【補足】関西派総括


 (革共同)関西派と一口に言っても、50年代後半に黒寛派(黒田寛一派=現革マル派)がネーミングしたそれと、60年代後半から70年前半までの関西派と称された関西ビューローとの間には違いがある。(この時期の関西ビューローを旧関西派という名称で呼んだ時期がある。また、黒寛派が革共同を関西派とネーミングしたのは、スパイ問題で第四インターから追放された自己を革共同全国委員会と称し、関西に設置された中央を一部地方組織のように印象づけるためであった。)
 60年代後半の関西ビューローは再建された70年代同盟中央と対立したわけであり、その点からすると"関西派"は二種類あることになる。したがって、この稿では50年代末から60年安保闘争までの関西に設置された中央指導部を"関西派"、60年代後半から70年代前半の関西ビューローを、"新関西派"と呼ぶことにする。(旧関西派と呼ぶのは間違いのように思う)ただし、70年代同盟中央と対立した"新関西派"は程なく消滅し、現在は痕跡も残っていない。
 ここで問題にしたいのは、"新関西派"が解体・消滅に至った経過と原因の総括である。

 50年代末から60年初頭まで、第四インターナショナル日本支部(準)の中央指導部が存在したのは、東京ではなくは関西(京都)であった。この組織は60年安保闘争や三池闘争で挫折したのだが、その原因の一つは学生運動を中心とした新左翼内で第四インターが少数派へ転落したことである。すなわち左翼中間主義党派(ブンド、革共同全国委員会派=後の中核派、革マル派)が学生運動で多数派を握り、第四インターは少数派に追い込まれた。
 もう一つの原因は、高野派・革同の運動や三池闘争が労働運動で体現していた可変的流動性を持つ拠点闘争との結合と獲得に失敗したことである。
 この二つが、関西派の党建設の挫折の基本的要因であるが、それは相互に関連していると私は捉えた。学生運動を軸とした急進主義運動で少数派となった根本原因は、労働運動を獲得できなかったためである。労働運動本隊の中で第四インターのヘゲモニーを貫徹できない結果として、左翼急進主義の運動が中間的に固定する要因を作り出した。
 当時の私の総括視点は、このようなものであった。したがって、労働運動内部に党の基盤を作り上げることによって、急進主義的な学生運動における中間主義的な要素を克服することが可能になるであろう。そのように考えたことが、加入戦術に結びついたと思う。
 そこから、次のような方向が出てくる。労働運動における階級的ヘゲモニーは、労働者の日常的生活と生産の双方において自立と自己決定力を系統的に作り出し、そのネットワークを組織することによって生まれる。それが階級的独立であり、そこから党の原則的復権の土台が作り出される。
 したがって、左翼中間主義がショック戦術で危機感を爆発させ、それによって流動化を作り出し攻勢に転じるという運動のあり方とは、相反する関係にあった。むしろ、左翼中間主義によるショック戦術は、それが行き過ぎると労働者を組織化する上で阻害要因に転化する。危機感を爆発させ、街頭で権力と対決するという左翼中間主義の運動のあり方は、日常的な自己決定とヘゲモニーを労働者拠点から作り出す運動を妨害するものである。
 60年安保闘争における第四インターのブンド批判の論理は以上のような内容であり、こうした運動をプチブル急進主義と規定したのである。プチブル急進主義が労働者の階級的発展を阻害するという関西派の感覚は、50年代前半における日本共産党の軍事闘争、火炎瓶闘争の歴史的破綻と重なって意識されていた。
 とくに岡谷進は、この傾向を強く持っていた。共産党の軍事路線がいかに共産党や労働運動を破綻と崩壊に導いたのかという実感が、岡谷には強くあった。したがって、軍事的要素を孕んだ急進主義的運動を否定する意識が、関西派指導部の中に存在していたのである。この要素と勤評闘争時の奈良闘争の自己批判とが結びついていた(『戦後左翼はなぜ解体したのか』113頁参照)。
 学生運動と労働運動との結合や安保闘争と三池闘争の結合として提起された関西派の路線の根底にあるのは、三池闘争に代表される反合闘争、すなわち労働運動における生産点の実力闘争が政治闘争発展の原動力となるという考え方であった。
 例えば三池の職場占拠闘争が政治闘争と結合してヘゲモニーを発揮したときに、街頭闘争は生産点の闘いに統制されて有効性を発揮するのであって、その逆ではない。そうでなければ、労働者の生産点における真の実力闘争は発展させられない。したがって60年安保ブンドによる機動隊との激突と国会占拠戦術は、労働者の階級的実力を発揮させず、運動から逆に離反させる結果をもたらす。だからこそブンドは、プチブル急進主義なのだと。
 未分化の要素を持ちながらも、このような思想的流れが関西派の中には存在していたのである。
 60年代後半から始まった反戦・全共闘の急進主義運動の発展をどう評価するかをめぐって、関西派の分解が始まった。関西に設置された中央指導部の体制のもとに結集したメンバーを関西派と呼ぶとするならば、関東の社通派、東北の各県メンバー、関西ビューローが関西派といえる。それが二つに分解した。
 70年代同盟再建で中央に結集した酒井、今野、寺岡ら第一期関西派のメンバーと関西ビューローが、反戦・全共闘など急進主義運動の評価と、それへの対応をめぐって対立を顕在化させたのである。
 その第一の対立点は、扇町プール事件である。1969年5月、大阪府教職員組合(大教組)が扇町公園プールで開いた反戦集会に対して、高校生反戦グループが抗議行動の一環として突入した事件である。教員を管理者として告発した高校生たちは、抗議行動として集会になだれ込んだ。この事件に関して関西ビューローは、高校生の行動を教職員組合の運動を妨害する許しがたい行為として批判、教職員組合擁護の立場を声明した。
 これに対して中央政治局は関西ビューローの声明に反対し、高校生の教員に対する管理者告発の闘いを支持する立場をとった。
 第二の対立点は、全国反戦結成についてである。労組青年部反戦の機能崩壊の後、地区反戦(党派反戦が中心となる)を軸とした全国反戦結成に鍵山らを中心とした関西ビューローは反対の立場を表明、労組青年部の機関を重視(実質的には機能喪失状況に陥っていたが)する旧来型の運動構造に固執した。こうした関西ビューローの立場と対立した中央政治局は、今野を世話人とする全国反戦結成を全面的に支持していくことを決定し、行動したのである。
 第三の対立点は、関西ビューローが反合理化闘争を保守的、受身的運動として批判する立場を取り、技術革新による生産力の発展を、労働者の利益として獲得していく路線を提起した点である。そこには技術革新がもたらす労働の疎外や労働者の団結基盤の解体の視点が欠落しており、今野がそれに反対して鍋野との間に激しい論争が起こった(寺岡はその会議に欠席しており、後からの報告で知った)。
 このような対立から分派としての"新関西派"が生み出されたが、彼らはその行動が「単なる組織内分派に止まらない」と主張した。こうして"新関西派"との対立は、組織内に止まらない大衆的対立(分裂)へと発展する可能性をもったものであった。
 こうした対立の顕在化は、旧来の関西派に内包されていた党建設や大衆運動の路線的分解の表面化を示すものであった。
 その第一の論点は、労働者の階級的ヘゲモニーに関する評価の問題であり、第二の論点は急進主義、左翼中間主義の評価の問題である。
 第一の論点、労働者の階級的ヘゲモニーの問題で言えば、先に述べたように関西派の提起する階級的ヘゲモニーは、労働者の日常的な生産や労働における自立や自己決定の強化とその連帯におかれ、その発展として労働者自主管理や労働者権力(政府)の展望が与えられていた。
 ところが現実の労働運動では、労働者の日常における生産や労働過程の自立、自己決定機能は、職人的年功者や民同的な熟練労働者層が保持している。青年労働者の戦闘性は、こうした熟練労働者層の自立・自己決定の機能に依存して発揮する突き上げとしての左翼バネである。こうした相互関係が、戦闘的な職場闘争の成立基盤でもあった。
 しかし、60年代の高度経済成長を通じて、近代化、合理化、技術革新が進行する中で、職人的な労働のヘゲモニーが後退し、熟練労働者層の自立機能は改良的取引から体制への癒着機能の基盤となって変質していったのである。すなわち、現場指導の労働者層の日常的自立基盤が、癒着基盤へと転換していくのである。
 かくして関西派を特徴づけた路線――労働者の日常的自立と結合して進めようとする労働者ヘゲモニー論は、逆転して体制へと癒着を深める指導的労働者層への接近となっていくのである。
 第二の論点、急進主義、左翼中間主義の評価に関していうならば、青年労働者の戦闘的左翼バネは、こうした事態の中では指導層に対する突き上げから、離反へと転化していくのである。だが、青年労働者層の離反は、生産や労働における日常的ヘゲモニーとして指導的労働者層に取って代わることを意味しない。青年労働者層の民同指導部からの離反、自立は、民同が指導を放棄した政治闘争(ベトナム反戦)の領域に限定されているのである。
 もし彼らが、生産や労働の日常的自立へと踏み込んだときは、自立した職場反戦・産別反戦や拠点政治ストを直接的な課題としたであろうし、生産の労働者管理や自主生産(業務)が戦略的課題となったであろう。(『根拠地』運動が提起しようとしたのは、こうした戦略的飛躍の課題であった。)
 こうした青年労働者の限定的自立・離反が、青年部反戦の限界を暴露する根拠であったと同時に、他方、急進主義的な左翼中間主義潮流や学生運動への合流の意識を生み出す基盤ともなったのである。
 密着した日常性の中で展開される生活や労働、生産は、高度経済成長の中で体制との癒着に組み込まれていくがゆえに、それに反発してトータルに批判する方向に反戦青年委員会運動は向かった。すなわち、日常性に対する反発である。学生運動と合流していく青年労働者のこのような急進主義的気分が、左翼中間主義の基盤であることに間違いはない。しかし"新関西派"は、このような流れを全否定するのである。"新関西派"の全否定の立場は、体制と癒着していく民同幹部の流れと結合する方向に向かうこととなる。言い換えれば、民同的立場から急進主義を批判することになったのである。
 従来の関西派の中で、"新関西派"へと吸収されなかった基盤は、解党主義論争と深く関係しているように思われる。だが、ここでは、その問題に立ち入らないことにする。第一次関西派という枠組みで見れば、今野を始めとする東北や関東の旧JRなどは皆、関西派である。この流れが分化したことになる。
 反戦青年委員会は、それ自身、革命的であるというよりも左翼中間主義である。そのような限界がありながらも、既成の運動の流れを越えようとする積極的で前進的闘いなのである。しかし、"新関西派"は自立しようとする反戦青年委員会のエネルギーを労働者ヘゲモニーの阻害要因と考え、職場重視の方針が民同との結合の動きとなっていったのである。
 それでは"新関西派"がなぜ、消滅することになったのか。その原因は、60年代に入ると民同が左翼的基盤を急速に喪失していったことと関係している。まず、民同労働運動は、反合理化闘争を組織できなくなった。それは国労での現場協議制、三池における末端交渉権などの闘争基盤が失われて行く過程であったから、闘争エネルギーが枯渇するのは目に見えていた。客観的にみれば"新関西派"の方針は、エネルギーの消滅していく企業内組合機関と結びつくことを意味したから、そこには発展的エネルギーが存在しないのである。
 急進主義に限界はあったが、そのエネルギーは爆発していった。だからこそ反戦青年委員会運動のエネルギーは、様々な模索を経ながらも70年代まで持続した。80年代になると、そのエネルギーは枯渇するが、少なくともそこまでは持続したのである。それに対して民同派は旧来の職場闘争のエネルギーすら枯渇させ、JC派に屈服していった。"新関西派"は、そのような民同と結合する路線を選択したのであるから、そこには左翼的理論を保障するようなエネルギーが1ミリたりとも登場しないのである。"新関西派"の分化と消滅は、そのようなものとして帰結していった。
 急進主義に対して、それを積極性として評価するのか、それともプチブル急進主義と規定して階級運動を阻害する要因として否定的に評価するのか。その違いの結果だったと思う。


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