大手の不正に目をつぶる「公正な市場」

2002年8月25日

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 やはりと言うべきか、ついにと言うべきか、食肉業界最大手・日本ハムの100%出資子会社・日本フードによる牛肉偽装と、証拠隠滅としか考えようのない牛肉の消却処分が暴露された。
 今年4月、雪印食品の牛肉偽装事件について私は「雪印だけなのか」と疑問を呈し、その背景として日本ハムや伊藤ハムなど、日本の多国籍食品資本の手で大量に流通している「輸入和牛」の問題を、横田哲治氏のレポートなどを紹介しつつ解明しようと試みた(「無視された輸入和牛の問題」参照)。そして案の定、買い上げられた全和牛肉の30%、937トンもの日本ハム申請分の中に輸入肉が混入されたことが明らかになり、すでに2月にこの事実を把握していた日ハム本社も、内部告発を受けた農水省が立ち入り調査を通告してくるまでこれを隠しつづけていたことが暴かれたのだ。食品流通や食品行政の門外漢にすぎない私なんかの危惧が数ヶ月で現実になる事態は、あきれ果てたとしか言いようがない、悲しむべき日本の現実なのだろう。
 でもここでは、牛肉偽装問題や農水省の失政等々についてではなく、雪印食品の時と日本ハムの場合との農水省そして食品業界全体の対応の落差と、そこで浮き彫りになる「独占資本と市場の競争」について「気になったこと」を述べてみたい。あらかじめお断りしておくが、ここで言う「独占資本」はマルクス主義的経済理論で用いられるような厳密な理論的概念ではなく、第二次大戦後の世界では常識となった「独占禁止法」などで定義される法律的な「独占」の概念に近いものである。
                               
 雪印食品の牛肉偽装事件が暴露された直後には、全国のスーパーやデパートの食品売り場で一斉に同社製品の撤去が行われ、これが雪印食品を会社整理に追い込む契機となった。ところが日本ハムの場合は、同社製品が撤去されるまで随分時間がかかり、大手スーパー・イトーヨーカ堂が撤去を決めてからようやく製品撤去の動きが広がった。 流通販売業者の言い分は、「日本ハム製品を撤去したら売り場が空になる」と言うのだが、ならば雪印の場合も、売り場が空になるほどの影響があれば「製品撤去はしなかったかもしれない」ということになる。
 「負け組」のレッテルを貼られて強制退場になった中堅企業・雪印食品が相手なら、「お客様の信頼を裏切った」として追い打ちをかけた食品販売業者が、日本ハムという業界最大手つまり独占資本の不正には卑屈な態度で目をつぶる様は、まったく醜悪でさえある。
 ところがこの醜悪さは、「公正な競争」が繰り広げられているはずの市場原理によって販売業者に強いられていると言える。より大量に売れる製品、要するに市場占有率の高い製品群に、今回の場合は日本ハムグループの商品群に背を向けては大量販売合戦を勝ち抜くことはできず、資本主義の下での負けは自分たちの破滅を意味するだけだからだ。
 しかしこうして、輸入和牛でボロもうけし、プロ野球チームを使った売名で子ども達に浸透した日本ハム製品が、大量の食品添加物入りであることすら知られずに食卓に供されつづけ、日本の風土にみあった畜産品は、畜産農家の苦境のうちに見捨てられる。
                               
 ところで本題はここからなのだが、だいたい圧倒的な市場占有率と豊富な資金を武器に、世界中の通貨や賃金の格差を利用して高利潤率を追求する独占資本と、限られた自然や資金的条件のもとで製品の質や生産者との関係を活かそうとする中堅企業(雪印食品がそうだった訳ではないが)が、グローバリゼーションという同じ土俵で「公正に競争」できるなんてことは、《神の見えざる手に導かれ、市場は社会的効率と公正を実現する》という、200年以上も前にアダム・スミスという人物によって考え出された特異なイデオロギーがなければ、とても信じられないとことではないだろうか。
 現実の資本主義的市場では富む者はますます富み、弱い者は容赦なく破滅させられる。アダム・スミスはただこれを特異なイデオロギーとして体系化し、個々人や各企業体の社会的条件やギャップを無視して利己的な利益を追求する富者の論理を正当化しただけだろう。宗教や慣習に縛られていた小金持ちたちは、この特異なイデオロギーによって資本家的精神を手にしたのだろう。
 今日の新由主義を賞賛する新古典派経済学は、この特異なイデオロギーの信奉者たちが唱える学説だが、人間社会の多様な動向から経済活動だけを抜き出し、さらにはそれを経済合理性という極めて一面的な理念に単純化した古典派経済学は、総ての人間がより安価な物を求め、より大きな利益を追求して《合理的に行動する》という、どこにも存在しない架空の人間モデルの上に成立していると思う。
 でも食物を食べ生きている動物としての人間は、ときに大儀や同情のためにあえて高い買い物もする一方で、金融投機というギャンブルに熱中するあまり、合理的行動どころか冷静な判断すらできなくなることだってあるだろうに。
 証券バブルに踊って破滅した「デー・トレーダー」が銃を乱射して自殺した事件(99年9月に時評)は、経済的に合理的な行動をする人間モデルへの壮絶な抗議とは言えないか。

(かおる)


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