イラク占領統治の破綻が暴く一元的世界支配の野望の破産

− 多元的秩序の可能性しめす、イラク民衆の抵抗運動 −

(インターナショナル144号:2004年4月号掲載)


▼ブッシュ・ドクトリンの破産

 ブッシュ大統領は4月16日、ホワイトハウスでブレア首相との首脳会談を行い、その後開かれた記者会見で国連のブラヒミ事務総長特別顧問の提案を「歓迎する」と表明、アメリカのイラク政策が「国連主導に転換」したと報じられた。
 当時イラクを訪問中のブラヒミ特別顧問の提案は、6月末の主権委譲の受け皿としてアメリカが想定していた統治評議会を解散し、国連と統治評議会および占領軍政府(CPA)が協議して人選を行い、国連が暫定政府を任命するというもので、「統治評議会の拡大(増員)が現実的」(パウエル国務長官)という従来のアメリカ政府の立場からすれば、大きな転換ではある。
 だが同じく16日、国連安保理に新たなイラク決議案提出を予定している米英両国政府の国連に対する説明では、政権委譲後の治安維持に当たる多国籍軍の構想には新たな参加国は想定されておらず、現在イラクに駐留する「有志連合」軍の看板を掛け替えるだけであることも明らかになった。
 これでブッシュ政権がブラヒミ提案を歓迎したのは、国連を隠れみのに占領政策の破綻を取り繕おうとする戦術的転換に過ぎない事は明らかだが、占領軍の実態を変更することなしに暫定政権の人選や任命に国連が関われば、「国連はアメリカの手先」というイラク民衆の疑念と反感を強め、国連のイラク介入がかえって事態を悪化させてしまう可能性の方がはるかに強い。

 だが他方で国連の介入を嫌ってきたブッシュ政権の戦術転換は、ブッシュ・ドクトリンに基づいた中東戦略の破綻、もっと言えばイラク戦争を突破口にしたアメリカによる「一元的世界支配」の展望が破産に直面していることを雄弁に物語っている。
 グローバリゼーションの進展がつくり出した「世界経済の一元化」に対応して、グローバルスタンダードの強要が引き起こすあらゆる地域や国家そして人間集団との軋轢を解消しようと、世界の多元的要素を強引に解体して欧米型の代議制民主主義に置き換えようとするネオ・コンの急進的野望は、唯一の超大国アメリカの経済力と軍事力をもってしても不可能なことが、イラクの現実によって明らかになりはじめたのである。

▼一元支配と多元主義の衝突

 ネオ・コンの急進的野望の破綻は、イラクにおける反占領抵抗運動がシーア派とスンニ派という宗派を越えて大衆的に高揚し、占領軍の思惑を越えた「国民的」運動として発展していることに端的に現れている。なぜならそれは、イスラム教やアラブ社会を野蛮で混乱した世界として描き出し、だからアメリカイズムという新しい進歩的価値観に基づいた民主的な単一国家が必要だと説いた、ネオ・コンのロジックの矛盾と欺瞞を見事に暴き出しているからである。
 スンニ派=フセイン政権残党という虚構にもとづいて、一般民衆の殺戮を繰り返す「イラク解放軍」の掃討作戦と、直接選挙による主権委譲を頑なに拒絶する「民主主義国家アメリカ」の態度は、この矛盾と欺瞞の醜悪な皮肉である。前者がファルージャでの民衆蜂起の原因なのは周知のとおりだが、後者もまた南部シーア派の急進化する抵抗運動の重要な背景だからである。しかも「野蛮で混乱した世界」の側からは、宗派を越えた抵抗運動や支援運動がイラク・ナショナリズムの大衆的高揚をともなって現れ、地方評議会レベルではあれ、民衆による自発的な直接選挙さえ組織されはじめている。
 わたしたちはいま、「近代国家としてのイラク」の歴史と、現に展開されている大衆運動の現実を検証することで、こうしたアメリカによるイラク侵攻の矛盾と欺瞞の全体像を解明する必要がある。

 まずは、CPAの占領統治が前提にしてきたスンニ派対シーア派なる「宗派対立」が虚構であることを歴史的に確認し、大衆的な抵抗運動がイラク・ナショナリズムというべき広範な社会的基盤をもっていることを明らかにすることから始めたい。
 あらかじめお断りしておくが、イラク近代史に関する史実や年号については岡倉徹志著『イスラム急進派』(岩波新書:87年刊)に依っている。

▼虚構としての「宗派対立」

 ブッシュ政権が主導したイラク戦争とその後の占領政策は、バース党独裁下で重用された少数派のスンニ派と、弾圧されてきた多数派のシーア派の「宗派対立」なる構図を前提にして、スンニ派をフセイン政権の残党として掃討する一方でシーア派には融和と懐柔で臨み、隣国のイスラム共和国・イランがシーア派住民に影響力を広げるのを阻止しつつ、これをイラク親米政権の基盤に組み込もうとしていたのは疑いない。
 だがイラクの「宗派対立」は、多くの人々が信じ込まされているほど非和解的でもなければ歴史的な訳でもない。むしろ「宗派や民族対立を超越した民主的国家連合=CPA」が、「独裁政治しか知らないイラクに民主的秩序をもたらす」というネオ・コンの主観的シナリオが、イラクは近代化の遅れた「宗派や民族のモザイク国家」であるという虚構を必要としたのである。
 スンニ派とシーア派の「対立」は、1963年2月のクーデターでバース党が政権を握って以降のことである。しかし当時のシーア派への弾圧は、主要にはイラク共産党への弾圧であった。というのも当時のバクダッドには南部農村地帯から仕事を求めるシーア派教徒の農民が大量に流入し、労働者や商人となって首都人口の多数派を構成するようになり、バース党幹部にも多くのシーア派教徒が就いていたのである。だがこの都市住民化したシーア派教徒の中で、最も勢力を伸ばしていたのは、バース党のアラブ民族主義に批判的な共産党だったからである。
 バース党が宗派としてのシーア派、とくにその原理主義的勢力への弾圧を強めるのは、むしろ1980年に始まったイラン・イラク戦争の過程であった。
 1979年のイスラム革命で台頭したイランのシーア派原理主義勢力がイラク南部のシーア派に浸透することを恐れてのことだが、この弾圧がシーア派とバース党政権の敵対関係を決定的にした。そしてこの時からイラク南部のシーア派は、それまでの非組織的な宗派からイスラム法学者のヒエラルキーが確立された結束力の強い組織的宗派へと変貌し、湾岸戦争直後の91年3月に南部で起きた反フセイン蜂起ではその中心的勢力を担うことになるのである。
 つまりバース党が政権に就く63年以前の近代イラクには目立った宗派対立は存在しなかったのであり、むしろ帝国主義の植民地化に晒されたイラクでは王国時代のファイサル国王(在位1921〜33年)にしろ、1958年に王政打倒クーデターで政権についたカーセム将軍にしろ、「単一のイラク国民」形成に努力を傾注した。独立後の1941年、対英戦争でイギリスに加担した王家にシーア・スンニ両派が共に背を向けた事実も、宗派を越えたナショナリズムが、当時のイラクには大衆的に形成されていたことを裏付けている。
 ところでこの「宗派を越えたナショナリズム」の歴史的起源は、1920年の反英軍武装蜂起だと考えられる。
 第一次大戦後、戦勝国イギリスは「オスマントルコ帝国からイラクを独立させる」と称してイラクに進駐したが、この時バグダッドのシーア・スンニ両派は数世紀におよぶ宗派的分断を越えて共に武装抵抗闘争に立ち上がり、イギリスは穏健な「アラブ統一運動」に関わっていた聖地・メッカの知事の息子を国王に据え、立憲君主制をつくることでかろうじて反乱を沈静化したのであった。余談ながら、このメッカ知事の息子が前述したファイサル国王である。
 以降1920年の反英蜂起は、バース党政権下の教科書でも英雄的民族自決闘争として積極的に評価されていたように、ほぼすべてのイラク人がイラク・ナショナリズムの歴史的経験として共有して語り継ぐ、民族意識と国民意識の源泉なのである。

 こうして見ると、マスコミなどが当然のように報じてきたシーア派とスンニ派の「宗派対立」は、80年代のイラン・イラク戦争以降20年余の比較的短い、しかもバース党政権下の特殊な事態に過ぎないことが解る。クルドの民族独立運動を別にすれば、近代イラクには宗派を越えた「国民」や「民族」意識の歴史的伝統が根付いているのである。
 さらにバース党政権がスンニ派を重用したというのも、アラブ民族主義を掲げてイスラム主義と対立するバース党が近代化を進めるにあたって、国際的にはイスラム教徒の多数派であり教義の世俗化にも寛容なスンニ派に政治的な利用価値を見い出したからに過ぎないであろう。
 つまりフセインが強権的独裁によって押さえ込んでいたイラク社会の矛盾は、イスラム教の宗派的分裂ではないのだ。それは「単一のイラク国民」を形成しようとする近代化の過程で生じた農村の荒廃や貧富の格差、そして降って湧いた石油利権をめぐる地域的諸勢力の「宗派や部族の衣を纏った」抗争だったのである。
 そしてむしろイスラム教の両宗派は、社会的抗争を宗教的権威によって抑制する一種の緩衝機能を果たしており、だからこそスンニ派聖職者はフセイン政権の末端官僚機構に組み込まれたし、米英軍の侵攻による政権崩壊後の混乱の中では、シーア派もスンニ派も社会秩序を回復する重要な役割を担うことができたと考えられる。

▼CPAに抗する直接選挙の実施

 こうした歴史と現実を見れば、米軍の無差別掃討戦に抗してインテファーダ(大衆蜂起)に立ち上がったファルージャのスンニ派住民に対して、バグダッドなどの都市部から宗派を越えた大衆的支援が自然発生的に始まったのは驚くべきことではない。
 だがイラクで急速に拡大した武装抵抗闘争は、ファルージャなどのイラク中部の「スンニ・トライアングル」にとどまらず、南部のシーア派地域でも先鋭化した。CPAと米英両国政府は、これをシーア派のサドル師が率いる過激な少数派の蛮行に見せかけようと躍起だが、CPAとシーア派住民の対立が先鋭化した要因は、6月に予定されている主権委譲のプロセスを巡ってである。

 月刊雑誌『世界』5月号に、アジア経済研究所の酒井啓子氏による「主権委譲に向けたイラクの課題とは何か」というレポートが掲載された。
 このレポートによれば、今年になってイラク南部の主要都市で起きた数万から数十万規模の直接選挙を求めるデモは、昨年11月にCPAとイラク人統治評議会の間で合意された「コーカス方式」(=間接選挙方式)による委譲プロセスに対して、シーア派最高の法学的権威であるシスターニ師が今年1月、「イラク人を代表するものではない」と繰り返し批判して「理想的な方法は選挙である」と主張したのが契機だったという。
 こうしたシーア派住民の強い反発を受け、CPAは今年3月8日に統治評議会との間で合意した、イラクの主権委譲後のあり方の大綱を定めた基本法に「コーカス方式」を盛り込むことを断念した。だが今度は、主権委譲と共に発足する暫定政権の設立方法がすっぽり抜け落ちてしまった。しかも間接選挙方式に代わって浮上した委譲プロセスは、「統治評議会の拡大が現実的」という、冒頭でも紹介したアメリカ政府の意向であり、それは直接選挙どころか間接選挙にも劣る恣意的な任命方式だったのである。
 この基本法にはさすがに親米派亡命イラク人で構成される統治評議会の中からさえ強い反発が起き、基本法の調印期日には5人のシーア派系統治評議会員がボイコットする事態になったのである。
 CPAと米英両国政府は、テロや米軍襲撃の頻発と選挙人名簿の不備などを理由に選挙は時期尚早だと反対し、シスターニ師も2月になってブラヒミ国連特使の説得によって時期尚早論に同意したが、シーア派住民の直接選挙の要求が断念された訳ではなかった。それは反対に、大衆的な直接選挙の実践へと発展したのである。
 酒井氏の報告では、今年はじめからイラク南部のディーカール県で住民の自主的な直接選挙が実施され、市町村レベルとはいえ、シーア派法学者らが主張していた「配給台帳を使った直接選挙」が可能であることが証明されたという。
 この自発的な直接選挙は、不十分な地方行政サービスに対する住民の不満を背景に、統治評議会が任命した県知事をサドル派住民が取り囲んで辞任を迫るといった事件が起き、こうした政治的混乱を選挙によって緩和しようとする気運が高まって県内市町村で実施されたという。そしてここで選挙人名簿の代わりに使われたのが、国連の経済制裁下でフセイン政権が実施した配給制の住民台帳だったのである。
 しかも英軍主導の南部CPAはこの選挙に積極的に協力し、住民からも選挙結果に対する不満の声もなく、おおむね好意的に受け入れられているという。さらに一連の選挙要求運動の過程で選ばれた人々が「民主化のための国民連合」を設立し、暫定政権を選出する選挙人を宗教界が関与する選挙総会で選ぶ、いわば独自の「コーカス方式」を編み出すことまで試みているという。
 それは民主的選挙で社会的対立を緩和・調停するという、近代的政治手段をイラク民衆が運営できることを証明している。

 もちろん、フセイン政権残党のレッテルを貼られ、日々米軍の捜索と武力攻撃にさらされているスンニ派地域で、同様の選挙が可能ではないだろう。それでも日本人人質事件でスンニ派聖職者が果たした役割を見れば、その宗教的権威もまた、社会的な緊張緩和と調停機能を果たし得ると期待するのは不当なことではあるまい。
 しかも直接選挙の支持を表明したシスターニ師は今年1月、「1920年を思い出せ」というメッセージを地元新聞に寄せ、これに呼応するように「1920革命隊」という武装組織も結成されたと伝えられる。それは南部シーア派地域でも主権委譲プロセスへの反感を媒介にした反占領意識が高まり、フセイン政権時代のシーア派とスンニ派の怨讐を越えた抵抗運動への支持が、ナショナリズムを基盤にして全国化する可能性を示している。アメリカ軍との対決姿勢を強めるサドル派の急進的動向も、こうしたシーア派住民の占領軍に対する反感やファルージャへの共感を抜きには説明できないだろう。
 1920年蜂起の再来か、それとも選挙を活用した民主的な主権委譲か。先鋭化するイラク民衆と占領軍の衝突は、この決定的選択を国際社会にも突きつけている。

▼対案としての多元主義

 以上のようなイラクの現実は、「アメリカによる一元的世界支配」の展望の破産を確認するに十分であろう。
 わたしは昨年のバグダッド陥落直後、本紙134号(03年4月号)に掲載された「世界化した経済と国民国家の限界」において、米英と仏独に代表された国際社会の政治的分岐について以下のように書いた。
 「世界化した経済に対応して、達成された民主主義の諸成果を国際政治にも適用し、諸国間の相互理解と協調で安定と安全を追求するのか、それとも一元的基準で世界化した経済を維持し、これに対する反抗を軍事的に制圧して安全を手にしようとするのか。これが、グローバリゼーションがつくり出した世界市場の今後をめぐって、アメリカとEUの間に現れた対立の構図である」。
 イラクにおける占領統治の破綻が、アメリカによる一元的世界支配の展望を挫折させつつあるとすれば、諸国間の相互理解と協調による多元的秩序を構築する展望が、対案としての真価を問われることになる。
 だがこの対案は、前掲記事でも指摘したように、細分化された国民国家の国益の枠に縛られつづける限り、真に力ある対案とはなりえない。必要なことは民衆の自発性=自己決定にもとづいた大衆自治という直接民主主義が、相互理解と協調の基礎に据えられなければならないからである。
 だがこうしてわたしたちは、イラク南部のシーア派地域に現れた民衆の自発的選挙の中に、政治権力の崩壊と偏見に満ちた占領軍の支配という極めて困難な状況を突き破って台頭した、近代民主主義に勝るとも劣らない大衆自治の萌芽に重要な意義を見いだすことになるのである。
 それはドグマ化された近代主義的歴史観に照らせば、宗教的権威に依存する旧い共同体の地縁や血縁に縛られ、真に自由な個人の意志を表明できる選挙ではないと批判できるかもしれない。だがイラクの「宗派対立」が、そうした歴史観を利用してネオ・コンが広めた虚構であることが明らかだとすれば、むしろ大衆自治には歴史的に蓄積された多様な、しかり、実に多様な形態を持ちながら発展する可能性を見ることが、一元的世界支配に抗する多元主義的秩序を展望するために必要ではないのだろうか。
 大衆自治の基礎となる自律的個人は、欧米的な市民革命によってだけでなく、大衆の自発的な社会的闘争や反乱を通じても形成されるものであろう。わたしたちが大衆運動の役割を重視するのは、まさにこうした理由からである。だとすれば、イギリス帝国主義の植民地化に抗して始まった1920年の「宗派を越えた反乱」は、近代ヨーロッパを特徴づけた市民革命と同様に「イラク人」というナショナリズムを伴った市民的な大衆意識の形成に大きな役割を果たしたと考えるのは、それほど的外れなことだろうか。

 「かくして、戦後資本主義の低迷と危機を突破しようとする《アメリカによる世界の一元的支配》の努力が、人種、民族、宗教、文化と言ったあらゆる回路を通じてアメリカ内部に危機として還流する時代、言い換えれば世界を欲するアメリカ資本主義に世界の危機が還流する時代の扉が、イラク戦争によって開かれたのである」。これも前掲本紙134号に掲載された記事の一節である。
 ここで指摘した危機の還流は、何よりもまず増えつづける戦死者を通じて、アメリカ軍の多数派を構成するヒスパニックや黒人などのマイノリティー社会の政治的動揺と分解として現れるだろう。
 だが本当に重要な危機の還流は、このマイノリティー社会がアメリカ民主主義を越える可能性をもつ自発的な、そしてより民主的な多元的文化や伝統に出会い、その理念に依って自らを組織することで現実となる。移民の国でありNGO大国でもあるアメリカには、こうしたマイノリティーの自治的組織が誕生する条件が多く存在してもいる。
 現に、アメリカの労働者ナショナルセンターであるアメリカ労働総同盟・産別会議(AFL-CIO)の改革派は、マイノリティーを支援する多様なNGOやNPOの活動との連携を通じて勢力を拡大し、歴代政権と癒着してきたAFL−CIOをグローバリズムと対峙する運動センターに転換していく重要な役割を果たしているのである。

▼占領政策の転換を要求しよう

 ではイラク民衆が直面する不条理をどう打開するのか。残念ながら特効薬はない。だがブッシュ・ドクトリンの破産が明白である以上、対応策もまた明快である。
 なによりもまずCPAは、スンニ派教徒に貼られた不当なレッテルを公式に撤回し、彼らとの和解交渉を始めなければならない。その上でアメリカ政府はイラクに親米傀儡政権をつくることを断念し、ディーカール県で始まったような民衆の自発的選挙やより民主的な間接選挙方式を積極的に取り入れた主権委譲プロセスを提示し、イラク人自身によって信任される暫定政権の設立に協力を表明すること、これだけである。
 アメリカ政府に「イラクを解放する以外のいかなる野望もない」(ブッシュ大統領)のであれば、こうした方針転換にともなう困難はほとんどない。イラク統治の全権を国連に渡せばいいだけだからである。
 だがもちろこうした転換は、ブッシュ政権がイラク戦争によって目論んだ一元的世界秩序の構築という戦略的展望を自ら否定することを意味しており、彼らが自ら進んでそうする可能性はない。だからこそイラク占領政策の根本的転換は、イラクの抵抗運動と連帯する世界各国の大衆運動によって、占領に協力する各国政府に繰り返し圧力かけることで実現する以外にはないのである。あきらめる事なく、粘り強く、そして執拗に。

 最後に、日本人の人質事件と自己責任という被害者バッシングについて今回は述べることができなかった。次号に改めてこの問題についての見解を掲載する予定である。

(4/27:きうち・たかし)


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