【ガザ侵攻とイスラエル総選挙】

ハマスとの対話を迫る「オスロ合意」の破綻

−82年ベイルートの教訓を生かせるか−

(インターナショナル第185号:2009年1・2月合併号掲載)


▼過半数を占めた右派

 2月10日に行われたイスラエル総選挙は、昨年末のパレスチナ暫定自治区・ガザに対するイスラエル軍の無差別攻撃という事態を受けて、いわゆる中東和平の行方を左右する選挙と見なされていた。
 12日に発表された最終開票結果では、「リクード」(=団結)など右派勢力が50から65へと議席を増やして定数120議席の過半数を占め、他方、連立与党を含む中道の右派・左派勢力は70から55へと議席を減らし、「パレスチナ国家との共存」に消極的な右派が多数派になったことで、和平への道は遠のいたと報じられている。
 しかしことは、そう単純でもない。もちろんリクードなど右派勢力の伸長は、和平の推進を掲げる欧米諸国の中東政策にとっては打撃であり、当面は、イスラエルとパレスチナの和平交渉の進展が望めない事態になったのは確かである。
 しかし他方では、連立与党の中道右派「カディマ」(=前進)が、1議席減の28議席に踏みとどまり、12議席から27議席に躍進したリクードを押さえ、かろうじてだが第1党の座を守ったし、今回の総選挙で最も注目された極右派「わが家イスラエル」は、4議席増の15議席と第3党に躍進はしたが、イスラエルの有力紙「ハアレツ」が2月6日に発表した世論調査で予測された18議席にはとどかなかったなど、イスラエル国内の困惑と動揺も見て取れるからである。
 総選挙に現れたこの困惑と動揺は、リクードのネタニヤフ党首と、カディマのリブニ外相が共に「勝利宣言」をするという混沌たる状況をもたらすことになったが、それはイスラエル国家が直面する、文字通りの手詰まり状況の反映と言える。
 つまり昨年末のイスラエル軍によるガザ侵攻とパレスチナ民衆の無差別殺戮は、後述のように、1993年の「オスロ合意」にもとづく和平の展望が破産したことを再度明らかにしたが、同時に、周辺地域に対する軍事侵攻では「テロの脅威」を取り除けないことも明らかとなり、右派・リクードなどが唱える軍事力による「テロ組織の根絶」もまた、現実的にはほぼ不可能であることが暴露されたからである。
 アラブ世界の高まる敵意に包囲された「テロへの不安」と、たび重なる軍事侵攻と無差別殺戮が呼び起こす「国際的孤立への不安」の間で揺れるイスラエルのユダヤ人民衆にとって、和平であれ軍事的制圧であれ、このジレンマを打開する「現実的展望」が共に限界を露呈した事態は、深刻な困惑と動揺をもたらすに充分である。

▼労働党とカディマの挫折

 1993年のオスロ合意に始まる中東和平、つまり「パレスチナ国家」建設によるイスラエルとパレスチナの共存という展望が決定的に破産したことを象徴するのは、労働党の第4党への転落である。
 かつてはリクードとの2大政党制の担い手であり、現党首・バラクが首相を務めた99年から01年にはPLO(パレスチナ自治政府)との和平交渉を精力的に推進したこの党が、19議席から13議席に後退して極右政党に第3党の座を奪われた事実が、オスロ合意の破綻を雄弁に物語っている。
 というよりもオスロ合意の破綻は、3年前の06年1月、パレスチナの評議会選挙で、オスロ合意の当事者であるPLO主流派・ファタハが、ガザを中心に台頭したハマス(=イスラム抵抗運動)に手痛い敗北を喫し、つづいて3月のイスラエル総選挙でも、当時のシャロン首相が、リクード党首・ネタニヤフら右派の「大イスラエル主義」と決別して結成したカディマが、期待されたほどの勝利を得られなかった時点ですでに明白であった【本紙165号(06年6月)参照】
 その意味でオスロ合意の破綻は、06年7月のレバノン侵攻と今回のガザ侵攻という、2度にわたる大量破壊と流血をへて「再確認」されたと言うべきなのだ。
 必要だったのは、06年のパレスチナ評議会選挙とイスラエル総選挙の結果を受けてオスロ合意を一旦凍結し、パレスチナの新たな主流派・ハマスとの間で何らかの対話を始めることだったのである。
 ところ、が欧米諸国を中心とする「国際社会」はオスロ合意とファタハとの和平交渉に固執し、自らがパレスチナに要求した民主的選挙で多数派となったハマスに「テロ組織」のレッテルを貼り、あげくに交渉を拒絶して経済援助を停止し、ファタハ治安部隊にガザの軍事的制圧=ハマス弾圧をけしかけ、逆にガザ全域をハマスが軍事的に制圧する事態を引き起こしたのだ。
 その意味で06年以降の破壊と流血に対する重大な責任の一端は、オスロ合意に固執した欧米諸国にもあるのだ。
 他方、イスラエルにおけるカディマの結成は、パレスチナの新たな多数派・ハマスが、オスロ合意にもとづく和平に反対している現実と、逆にそれに固執する欧米諸国からは和平推進の圧力が強まることを見越したシャロンらリクードの一部勢力が、パレスチナとの「国境」を物理的に画定し、これを既成事実にしてイスラエルの存立と安全保障を実現する試みだったと言える。
 右派の激しい抵抗を押し切ってガザのユダヤ人入植地を放棄する一方で、ヨルダン川西岸の入植地を「分離壁」で物理的に囲い込むシャロン元首相の「分離政策」は、アラブ世界の敵意に包囲されたイスラエル国家が、東欧や旧ソ連地域から流入する移民を受け入れて「立て籠もる」のに必要な入植地を力ずくで確保し、それ以外の地域に「パレスチナ国家」を建設することは容認してオスロ合意の形骸化を図る、究極の立て籠もり戦略だったのである。
 だがこの中道右派の展望は、前述のように06年のイスラエル総選挙では、リクードの弱体化には成功しても十分な大衆的支持を得るには至らず、病に倒れたシャロンの首相代行となったオルメルトは、結局は労働党との連立によってかろうじて政権を維持するにとどまったのである。

▼和平を踏み潰した「ハト派の戦争」

 しかし分離政策の破綻は、意外なところから露呈することになった。
 ファタハ支配下のヨルダン川西岸での「テロ」を押さえ込み、入植地撤去でガザの敵意を緩和するのに成功したかに見えた「立て籠もり戦略」は、北方のレバノンで台頭してきた「ヒズボラ」(=神の党)の活発な抵抗運動によって、新たな「テロの脅威」に直面したからである。
 しかも、カディマ・労働党の連立政権が満を持して始めた06年7月のレバノン侵攻作戦は、周到に準備されたヒズボラの反撃を受けて、非武装の民間人死傷者を別にすれば、ヒズボラ戦闘員の戦死61人に対してイスラエル兵の戦死119人(AFP通信)という被害を出すのである。それはイスラエル軍の「不敗神話」を崩壊させ、連立政権は「敗戦責任」を追求される窮地に追い込まれた【本紙167号(06年8-9月)参照】
 ところがこの敗戦が、昨年末にイスラエル軍がガザへの大規模侵攻に踏み切る伏線となったのである。
 なぜならイスラエル軍の「不敗神話」の崩壊は、当然ながらパレスチナの抵抗運動を鼓舞し、「国際社会」の経済援助の停止と経済封鎖にあえぐガザ地区でも、「武器密輸の阻止」を口実に繰り返されるイスラエル軍の越境攻撃に対して、反撃の機運を高めることになったからである。
 こうしてカディマ・労働党の連立政権は、分離政策によって緩和したはずの「テロの脅威」に再び直面したのだが、同時に「ハマス撲滅」と「密輸トンネルの破壊」を名分とするガザ侵攻は、レバノンでの敗戦の汚名をそそぎ、「テロに対する弱腰」という右派の非難をかわして総選挙での劣勢をはね返す、連立政権にとって是非とも必要な軍事行動になったのである。
 事実ガザで大規模な空爆が始まると、世論調査による労働党の支持率は2倍に跳ね上がり、連立与党全体の支持率も上昇して、右派の圧勝という総選挙の予測は一転して接戦の様相を呈し、少なくとも中道右派・カディマと右派・リクードの間では文字通りの接戦が繰り広げられた。
 だが確認しておくべきなのは、この程度の選挙結果でさえ、主要閣僚が「ハト派」と呼ばれる中道左派・労働党とカディマの連立政権が、多くの子供を含む1000人を越えるパレスチナ民衆を殺害し、ガザにあるパレスチナ人難民キャンプを瓦礫と化す軍事侵攻を強行することで達成されたことである。欧米のマスコミも含めて、「〃ハト派の戦争〃が中東和平を踏みつぶした」と皮肉ったのも当然であろう。
 それは結局、オスロ合意から始まった15年に及ぶ中東和平構想が最終的に瓦解したことで、イスラエルの和平推進派と「国際社会」の中東政策が再検討を迫られている現実を暴いたに過ぎない。

▼「ハマス根絶」という幻想

 明らかなことは、ファタハとの交渉に固執してハマスとの対話を拒否し、「集団懲罰」と称してパレスチナへの経済援助も停止し、加えてガザ地区を巨大な収容所と化すイスラエルによる経済封鎖を容認する限り、「テロの脅威」は絶対に無くなりはしないということである。
 ハマスとの対話を拒否する「国際社会」とイスラエルは、ハマス憲章に、「イスラームが消滅させるまで、イスラエルは存続する。聖戦以外に解決の手段はない」と明記されているのが理由だと主張するが、それはただの口実に過ぎない。
 なぜならイスラームのいかなる穏健派といえども、「イスラーム法の解釈上」は、イスラエルの存在を認めることはありえないからである。というのはイスラーム法では、パレスチナ全土は人為的割譲が許されない、神によって寄進されたワフク(寄進地)であり、異教徒の侵攻に対するワフクの防衛はイスラーム信徒の義務だからである。
 だがイスラーム法には、ダルーラ(必要)の理論、つまり例外的にだが現実的な対応を可能にする論理もあるのだ。例えば生存にかかわる飢えに直面した場合は、イスラーム法で禁じられている豚肉食も許されるといった論理である。
 実際にも、聖地・メッカの守護役を自任するサウジアラビヤの王家は、この論理によって異教徒であるアメリカ軍の駐留を容認しているし、現在はパレスチナ唯一の代表機関であるPLOの「パレスチナ国民憲章」にも、98年に削除されるまではイスラエル敵視条項が明記されていたが、それは93年のオスロ合意の妨げにはならなかったのだ。
 そしてハマスもまた、これまでにも停戦などで現実的な対応を行ってきたのは、周知の事実である。
 しかもPLOの結成よりもはるか以前、1927年のムフティー(宗教指導者)の書簡に始まるとも言われるハマスの長い歴史を見れば、その軍事的根絶などは、まったくの幻想に過ぎないのも明らかなのだ。
 何よりもハマスやレバノンのヒズボラは、テロを主要目的とする「アルカイダ」のような組織とは違って、単なる軍事組織ではないのだ。「国際社会」がこれを同一視しようとも、アラブ世界に広範な基盤をもつ「イスラーム同胞団」に連なる彼らは、学校や病院を運営してきた実績をもち、それこそダルーラの理論にもとづいて西欧的ルールとも妥協を図りつつ、パレスチナ民衆の必要に応える相互扶助のネットワークを地道に育て上げることで勢力を拡大してきたのであり、軍事部門にどれほどの打撃を与えようとも、この民衆の生活に根付いたネットワークを壊滅させるのは不可能である。
 ハマスが、04年に精神的指導者であるヤシン師と最高指導者のランティースィー氏を暗殺されてなお06年選挙で評議会の多数派になった事実は、このネットワークの強靭さの証明に他ならないし、ファタハが欧米諸国の経済援助への依存を深め、それを私物化することでパレスチナ民衆の不興を買ったのとは対照的に、ハマスが、イスラエルの軍事的圧力に抗してパレスチナ民衆の生存権のために活動してきた証しでもある。
 ハマス憲章の一節だけを取り上げ、選挙で多数派となったハマスとの対話を拒絶するのは、今やまったく非現実的な対応と言わざるを得ないのは明らかである。

▼82年−ベイルートの教訓

 こうしてイスラエルと「国際社会」は、中東和平の展望の再構築を迫られることになったが、その際に教訓とされるべきは、1982年のレバノン戦争である。
 この戦争では、当時レバノンの首都・ベイルートを拠点にしてイスラエルに対するゲリラ戦を繰り広げていたPLOが、イスラエル軍の激しい攻撃によってベイルートから海路の脱出を余儀なくされたが、それはイスラエルの側も、PLOの軍事的壊滅を断念することを意味していた。
 まさにこの戦争の結果として、つまりイスラエル軍の攻撃に耐えぬき、ついに降伏することなく存続したPLOは、パレスチナ問題の当事者として国際的な認知を勝ち取り、以降の欧米諸国の中東政策を、イスラエルとPLOとの間で何らかの協定や交渉を促すものへと変えたのである。
 イスラエル軍によって繰り返されるガザ侵攻にもかかわらず、これに耐えて決して降伏しないハマスは、82年当時のPLOの姿に重なるし、ハマスもまた軍事的に壊滅させることが不可能な存在であることは、前述のとおりである。
 82年の教訓が示しているのは、イスラエルと「国際社会」がハマスをパレスチナ問題の当事者として認知し、何らかの対話を始めることだけが、破産したオスロ合意に代わる新たな「中東和平」の枠組みを見いだすことを可能にするということである。そしてハマス憲章にある「イスラエル敵視条項」は、PLO憲章にあった同じような一節と同様に、対話の妨げにはならないだろう。

 もっとも、ハマスとイスラエルの対話がパレスチナ問題の解決に向かう可能性は、ほとんどない。イスラエル建国を強行したシオニストに追放されたパレスチナ難民が、国連決議が認めた「帰還権」にもとづいて故郷に帰るには、今も増えつづける入植地の撤去が不可欠だからである。
 だが入植地問題には、ユダヤ人が選挙で多数派を維持しつづけるために、15年後には現在の20%(130万人)から25%になると予測されるアラブ系人口の増加に対して、東欧などからの移住を受け入れつづけなければならないという、「ユダヤ人国家」に特有の背景がある。極右派「わが家イスラエル」が、東欧や旧ソ連からの移民を支持基盤にして、アラブ系住民の国外追放や市民権剥奪を訴えて第3党に躍進したのは、その危機感の強さの現れである。
 と同時に欧州全域に根強く残るユダヤ人への差別が、イスラエルへの移民を後押ししつづけている現実があることも、確認しておかなければならない。
 こうした問題は、あらゆる「少数民族」への差別を禁止する国際条約の必要を「国際社会」に突きつけるが、それが実現するまで、パレスチナの流血と破壊が見過ごされて良いはずもない。
 ハマスとイスラエルの対話が、ガザのパレスチナ民衆の「生存する権利」を保障する停戦と経済封鎖の解除、ならびに「国際社会」によるパレスチナ難民への経済援助を再開させる可能性があるなら、わたしたちは、それが最も優先されるべきであることを肝に銘じなければならない。

(2/28:きうち・たかし)


世界topへ hptopへ