第2章 機動戦と陣地戦―二つの戦略(4回大会、6回大会)の敗北
第1章では、60年代の「解党主義論争」を中心にした総括を述べたが、第2章では「70年代同盟」の総括を行いたい。
◆"解党派"が同盟再建のイニシアティブ握る
70年代同盟の結集の中心軸を担ったのは、いわゆる「解党派」である。60年代の「解党派」が70年代同盟を再建し、「解党主義反対派」が解党していったのである。BL派は解体され、新関西派も姿を消した。「解党派」が中心になったという意味は、挫折を経験しながらも、時代と情勢に対して緊張関係を維持してきた部分が、再建の軸を担ったということなのである。
なぜ「解党」問題が出てきたのかといえば、そこにはリアルな現実の運動と"あるべき党"との乖離があった。現実の運動と緊張関係があればあるほど、乖離と断絶に行き着くのである。解党主義は、現実と党建設の緊張関係がどのようにあるべきかという問題と深く関わっているのであり、その分析と捉え返しという意識が、次の時代における再建のヘゲモニーになったのだと思う。
◆"4回大会と6回大会の幅"?
その意味で70年代同盟とは、50年代から60年代にかけて古い世代が体験した葛藤を継承した組織であるが、その結果として二つの総括点が出てきた。それを現在の言葉で表現すれば、一つは機動戦戦略であり、もう一つは陣地戦戦略である。
当時、70年代末から80年代前半の最も若いPBであったDがよく口にしていた表現として、「4回大会と6回大会の幅」がある。すなわちそれは、4回大会の機動戦的戦略の性格と、6回大会の陣地戦的戦略の性格の幅という意味であり、そのアマルガムの間を揺れ動く性格を持っていたのが、70年代同盟の戦略的性格であった。
アマルガムであるから戦略が確定しない。両方に揺れ動いたのである。しかも、その前提として双方がレーニン・ボルシェビズムであるから、根本のところでは機動戦(ロシア革命史観)であり、"戦争を内乱へ"という内乱・内戦革命なのである。そのような機動戦的性格を歴史的、綱領的基軸としながら、戦後の構造を加味した陣地戦と機動戦の戦略的枠組みの中を揺れ動くという性格であった。
この性格が、解党主義論争を経て、党建設の方向を二分した。その一つは、酒井が4回大会の党建設路線として提起したものであり、ここでは戦略と党建設が一体的に捉えられていた。
◆酒井の党建設論と寺岡の党建設論
先ほども触れたように、70年代同盟の根本的性格は武力的な"内乱・内戦革命"である。酒井の場合、それが世界的二重権力という世界戦略に照応したものとして出てくるのであるが、革命の内戦的段階ではじめて、党建設がリアリズムを得るのであり、内戦に突入する準備過程は、"党建設者同盟"の性格を持つ。この"党建設者同盟"は、反帝闘争を徹底的に闘う潮流内の分派として存在するのである。
反帝派の多様な潮流の中で、その"党建設者同盟"が徹底的に急進的に闘い抜くことを通じて獲得した優位性こそ、内戦という決定的段階における党建設の革命的ヘゲモニーになりうるのである。前段の助走期としての
"党建設者同盟"という分派の段階と、決定的な内戦・内乱の時代の党建設の段階という、二つの段階があるというのが、酒井の党建設論であった。
すなわち、内戦・内乱型革命のイメージと、それに対応した党建設過程の二段階論的規定として提起されているのである。
それに対して、もう一つの流れは、労働者評議会型革命の路線である。労働者の現場における自己決定や自主管理の闘いを基軸とした組織的なヘゲモニーを形成することを通じて、労働者評議会的存在を確立させていく内容であった。トロツキズムの流れからするならば、それは過渡的綱領であり、アメリカのSWPが典型的に示した労働者党の形成路線である。
巨大な労働者党の内部に、ある意味では長期に加入して、それ自身を革命党に再編、転換させていくというアメリカ労働者党建設の方針は、CIO形成過程における座り込みストライキ、工場占拠、労働者管理の闘いに対応するものであった。労働者の日常を重視した改良の時代から過渡期の時代を経て、革命の時代へという一連の過程を、党としてどのように組織していくのか。そのような党建設路線だったのである。
酒井のように助走期は分派として存在し、内乱期には革命党建設という二段階ではなくて、日常の改良、過渡期、革命期という一連の流れ総体を系統的に組織していくという党建設路線である。相対的安定期において革命派は、当然のごとく少数派である。しかし、少数派だからといって、分派という考え方は取らない。最初から、改良と革命を結合する党でなければならない。
最小限綱領から過渡期の綱領、最大限綱領へという、一連の流れの連続性を体現しているのが過渡的綱領であり、それを総体として組織するという考え方である。
その意味で言えば、酒井の考え方は「解党主義」の貫徹である。現在は徹底的、急進的に反帝分派として闘い抜く段階であって、党建設の時代ではないという立場は、「解党主義」の貫徹の表明である。
これに対立する寺岡などの考え方は、労働者評議会的戦略のもとで、労働者を組織していく現場におけるヘゲモニー戦略の一環として党建設を位置づけることによって、少数派から多数派へ至る過程総体を党建設の時代と表現したのである。
70年代同盟は、この二つの考え方に分化していったのであり、70年代の最初の対立点は、党建設をめぐるものであった。またそれを、双方とも意識した上での"根本的妥協点"を探ることでもあった。その点の自己主張を貫徹すれば分裂につながるから、情勢の展開過程を確かめつつ、妥協点を探りながら進めるという関係にあったのである。
◆機動戦と陣地戦―第四インターの歴史的性格
その背景を規定しているのは、第四インターの歴史的性格である。レーニン・ボルシェビズムの「戦争から内乱へ」という考え方は、トロツキーの世界永久革命論の中に貫徹しているのである。第二次世界大戦というファシズムとニューディールとの激突、すなわちドイツとアメリカの激突を内乱に転化して、アメリカプロレタリアートのヘゲモニーで世界革命を組織する構想のもとで、第四インターは結成された。その意味では、内戦・内乱革命という性格を、最初から第四インターは持っているのである。
しかし同時に、アメリカプロレタリアートのヘゲモニーを形成する過程は、陣地戦的性格である。労働者評議会的運動とそれを基盤とした大衆的労働者党を形成し、そこに長期に加入することを通じて、労働者党を革命的に再編していく。この過程総体を陣地として、すなわちアメリカ労働運動を陣地として世界革命のヘゲモニーを確立しようという考え方である。
(アメリカ資本主義の最も進んだ技術と社会構造を土台に組織されたアメリカプロレタリアートの座り込みストライキや大衆的労働組合の爆発的発展を、トロツキーは[ロシア革命とは異質な]新たな国際革命のヘゲモニーの登場として、真正なマルクス主義の新時代の始まりとして認識したようである。)
ここから過渡的綱領では労働者管理やスライディングスケールなど、労働運動の過渡的性格が位置づけられているのであり、この提起は陣地戦である。それと同時に、世界的な戦争を「内乱から革命へ」という第四インターの路線は、機動戦である。
第四インターは、機動戦的要素と陣地戦的要素の二つを内包しているのであり、それがどのような関係であるのかを詰めていないので、アマルガムなのである。トロツキーの世界永久革命論の枠組みは、そのような陣地戦的戦略と機動戦的戦略のアマルガムとしての性格を残していたと思う。
◆二つのアマルガムとしての70年代同盟
70年代同盟はこの二つの性格をアマルガムとして受け継ぎ、その間でPBの妥協点を探る方法を取った。そのPBとしての妥協点を最もうまく導き出したのが、今野求だったのである。ここにおいて、解党主義論争から始まる党建設の流れが、一定の形で政治戦略と結びつき、定着したのである。
酒井の側は解党主義の一層の貫徹であり、6回大会派である寺岡の側は、過渡期の過程を経た一貫した党建設の立場であった。その意味で私は、解党主義を乗り越え、そこから決別しようとした。その違いは戦略と結びついた時に初めて、明確になったのである。
酒井の立場は、60年安保闘争から出てきた急進主義の流れの中に党建設を設定しようとした。それに対して、寺岡は階級闘争の不均等発展を重視した。学生運動と労働運動の不均等発展、政治闘争と経済闘争の不均等発展、大企業労働運動と中小企業労働運動、官公労労働運動の不均等発展に見られるように、不均等に発展する過程とは、改良の時代なのである。それが体制や政治支配と対決するとき、より普遍的な政治路線に結合していく。こうした過渡期の攻防を通じて、革命の時代に転化していくのだが、それ以前の不均等発展の時代においても、全体との結合は無理だが先端の意識的部分を結合させていくことは可能である。すなわち活動家集団の形成とそのヘゲモニーで、先端を切り開く活動を展開していく。これが党建設の基盤である。
そのような考え方から、社会党的な潮流の中にも入り、右と言われる部分とも結合していく。それを一つにしようと考えてもまとまらないので、その時、その時の個別的実践課題で結合するというやり方と、その蓄積が必要となる。そのようなシステムを形成することによって、単なる急進主義の延長上、すなわち急進主義の自己完結ではなくて、多様な不均等の運動を先端のところで結合させながらヘゲモニーを準備していく運動のやり方になっていくのである。
この運動と別の運動のやり方の違いとは、次のようなものである。一つの方法は、急進派の軍団として徹底的に急進主義で突撃するやり方であり、もう一方の方法は、労働運動を軸にしながら多様な運動を横につなげていきつつ、例えば『根拠地』のような統一戦線の討論の場に個別の活動家を結集して、より普遍的な路線的結合を深めていくやり方である。いわば、陣地を作り上げていく運動である。
70年代同盟は、これらの違いが党建設の理論上、運動論上でも並存していたのである。その違いが進行したことによって、最後は三里塚と『労働情報』という運動上の質の違いとして表現され、機動戦的運動と陣地戦的運動の連動とその挫折としての分断として、組織分裂に至る客観的背景となったのである。
◆トロツキーの世界永久革命が内包した矛盾
党建設を二分した政治戦略の理論的根拠は、トロツキーが定式化した世界永久革命と第四インターの流れそのものの中に、二つの要素のアマルガムとして存在していた。それを端的に表現すれば、アメリカの後期資本主義による経済的発展とヨーロッパを中心とする前期資本主義の経済的な衰退と没落とが、第一次世界大戦と第二次世界大戦の間の時期に並存していた点の認識である。
第一次世界大戦前の世界帝国主義のヘゲモニーは、ヨーロッパ、とくにイギリスが保持していた。第二次世界大戦以後のヘゲモニーはアメリカに移行するが、第一次と第二次の間の戦間期は、両者が並存しているのである。植民地帝国主義であるヨーロッパの没落とアメリカのフォーディズムの上昇の二つが、この時期に結びついて存在していた。これをどう捉えるかという問題が、根本において存在したのである。
トロツキーの考え方は、資本主義の"死の苦悶"である。それでは死の苦悶という規定は、アメリカ資本主義の上昇、すなわち後期資本主義であるフォーディズムの発展という構造をどのように捉えていたのか。アメリカ的資本主義経済が全世界に波及するとすれば、資本主義は死の苦悶ではなくて新たな上昇過程に入ることになり、革命は先延ばしされることになる。もはや、革命の時代ではないのである。
しかし、トロツキーは、アメリカ資本主義の上昇がヨーロッパを軸とした没落資本主義の"没落"の中に引きずり込まれていくと考えた。上昇するアメリカ資本主義は、世界資本として旧帝国主義の没落の中に浸透していく。アメリカ資本主義は植民地の中にも浸透していくし、没落する帝国主義を支えるものとして、その内部にも入り込んでいく。
その結果、アメリカ資本主義は没落資本主義の中に組み込まれ、植民地の危機にも組み込まれていく。アメリカ資本主義が発展し、世界化すればするほど、そのような構造に引き込まれることによって、前期帝国主義の没落の危機がアメリカという中枢に浸透していき、アメリカの没落が開始される。その意味で、アメリカの上昇にも限界が存在し、全世界の資本主義の本質的な衰退、すなわち死の苦悶の中に引きずり込まれていく。
1929年にアメリカから始まった大恐慌は、爆発的な勢いでCIOを作り出し、座り込みストライキから工場占拠、労働者管理という性格の闘いを作り出した。それは、労働者党に向かうであろう。アメリカ労働者党は、第四インターのヘゲモニーの重要な基盤である。その場合のアメリカの政党は、共和党と民主党ではなくて、共和党と労働者党である。第四インターのヘゲモニーは、アメリカにおける第二党になっていくのであり、これが全世界の危機に対するヘゲモニーになる。トロツキーは、このように構想したのである。
この考え方からすると、資本主義はやはり死の苦悶の中にいるのである。アメリカがどのように上昇しようとも、そこで世界が再組織化されるのではなくて、逆に危機の中に引きずり込まれることになるという考え方に変わりはない。ここから、第二次世界大戦における労働者党という陣地戦と、戦争が引き起こす激突によって始まる世界的な内乱・内戦という性格の機動戦とが合体した考え方が、過渡的綱領の中には内在していたのである。
◆酒井の世界的二重権力論の論理構造
酒井による急進主義を軸とした世界的二重権力という提起は、トロツキーのこのような考え方の延長である。トロツキーは、アメリカが没落帝国主義の構造の中に引きずり込まれて没落すると考えたが、酒井の二重権力論は、労働者国家との間の緊張関係の中でアメリカの没落が始まると予測した。
アメリカ資本主義の上昇は、歴史的予備力として資本主義の没落を先送りする。歴史的予備力としてのアメリカの巨大な生産力と軍事力は、労働者国家に対して壁を作り、世界的な二重権力の均衡関係を作り出した。この均衡関係が崩壊すれば、アメリカの世界支配の基盤が労働者国家の側に引きずり込まれ、均衡関係は革命の側の攻勢に転化する。すなわち、世界的な権力闘争が開始され、世界革命の攻勢の時代へと転化するのである。だからこそベトナム革命は、世界革命の前衛なのである。このように酒井は位置づけた。
しかも没落資本主義にもかかわらず戦後、日本でもヨーロッパでもそのブルジョア支配が維持されてきたのは、アメリカの世界権力としての生産力と軍事力に防衛され保護されているからである。世界的なアメリカの権力が後退し、衰退し始めると、すでに衰退しているはずの日本やヨーロッパのブルジョア支配は内部崩壊をはじめることになる。
これが酒井の世界的二重権力論の考え方である。ある意味でこの考え方は、トロツキーの世界永久革命論の延長上に成り立っている。世界的二重権力の成立と前衛としてのベトナム革命に基づく反帝闘争の前進は、自動的に没落帝国主義の内部危機に転化していくと酒井は予測した。したがって危機の根幹は、二重権力にある。すなわち世界的権力としての労働者国家の力が、帝国主義に危機を強制しているのであり、その均衡を食い破ったのがベトナムである。
◆寺岡の労働者評議会的革命のイメージ
これに対して陣地戦としての労働者評議会的な革命イメージの側は、次のように考えた。世界権力はそのような構造としてあるのではない。アメリカの特殊な発展としての予備力は、フォーディズムの発展の結果である経済的、政治的、軍事的力にあると主張した。
酒井の場合、世界的二重権力を主要に軍事的権力として規定しており、軍事的敗北が崩壊をもたらすという考え方であったが、我々はそうではないと主張した。アメリカの力は単なる軍事的なものだけではなくて、政治的、経済的な側面を含めた総合的力であるが、次の局面でトロツキーが言うところの衰退過程に、アメリカは引きずり込まれていくであろう。
したがって世界の危機を政治的、経済的にも防衛し、軍事的にも援助していくという総合的援助という資質が枯渇していくことによって生み出された危機が、ベトナムがもたらした危機であり、オイルショック、ドルショックを通じての経済危機、ジョンソンの辞任、ニクソンのウォーターゲート事件に現れた政治的危機なのである。アメリカの危機は、軍事的攻防としてのベトナムだけに焦点があるのではなくて、アメリカの総合的な危機の結果として、資本主義の危機は新しい段階に入った。そのようなものとして、70年代の中期を捉えたのである。
ここから6回大会から8回大会にかけての政府危機の規定が生まれてくる。田中角栄逮捕によるロッキード事件がもたらした政府危機、経済的にはオイルショックによる減量経営とスタグフレーションがもたらした経済的危機、この双方の危機が結合していく。アメリカの衰退が、日本においては政府危機と経済危機という総合的な危機として現れた。そこから、「自民党政府打倒、社共政府スローガン」が出てくる。社共は政府を握れという路線が提起されたのである。
◆両者に共通した"自動崩壊論"とその破綻
ところで、極東解放革命と社共政府スローガンという二つの考え方は、双方とも自動崩壊論に基づくものである。酒井が主張した世界的二重権力、極東解放革命論の立場でいえば、アメリカ帝国主義の軍事的危機がアジア各国の政府危機、すなわち革命的危機を自動的に生み出す。アメリカに軍事力の後退を強制する反帝革命の前進が、自動的に(特にアジア極東の)資本主義的システムを崩壊させるという考え方である。
それに対して陣地戦の側は、総体としてのアメリカの衰退が経済危機と政府危機を生み出し、それが自動的に革命的危機に転化する。すなわち、そのような危機が社共を押し上げ、権力を取らざるを得ない局面に向かわせていく。資本の現場支配の崩壊によって、自然発生的に闘いは高揚し、それが社共を押し上げていくという考え方であった。
この二つが、70年代同盟の戦略だったのである。この二つの考え方は、それぞれが貫徹されていったが、6回大会から8回大会は機動戦戦略と陣地戦戦略が均衡を保持した時期であったといえよう。
70年代中盤の我々は、ベトナム革命の勝利とドル危機・オイル危機を背景に、ロッキード危機がスタグフレーション下の春闘と結びつき、76春闘はロッキード春闘として政府危機を生み出すであろうと展望を立て、社共政府スローガンを軸に闘いを展開しようとした。それと結びつけて、『労働情報』などの運動も準備しようとしたのである。
ところが経済危機を基礎にした政府危機が顕在化すればするほど、事態は右傾化していくのである。日経連のガイドラインで春闘は押さえ込まれた。スタグフレーションという形で不況とインフレが同時に来ているから、春闘要求は大幅なのだが、労働組合の側は自粛していく。自民党は挙党協を結成して、三木自民党政府の妥協的要素を排除していく。その過程でスト権ストは、完全に敗北した。
こうした状況を通じて、6回大会、8回大会路線は幻想であることが見事に明らかになった。いわば、自動崩壊論の破綻である。
一方、酒井による極東解放革命論の根幹をなしたベトナム革命の勝利は、その後、"ドミノ論"的攻勢が実現されるのではなくて、ベトナムと中国、カンボジアの対立やポルポト政権の成立によって、ベトナム革命と労働者国家は内的危機に陥ってしまった。したがって反帝的攻勢で自壊するはずだった帝国主義支配の構造は、自壊するどころか逆に反撃に転じる結果をもたらしたのである。
こうして、双方の自動崩壊論の戦略的総破産が、70年代を通じて明らかになった。自壊論として成り立っていた階級闘争論の見方、捉え方の根本的破綻がもたらされたと思う。この自壊論が、根本的総括点である。
◆市民社会論の欠如による現代社会分析の失敗
支配と闘争の関係として、どのように階級の構造を捉えてきたのか。基本的には、我々の側の市民社会論の欠落である。市民社会が支配のシステムとして、どのように牢固として形成されるものなのか。敵の支配のシステムが、国家権力とは相対的に自立して、社会権力としてどのように成り立っていくのか。
政府危機が起これば、自動的に階級闘争が激化するものではない。グラムシが言うように、政府危機が起こっても市民社会が反革命的な頑強さとして立ち現れる。ここでの攻防に勝たなければ、革命は成立しないという社会革命論が、欠落していたのである。この欠落が、自動崩壊論という形できわめて楽観的に問題を立てようとしたポイントである。
70年代同盟を総括する時には、トロツキズムにおける市民社会論とヘゲモニー論の欠落が総括の中心になると思う。今回、発行した『戦後左翼はなぜ解体したのか』の核心点はそこにあり、清水慎三さんの社会革命論もその視点から見直しているのである。
◆6・8回大会路線破産の衝撃と三里塚闘争
これまでの我々の二項対立的な考え方を振り返れば、ブルジョアジーとプロレタリアートという、それぞれ同質な階級が衝突する。あるいは一つの同質な階級としてプロレタリアートを捉えるという考え方であった。
70年代同盟で言えば、労働者運動の二層構造という考え方である。その場合の一層は、社共を支える労働官僚である。ある意味では、そのような薄い官僚層が、政治的に社会党を支えている。具体的に言えば、総評・社会党ブロックは大手組合の官僚層と議会政治によって構成されている。それに対して、もう一つの層として下部大衆の生活防衛闘争を対置した。総評の下部大衆を貧困層として捉えていたのである。とくにオイルショックから春闘のガイドライン、減量経営下の首切り、出向を通じて、下部の不満はロッキード危機による政府危機と結びついて爆発点に達するであろうという考え方である。
官僚と下部労働者の普遍的な戦闘性の存在という二層として、日本の労働者階級は成り立っており、高度経済成長という相対的安定期は、それが均衡している。しかし、オイルショックから流動が始まる。資本主義経済の危機が開始されれば、この間には衝突が起こる。我々は、そのように衝突する下部労働者の戦闘性に政治的表現を与えなければならないし、陣地を作り出していかなければならない。これが、我々の一つの考え方であった。
それに対して、この二層の構造から独立した左派の急進的潮流が、二つの衝突関係に外部から政治的衝撃を与える。外在的に衝撃を与えることによって、二層の矛盾を爆発させ、下部大衆を我々の側にひきつける。これが、街頭闘争に関する一般的な考え方であり、三里塚闘争の突撃も、そのような認識に基づいて展開された。
二項対立的階級闘争の立場にたち、70年代同盟の論理からすれば二層的労働者という認識の上で、下部労働者の
"姿なきヘゲモニー"(左翼バネ)としての戦闘性が社共政府の要求を道筋として顕在化してくる。
現時点で戦闘的労働者の姿は見えないが、危機の顕在化は、少数のヘゲモニーであっても拠点を形成できれば一つの政治的水路を作り出し、それによって生まれる労働者の爆発は社共を押し上げる。社共官僚は、自ら権力を取りたくないのだが、権力を取らざるを得ない状況に追い込まれ、その過程を通じて労働者管理を始めとする労働者評議会的な運動を下部に作り出す。
このような考え方、言い換えれば自動崩壊論、あるいは自然発生的革命論の論理が破綻したのである。
70年代同盟は76年末までの敗北に衝撃を受け、その総括を次のような論理に求めた。大衆は権力闘争を経験していないのだから、自然発生的に進むことにはならない。権力闘争のための水路は、外から与えなければならない。すなわち、三里塚闘争が福田政府権力との対決を通して、水路を与えなければならない。これが三里塚闘争に向かう論理的な基本的認識であり、ここに向けた転換が8期9中委(77年)でなされた。ここでヘゲモニーを取ったのは、機動戦戦略の論理であった。
このような政治的流れが70年代同盟の基本的あり方であった。しかし、現実は、どのように推移していったのであろうか。
70年代の階級構造は、市民社会の支配的ヘゲモニーが牢固として蓄積されていく過程であり、それが社会権力として確立されていったのである。
ところが、我々には市民社会論もなければ、社会権力論も存在しなかった。存在したのは国家権力論だけであり、国家権力を危機に追い込めば国家の統制下にある社会秩序は一挙に崩壊していくという認識に立っていた。事実として、78年3月の三里塚闘争は国家の不意をついた管制塔占拠によって、戦術的には勝利したのである。これは自動崩壊論の立場に立った闘いであった。
◆70年代に成立した社会的なミクロ権力
ところが70年代は、権力が社会的に形成されていく過程であった。日本において企業社会を軸としつつ牢固に確立された社会権力は、細分化されたミクロ権力として形成され、そこで生まれた様々な階層を序列として支配に組み込んでいった。細分化された職業的序列が、一つひとつの権力として機能するというシステムが確立されていったのである。
確かに、官公労の場合には、前近代的な職人的序列をそのまま職場に持ち込み、職人的職場支配を職制に代行させた。職能の親方が徒弟を支配するような職能的システムが序列となり、それが支配のシステムとなっていた。このシステムは企業から相対的に独立して、職場団結の機能に転化したのである。これが民同左派の構造であった。
この構造は50年代まで巨大に存在し、60年代になると全電通から崩れ始めた。全逓でもこの構造は弱まっていき、最後に国労が残った。このようにして、民同左派の構造は一貫して狭められていったのだが、そのようにして狭められていく過程は、自立的な権力システム、ミクロ的な権力システムが社会全体に形成されていく過程であった。
この自立的な権力システムは差別を序列に組み込み、それが支配システムになっていくのである。70年代になると、市民社会におけるこのような支配システムは、一層強固なものとして確立されていった。
例えば70年代に、鉄鋼や造船、自動車、電機などの企業で職場支配の重要な要素となったQCサークルは、上からの強制だけではなくて積極的に労働者の合意を取り付けつつ展開されていった。QCは、序列の中に合意を取り付けていく運動であり、上からの支配と下からの合意が結合していく関係にあった。
この構造は、実際には差別を取り込んでいくのだが、それが秩序の幻想に転化していく。差別が社会的秩序として幻想化されていき、それが下からの合意を形成していった。この合意こそ、前近代意識の問題だと思う。合意を形成していく過程が、前近代的な忠誠心や帰属意識という労働者の非自立的意識構造を取り込んだのであり、支配体制はその意識を積極的に捉えて支配システムに組み込んでいった。このようにして、差別を秩序に転化していったのである。
80年代初頭にポーランド連帯労組のワレサが来日した時、それが典型的に示された。ワレサはQCサークルを、労働運動にとっての絶好のチャンスと捉えた。自立した労働者を基盤とする連帯労組からすると、向こうが労働組合に対して経営に対する加入戦術の門戸を開いているのならば、そこに入り込み、徹底的に利用しつつ自らのヘゲモニー、自己権力にしてしまえばいいではないか。これが、QCに関するワレサの感覚であった。
ところが"QC反対"を叫んでいる側は、そのような戦術を取ったならば取り込まれてしまうと反論した。そのように
"取り込まれてしまう"のが、日本の労働者の歴史的意識の構造であり、QCを利用できるような主体ではなかったのである。ポーランドの連帯が組織する自立した労働者の意識と日本の労働者意識の落差が、ここで明確に露呈したのであり、日本の労働運動の側は、ワレサ発言の積極的意味を理解することができなかった。
70年代とは、このような歴史意識の前近代性を背景としつつ、近代的な市民社会における支配システム、ミクロ的な社会権力へと転化していくシステムが作り上げられていく過程だったのである。
◆社会的なミクロ権力が強制した戦後左翼・第四インターの敗北
そうした状況下にあって、職能的秩序を背景とした相対的な自己決定システムを最後まで保持していたのが国労であった。反合理化(反合)を民同が主張したのは、自立的な自己決定システムを残しておきたかったからである。合理化は機械化であるから、職能的な秩序が労働組合の側の秩序として自立する過程そのものを解体することになる。したがって民同左派は反合闘争を主張したのであるが、その反合闘争も大幅賃上げ闘争に引き寄せられて終息していった。強固な職場闘争を展開した"権利の全逓"が、4・28被処分者を切り捨てたのはその典型である。
国労には、自立的な自己決定システムが最後まで残っていた。だからこそ、国鉄の分割・民営化を拒否した修善寺大会が成立したのである。国労以外の民同左派組合では、自立的な自己決定システムが全てつぶされていたから、自動的にJC派に屈服する構造が出来上がっていた。
自動崩壊論の立場に立っていた70年代同盟は、そのような社会的構造を全く分析していなかったのである。政府危機は自動的に社会秩序の崩壊を作り出さないし、姿なきヘゲモニー(左翼バネ)が自然発生的に登場するはずはない。外から独立した勢力が刺激を与えれば、矛盾が爆発して闘いの水路が切り開かれるような社会構造は、もはや完全に失われていたのである。
70年代には、そのような市民社会が強固に形成されていった。75年のスト権ストをピークに総評が急速に瓦解していった根拠は、ここにあったのである。また、そうした市民社会の成立は、我々が内包した自動崩壊論的要素の破綻を強制した。市民社会論を欠落させていた70年代同盟は、お手上げ状況に追い込まれていったのである。
その具体的結論が、第一期『労働情報』の破綻であり、戦略路線として決定したのではないにもかかわらず少数組合に追い込まれていった構造である。また、三里塚闘争をめぐる反処分闘争の解体や、階級闘争の中に女性差別問題を位置づけることができないまま、我々の組織が組織内女性差別を生み出してしまったことなど、一連の破綻の構造を、市民社会論の欠如という点から位置づけ直し、総括しなければならないのである。
70年代同盟が崩壊する最終的決め手となった三つの問題は、次に触れるとして、ここでは70年代同盟の党建設とその戦略的構造破綻の総括を試みたのである。