『第四インター日本支部はなぜ破綻したのか』を公表するにあたって


 我々MELT(第四インターナショナル日本支部再建準備グループ)は、約4年間の討論の集約として今年1月、寺岡衛著、『戦後左翼はなぜ解体したのか』を発行した。だがこの著作は、第四インターナショナル日本支部の足跡をたどりつつ、戦後左翼を総括する意図から書かれたため、70年代の日本支部破綻の総括には踏み込んでいない。

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 70年代の第四インターナショナル日本支部の破綻は表向き、劇的であった。
 78年3月の三里塚空港開港阻止に向けて、乾坤一擲の勝負を賭けた管制塔占拠闘争は完勝した。ところが、この勝利の波及を期待した総評現場労働者の反応は冷ややかなものであり、管制塔占拠闘争で逮捕された労働者に対する処分反対闘争は、孤立の中でことごとく敗北した。
 またこの時期、総評の解散を射程に入れた労働戦線の右翼的再編が、急ピッチで進みはじめた。75年のスト権ストの敗北を歴史的なものとして認識することができず、攻勢的感性のままでいた私(江藤)は、労戦再編が本格化した80年代初頭、それが戦後左翼の墓碑銘であるとの実感が伴わずに、次の攻勢的反撃の中継ぎと受け止めていたのである。
 だが、70年代日本の政治的、経済的、社会的変化は、三里塚闘争による一点突破や左翼ナショナルセンター結成による労戦再編との対抗といった旧来の我々の戦略を遥かに越えたレベルで進んでいった(『労働情報』顧問であった清水慎三氏は、その点を冷徹に見通し、「ナツメロ左翼にならないように」と苦言を呈していたが、「ナツメロ」は協会派などの既成潮流であって、『労働情報』に結集している我々ではないと私は過信していた)。
 したがって、そのような攻勢的気分を引きずったまま、左翼ナショナルセンターの結成によって労戦再編に対抗しようとした我々の路線は一敗地にまみれた。言い換えれば、左翼ナショナルセンター形成の戦略的基盤は存在せず、最終的に左翼少数労働組合として個別的結成に踏み込まざるを得なかったのである。
 最後に70年代同盟を直撃したのが、組織内女性差別問題である。この問題に関して第四インターナショナル日本支部は、自らの限界を根底的に露呈させた。女性同志たちの告発を理解することができず、強姦に象徴される女性差別が道徳的に悪であることを認識したとしても、自己否定的レベルを越えて自らの女性差別体質が日本支部の理論のどこから生まれたのかを、明らかにできなかったのである。
 この点が総括できなければ、行く末はおのずと明らかである。女性同志たちの告発を70年代同盟路線の自己批判的検証を通じて受け止めるのではなくて、組織規約に反して緊急避難的、即時的に受け入れることとなったために、組織内女性差別問題は総括不能となった。こうして、70年代同盟解体の最後の引金が引かれ、組織分裂に追い込まれていったのである。

 寺岡は70年代同盟が露呈させたこのような破綻を、50〜60年代にかけての革共同関西派、65年統一後の第四インターナショナル日本支部の歴史認識、時代認識の限界、70年代に定式化された第4回大会路線(極東解放革命論)、第6回大会路線(労働者評議会型革命路線)の双方が孕んでいた誤りを抉り出す中から明らかにしようとする。
 それは、前期帝国主義と後期帝国主義の違い(我々の現代資本主義認識の誤り)、市民社会の発展とヘゲモニー問題、陣地戦と機動戦、社会革命と政治革命などを軸とした70年代同盟戦略そのものの問い直しであり、その分だけ寺岡総括は根底的である。したがって言及する範囲は必然的にロシア革命を中軸とした20世紀社会主義の総括、すなわちレーニン・ボルシェビズム、トロツキズムの批判的再検討に向かわざるを得ない。我々が歴史的に依拠してきた基盤の全面的再検討である。
 80年代に現実化した70年代同盟の危機と分裂に際して、過渡的綱領と『労働情報』の防衛を一つの結集軸として、MELTは結成された。しかし、その後の20年間の経過と情勢の劇的転換は、分派結成当初の我々の結集軸もまた、現実をリアルに分析し得ない大きな限界が孕まれていたことを明らかにした。この総括は、そのような歴史的連続性を踏まえた"我々の失敗"に関する検討の開始でもある。

 1985年末に第四インター日本支部が分裂状況となって、すでに20年が過ぎた。この20年の間に戦後階級闘争の中軸であった総評は解散して、その歴史的蓄積は雲散霧消し、戦後革新と呼ばれた社会党と共産党は、極少数勢力に追いやられた。ここに示されているのは、どの部分が良くてどの部分が悪かったのかという戦術的レベルの総括を遥かに越えた戦後左翼の戦略的レベルの敗北である。
 その一端は『戦後左翼はなぜ解体したのか』の中で明らかにしたが、今回のパンフレットでは50年代末から始まった日本のトロツキスト運動が直面した限界と破綻を明らかにすることによって、『戦後左翼はなぜ解体したのか』の問題意識をさらに深化させたいと考えた。
 20世紀初頭の前期帝国主義の危機から数えると、100年に一度の後期帝国主義の危機、すなわちグローバリゼーションの危機の時代が始まろうとしている。しかし、そのような時代であるにもかかわらず、戦後階級闘争の歴史的経験は日本社会から完全に消え去り、過去の遺物以上のものではなくなっている。
 そのような状況であるからこそ、我々は自らの敗北的現実と向き合い、その失敗を掘り起こすことを通じて、それぞれが総括を提起すべきなのである。そして、自らの総括を従来の党派・グループの枠を越えて検討を加える中から、新しい戦略を見出すべきなのであり、それは十分可能であると私は確信している。

江藤正修


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