民族主義とテロリズムをこえて
反グローバリズムの一翼へ
パレスチナ解放闘争と兵役拒否運動

(インターナショナル124号/2002年3月掲載)


オスロ合意の破産

 イスラエル軍とパレスチナ解放運動の報復合戦が激化しつづけている。イスラエルの強硬派・ゼービ観光相が昨年10月に暗殺されたのが発端だが、この暗殺事件もパレスチナ解放運動の幹部がイスラエル軍によって暗殺されたことへの報復だった。
 その後の相互報復は、昨年9月のWTC(世界貿易センター)テロ事件とアフガン戦争の影響で、「テロに対する軍事報復」が容認される国際的風潮を背景にして、歯止めのなくなったイスラエル軍による攻撃でパレスチナの民家破壊や民衆の殺戮が拡大し、テロ犯人の捜索を口実とする民間人への脅迫や暴行も激化したのに対して、パレスチナ解放運動の側も自爆テロを含む無差別の武力報復で応ずるかたちで激しさを増した。
 国際世論は、「オスロ合意にもとづく和平構想が危機に瀕している」との憂いを表明しつづけているが、オスロ合意の破産はすでに明らかである。アラファト議長が「和平交渉と合意はなお可能だ」と繰り返し強調しようが、アメリカが「パレスチナ過激派」の取り締まりとイスラエルの報復政策の見直しを求めようが、シャロンとアラファトによる和平交渉が不可能なことは、シャロンが「アラファトとの断交」を宣言した昨年12月以降、誰の目にも明らかである。
 シャロンは和平に応じて自ら強硬派と対立して孤立するつもりはないし、アラファトには「過激派」を押さえ込む力がないのも明白だからだ。だからこそサウジアラビアは、イスラエル軍の占領地からの撤退と引き換えに、アラブの「穏健派」諸国がイスラエル国家を承認することを骨子とした新たな和平提案を行っているのである。
 こうした状況は、パレスチナ解放運動を厳しい課題に直面させる。当初はパレスチナで圧倒的に歓迎され、イスラエル和平派にも国際世論によっても歓迎されたオスロ合意による「パレスチナ国家」の建設すら実現されないとすれば、パレスチナ難民の郷里への帰還を含むパレスチナ解放闘争は、いったいどのような勝利的展望をもちうるだろうか、という重い問いである。

パレスチナ国家と難民帰還権の放棄

 テロと軍事報復が激しさを増し始めた昨年11月、PLO(パレスチナ解放機構)のエルサレム代表であるサリ・ヌセイベ氏が、「パレスチナ人は、イスラエルへの難民帰還を断念すべきだ」と発言し、パレスチナ民衆の強い反発を呼び起こした。
 ヌセイベ代表はアラファト議長の信任厚い幹部で、議長自身がエルサレム代表に任命したと言われる。そのヌセイベ氏の発言はもちろん衝撃的だが、「パレスチナ国家建設による和平の達成」というPLOの路線を前提にして、パレスチナ難民の帰還とイスラエル入植地の撤去という和平交渉上最大の難問を解決しようとする限りで、それはきわめて「現実的な提案」でもある。
 彼の「問題提起」は、パレスチナは難民のイスラエル帰還を断念するが、イスラエルもまた入植地を断念しなければなならいというものであり、難民が帰還できる「郷里」と生活はパレスチナ国家自身が用意するべきであるというのである。それは、400万人の難民帰還問題の決着なしにはパレスチナ国家を承認し難いイスラエル政府と、占領地につくられた入植地の撤去なしにはイスラエルとの和平は不可能だとするパレスチナ自治政府の、両者にとって最大の対立点でありまた核心問題を打開しようとする真剣な提案であるには違いないのだ。
 しかしこの提案は、シオニストによるイスラエル建国でパレスチナ難民が生まれた1948年、国連総会が決議した「難民の故郷への帰還または補償」の権利を、「難民生活からの脱却」と引き換えに放棄するように迫ることでもある。いわゆる「パレスチナの大義」を放棄するものと受け取られるは、その意味で当然であった。だがむしろこの「現実的で真剣な提案」からは、ひとつの重大な結論が導き出されるのである。
 それは、郷里を奪われたパレスチナ難民の帰還権は、民族(国民)国家の建設すなわちパレスチナ国家の建設という新しい国境の策定によっては保障できないという結論である。そしてこの結論は、パレスチナ解放闘争に重大な戦略的総括を突きつける。
 テロを含むゲリラ戦か和平交渉かという闘争形態の違いがどうあれ、PLOを中心としたパレスチナ解放運動が掲げてきた民族主義的路線では、いわば先住民の権利回復の闘いでもあるパレスチナ解放闘争の展望は、おそらく切り開けないだろうという戦略的課題がいま、パレスチナ解放闘争とそれを支持する人々に提起されてるのである。

戦後資本主義と民族主義

 では民族主義に代わるパレスチナ解放の展望とは何かが問われるが、それを検討する前に、民族主義路線の破綻の要因を、昨年9月のWTCテロ事件以降の国際情勢の変化の中でもう少し考えてみたい。なぜならPLOの民族主義路線は、はじめから破産する運命だったわけではなく、戦後資本主義の繁栄のもとではそれなりに現実的可能性をもつ路線だったのであり、しかしそれがテロ事件を契機に、明らかな限界を露呈することになったことを確認したいからである。

 いまだ記憶に新しいボスニア内戦でも明らかなように、多民族が共生する連邦制を民族自決を名分に再分割することは、民族問題の解決に資することができないばかりか、必ずしも進歩的であるとも言い難い。
 ところで戦後、アメリカ資本主義のイニシアチブの下で、民族の自決と独立そして民族国家の形成は国際的正義として認知されてきた。それは、第二次大戦までの帝国主義諸国が植民地の民族自決を徹底的に抑圧したのとは対照的に、戦後のアメリカ資本主義が民族独立運動を支持して旧帝国主義植民地体制を積極的に解体し、すべての諸国に開かれた市場としての民族国家へと再編してきたことに端的に示されている。
 民族的差別と抑圧の体制であった帝国主義植民地支配に対して、独立した民族国家の形成を支持することは、もちろん歴史的に進歩的な権利の承認である。だがこの歴史的進歩性には、資本主義的な制約もはっきりと示されていた。アメリカを筆頭とする資本主義諸国に開かれた市場であること、だから弱肉強食の競争を旨とする資本主義的市場を否認する勢力が権力から排除されていることが、民族国家としての独立と自決が保障される条件であるという制約である。
 それでも戦後資本主義が経済的発展を謳歌し、旧植民地諸国も西側の一員としてその一部を享受できた間は、民族独立の要求は国際的正義として承認され、だからまた「ユダヤ民族」の国家・イスラエルが擁護される一方で、PLOも国際世論を背景にイスラエルのパレスチナ占領を非難し、欧米諸国の支援を取りつけたり、和平交渉のテーブルを用意させることが可能であった。レバノン撤退以降のアラファトの戦略は、これを十分に理解した巧みなものであったと言えるし、その戦略的成果がオスロ合意であった。
 この戦略が危機に直面する転機がWTCテロ事件とアフガン戦争なのだが、こうした暗転の契機は、もう少し以前から準備されていた。それは戦後資本主義が直面した過剰生産の危機を突破しようと、今日のグローバリゼーションにつらなる貿易自由化を推進したことで途上国の貧困を拡大し、それが市場を敵視する民族主義的運動を台頭させたことであり、あるいはソ連邦やユーゴ連邦の崩壊過程で、民族自決の一般的擁護が国際資本主義体制の不安定要因ともなることが明らかになったことである。これが民族自決の承認から戦後資本主義が退却をはじめる、大きな背景をつくりだしていた。
 そしてイスラームの教条的原理を掲げて市場を敵視する勢力が、市場至上主義を象徴するWTCに自爆テロを敢行してアメリカが軍事報復を決意したとき、この退却は決定的となった。いまや民族自決の権利は、アメリカを中心とする欧米諸国が恣意的に選択し承認する特権へと後退したのである。

兵役拒否運動の広がり

 アラファト議長の後継者をめぐるPLO内の政治的混迷をふくめて、パレスチナ解放闘争が直面する今日の苦境は、この戦後資本主義の歴史的進歩性が決定的に後退しはじめたことの反映でもある。
 しかも、イスラエル建国という新たな国境の策定がパレスチナ難民を生み出して長期の戦争状態の原因になったように、民族国家の建設が民族的対立を解決できないことは歴史的にも証明されてきた。だから少なくとも現代では、分離・独立の自由を含む民族自決権の擁護だけでは、戦後資本主義もまた解決できなかった民族的偏見と差別を克服する対案としては不十分であろう。
 もちろん、国際プロレタリアートの連帯にもとづくユダヤ人とパレスチナ人の共存を意味する統一パレスチナの建設が、民族主義に代わる未来像としては掲げられるべきであろう。だが、難民の帰還権をふくむパレスチナ民衆の基本的人権の回復を求める闘いは、血で血を洗う報復合戦に反対する反戦運動の水路からはじまる、統一パレスチナの社会的基盤をつくりだす「社会的陣地戦」として闘いぬかれるだろうと思う。

 WTCテロ直前の昨年9月3日、イスラエルの62人の高校生がシャロン首相宛てに兵役拒否の手紙を書いた。「私たちはイスラエル軍のパレスチナ人に対する土地没収、裁判なしの逮捕や処刑、家屋破壊、封鎖、拷問などの人権侵害に抗議し、自分たちの良心に従ってパレスチナ人への抑圧にかかわるのを拒否します」(『AERA』2/4)と。
 さらに今年1月下旬、今度は予備役兵士53人が「占領地での軍務が、われわれがはぐくんできたあらゆる価値を破壊して」おり「本来の国防と関係がない」と占領地での軍務を拒否する「拒否の手紙」を新聞に発表し、2週間たらずで170人を超える賛同者が名乗りをあげる事態へと発展した(2/6:朝日)。さらに2月17現在までには、賛同者は251人にまで増えたとの報告がある。
 イスラエルは国民皆兵であり、18歳以上の男子は3年、女子は1年9カ月の兵役が義務づけられ、その後も男子は毎年30日程度の軍務が45歳まで義務づけられている。これを拒否すれば、刑務所での服役が課せられる。
 ところがイスラエルの兵役拒否運動はこれが初めてではない。「エシュグブル(限界がある)」という平和グループは、レバノン進攻のあった82年に兵役拒否運動をはじめて168人が服役し、最初のインティファーダ(パレスチナの大衆的抵抗運動)のあった87年にも約200人が服役した。それでもこれだけの高校生や予備役がまとまって公然と兵役拒否を呼びかけ、運動の輪を広げようとする動きは初めてなのである(前掲『AERA』)。
 彼らの言う「はぐくんできた価値」は、基本的人権として保障されるべき諸権利は何人も、つまりパレスチナ人も侵害されないという価値のことだが、それと同時にイスラエルには「命令が違法だと判断したら、従うべきではない」という軍法規定があることも重要な背景であろう。1956年、50人のアラブ人がイスラエル兵に虐殺された事件の軍法会議は「命令に従っただけ」という兵士の弁明を退け、「命令があっても、兵士は良心の声に従わねばならない」として有罪にしたことを根拠にした規定である(前掲:朝日)。
この価値観は、ナチスによるユダヤ人虐殺を「人道に対する罪」として断罪し、個々の兵士の行為も「良心に反する行為」として裁いてきた戦後の反ナチ運動の価値観を直接引き継ぎ、さらに「思想・信条の自由」という欧州民主主義の伝統から生まれた「良心的兵役拒否」の思想を継承している。しかしこれを「戦時下にある民主国家」(モファズ・イスラエル軍参謀長)で実践することは、「テロと民主主義の戦争」として宣伝されたアフガン戦争と以降のアメリカの戦争政策に反対し、世界で最も貧しい国々の民衆を敵として戦う欧米諸国の兵士たちを反戦運動に引き入れ、テロ対民主主義という虚構を内側から侵食する思想的武器を、現実の運動を通じて鍛えることになるに違いない。
 もちろん兵役拒否運動は、社会的陣地戦のほんの一例にすぎず、テロと民主主義の戦争という虚構を掘り崩すには、多くの時間を費やさねばならないだろう。だが他方でわれわれは、すべての人間の基本的人権を擁護してグローバリゼーションに反対する新しい国際運動の台頭を目撃してもいるのであり、だからこそパレスチナ解放闘争をその一翼に位置づけた粘り強い陣地戦を、こうした内在的闘いに呼応するパレスチナ人勢力との連帯を求める努力も含めて闘う必要があるのではないだろうか。

(どい・あつし)


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