【イスラエルのレバノン侵攻】

「破綻国家」をつくる無差別攻撃と姿を変えたイスラエル包囲網の台頭

−「人道危機」に対峙する 良心的兵役拒否の思想−

(インターナショナル第167号:2006年8・9月号掲載)


▼「第6次中東戦争」の被害

 7月12日、イスラエル軍による空爆ではじまった中東・レバノンでの戦闘は、1カ月後の8月11日に国連安保理決議1701が全会一致で採択され、4日後の15日になってひとまず停戦が成立した。
 停戦直前の14日にAFP通信が伝えたところでは、このひと月の間に、レバノンでは1185人(民間人1084人、軍人・警官など40人、ヒズボラ戦闘員61人)が死亡、3700人以上が負傷し、さらに約97万人が避難生活を余儀なくされ、空港、港湾、発電所など30カ所以上の公共施設と32の燃料庫、145カ所の橋と幹線道路、7千戸の住宅と9千戸の商店、工場、市場が破壊された。対するイスラエル側でも160人(民間人41人、軍人119人)が死亡、890人以上が負傷した。
 またイギリスの『インディペンデント』紙の報道によれが、レバノンの反イスラエル武装勢力「ヒズボラ」(=神の党)が、イスラエル北部に打ち込んだミサイルは1000発以上にのぼったが、レバノン側の被害、とくに非戦闘員と非軍事施設の甚大な被害は、イスラエル軍による8700回にも及ぶ空爆によってもたらされたと言う。
 こうした、「テロに対する自衛」を口実としたイスラエル軍による非戦闘員の殺戮と非軍事施設の破壊は、ガザ地区やヨルダン川西岸の「パレスチナ暫定自治区」でも繰り返されてはきた。だが、ヒズボラの軍事拠点とは遠く離れた首都・ベイルートなど、レバノンの主要都市もが無差別爆撃の対象とされ、さらには「テロ」とされる武装抵抗運動とは何の関係もない発電所などの生活インフラや、空港など公共施設が破壊される事態は、1982年にイスラエルがレバノンに侵攻して以来の大規模軍事行動であり、アラブ世界のマスメディアが「第6次中東戦争」と報じたとおり「戦争」であった。
 ではいったい何故、イスラエル政府は82年以来の本格的な軍事行動に踏み切ったのだろうか。そしてそれは、パレスチナ問題を核心とする中東情勢のどんな現実を映し出しているのだろうか。

 ところでこうしたイスラエルの動向を分析する場合、アメリカの中東政策やイラク戦争以来の中東情勢の不安定化など、国際政治の枠組みで論じられることが多い。
 今回のレバノン侵攻でも、レバノンのヒズボラとパレスチナの「ハマス(=パレスチナ抵抗運動)」が、反イスラエル武装闘争で連携を強めているとの憶測が流れ、さらには、核開発をめぐって対立を深めるイランに対する「先制攻撃」を模索するアメリカが、イランの地下核施設を爆撃する予行演習として、ヒズボラの地下陣地を爆撃するイスラエルを密かに後押ししていたとの『ニューヨーカー』誌のレポートも、波紋を広げている。
 たしかに、開戦の契機となったイスラエル兵の連行がパレスチナとレバノンで続けざまに起きたのは事実だし、ブッシュ政権の掲げた「テロとの戦争」を追い風に、パレスチナの抵抗運動を軍事的に壊滅させようとしてきたシャロン政権の後継であるオルメルト政権が、アメリカと連携して軍事行動に出た可能性も否定はできない。
 だがこうした、国際政治の枠組みからのみ事態を俯瞰することは、逆にレバノンとパレスチナそしてイスラエルで今、何が起きているのかを見落とすことになりかねない。そうした意味で、まずは「第6次中東戦争」勃発の実情と、この戦争の政治的、軍事的なバランスシート=中間決算を検証してみることが必要であろう。

▼続いていた国境付近の交戦

 ヒズボラが連行した2人のイスラエル兵の無条件解放を要求し、イスラエルがレバノン南部に侵攻した。これが、アラブ以外の世界各地で広く流布された、今回の戦争の発端である。
 「テロ組織」ヒズボラが、「ブルーラインを越えてイスラエル軍を攻撃」し、兵士2人を「不当に連行した」ので、イスラエル軍はその解放を要求し、ヒズボラの軍事拠点があるレバノン南部を攻撃したと印象づける報道は、もちろんイスラエル当局による情報統制の結果に他ならない。ちなみにブルーラインとは、1949年に画定されたイスラエルとレバノンの「停戦ライン」のことで、実質的な両国々境である。
 ところでレバノン警察、つまりどちらかと言えばヒズボラを敵視してきたレバノン政府機関の発表では、ヒズボラ戦闘員とイスラエル兵が交戦した場所(そう!両者は戦闘を交えたのだ)は、レバノン領内のアイター・シャアブ地区であり、むしろイスラエル軍当局の方が、戦闘発生地域については沈黙をつづけているのだ。
 もちろん、現地で実際に何が起きたのかは薮の中だし、ヒズボラのナスルッラー書記長は開戦当日、「我々はこの作戦=イスラエル兵の捕捉=を実行するため、5カ月前に行動を開始した」と述べ、ヒズボラ側の周到な準備を明言してもいる。だが反対に、停戦成立から4日後の8月19日、イスラエルのコマンド部隊がベーカー高原のブーダーイ村でヒズボラ戦闘員と交戦した事実が示すように、隣国領内に戦闘部隊を送り込む意志と能力とを見せつけてきたのは、ほとんど常にイスラエル軍であった。
 では開戦の契機となった「イスラエル兵の連行」は、どんな状況で起きたと考えればよいのだろうか。
 実はブルーライン付近では、2000年5月にイスラエル軍が撤退して以降も、ヒズボラとイスラエル軍の散発的な軍事衝突がつづいていたのである。しかもその原因の大半は、ヒズボラがイスラエル北部にミサイルを打ち込んだことへの報復とか、シリア国境から流入するヒズボラへの軍事援助物資の阻止と称して繰り返された、イスラエル軍による「越境攻撃」であった。
 つまりナスルッラー書記長が開戦当日に明らかにした「作戦」というのは、イスラエル軍の越境攻撃への対抗策として、侵入したイスラエル軍部隊を探索・追尾してこれを捕捉しようとする作戦のことであり、それが5カ月前から始まったということである。「作戦」は「イスラエル兵の連行」を目的とした訳ではなかったが、その作戦の結果として、ヒズボラの戦闘部隊は7月12日、捕捉したイスラエル軍部隊と交戦の末に8人を殺害、2人を捕虜にした。これが、実際に起きたことに最も近い状況であろう。
 ところが、これに対するイスラエルの反応が、ヒズボラの予測をはるかに越える過剰なまでの破壊と殺戮だったのだ。
 これはおそらく、ヒズボラにとっても誤算であったろう。なぜならヒズボラの捕捉作戦の目的は、イスラエル軍の越境攻撃を阻止するというよりも、捕虜にしたイスラエル兵の解放交渉を通じてイスラエルから何らかの譲歩を引き出し、これを武装抵抗闘争の成果として宣伝しようとした可能性の方が高いからである。
 現にヒズボラは2004年1月、国際赤十字とドイツ政府の仲介を得て、イスラエルの諜報員1人、兵士の遺体3体と、イスラエルで収監されていたヒズボラメンバー23人、遺体59体の交換を、交渉を通じて実現した成功体験を持っている。またヒズボラの戦術的特徴であるヒット・エンド・ラン、つまりイスラエル軍に対する一撃離脱も、相手に軍事的打撃を与えるというよりも、武装抵抗闘争の示威行動といった色彩が強い。
 だが今回、オルメルト首相は端から交渉を拒否して無条件解放を要求、ヒズボラがこれに応じないと直ちにレバノン南部への空爆を開始、間もなく空爆の標的をレバノン全土に拡大し、22日には地上軍をレバノン領内へと侵攻させたのである。レバノン政府を巻き込んだイスラエルによる全面戦争は、ヒズボラの思惑を完全に吹き飛ばしてしまったと言うべきだろう。

▼イスラエルの苦戦と誤算

 ではイスラエルの側は、ヒズボラの思惑を挫いたことでその政治的、軍事的意図を貫けたのだろうか。そしてそもそも素早い開戦の決断や、レバノン全土の無差別爆撃という強硬手段に訴えたイスラエルの意図は、何だったのだろうか。
 確かに、オルメルト政権の素早い決断は、「アメリカと連携した周到な準備」を疑わせるに十分だし、前述した「イラン爆撃の予行演習」というレポートの、有力な根拠でもある。そして他方では、「何の挑発もないのになされた襲撃」に対して、イスラエルは「反撃を加えるしか選択肢がなかった」と言うギラーマン国連大使の主張が、全くのウソであることも明白である。
 こうしたイスラエル政府の動きとその背景については、オルメルト政権はシャロン政権のような軍事的権威を持たない分だけ、逆に強硬路線を必要としていたとか、ヒズボラとハマスの連携の機先を制する先制攻撃だったとかの憶測はある。
 だが結局オルメルト政権は、イスラエル軍の度重なる越境攻撃にもかかわらず着々と戦力を蓄える「ヒズボラの脅威」に対して、これを一挙に壊滅させるような集中的軍事行動の発動を、虎視眈々と狙っていたことだけは確かであろう。
 つまりレバノン南部への激しい空爆と地上軍による一部地域の占領は、きっかけはどうあれ、ヒズボラ壊滅を狙って周到に準備された作戦だったと言えるし、その限りでは素早い決断は当然であった。
 ところがヒズボラの軍事的抵抗が、イスラエル軍の予測を越える激しさだったのだ。ここから、イスラエル軍による「度を越した」(アナン国連事務総長)破壊と殺戮がエスカレートしたと思われる。
 ほぼ1カ月間の戦闘で、イスラエル軍の戦死者119人に対して、ヒズボラ民兵の戦死者が61人というAFPが報じた数字は、イスラエル軍にとっては大きな衝撃であったに違いない。圧倒的な戦力のイスラエル軍が、地下陣地に拠ったヒズボラの抵抗に苦戦を強いられたことを雄弁に物語るからである。しかもこの期間中、イスラエル北部に1000発以上ものミサイルが打ち込まれたとするなら、ヒズボラのミサイル陣地を一挙に壊滅させて「北の脅威」を取り除くというイスラエル軍の意図は、ほとんど達成できなかったと言う以外にはない。
 かくしてイスラエル軍は、内戦時代の様なレバノン国内の宗派的分裂を画策し、レバノン全土に無差別爆撃を拡大した、と言われている。この無差別爆撃の動機ははなはだ疑問であり、後で検証することにする。
 だが無差別爆撃の結果は、前述のイスラエル軍の意図とは逆に、レバノン民衆の中にイスラエルへの反感と憎悪を募らせる結果を招いた。反ヒズボラ感情の高まりを期待したイスラエル軍の主観的願望は、幼児を含む多数の非戦闘員を殺戮するイスラエル軍の残虐行為のために、逆にイスラエルへの敵意をかき立てた、と言うのだ。
 なるほど、無差別爆撃の意図の中に「反ヒズボラ感情の醸成」が無かったとは言わないが、それはむしろ「あわよくば」程度のものではなかったか。そうでなければイスラエル軍は、2000年5月にレバノン民衆の敵意に囲まれ、ついに南部の占領地から撤退しなければならなかったことについて、何の総括もしていないことになろう。
 むしろレバノンで繰りひろげられたイスラエル軍による無差別破壊と殺戮は、これまでパレスチナ暫定自治区で行われてきた無差別の破壊と殺戮の必然的帰結であるということこそが、確認されなければならない。なぜならそれは、シャロンの後継であるオルメルト政権の、今後の強硬な対外政策を示唆するだけでなく、反イスラエル抵抗運動に対する弾圧の「質的飛躍」がもたらした、シャロン政権以降のイスラエルの「倫理的堕落」の行く末を暗示するからである。

▼「非対称」抵抗闘争の台頭

 だがこの「倫理的堕落」の検討にすすむ前に、これまでの「第6次中東戦争」の発端と展開の検証を踏まえて、戦争のバランスシートを確認しておこう。
 7月から8月にかけて、レバノン南部を中心に戦われた「イスラエルとヒズボラの戦争」は、2000年5月にイスラエル軍がレバノン南部から撤退して以降、ガザ地区とヨルダン川西岸に封じ込められていた反イスラエル抵抗闘争が、中東全域を巻き込む「イスラエル包囲網」とでも呼ぶべき運動として展開する端緒となる可能性である。
 しかもこの展開は、ヒズボラへの経済的軍事的援助を通じて存在感を増すイランと、アラブ諸国の中で今もイスラエルとの対峙をつづけるシリアを例外にして、むしろ国家とは相対的に区別された「自立的勢力」が担うことになるだろうという意味で、アラブ諸国が代行してきた過去の「イスラエル包囲網」とは様相を異にする、新たな対立の構図を内包している。
 これが、「第6次中東戦争」のバランスシートの第1の特徴である。イスラエルの孤立は、その圧倒的な軍事的優位にもかかわらず深刻さを増し、安全保障のコストを押し上げるのは確実である。
 そして第2の特徴は、6年前のレバノン南部からの撤退によって始まった「イスラエル軍の無敵神話」の動揺が、全アラブ社会で共有された可能性である。ヒズボラとの戦争でイスラエルが苦戦した事実が、「イスラエル軍も無敵ではない」という、アラブ諸国の敗戦で長きにわたって押し潰されてきた期待を蘇らせたとすれば、これは特筆しておくべき特徴である。
 この2つの特徴は、いずれもイスラエルにとって極めて重大な危機であり、相互に密接に関連している。
 イスラエル軍の無敵神話の動揺は、周辺諸国を圧倒する軍事力を保持し、周辺諸国の武力行使を抑止すると共に、さまざまな抵抗運動を容赦なく弾圧してイスラエル国家の安全を保障する、まさに建国以来の軍事主義=テロリズムの限界を暴き出したという意味で、極めて重大である。
 もっともこの「軍事主義の危機」は、オルメルト政権に安全保障戦略の転換を迫る軍部からの圧力を強め、周辺地域の新たな占領に向かわせるかもしれない。
 なぜなら無敵神話の動揺は、イスラエル軍の圧倒的な軍事力によって押さえ込まれ、結果として自爆テロなど「絶望的報復」に封じ込まれてきたアラブ民衆の反イスラエル抵抗運動が、新たな大衆的レジスタンスやインティファーダに向けて鼓舞される可能性をはらむからである。
 だが、シャロンが推進した「占領地からの一方的撤退」と分離壁による「一方的な国境確定」戦略は、周辺地域の占領による安全保障の限界が明らかだからこそ採用された「究極の立て籠もり戦略」である以上、旧来型の占領政策への舞い戻りは大きなリスクを覚悟しなければならない。
 いずれにしろイスラエルは、バランスシートの第1の特徴で指摘した「新たなイスラエル包囲網」と、無敵神話の動揺を抱えて対峙することになるのだが、それは歴史的に見れば、1948年の第1次中東戦争から82年のレバノン侵攻まで、5回におよぶ戦争を通じて周辺アラブ諸国を屈服させることでようやく獲得した「イスラエル国家の承認」が、水泡に帰したとまでは言えないまでも、その政治的基盤が大きく揺らぎ、今後ますます「不確かな保証」へと後退せざるを得ないことを意味している。
 なぜならヒズボラという、レバノン国家とは相対的に区別された「非対称」勢力とイスラエルとの戦争は、アラブ民族主義を旗印にした周辺諸国が、イスラエルと対峙して「アラブの大義」を代行する旧来的な対立の構図を過去のものにしたからである。
 代わって台頭しつつあるのは、民族国家や国民国家の統制と秩序の外側で、イスラーム的共同体に依拠した反イスラエル抵抗運動であり、これが周辺アラブ諸国の無力な代行主義を超えて、直接イスラエルの占領に対する抵抗を担う「新たな対決の構図」が、姿を現しはじめたのである。
 つまり周辺アラブ諸国政府が、度重なる軍事的敗北と政治的打算のうえにイスラエルに与えた「国家としての生存権」は、その国家が統制できない「非対称」勢力の台頭によって無効化されることが、具体的可能性として現れたのである。「第6次中東戦争」のバランスシートの核心は、まさにこの一点に集約される。

▼「破綻国家」をつくる無差別攻撃

 実はこの危機感、つまりイスラエル国家の生存権を承認したはずの周辺アラブ諸国に、これを遵守する能力がないという不安と不信感が、シャロン・オルメルト政権をして、レバノン南部への電撃侵攻とヒズボラ拠点壊滅作戦を決意させ、準備させたのではなかっただろうか。
 そしてこうした、一方的な軍事行動を正当化したのは、反イスラエル抵抗闘争を取り締まれない国家(政府)は「破綻国家」だから、「テロに対する自衛」の軍事力は、その国家(政府)の意志とは無関係に行使できると言う論理である。
 それはビン・ラディンの逮捕と引き渡しを拒み、アルカイーダの訓練キャンプ閉鎖の要求をはねつけたアフガニスタンのタリバーン政権を打倒した戦争で、そしてイラクのフセイン政権を打倒した戦争でも持ち出された論理であった。
 9・11テロの報復戦争を正当化すべく唱えられたこの論理は、パレスチナ解放機構(PLO)という「テロ組織」との交渉を拒絶しつづけたシャロン政権にとって、まさに格好の口実となった。アフガン戦争と時を同じくして始まった、イスラエル軍によるパレスチナ難民キャンプの公共施設や生活インフラの破壊と無差別殺戮とは、パレスチナ暫定自治政府に「破綻国家」のレッテルを貼り、すでに瀕死の状態にあった「オスロ合意」を完全に葬り去ったのである。
 いや正確に言えば、公共施設などを破壊して暫定自治政府の機能をマヒさせることで「破綻国家」に仕立て上げ、その破綻を補完する警察権の行使と称して難民キャンプで無差別の破壊と殺戮を強行する、それがシャロン政権の対パレスチナ政策の基調となったのである。
 そして今回イスラエル軍は、レバノン全土を無差別に爆撃することで公共施設や生活インフラを破壊し、レバノン政府を機能マヒに追い込んで「破綻国家」に仕立て上げ、ヒズボラに対する無制限の武力行使ができる状況を、自ら積極的に作り出したと言うべきである。レバノン南部に駐留する国連停戦監視団の施設を爆撃し、4人の停戦監視員を殺したのは、こうした、到底容認されないであろうイスラエル政府と軍の意図を国際社会から覆い隠すための、意図的な「誤爆」と言って過言ではあるまい。
 なによりもレバノン国家が、たとえ事実としてムスリムとキリスト教徒の対立を軸にした内部矛盾を抱えていたにしても、レバノン民衆の「反ヒズボラ感情の醸成」を狙ったなどと言う怪しげな説明は、隣国政府を意識的かつ積極的に「破綻させる」という本音が、さすがに国際社会の強い批判に晒される可能性を考慮したイスラエル軍の、もっともらしい言い訳に過ぎまい。
 「・・・・レバノンで繰りひろげられたイスラエル軍による無差別破壊と殺戮は、これまでパレスチナ暫定自治区で行われてきた無差別の破壊と殺戮の必然的帰結であるということこそが、確認されなければならない」のは、こうした意味なのである。

 だがこうしてイスラエルという「ユダヤ人国家」は、20世紀の二つの大戦の渦中で生まれ蓄積されてきた「戦時下の人道的ルール」という制約、とりわけ非戦闘員の殺害を厳しく戒める人道的規範を踏みにじる道へと踏み込んだのである。それは、国際NGOなどが発する「人道危機」という警告を無視して、非軍事施設の破壊と非戦闘員の殺戮を正当化することに他ならない。
 だが、第二次大戦における最大の「人道危機」がナチスによるユダヤ人のジェノサイドであり、その最大の被害者がユダヤ人であったとすれば、そしてそのユダヤ人が今、自らの「民族国家」を守ると称して意識的かつ積極的に「人道危機」を作り出しているのだとすれば、それは二重三重に悲惨な歴史的不条理ではないだろうか。
 第二次大戦後、多くのユダヤ人が、根深いヨーロッパのユダヤ人差別から逃れようとして建国されたイスラエルは、「ユダヤ人自身が血の代償を払って防衛する、姿を変えたゲットー(ナチス時代のユダヤ人居住地区)にほかならない」(本紙125号「イスラエルの新たな反戦運動」)不条理な半世紀の果てに、自ら倫理的破綻の淵に至ったと言うべきなのだろうか。

▼民族国家の限界を超えて

 「占領地での軍務が、われわれがはぐくんできたあらゆる価値を破壊して」おり「本来の国防と関係がない」。

 この一文は02年1月、イスラエルの予備役兵士53人が、ガザとヨルダン川西岸の占領地での軍務拒否を宣言して新聞に発表した「拒否の手紙」の一節であり、本紙124号(02年3月)の「反グローバリズムの一翼へ/パレスチナ解放闘争と兵役拒否運動」に引用したものである
 シャロン政権が、パレスチナ暫定自治政府を「破綻国家」に追い込む破壊と殺戮に踏み出したことに抗して、ユダヤ人社会の深部から挙げられたこれら良心の声は、その後パレスチナ抵抗運動の絶望的な報復テロの激化の中で、つらい沈黙を強いられたであろうことは想像に難くない。
 にもかかわらず、「良心的兵役拒否」を宣言するこの「手紙」が指摘した「われわれがはぐくんできた価値」は、シャロン・オルメルト両政権によって「倫理的破綻の淵」に追い立てられたユダヤ人社会(そう、国家ではなく彼らの伝統的社会)が、不毛な報復の応酬という惨状から自らを救い出す道標となる歴史的教訓であろう。
 「彼らの言う『はぐくんできた価値』は、基本的人権として保障されるべき諸権利は何人も、つまりパレスチナ人も侵害されないという価値のことだが、それと同時にイスラエルには『命令が違法だと判断したら、従うべきではない』という軍法規定があることも重要な背景であろう。1956年、50人のアラブ人がイスラエル兵に虐殺された事件の軍法会議は、『命令に従っただけ』という兵士の弁明を退け、『命令があっても、兵士は良心の声に従わねばならない』として有罪にしたことを根拠にした規定である。
 この価値観は、ナチスによるユダヤ人虐殺を『人道に対する罪』として断罪し、個々の兵士の行為も『良心に反する行為』として裁いてきた戦後の反ナチ運動の価値観を直接引き継ぎ、さらに『思想・信条の自由』という欧州民主主義の伝統から生まれた『良心的兵役拒否』の思想を継承している」(前掲:本紙124号)。
 自衛が名目とは言え、主権の不可欠な一部として「戦争の権利」を保障された近代国家が、相互にユダヤ人とパレスチナ人の「民族的権利」を掲げてこれを代行しようとした戦後中東の半世紀は、PLOをひとつの国家機構と見なすなら(そしてもちろんPLOはそう主張してきたが)、双方の国家の相互不信を極限にまで高め、ついには「破綻国家」という「国家の否定」によって安全保障を得る以外にない、文字通りの袋小路に入り込んでしまったと言えるだろう。
 そしてこの袋小路から抜け出すために必要なのは、今はおそらく沈黙を強いられているであろう、前述したイスラエルの良心的兵役拒否運動が掲げる価値観である。それは近代国家至上主義とでも言うべき価値観とは対極にある、個としての人間に保障された基本的人権に依拠した、「国家の暴走」に対する社会的抵抗運動である。
 しかもそれは、なお遠い道程の果てのかすかな希望だとは言え、イスラエルに屈した周辺アラブ諸国からは自立的な、イスラーム的共同体に依拠した「非対称」勢力との、国家による分断を超える協調や連帯の可能性をはらんでもいるだろう。

(9/28:どい・あつし)


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