第1章 解党主義論争と"50年代世代"


◆解明されなかった関西での党中央建設の挫折

 第一期の党建設(1958年〜61年頃まで)、すなわち関西における党中央建設の挫折が、なぜ起きたのか。この点に関する総括は行われていない。総括を行わないまま、敗北の感覚の上に加入戦術を結びつけたのである。したがって論争は積極的なものにはならず、次を組織する展望は何かという積極的な位置づけよりも、自己防衛的な性格になっていったのである。第一期党建設の総括なしに加入戦術の段階に入ったがゆえに、以下の総括視点は寺岡個人の試みとなる。

◆多数派となった中間主義と労働者拠点結合の失敗

 60年代前半期において展開すべき総括の論点は、次のようなものと認識していた。
 その一つは、学生運動においてレーニン、トロツキズムへの原則的復元がなされないまま、ブンドや中核派などの急進主義的中間派が多数を占め、第四インターが少数にとどまり続けなければならなかったのはなぜなのか。その解明である。
 もう一つは、主として高野派や革同が展開した労働運動の拠点闘争、すなわち総評左派、民同左派の全国性に対抗する下からの拠点闘争と、そこに表現された流動性を組織することに失敗した点である。そこに孕まれていたのは、

「トロツキズムの提起は理屈として分かるが、現実的リアリズムを感じない」

という問題であった。流動性を持つ労働者の意識の実感に迫ることができず、獲得できなかったのである。
 したがって学生運動では急進主義との関係で少数になるし、労働運動における拠点闘争も獲得することができない事態となった。その結果、労働運動の側面から言えば、大阪中電(大阪中央電報局・『戦後左翼はなぜ解体したのか』116頁参照)の細胞を孤立させてしまった。中電労働者の突出を全体の労働運動の流れと合流させられないまま、孤立した状況が続くことになったのである。
 こうして関西では、加入したメンバーと突出した拠点である中電との間に分断が生まれ、意志が通じ合わない構造が作り出される一方、青年インター派は急進主義に舞い戻っていった。このような形を取りながら、関西の組織は、バラバラに分解(「青年インター」派との分裂、「赤い旗手」派との分裂)していったのであるが、なぜそのような状況に陥ったのかという点が、総括されていないのである。
 このような矛盾を引きずったまま展開された加入活動も、実は系統だったものではなかったため、内部対立を起こしたまま、経験主義的に実践されていった。

◆第一期党建設と歴史認識―"革命的原則復権を展望"

 このような第一期の組織論、党建設論は、次のような歴史認識を背景にして展望されていた。すなわち、ファシズムとスターリニズムによって世界が押さえ込まれた反動の時代(1930年代)にあって、階級闘争が凍結される一時代が作り出された。しかし、戦後期は、そのような反動の時代から階級の復活に向けた転換の時代である。
 ファシズムは第二次世界戦争によって解体された。スターリニズムは戦後、スターリンと毛沢東との間に対立が生じたし、より深刻な問題として存在したのが、スターリンとチトーとの間の対立である。革命が拡大すれば、直ちにスターリニズム体制は分解過程に突入する。すなわち、階級の復活過程がスターリニズムの内的危機を作り出していったのである。(スターリニズムの上昇と衰退、衰退と崩壊の時代=マンデル)
 その内的危機はさらに進展し、フルシチョフによるスターリン批判を生み出した。官僚は自らがスターリン批判を行うことによって、自己の再統合を行わざるを得なかったのである。しかし、フルシチョフによるスターリン批判は、直ちにハンガリー、ポーランドの暴動を生み出した。
 その意味では、第二次世界戦争に至る反動の時代が終了して、戦後、明らかに階級の復活過程が始まった。そして、スターリニズム、社会民主主義を含めて既存の左翼政治勢力は、分解過程に入った。
 そのような事態は、一方で、第二次世界戦争以前の歴史的成果、すなわちロシア革命を実現させたレーニン・ボルシェビズム、トロツキズムへと回帰する革命的復権の流れを作り出す。その歴史的成果がスターリニズムと社民を分解させると同時に、新しい党建設の時代、第四インターの時代を生み出すと歴史を捉えたのである。
 しかも、国内的に見れば、全学連内共産党グループの多数派が代々木中央に反旗を翻す事態が生まれ、労働運動では、社共を越えるような拠点闘争を、戦闘的ノンセクトである高野派が展開していた。社共を左から批判する勢力が登場したのである。
 さらにキューバ革命とアルジェリア革命も同様であった。キューバではキューバ共産党を批判してカストロ、ゲバラが登場し、アルジェリアではフランス共産党の平和主義を批判してアルジェリア革命権力が形成された。
 世界的にも国内的にも、そのような時代に入ったという時代認識が、我々には強固に存在していた。

◆"孤立の原因は不均等発展による分断"との認識

 にもかかわらず、なぜ孤立するのか。この問題意識を多くのメンバーは持ったと思う。それは、歴史的な成果に直結せず、中間主義に逆包囲されて孤立していく状況をどのように考えるべきなのかという問題であり、総括の論点はそこに集約されていった。
 その論点の回答を、私(寺岡)は不均等発展に求めた。階級闘争が一直線の形態をとって、革命的路線に復元しない背景には、不均等発展がある。学生運動と労働運動の分断、政治闘争と経済闘争の分断、先進国階級闘争と植民地革命の分断、さらには国際的な左翼の相互分断がそこに加わる。国際的に左翼は登場するが、それぞれが毛沢東派、チトー派、カストロ派、ベンベラ派となって合流しないという国際的分断構造の中にある。そのような不均等発展の分断構造が、それぞれ自己完結していくことによって、毛沢東派、チトー派、ゲバラ派を作り出していった。
 ベトナム革命が象徴するように、ソ連の存在によって不断に国際的緊張関係は発展していくが、国内の労働運動は拠点闘争の敗北によって、次第に秩序化されていった。60年代に高野派が敗北して、春闘のヘゲモニーが全体を覆うにつれて、政治闘争と経済闘争が分断され、それは街頭闘争と職場闘争の分断にまで進んでいった。
 このような分断構造によって、急進的な政治闘争の直接的な延長上に、自己完結的党派が形成されていった。また、個別的に分断された運動の延長線上にも、自己完結した党派が生み出された。例えば、三池闘争という拠点闘争の敗北の延長線上に協会派が出来上がったし、急進主義的な街頭闘争の延長線上に中核派が生み出されていった。また、動労による職能的優位性を持った職場闘争の延長線上には、自己完結型の革マル派が形成された。このような形態をとって、中間主義的な党派が生まれ固定化されていったのである。
 我々の場合は、政治闘争と経済闘争、街頭闘争と職場闘争、学生運動と労働運動の結合を主張した。とくに第四インター内キャノン派の立場にいた我々は、パブロ派の周辺革命論に反対して先進国革命と後進国革命の結合を主張していた。当時の情勢下では、安保闘争と三池闘争の結合という主張である。ところが、その分断は克服されなかった。安保闘争は敗北し、それとは全く別のベクトルで三池闘争も敗北した。そこには交差するところがなかった。
 相互の闘争の連動を通じて、世界永久革命への戦略的普遍性が意識されていく。すなわち、不均等発展は複合的な関係を通じて、一つの全体像として包み込まれるように戦略が意識されていくはずである。ところが個別闘争の急進化の延長線上に生まれる意識は、トータルなものではない。左翼中間主義潮流にあっては、個別運動の急進意識が固定化され、自己完結していくものである。
 この構造の存在によって、階級闘争の発展過程が革命的原点と繋がらないまま、中間主義が次々と生み出され、我々と階級との合流を切断する。
 我々は当時、総括の第一点として、このように考えたのである。

◆現代資本主義分析から導き出される困難さと楽観主義

 もう一点は、次のような問題意識である。階級闘争の復活、発展はレーニン・ボルシェビズム、すなわち第四インターとして、復元されるのか。そこには現代資本主義論が媒介されてくるのだが、レーニンの時代における二項対立という単純な階級対立の段階から、資本主義は自らの限界を修正して復元する能力を、国家が持つ段階に入ったのではないか。すなわち、国家資本主義の段階である。ケインズやニューディール政策を通じた福祉国家論などによって、国家が経済に介入して矛盾を修正する能力を持ったという認識である。
 この内容は、構造改革派が現代資本主義論として展開し、構造改革路線を主張する根拠となった分析である。
 この主張には、それなりの条件と根拠があると感じられたから、単純にレーニンやトロツキーの時代の原則に直結することには困難が伴うというのが、もう一つの問題意識であった。しかし、それは思いであり、感覚であって、明確に意識化されていたわけではない。
 したがって、総括の中心は前者に置かれた。すなわち、分断された結果として、一時期、中間主義が登場するが、その次の時代には複合関係が深化して、相互に連動し合いながら、より普遍的なものに復元されていくだろう。少し時間がかかるけれども、闘いの発展は複合関係を通じて原則的立場へと復元していくだろうというものであった。
 修正すべき戦術的な要素は、確かに存在する。組織戦術なども考慮しなければならないという認識から、加入戦術も生まれてきた。しかし、原則的にはレーニン、トロツキズムが最高の革命的路線であって、たとえ山や谷があったとしても、そこに階級闘争が合流していく過程の一環なのである。しかし、構造改革派による現代資本主義論に対しては、検討を深めていかなければならない。
 私(寺岡)にとって加入活動の時期は、以上の総括視点を実践的にテストしてみようとするものであったといえよう。

◆総括なき経験主義的な加入戦術

 このよう考え方で、加入戦術というところに収まっていったのである。第四インターの限界を問題にして、次の党は何かというように問題を立てるのではなくて、あくまでも第四インターの原則的立場に立ち、その上で新しい要素を創造的に取り入れていく。その取り入れる内実を、過渡的綱領の枠組みに求めたのである。
 過渡的綱領として提起された内容が、新しい要素を創造的に取り入れ得る枠組みであり、組織戦術としての加入戦術がそれに対応している。そのように考えたのである。しかし、メンバー全員が共通して、そのように結論づけていたかどうかは分からない。
 皆が第四インターの現状に矛盾を感じていたことは事実だが、それぞれが矛盾に立ち向かっていったわけであり、今述べたのは当時の私の結論である。ただし、皆が第四インターの再建という立場を取ったのだから、同じような考え方をしているのだろうと想像していた。
 我々がぶつかった困難さ、挫折を越える要素をどのように組み立てるか。その考え方の違いや一致点を相互に討論して、回答を見出していったのではない。だからこそ、経験主義的な加入戦術への対応となったのである。
 したがって、過渡的綱領の評価や加入戦術に関する評価の違いは、加入戦術中も加入戦術後も続いていったのである。

◆加入戦術時における指導部の弱体化と解体

 組織実態がそのようなものであったため、加入戦術をめぐって指導部はバラバラになっていった。青年インターの場合は、第四インターの正しい旗を掲げれば階級闘争の発展が革命的原則へと復元し、革命党は階級の復活過程と直結していくと考えて分裂していったが、加入戦術を行使した側も掘り下げた総括なしに進んだために、指導部はまとまることができず、動揺と崩壊過程に入っていったのである。
 その結果、加入したメンバーは放置された。共通の意識で加入に対応するのではなくて、個々のメンバーは経験主義的に対応する以外に道がなかった。個人の経験とその能力に依存するという形で、彼ら、彼女らは組織的指導から放置されたのである。
 関西においては青年インター派、続いて「赤い旗手」派との分裂後、無給状態であったが中央専従が寺岡、関西専従が鍋野、学生指導が酒井で、寺岡の関東派遣時に中央専従を酒井に引きついた。だが、指導部は弱体化した。関東は加入戦術を指導した塩川、鬼塚、土屋、吉沢、今村が指導機能を放棄した。今村は協会派、吉沢は自治労に没入し、土屋は就職して姿を消した。塩川、鬼塚は大学院に復帰し、鬼塚はそのまま脱党した。このような形で、指導部は一掃され、加入した現場メンバーは放置されたかたちとなった。
 ところが、

「分断構造を克服しない限り、新しい党の基盤を生み出すことはできない。加入戦術によって、それぞれの運動の相互連動関係をどう作り出すかが重要である。それを果たすことが自分たちの任務である」

放置されている現場メンバーの中に、この感覚・思いだけは残っていたと思う。とくに関東では、そのような傾向が強かった。
 この感覚が存在することによって、ICP(国際主義共産党・『戦後左翼はなぜ解体したのか』150頁「注」参照)に対する拒否反応が強く、対立構造が強まることになった。このような立場に置かれている関東のメンバーをどのように固め、再組織していくのか。そのような任務を持って63年、寺岡が関東に派遣された。酒井が関東(中央)に派遣されたのは、その後である。

◆関東JR組織の再建とICPとの対立点

 63年春に東京に来た寺岡は、加入戦術を展開中のJRメンバーをまとめ直すことになった。加入戦術を実行していくルートは主としてICPが握っていたので、関東のJRメンバーはICPを介して加入活動に入っていったが、ICPに対する拒否反応は強烈であった。
 ICPが組織していたのは中小未組織の青年労働者であり、政治的には全く白紙といってよかった。この時期になると、高度経済成長が生み出した利益が中小・零細企業に浸透し始めており、中小・零細企業は積極的に若手労働力を確保する必要に迫られていた。
 したがって、若年労働者の労働力は売り手市場であり、企業の側は若年労働者に厳しく対応できないから、彼ら、彼女らは相対的に自信を強めており、自由が確保されている。この条件のもとで、彼ら、彼女らを積極的に組織しようとする部分が存在すれば、組織化は一定の成果を上げていく。これが三多摩合同労組のエネルギーであった。
 ICPはこの運動のエネルギーを、後進国革命論、周辺革命論、別の表現をすればパブロ路線として位置づけたのではないかと思われる。その結果、高度経済成長が作り出す積極性を合同労組運動としてICPは組織したのだが、それを官公労や民間大手労働組合のブルジョア改良主義に対抗するものとして対置した。その意味では自己完結的な組織を、三多摩社青同として固めたのである。
 ICPは活動家が枯渇しているので、JR組織から活動家を補給したい。したがって、活動家を補給するための両者の会議を開くと、ICPは我々の主張を黙って聞いている。
 こちらの主張は、中小労働運動と官公労労働運動、中手から大手民間の臨時工、社外工の運動とを結びつけなくてはならないというものであった。
 その中でも、主として日本資本主義の動脈としての国労、神経としての全電通をどのように組織するのか。国労と全電通は、一定の歴史的連続性を、民同労働運動の政治的蓄積として持っていたのである。それとの切り結びなしには、歴史的に根拠をもった運動の発展はありえない。階級の復活過程が国労や全電通の政治的な分解を作り出し、それと中小の戦闘的運動が結びつくことによって、新しい路線の革命的基盤が生み出されるのである。
 したがって歴史的連続性を抜きにした戦闘性、政治的白紙のままの戦闘性を基盤とした自己完結的な党を作れば、他の潮流との切り結びの中で、直ちに分解していくであろう。そのような自己完結的な党は成り立たない。だからこそ、植民地革命主義、周辺革命の路線では前に進まないのだと我々はICPに主張した。
 ところが、我々の主張を黙って聞いていたICPは、その主張を左の耳から右の耳に聞き流し、人的確保だけを要求する。これがICPの基盤を最初に三多摩で形成した吉村との討論であり、ICP指導部との関係はそれ以外に成り立たない状況だった。
 三多摩におけるICPの加入活動の中軸は、三多摩労協(地区労の連合体、略称・三労)、社会党三多摩分室、社青同三多摩分室に組織されたオルグ団であったが、指導部との関係がそのようなものであったため、オルグ団との政治討論も十分に成立しなかった。あえて言えば、三多摩における社青同運動は、戦闘的中小運動の自己完結と同心円的拡大の論理に基づくものでしかなかったのである。
 それに対抗するために、私は官公労を軸とする反対派潮流を作り出そうと考えた。先ほど述べたJR指導部の崩壊過程によって、官公労内の運動が関東では作られていなかった。部分的にUが全電通に入り、協会派や組研とブロックを組むことなどによって、官公労の運動が蓄積されていく状況はあったが、全体としてJRの側は、新しい流れの拠点を組織していなかったのである。
 したがって、関東のJR組織の内部には対抗路線がないまま、ICPへの拒否反応だけが蓄積されていった。これではダメだと思った私は、まず、JRを路線的に固めつつ、拒否反応をより積極的な内容へと転換させようとした。具体的には、官公労を軸にした運動として、全体の運動の左翼的ヘゲモニーを作らなければならない。私が関東に来て戦略的方向を確認したのは、そのようなものであった。

◆三多摩における国労、自治労への影響力の拡大

 三多摩で最初に手がけたのは、国労である。当時の社青同武三(武蔵野・三鷹)支部の中心は官公労であった。三多摩の社青同は中小労働者が中心であったが、武三だけは自治労、全逓など官公労が主軸で、都内的性格を持っていた。
 私は63年に上京して、社会党武蔵野総支部のオルグになると同時に、社青同武三支部の書記長にも就任した。武三支部の官公労を基盤に新しい流れを組織しようとしたJRの動きを察知した(その動きとして協会派の山崎耕一郎氏と寺岡の会談を思い出す)ICPは、JRによる対抗勢力が出現したと考えて、社青同武三支部に今村育治を送り込んできた。住所を三鷹に移転することを含めて、寺岡と対決して武三の中にICPを作り出そうとしたのである。
 私は気にかけていなかったが、ICPの側は三多摩がJRによって切り崩されるという危機感を持ったのだと思う。今村は、社会党三鷹総支部オルグのT、三鷹市職のI、全逓武蔵野支部書記長のSなどを理論的準備もないままICPメンバーに入れることで、JRである寺岡と対抗させようとしたのである。
 こうした動きの中で、私は国労青年部との関係を強めることに全力をあげていた。レールで各地と繋がっている国労は、地域組織である社青同と距離を置く関係にあった。国労の主軸は、いわゆる"学校政治"である。三鷹には国鉄の青年寮が存在し、後に国労東京地本青年部長になった平塚が寮の活動家をまとめていた。その平塚から私に「学習会を組織してほしい」という依頼があった。(マルクス、エンゲルスを文献として)
 この学習会の中からは、後の国労八王子支部の青年部長(井出)を始めとする国労の活動家が多く誕生していき、彼らが国労反戦派となっていくのである。
 一方、三多摩レベルでの自治労の組織化にも着手した。自治労の組織化は社青同というよりも社会党サイドからのルートが中心となった。武蔵野市職の西野谷書記長、立川市職労の太田書記長、東村山市職労の水野書記長を軸として、闘争課題別の実行委員会、闘争委員会を三多摩規模で組織していった。一つの課題が終われば解散し、別の課題が出てくれば再び実行委員会を組織するといった性格の運動であるが、これが後に三多摩における職場反戦派運動のネットワークに育っていった。
 もう一つが伊藤君を中心とする通研(武蔵野市に存在する通信研究所、電電公社・当時)の左派グループであり、彼らとも連携・討論を進めた。
 国労、自治労、通研などの組織と運動が、反戦青年委員会運動の高揚の中で結合を深め、広がっていったのである。この広がりが後の『根拠地』運動の基盤となった。実行委員会や闘争委員会を媒介にして、それぞれの運動をその単位で組織していくが、さらに系統的な運動に高めていくために、雑誌『根拠地』を機能させていく。そのような構想として『根拠地』は発行され、雑誌自身もこれらのルートを通じで配布されていったのである。

◆歴史的総括抜きのJR、ICP組織の統一

 このようにして、ICPによる中小労働運動だけではなくて、官公労にもJR主導の運動が広がり始めた時期(1965年)に、JRとICPの組織統一がなされるのである。
 この統一は、歴史的総括を抜きになされたものであった。

「ベトナム反戦で、国際的にも国内的にも新しい時代が始まっている。したがって合流を急がなければならない。総括は統一した後で深めよう」

ということで、総括を先送りした統一となった。その結果、総括は放置されたままとなったのである。
 このような統一であったから、直ちに内部分裂が発生した。その原因となったのが、統一組織の委員長に就任した太田竜の路線である。太田竜は、第四インターナショナル第3回大会で決定されたパブロ路線の信奉者である。彼は、世界規模での国際的な戦争と内乱が、ベトナム戦争へのアメリカの介入と中国による反発によって、米中対決という形をとって噴出すると主張した。
 朝鮮戦争の時期にパブロが提起した第三次世界戦争危機の延長上の主張である。ベトナム戦争から米中戦争へと情勢は突き進むから、戦争的内乱状況が出現するという展望を立て、米軍基地突入の路線を出したのである。
 我々はそのような問題の立て方には、根本的に反対する立場を取り、政治闘争と現場における経済的要求との結合を主張した。また、高度経済成長が作り出す第一次の腐敗、すなわち東京都議会汚職(黒い霧解散)として噴出した癒着との闘争とも結合して、新しい普遍的な階級闘争の基盤を生み出していかなければならないと考えたのである。

◆国際的内乱を展望した太田竜の基地突入路線

 それに対して、米中戦争と国際的内乱を展望し、立川基地突入を先駆的闘争として位置づけ、その中で自爆するのが太田竜の路線であった。具体的には基地突入で、10人が殺されることを前提にした方針なのである。しかし、デモ隊は基地に突入するが、平和的状況だから何の反応もない。決意して突入した部隊は、すごすごと引き返してくることとなった。
 1965年の統一後、三多摩における合同指導部会議が開かれると、委員長になった太田竜が自爆方針を提起する。しかし、旧ICPは全員が太田竜に従属的であったから、その方針に反対できない。私は太田竜の方針に、最初から反対してきた。旧ICPの中で、最初に太田竜に反旗を翻したのが、Sである。Sは結果として分派闘争や分裂状況に嫌気がさして離脱に至るが、それを契機に旧ICPの内部矛盾が深まることになった。

◆旧ICPの内部対立の本格化

 その当時、都内の担当だった織田進は三多摩にいなかったが、彼が太田竜路線に反対しているという噂が聞こえてきた。また、太田竜の直系だった吉村たちも疑問を持ち始めた。疑問というよりは、もともと太田竜路線に反対だった本心を表明し始めたのである。
 ここから旧ICPの内部対立が本格化していく。経過はよく分からないが、徳川(織田=小島)・中曽根(吉村)意見書が出されて、彼らは解党(第四インター死産論)を表明したのである。都内の社青同運動では東水労や東交、全逓などの官公労で解放派が圧倒的多数を占めていたから、このような流れと合流しない限り、党を展望することができないと織田が実感したのだと思う。その実感と太田竜の突撃路線への疑問が結びついたのではなかろうか。
 この意見書を契機にして旧ICPの分裂が始まった。すなわちBL派とレーニン派への分裂である。また旧JRは、社通派(『プロレタリア社会主義通信』を発行したことから「社通派」と呼ばれる)を結成した。都内では橋井やU、それから三多摩の旧JRなどに酒井が加わって、社通派は構成されていたが、このグループに吉村や鈴木英男などの旧ICPも合流してきたのである。織田・中曽根意見書の筆者の一人が吉村であるから、レーニン派も分裂したことになる。

◆左翼中間主義と"死産論"、"早産論"

 1966年になると、第四インター"死産論"、あるいは"早産論"が登場してくるのである。レーニン・ボルシェビズムの復権過程で生まれてくる多様な中間的傾向と結合しながら切磋琢磨し、統一戦線の構造を実態あるものとして作り上げることを基礎にして、党を考えなければならないという立場である。
 社通ナンバー4で酒井は"早産論"を提起したが、その論文のレジュメを書いたのは寺岡である。したがって"早産論"は、酒井・寺岡の合作である。そこで私が提起したのは、 "早産論"というよりも、正確に言えば次のような考え方であった。

 既存の組織を超えて登場する運動の多様な発展過程は、第四インターとして一つに凝縮されるのではなくて、様々な左翼中間主義=新左翼として表現されてくる。この運動や潮流を再編・合流させ、それを共通基盤としながら、その路線的、綱領的ヘゲモニーとして党を形成しなければならない。
 このような考え方から、労働者人民の不均等発展の運動を複合的に結合しつつ、それを共通基盤として形成するものとして、過渡的に成立する後の『根拠地』のような運動・理論体を構想していた。
 『根拠地』は、そこに結集した構造改革派の高見圭司や解放派の石黒忠、共労党の樋口篤三、『マルクス主義』の久坂文夫、ノンセクトの小野寺忠昭などが共通基盤を獲得し、運動としても共通の問題意識を持つ。その共通基盤の上にヘゲモニーとして第四インターの路線(主として過渡的綱領)が機能していくかどうか。こうした理論的、綱領的テストの上で、党はリアリズムと結びつくのではないのかと。

 いわば、旧ICPの自己完結的組織論に対抗する多様な急進主義運動の複合的連合運動論が、党建設へと行き着いてしまったのである。行き着くというよりも、党建設まで貫徹されなければならないという実践論的提起が、"早産論"と言われた寺岡レジュメの内容だったのである。
 運動論として展開した寺岡レジュメを、酒井は歴史論として提起した。なぜそうなのかと問いかけた酒井は、そこに断絶があるからだと主張した。すなわち歴史的成果と現実の階級闘争の回復過程との間には、歴史的断絶が存在する。第四インターは、その歴史的反動の谷間で結成されているから、現実に起こる運動と歴史的成果としての綱領が直結しない。多様な闘争が作り上げる共同の問題意識とその切り結びを通じて生まれるヘゲモニー、そのような闘争過程を経つつ党は成立する。そのようにしなければ党が成立しない歴史的構造があるのである。
 酒井は、そのような内容として"早産論"を提起した。早く生まれすぎた、あるいは生まれてみたら死んでいた第四インターを、新しい運動の流れと結合させて、そこまで到達させなければ党は生きたものにならない。このような考え方である。
 私は運動論の側から提起し、酒井はそれを歴史論として結びつける。それが社通ナンバー4の提起であった。この考え方は、その後も残り続けるが、組織の内部では、猛烈な反発を呼び起こした。吉村は織田と共に意見書を通じて解党論(死産論)を提起し、社通派も"早産論"を唱えたわけだから、両者が解党論を表明したことになる。

◆解党主義論争と組織分裂、分散化

 太田竜を軸とするBL派は旧ICPである織田、中曽根と旧JRである酒井、寺岡の除名を提起した。関西は第四インター原則論の立場を取り、除名には反対だが解党論に対しては全面批判の立場を表明した。今野は、解党論は理解できるという同情論的立場であった。今野は自らの立場を明確に表明したわけではなかったが、理解できる事柄であり、討論の余地ありというスタンスだった。
 社通ナンバー4の提起は、組織戦術の問題からもう一段飛躍した内容であったから、我々も確信を持ったものではなかった。加入戦術は組織戦術の提起と実践であったが、それに対して党の"早産論"、"死産論"を表明し、新しく作り直すのであれば、それは飛躍である。次に第五インターや新しいインターナショナルを結成するのかということになるが、そこまで確信を持った提起ではなかった。したがって組織は大混乱に陥り、我々も揺れ動いた。"早産論"に対して、党組織論的に断固としていたのはBL派と関西ビューローである。
 三多摩では、BL派との全面対決が行われた。真夜中の時間帯に、三労会館和室に組織メンバーを集め、BL派と社通・レーニン派の合同勢力の二つから出された方針を論議した。そこでは激しい論争が展開されたが、最後に人事を決めることになった。BL派の中心メンバーはMとHであり、Mを委員長に立てたが、対抗馬の寺岡が多数派となった。ところが財政部長を巡っては、レーニン派と社通派が内部対立を起こした。レーニン派は財政部長に今村を立候補させたが、社通派のOが、

「今村が立候補するなら、俺が対立候補として名乗りを上げる」

と譲らなかったのである。
 何とか調整してOの立候補をやめさせたが、この二人の仲の悪さは半端ではなかった。財政部長と女性担当(K・H)の三人を我々が取り、BL派からは二人が執行部に入った。しかし、この合同執行部はほとんど機能せず、一回会議が成立するだけで終わってしまった。対立は非和解的領域に入っており、合同執行委員会を開いても意味がないと双方が考えていたから、必然的な成り行きだったと言えよう。
 その後はBL派による三労会館の占拠などが起こり、分裂が進行していったのである。
 その過程で、BL派との分裂は定着したが、"早産論"、"死産論"、解党論などの討論は集約がなされないまま、70年代同盟の再建を迎えた。したがって、そこでの問題意識は残ったままになっていたのである。
 70年になった段階で、とりあえず第四インターとして再建しようということになり、仙台(東北)、関西ビューローと関東の社通派、レーニン派、学生グループの関東社研が結集する形になって70年代同盟は再建された。しかし、そこには何の総括もなされていなかったから、急進主義をめぐって直ちに関西ビューローとの対立が発生することになるのである。
(「補足・関西派総括」参照)

◆現代資本主義の中で進行する分断と挫折

 ここまでに、組織の統一、解党主義論争までを振り返ってみた。そこでの核心問題は、階級闘争の復活過程が直線的には進まず、既存の組織を超えた多様な中間主義が生まれてくるが、そこでの統一戦線の構造を運動論的に作り出すことを通じて、その信頼基盤の上にトロツキズムの路線的ヘゲモニーが党建設の力として発展されねばならないという点である。いわゆる"50年代世代"として70年代同盟のヘゲモニーを担った部分は、この点に関して共通意識を持っていたと思う。
 しかし、それがなぜ中途半端な討論のままに終わっているのか。実は後期資本主義が新しい蓄積様式、生産様式を作り出し、新しい階級的な関係を生み出していて、高度経済成長を通じて労使協調の構造が多数派を構成していく。ベトナム反戦で政治的な危機が起きても、市民社会、企業社会の現場はますます右に移行する。したがって分断構造を克服することができないし、政治闘争と経済闘争が結合しない。学生運動と労働運動の結合もできないし、青年運動と中堅運動の関係も同様である。
 そうした構造の中で分断は拡大し、自己完結的な動きは行き着くところまで行き着いてしまった。赤軍派、連合赤軍、BL派はもちろん、中核派や革マル派がそれであり、結局、現実の階級闘争から消えていくか、ほとんどが無縁の存在になっていった。
 様々な流れの連動の中で、個別的自己完結を超える普遍的な共通の路線と戦略が意識されて、それが体系化されて党の意識が作られる。したがって時間をかけた運動の前進と討論を通じて、ヘゲモニーを準備していけばいい。我々はそのように考えたが、現実の情勢や運動は、そうした方向に動いていかなかった。時間をかければかけるほど、分断されていくのである。したがって追い詰められると自己完結した突撃に向かい、さらにそれは内ゲバとなって自壊していったわけである。
 これは何なのかが、もう一つの問題である。レーニン主義、ボルシェビズムの理論的レベルでは対応できない後期資本主義の時代に突入していたのである。新しい階級闘争論や戦略論、綱領を作り直さなければならない。それに気付き始めたのは、80年代後半から90年代に入ってからである。
 しかし、60年代の解党論争は、そのような問題意識から出てきたものではなかった。第四インター建設の闘いの困難さは、革命党の原理・原則(レーニン・トロツキズム)と現状の階級の復権過程との間にある歴史的分断構造の厳しさが生み出しているとの時代認識に基づくものであった。そこから我々は、階級の急進的先端と一旦融合し、その発展(不均等から複合的発展へ)過程を主導する過渡期の闘いを通じて、革命党の原理的復元へと獲得していく。
 過渡的綱領や加入戦術、労働者党形成の闘い等の本質的意味を、そのように捉えようとした。
 こうした認識の限界は、依然として資本主義の死の苦悶という前提の上に、戦略が組み立てられた点にあった。不均等から複合的発展―革命党の原理的復元へ、との展望とは裏腹に、後期資本主義の発展のもとで不均等の過程は交わることのない深刻な分断へと陥り、階級闘争の分解へと進んだのである。
 第四インターの困難さと孤立は、より本質的な時代認識の歴史的転換と、レーニン・トロツキズムの戦略的、綱領的な全面的見直しを要求するものだったのである。だがそれは、後々(80年代中後期から90年代にかけて)の問題意識である。

◆極東解放革命論と労働者政府、その双方の破綻

 70年代同盟へと結集したPB(政治局)は、大枠として先に述べたような"早産論"、"死産論"の思考過程を経ながら、様々な色合いに分かれていった。酒井は今まで述べた解党主義を、自らの論理の中に内包させた。私(寺岡)は過渡的綱領を軸に、解党ではなくて第四インターの一環として、より現実的に対応しうる路線を作り直すことによって、第四インターの原則に到達することができると考えた。革命党の存在は第四インターとしてのみ表現されるが、そこに向かうためには複雑に発展する過程が過渡的に存在する。この路線は、コミンテルン第3・4回大会の成果であり、それは統一戦線論、革命的議会主義など陣地戦の原型から過渡的綱領の発展として表現されなければならない。したがって、突撃論ではない。過渡的綱領として、現代資本主義に対応する論議を創造しながら、党は第四インターのもとに作り出されうると結論した。
 組織論では酒井が解党主義、寺岡は第四インターという区分けが存在した。解党主義論争を基盤としながらも、70年代同盟には様々な要素とレベルの違いが存在していたと思う。それらは、組織が危機に陥ると内部対立の要因に転化していく。組織論の観点からすれば、そのような問題があった。
 しかし、それは組織論の観点だけではなくて、戦略論の違いとしても存在した。世界的二重権力・極東解放革命論派と労働者政府、労働者統一戦線を基盤とした過渡的綱領派という違いを一方において持ちながら、組織論的な対立も不断に内包させて進んでいったのが、70年代同盟の基本的性格だったと思う。
 しかし、この格闘の枠組み、すなわち組織論におけるそのような性格、過渡的綱領や極東解放革命論といった枠組みでは、根本的に対応力を持つことができなかった。これが90年代に行き着いた私の総括の結論である。前期資本主義の意識の中で、新しいものを取り入れた現実対応の論議をあれこれやってみたが、結局、その枠組みを超えることができなかった。後期資本主義の成立による新たな問題提起には、対応できなかったのである。
 『根拠地』運動には、解党主義が出てくる積極的な運動的基盤が存在した。太田竜による植民地革命論や三多摩における自己完結的な中小運動、軍事力学的政治ヘゲモニー論に対抗して、多様な運動潮流の相互関係の中に党建設の基盤が生み出されるとの傾向を発展させた。それと切り結びながらヘゲモニーとして、過渡的綱領の党を構想した。そのように、党建設そのものではないが、その予備的基盤として『根拠地』や『労働情報』を意識してきた流れは、単なる大衆運動論としてのみそれらを考えたのではなく、統一戦線党的な要素を内包した党建設の論理を併せ持っていたが、それらは両方(運動も党の準備も)とも破綻したのである。
 それらの運動は、結局、後期資本主義の発展が強制する分断に行き着き、その分断は、それぞれが自己完結の急進主義的挫折の道をたどることとなる。我々も運動を結合させようとしたが、分断の力学に引き裂かれ、最後は結合のヘゲモニーを失っていった。国労が結合の基盤となるのではないか、あるいは全労協が結合の力学を発展させるのではないかなど、様々な想定をして方針を立てようとしたが、最後は全部、カードを使い果たして、結合環を失ったのである。
 それは党建設の旧来のあり方の基盤を全面的に失ったことでもあった。


目次へ 次を読む hptopへ