労働法制の改悪と金融再編


1300兆円の資産消滅

 金融早期健全化法にもとづく大手銀行への「資本注入」を検討していた金融再生委員会は2月12日、東京三菱銀行を除く大手15行に対して、総額で7兆4500億円もの巨額の注入内定を通知した。この「資本注入」という名の金融資本に対する国家による資金の援助は昨年、「貸し渋り」(経済学には信用収縮という用語があるのだが)対策と称して、中小企業金融公庫など政府系金融機関の貸付保証枠の拡大などと合わせて、大手銀行への公的資金投入につづくものである。
 しかも今回のそれは、その名目もずばり不良債権処理、つまり中小企業の倒産や失業の激増という社会的問題への対策という大義名分すらかなぐり捨てて、バブル景気に踊った金融資本の失策とツケを、建前上は一時的とはいえ、国家が穴埋めすることを隠そうともしない支援策である。もちろん昨年の資本注入に際しても、それは貸し渋りの解消にはつながらないとの指摘がブルジョア・エコノミストの間でも根強く、事実多くの銀行は、政府保証による中小企業への融資を自らの債権回収に当て、融資を一方的に減額したり全額相殺するなどの違法行為まで行っていたことも暴露されている。
 しかし今回の資本注入は、バブルに踊って金融資本自らがつくり出した損害(資本毀損)を、国家の借金(赤字国債)という形で民衆の負担に転嫁する、その意味では金融資本の危機を国家財政の危機に公然と転嫁するという露骨なものである。規制緩和の大合唱とともに、つい先頃まで声高に叫ばれていた「自己責任社会」などは、金融資本の救済には何の障害にもなりはしなかった。
 たしかに銀行は、資本主義の血液である資金(流通通貨)を循環させるポンプ=心臓にほかならないとすれば、心臓機能の低下を意味する信用収縮は、資本主義的拡大再生産を衰弱させ、日本資本主義をデフレスパイラルの悪循環に陥れる危険と言えるし、現在の金融危機の一因が、バブル景気の崩壊による資産価値の下落による金融資本の資本毀損あることも確かである。だが事ここに至るまで、政府と官僚機構そしてブルジョア・エコノミストの多くは、バブル景気崩壊後の資本主義日本の「再生ビジョン」について、文字通り右往左往の醜態を演じつづけてきた。
 バブル崩壊直後は、地価下落を促した金融引き締め策が非難され、つづいて財政出動の不足が主張され、次にはその効果がないとしてケインズ主義からの転換、つまり規制緩和や金融緩和の遅れが非難の対象となり、他方では住専問題の不良債権処理が緊急課題だと語られ、さらに景気の底割れ以降は橋本自民党政府による財政再建の失政が批判され、昨年は倒産の急増と失業率の急上昇の中で、貸し渋り対策が声高に要求されるといった具合である。そして今日では、総額100兆円にものぼる景気対策費用を捻出する国債の大量発行が長期金利を上昇させるという事態を受けて、日銀のマネーサプライ(通貨供給)政策への非難とともに、大手金融資本の不良債権処理が最大の課題だと喧伝されている。ところがわずか3年前の96年、6800億円もの公的資金を住専(住宅金融専門会社)関連の不良債権処理に投じたときは、政府と金融資本は「不良債権問題は解決した」と、大見えを切ったはずであった。
 いったい何が問題でどんな対策が必要とされているのかについて、ブルジョア・エコノミストや政府はむしろ次々と論点を移し、そうすることで金融資本やゼネコンが大損害を被る解決策、正確に言えば、巨大な政治利権の温床であり、だからまた族議員たちの資金源でもある大手金融資本とゼネコンに被害の及ぶ解決策が、ずるずると先延ばしされてきたと言っても過言ではない。
 だがひとつだけ明確なことがある。バブル崩壊後の90年から一昨年の97年までの間に、土地と株式の資産評価額は実に1300兆円も減少(国民経済統計)するという、世界史上まれに見る資産大崩落が発生した事実である。そしてこれも正確に言えば、バブルで膨れ上がった資産価値と現実の資産価値の間に巨大なギャップが生じ、この莫大な損失を誰かが被ることでこの資産ギャップが縮小することなしには、金融ビックバンに直面する金融資本の貸し渋りすなわち金融収縮は、改善される見通しが立たないということであり、しかも暴落した資産すなわち不良債権を膨大に抱え込み、それを粉飾決算でひた隠しにしてきたのも、大手金融資本とゼネコンに他ならないということである。

金融再編と労働問題の急増

 したがって7兆4500億円という巨額の資本注入は、ひとつはゼネコン救済の徳政令、つまり金融資本がゼネコンに対する巨額の債権を放棄する(借金棒引き)資金として、いまひとつは大量に買い漁った株式の評価額の減少で生じた巨額の含み損を穴埋めする資金として投入されたと言うべきである。
 ところが、これだけが今回の資本注入の本質ではないことも明らかである。それは銀行の株式(優先株や劣後ローン)を買い取るという形で行われる資本注入は、国家が大手銀行の有力な株主となることで、金融資本の再編を強力に推進するムチを手にすることを意味しているからである。事実、資本注入の申請を検討した金融監督庁は、各銀行に対して厳しい業務改善計画(要するに経営合理化のリストラ計画)の提出を迫り、これが遂行されなければ長銀や日債銀のような国有化と経営責任の追求もありうると、露骨な圧力を加えたことは周知の事実である。
 こうまでしてブルジョアジーが推進しようとする金融再編の目的は、端的に言えば、金融資本の収益性の向上、いわば銀行の「生産性向上」である。もちろんそれは、金融自由化によって外国金融資本との激しい競争に直面することになる日本金融資本の対抗策でもあるのだが、同時にこの再編は、戦後日本における金融システムの根本的転換を図るものなのである。つまり、不動産などの資産を担保にした長期融資で安全確実に収益を挙げるというこれまでの銀行経営を転換し、短期間で高い収益を挙げる、いわばアメリカ型の金融システムを構築することを目標とする再編成なのである。
 早い話が、工場用地や持合い株などを担保にした製造業への融資など、これまでは常識的な、しかもある意味では日本の高度経済成長を促してもきた金融システムは、国際的な比較では極端に収益性が低いという理由だけで削減や切り捨ての対象となり、他方ではヘッジファンドのような、短期間で高額の配当が期待できる投機的資金需要への融資や投資(投機)が、高い収益性によって利潤率を大幅に引き上げる業務として持て囃される、そうした銀行経営への転換が「これからの金融業」として奨励されるのである。
 こうした金融再編の目標からすれば、町なかの小さな工場用地を担保にした中小企業への長期融資などは、ほとんどが回収を急ぐ必要のある「不良債権」と見なされるのは当然であろう。昨年末から今年にかけて、政府保証の融資枠拡大などで中小企業の倒産が沈静化してはいるが、この政策も、今年3月の銀行決算の前に、不良債権が積み増しになる倒産の連鎖を回避するのが目的であるとの指摘もあり、そうであれば4月以降、暴力金融顔負けの強引な債権回収と貸し渋りが再燃し、中小企業の倒産と失業が急増する可能性は十分に考えられるのである。
 さらに銀行の収益性を向上させる金融再編は、銀行の株価を上昇させる、つまり金融市場の歓心をかうことと同義でもある。収益性の高い銀行の株価は、当然ながら高い配当を期待して上昇することになるが、それは銀行が金融市場での資金調達能力を強化することを意味している。つまり反面では、これまた戦後の日本では常識的だった小口の預貯金に依存した資金調達から、株式市場などの金融市場における資金調達への転換を、いやおうなく促進するのである。
 要するに、手間のかかる、だから人手も経費もそれだけ必要な小口預貯金に依存する資金調達は、資本効率と収益性が低いとの理由で切り捨てや縮小の対象となり、他方で、機関投資家と呼ばれる生命保険会社や共済などの大手の資産運用団体や会社の資金をまとめて取り込み、あるいは業務提携や資本提携で金融業界の相互乗り入れを促進し、これらの巨額の資金を高利回りで運用するのが花形業務として奨励されるのだ。とすれば、小口預貯金の募集を主な目的に展開されてきた現在の銀行支店網は、大幅な縮小や統廃合が避けられないだろうし、小口預貯金取り扱い部門の人件費と人員の削減を含む大合理化もまた避けがたいだろう。
 こうして、かなり強引に推進されようとしている現在の金融再編は、厳しい労働問題を階級的労働者に提起することになる。
 そのひとつは、中小企業を中心とする倒産の激増と失業者の大量発生であり、いまひとつは、製造業は言うに及ばず、金融などのサービス業でも、賃金切り下げや労働条件の一方的な不利益変更といった激しい合理化攻撃が、しかも戦後日本の労働運動が経験したことのない形で、つまり派遣労働や有期雇用といった多様な雇用形態を駆使した攻撃として現れることになる。

派遣法・職安法改悪と労働組合

 99春闘に向けて日経連が公表した労問研報告(労働問題研究委員会報告)が、雇用確保を最重点の課題として挙げたことは本紙前号でも紹介したが、この日経連の雇用確保の方針は、実はいまの国会で審議中の派遣法の改悪と、近々国会に上程されることになる職業安定法の改悪法案とワンセットのものとして理解する必要がある。
 この二つの改悪法案の核心は、労働市場の規制緩和と称する原則自由化(ネガティブリスト化)である。派遣法改悪は、これまで26種の「専門的職種」に限定されてきた派遣労働を、例外的な一部を除いてすべての職種で容認しようとするものであり、職安法の改悪もまた、一部の専門的職種に限定されてきた民間業者による職業紹介を、一部を除いてあらゆる職種で可能にしようというのである。これらの法制改悪を、前述した強引な金融再編と重ね合わせるとどのような社会的問題が現れるかは明白であろう。先の労問研報告が、雇用確保と賃金総額の抑制をセットで打ち出していることに象徴的に示されているが、結論はただひとつ、「無権利の低賃金労働者の大量雇用による企業収益性の向上と失業問題の解消」、これである。それは具体的にはどういうことなのか。
 ひとつだけ例を挙げよう。すでに多くの銀行では、労働者派遣業の子会社をつくり、リストラと称して窓口業務の女性行員などをこの子会社に出向させ、そこから派遣の形で同じ職場で就労させるといった計画がすすめられている。職場も、仕事の内容も全く同じだが、雇用保障と責任だけは、銀行ではなく派遣会社に移行するのだ。そうして支店の統廃合などで窓口業務が縮小されれば、銀行は派遣会社に、派遣契約の打ち切りを通告するだけで済むことになる。だが派遣契約の解除という形で解雇された労働者が、同様の職種への再就職を望んでも、アメリカで吹き荒れたダウンサイジィングの経験が示すように、より劣悪な労働条件と低賃金に甘んじなければならないことは容易に想像できる。他方で銀行はやすやすと整理解雇を遂行し、これらの業務を派遣労働や有期雇用といった低賃金の不安定雇用に置き替えることで、総額人件費の抑制と削減ができるのだ。資本にとっては、まさに一石二鳥という訳だ。
 加えて職業紹介の原則自由化は、従来は職業紹介の時点で、公共職業安定所(職安)が行ってきた労働条件に関するチェック機能を大きく後退させ、事実上、国家による労働者保護のための監視や規制を無力化し、あげくに労基法の無視や賃金ピンハネが横行する「口入れ屋」稼業を野放し状態にして、実態としては派遣、有期、パート労働における無権利状態を放置することで、不安定雇用の蔓延を補完するのである。
 この不安定雇用の蔓延は、2001年の日本版金融ビックバンをメルクマールにして、金融業界にとどまらず、あらゆる業種と労働者に、時間差はあるにしても、それこそ行政機構と公務員労働者にも例外なく拡大することになるだろう。なぜなら金融再編の「物差し」となった「高い収益性」(利潤率の引き上げ)は、投資や融資を通じてあらゆる企業や事業の物差しとして作用することになるからである。収益性の低い事業には、高い収益性を追求する銀行は融資をしないし、高額の配当が期待できなければ、金融市場での資金調達も望めないことになる。
 たしかに行政機構は「倒産」はしないだろう。だが行政が行うあらゆる事業もこの収益性という物差しで評価され、それと共にブルジョアジーによる「行財政改革」の要求、つまり「民間に準拠」した労働条件切り下げによる行政の「効率化」要求などとして強まるに違いない。このとき、すでに有期雇用やパート労働者の採用を、あるいは事業の外部委託を容認することで労働条件を守ってきた公務員の労働組合は、行政関連労働者の大半が不安定雇用労働者によって占められる事態を阻止することができるだろうか。
 こうして不安定雇用は社会の隅々にまで押し広げられ、総評から連合へと継承された企業内本工主義労働組合の基盤を掘り崩し、公務員労働者の労働条件切り下げの圧力を強めるのである。派遣法と職安法の改悪が、単に民間労働者の闘争課題にとどまらないのは、このためなのである。

ゼネラルユニオンの基盤

 こうした、ある意味では昨年の労基法改悪以上に切実な派遣法・職安補の改悪に対して、ナショナルセンター・連合は、電機連合、自動車総連などJC派支配の有力単産の強硬な主張にそって、生産ラインには派遣労働者を配置できないなどの歯止めにもならない歯止めを前提に、すでに容認の態度を固めているという。もちろんそれは、これら基幹産業の主要な生産部門にも、下請け構造を介してではあれ、すでに大量の不安定雇用労働者が配置されているという実態があるからであり、そうした不安定雇用層の存在なしには、「世界に冠たる日本企業の国際競争力」など成り立ちはしないことを、JC派労働官僚たちが熟知しているからにほかならない。
 だが同時にこの連合・JC派の対応は、連合労働運動の明日の没落を、階級的労働者に確信させることになる。なぜならそれは、連合とりわけJC派支配の労働組合が、今後ますます減少する特権的な本工労働者(正規雇用社員)の組織に純化することで、新たな「真に大衆的な労働組合」の成立基盤を、客観的には拡大するからである。
 というのも今日、日本帝国主義の国家社会再編の核心的課題である戦後労働法制の全面的再編は、冷戦の終焉とソ連邦の崩壊によって、戦後資本主義世界が社会主義的圧力から解放されたという歴史的条件の下で、100年にもわたって蓄積されてきた労働者の権利に関する社会的成果を清算しようとする性格を持つ一方で、その100年前つまり19世紀末から20世紀初頭の一時期はまた、職人的な上層労働者を基盤とした旧来型の特権的な労働組合が、ヨーロッパとりわけイギリスの港湾労働者を中心に高揚した「労働運動のニューウエーブ」に圧倒され、この運動の高揚が生み出した「真に大衆的な労働組合」に取って代わられた時代でもあるからである。
 この大衆的労働組合の成立と、それを基盤とした100年におよぶ労働者運動の諸成果が、労働者の基本的人権の擁護という労働法制として、戦後占領下の日本にアメリカ帝国主義のリベラリストの手によって持ち込まれ、また継承されてきたとすれば、この歴史的諸成果と大衆的労働組合の解体、すなわち連合傘下労働組合の大衆性の喪失と特権化は、たしかに表裏の関係にある。
 しかしそうであれば、大衆的労働組合の歴史的伝統の中で育ち生きてきた労働者が、この社会的成果の清算とともに没落を強いられ、特権的な本工労働組合から排除されるとするなら、これらの歴史的成果を真剣に防衛しようとする労働組合、今日の日本で言えば個人加盟の地域合同労組などの一般型労働組合を、自然発生的にではあれ新たな大衆的労働組合(ゼネラルユニオン)へと押し上げはしないだろうか。あるいは逆に、連合・JC派の特権的労働組合への純化が、増え続ける不安定雇用労働者を一般型労働組合へと押しやるのではないかという連合内部の危惧、とりわけ旧総同盟の伝統を汲む産別型労働組合であるゼンセン同盟などが抱く危惧とは、こうした労働組合運動の国際的で歴史的な伝統を背景にした、特権的労働組合と大衆的労働組合への、なお無自覚的ではあれ、重要な分岐の始まりではないかと考えることは、それほど的外れなことだろうか。
 と同時にこうした情勢認識は、行財政改革の名で次々と打ち出される合理化攻撃によって守勢を強いられている公務員労働組合に、大きな示唆を与えるだろう。もちろん、総評時代から馴染んできた企業内本工主義の転換をはらむ不安定雇用労働者の組織化という提起は、内的な格闘、しかも労組官僚との対決以上に困難な、守勢によって生じた労働者大衆自身の保守的意識との格闘をともなう、極めて困難なものでもある。だが他方では、組合員数のジリ貧に悩むことになる公務員労働組合自らが、行政関連の不安定雇用労働者の労働相談窓口を開き、あるいはそうした労働者の組合結成を(陰ながら)手助けをする場合、民間中小の労働組合が蓄積した経験を活用できる「後発性利益」もある。
 だがいずれにしろ階級的労働者は、2001年の金融自由化に向けた金融再編を焦点にして、労働法制の全面的再編として貫徹されようとする日本帝国主義の国家社会再編に抗して、大衆的労働組合のための全国イニシアチブの形成という課題に直面するのである。


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