〇年代末のベトナム革命の世界的な影響下での急進的青年連動への介入の中で組織的統合をなした。四回大会は、最強のアメリカ帝国主義と不屈にたたかうベトナム人民のたたかいを「世界的二重権力」を打ち破る世界永久革命、第三次アジア革命の端緒であると規定し、「日本革命は第三次アジア革命の一有機分節としての極東解放革命」であり、大衆的反帝国主義闘争の構築を任務とした。
 「一九六七年以来の国際的かつ国内的な反帝国主義かつ急進的大衆諸闘争の発展とそのエネルギーに支えられて、自らの全国同盟政治諸機関の基礎的再建の仕事をなしえたにすぎなかった」という卒直な現状規定は、党というものについて次のような規定をうんでいる。「新しい革命党は、トロッキズムの綱領的イデオロギーにたいする単なる同意にもとづく諸活動家の単なる量的結集でなく、現実の国際・国内階級諸闘争における大衆的政治経験に決定的に媒介されなければならないということは、トロッキズムの綱領的イデオロギー上の純粋性とは程遠い経験的で中間主義的要素をあまたおびて登場し、発展するであろう国際諸闘争の自然発生的で経験的エネルギーと一度決定的に合流合体し、この自然発生的エネルギーのなかでその綱領的イデオロギーを再生することなしにはトロッキストが企図する新しい革命党の歴史的建設はありえない」したがって党建設の基盤は未成熟であるがゆえに「革命党を直ちに建設する」時期ではなく「急進的大衆闘争を徹底的に闘いぬくことだけが本質的課題」であり、その闘いを通じて「アジア革命の全国分派」を確立することを同盟建設の課題としたのである。
 孤立したトロッキズムの思想集団として閉塞するのではなく、党建設は現実の階級闘争の中で遂行されねばならないと考えることが、実際には「国際諸闘争の自然発生的で経験的エネルギーと一度決定的に合流合体」せよという方針に歪められ、その結果現実の階級闘争へと自らを解体する道を開いてしまったのだ。それはトロツキズムのためのイデオロギー活動が「トロツキズムへの絶対的忠誠心」のたたかいとして提起されたことと表裏一体である。このことは、情勢をとらえるにあたってベトナム人民のたたかい、ベトナム革命の客観的な評価と同時に、その指導的政治勢力であるベトナム共産党について言及がなされていないことに集約的に表現されている。「闘争の伝統を闘争の中で語り継ぎ受け継いで来た南部ベトナム人民の溢るるばかりの闘争意欲にたいして、われわれはただ無限の感動と感嘆を覚ゆるのみである」 いかなる潮流であれ階級闘争の前進のためのたたかいを支持し、その勝利のためにたたかいぬくことと、その主たるイデオロギーにたいし独立した評価をもち、トロッキズムのためにたたかうことは何も矛盾しない。大衆の中に深く入れば入るほど独立した党的意識が要請されることと同じである。ベトナム人民のたたかいとベトナム共産党を混同した思考は、つまるところ、党と階級の混同にほかならない。党と階級を混同したまま、イデオロギー的独立がいわれ、「同盟」のように「トロッキズムへの絶対的忠誠心」がいわれるとイデオロギーは教条として現実に対置されるとともに、タテマエ化されてしまうのである。
 こうした四回大会に対し、六回大会は日本プロレタリア革命と党建設を直接の課題とすべく「転換」としてかちとられた。六回大会が開催された七三年は、七二年のニクソン訪中と米中共同声明によって戦後世界情勢の大転換が画された時期である。それにもかかわらず、情勢のとらえ方において「世界的二重権力論」はひきつがれている。いぜんとしてベトナム共産党に対する評価はなされていない。そして、党建設に関して、四回大会がそのための基盤は未成熟であるとしたのに対し、六回大会はそのための基盤は成熟しているという、立論的には同じ方法が貫かれていたのである。六回大会は「労働者農民大衆が真に自主的な自己の独立的大衆闘争を形成しようとする傾向は、都市ならびに農村のいづれにおいても社会党・共産党のブルジョア民主主義的ヘゲモニーから独立した真に急進的で戦闘的な闘争と運動を確実に発展させつつある」という認識に基づいており、情勢は「革命の綱領とその党の建設を提起」しているという方法なのである。
 四回大会に典型的に示された党と階級を混同する誤りは、党建設において、その基盤の成熟度合いによる党建設という方法論としてあらわれ、六回大会もその方法を引き継いだまま、党建設を直接の任務とした。四回大会の党建設論は総括されず、その誤りは自覚されないまま、六回大会以降の「同盟」に引き継がれていくことになる。党と階級を混同することはイデオロギー的に左翼中間主義の理論的特徴である。この同じあらわれが政治革命と社会革命の相互関係を認識できないところにも見られる。四回大会においては、日本の急進的な大衆闘争はベトナム革命を先頭とする植民地革命に獲得されなければならない、とするところから日本の労働者階級内部の矛盾や内的闘争は無硯された。六回大会においては、一方で党について「かくあるべし・・・」と一般論としていわれても、「全人民の急進化」という認識の下では、労働者階級内部の分析において自然発生性への拝跪をはらみ、大衆の中に入りこんだ党建設とそのための独立したイデオロギーはタテマエのままになっていたのである。こうして社会革命をなす労働者階級の階級意識をどのように形成し、獲得するか、という党建設の実践面では、「同盟」の理論的基盤が党と階級を混同させたままであることによって、最後通牒か、現実への解体かに分裂した。「七0年代同盟」はそれを「綱領カンパニア主義と労働組合主義」であると認識した。だが「七0年代同盟」はその理論的根拠を認識できず、その克服に手をつけることもできなかった。また六回大会では党建設のたたかいのためのイデオロギー活動としてマルクス主義基本文献が指定されたが、そこに哲学・思想の分野がすっぽりぬけているのは重要な特徴である。
 この二つの大会にわたって起草された「女性解放テーゼ草案」は、制度としてのブルジョア家族制度と家族形態を混同し、日常性としての女性差別の社会構造をきりすてたものであった。これは四-六回大会に貫かれている方法に根拠をもっているのである。
 党と階級の混同、政治革命と社会革命の分断は、「同盟」がトロッキズムを立場としたにもかかわらず、実態としては左翼中間主義であったことを示している。イデオロギーがタテマエとされ、現実にはブルジョアイデオロギーに対して武装解除するという「同盟」の実態は、政治路線の側面でスターリニズムに対して独立しきれないブロスターリニズムとしてあらわれた。
 事実「同盟」は、ベトナム共産党に対する規定、中国革命とそれを主導した毛沢東主義に対する評価等において、ブロスターリニズムそのものであった。
 政治革命と社会革命が分断されている中では、女性の差別・抑圧に対するたたかいと政治的自立のたたかいは位置づきようがない。スターリニズムは女性を単なる量的動員の対象とするか、女性の献身性の利用しか考えない。「七0年代同盟」は、結局この水準であったのだ。「同盟」は「女性解放テーゼ草案」を起草した後、社会主義婦人会議の結成に指導的にかかわった。
 「女性解放テーゼ草案」の検討は理論的になされぬまま、また他の差別とたたかう諸戦線との理論的統一もなされぬまま(悪しき分業構造と思想的不一致)、事実上、婦人運動の分野は女性にまかせられ、放置させられた。「七0年代同盟」は細胞建設をなしえず、大衆運動は共青同に代行させたが、女性に関しては組織的に位置づかないまま、社会主義婦人会議に代行させ、矛盾を集積させたのである。「七0年代同盟」の理論的基盤としての四-六回大会とその誤りが「七0年代同盟」において組織的にどのようにあらわれたのか、女性に関する理論と政策はどうであったのかを以下明らかにしていきたい。


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