第3章 三里塚闘争と少数組合


(1)70年代三里塚闘争総括

◆50年代的戦闘性の終焉

 第2章では70年代同盟の戦略に孕まれていた自動崩壊論と、その結果としての挫折・敗北の根拠を歴史的に総括し、破産の意味合いを明確にしようとした。歴史的にいえば、50年代の自動崩壊的要素は、三池闘争を最後として、その可能性を終焉させたと思う。
 確かに50年代は、多くの拠点闘争が全国に響き、波及していった。政治闘争では砂川闘争や内灘闘争など、拠点としての反基地闘争が全国に波及していく可能性を不断に秘めていたし、経済闘争でも拠点闘争が全国闘争に発展する可能性を持っていた。中央指導部がそれらを取り上げれば、容易に全国闘争を組織することができたし、中央指導部が取り上げなければ、山猫的闘争として全国に波及していったのである。
 それが50年代に高野派がイニシアティブを握った基盤であった。その構造は三池闘争まで続いたが、この闘いが最後になった。拠点が全体に波及する要素は失われたのである。ブルジョアジーは、前近代的要素をスクラップ&ビルドで徹底的に解体するという路線を途中でやめて、高度経済成長の成果を全体に波及させる路線に切り替えた。すなわち、池田内閣の高度経済成長による所得再配分の均等化によって、拠点闘争が全体に波及する要素が学生運動以外は失われた。
 全国的に戦闘性が存在し、反権力的要素を持った拠点闘争とそれが相互に結合していくという性格は、その戦闘性がある程度維持されながらも次第に改良主義的センターへと吸収されていった。この構造が春闘である。
 労働組合の中には二層の要素が存在していた。一つは戦闘的な下部大衆であり、もう一つは改良主義的な官僚指導部である。この二層の中では、不断に左翼バネが機能する。すなわち、指導部が右に行こうとすれば左翼バネが働き、それが反幹部闘争になって指導部を乗り越えていき、この動きが拠点とつながっていく。これが50年代労働運動の特徴であったが、この要素は春闘の中で失われていった。

◆改良主義に吸収された左翼バネ

 下部大衆の中に戦闘的要素があったとしても、その戦闘性は改良主義指導部のヘゲモニーのもとに吸収され、改良主義をどのように押し上げるかという量的拡大運動として機能していった。これが、再配分をめぐる1964年の池田・太田会談を一つの起点として進行していったのである。
 その外側では、不均衡が全国的に平等化される形で秩序化されていくと同時に、戦闘性を持った労働組合の内的構造、すなわち二層の構造も、改良主義的ヘゲモニーのもとに吸収され、改良を勝ち取る下からの力として機能していった。これは主要に、官公労の構造変化として進行していった。
 一方、60年代の民間大手労働組合では、官公労とは異質の事態が生まれていった。すなわち、JC型労働組合への変質である。季節労働者や社外工、臨時工という下層の構造は存在しているのだが、それらの下層は分散して秩序の中に組み込まれていった。季節労働者も同様である。農業の衰退によって季節労働者として動員されていった部分は、大企業の細分化されたシステムの中に、バラバラとなって組み込まれていった。こうして、企業社会の末端権力が、秩序として作り上げられていき、労働組合の体制内化、企業内化が進行していったのである。
 官公労の場合は職人的秩序が、そのまま序列的システムとして組み込まれているから、この序列は職制として機能すると同時に、もう一方では労働組合としても機能していた。したがって、職制は独自に権力を持つことができなかった。職人的秩序に、職制は依存していたのである。その秩序が、同時に労働組合秩序でもある。だからこそ、企業に対して一定の独立性、自立性を持っていた。これが戦闘的な左翼バネの構造を作り出していたのである。
 この左翼バネは、池田・太田会談や春闘での大幅賃上げの結果として、改良主義的な幹部のヘゲモニーのもとで吸収されていった。それが、闘争しながら収拾するという、春闘のスケジュール闘争にほかならない。
 こうした改良的吸収・癒着の構造に反発したのが、全共闘と反戦青年委員会であった。また、下部と官僚の内部の対立に楔を打ち込んでいくのではなくて、改良主義的な構造に対してトータルに反発する性格として、新左翼の運動が登場してきたのである。60年代の闘いには、そのような変化が生じた。拠点が突出すれば、自動的にその突出に全国が連動するという構造は喪失した。
 官公労での職人的秩序の解体は、全電通からはじまった。電電公社におけるオートメーション化、合理化の過程で、職人的秩序は解体されていったのである。それが、60年代中盤の自動ダイヤル化をめぐる攻防であった。この闘いの過程を通じて全電通官僚は、下部の要求を中央に吸い上げ、中央交渉で全てを決定した結果を下部に降ろし、下部はそれに従う構造を作り上げた。いわゆる中央協約闘争である。その決定に違反した場合は、排除の対象になるのである。このような形で全電通の官僚化、JC化が進行していった。
 官公労内部の改良主義的戦闘性も失われていき、60年代後半には国労を中心とした部分の孤立化が始まった。
 したがって、50年代における運動の自動連鎖の構造は、60年代に失われていったのである。この構造から独立し、トータルに反発する要素が反戦青年委員会(特に地区反戦・党派反戦として)には存在した。一方、改良主義的なヘゲモニーを防衛する側に立ったのが、協会派である。そのような構造を生み出しつつ、自動連鎖の構造は60年代で終焉した。

◆今日的分岐点―75年のスト権スト

 70年代に入ると、反マル生闘争からスト権ストに至る一過程が存在する。この過程の特徴は、闘いが国労に集中している点である。国労以外の官公労における戦闘性は、全電通を皮切りに次々と解体されていった。そして、現場協議制などを軸にして、最後まで頑強に闘ったのが国労だった。このような形で、闘いは国労に絞り込まれていったのである。
 したがって70年代を特徴づけたのは、国労の闘争であった。国労は次第に孤立していく中で旧来型の構造を維持し、対峙していたが、官公労全体は風化、分解の道を歩んでいった。国労とともに全逓が旧来型の構造を維持していたが、78年の反マル生越年闘争の敗北を最後に、路線転換に踏み切った。国労の後を追っていた全逓は、78年の闘争による処分で足腰が立たなくなるまで敗北し、全逓中央指令の闘争で解雇された下部労働者を組合が処分する事態となったのである。
 スト権ストに至る国労の闘争は、国際的に見ればヨーロッパ型資本主義とアメリカ型資本主義の流れ、すなわち福祉型国家構造と新自由主義型国家構造に分岐する時期と重なっていた。三木首相の不公正是正の主張や官公労のスト権獲得に同情的であった背景には、このような分岐点が内在していたのである。この結合は福祉型国家に向かう要素を内包していた。
 それに対抗した挙党協とJC派の流れは、旧来の日本システムの防衛とアメリカ型資本主義とが混合した性格を持っていた。中曽根による国鉄の民営化路線は、必ずしもアメリカ型に直結していたわけではない。その後を継いだのは竹下であり、竹下政権は旧来の利益誘導、ばら撒き型政治であった。政官財癒着の政権が、中曽根後に登場したのである。
 その後に細川政権が生まれたが、以後は村山政権、橋本政権という具合に危機と混乱が続き、小泉政権に至るという経過をたどった。日本の支配階級は路線が定まらず、右往左往を繰り返したのである。
 それではヨーロッパ型の福祉型国家の可能性はどうであったのかといえば、富塚路線と三木路線が結びついた時に、唯一、可能性があった。福祉国家という展望を立て、スト権を与え、一定の労働組合による経営参加も認めて、国家システムとして福祉と労働権を容認していく方向の分岐点が、75年のスト権ストだったと思う。

◆新自由主義か福祉国家か―転換点としての70年代

 今から考えるならば70年代中盤は、ニクソン・ショック、オイル・ショックによる世界経済構造の危機、ベトナム革命勝利がもたらした戦後アメリカの世界支配の構造的危機と政治・社会的混乱、それに連動する日本のスタグフレーション下の経済危機とロッキード政府危機、挙党協による三木おろしと自民党の分裂状態などが、次々と引き起こされた。
 この危機と混乱の過程こそ、戦後日本資本主義のシステムが分解を開始したことを意味した。それは同時に、アメリカ型資本主義(新自由主義型)へ向かうのか、ヨーロッパ型資本主義(福祉国家型)へ向かうのかに分岐する客観的基盤を提供するという性格のものであった。したがって、"社共政府から労働者政府へ"という我々の戦略的展望は、主体的準備だけではなくて何の客観的・歴史的基盤も準備されているものではなかったのである。
 だが、こうした客観的分岐点に対して、政治主体としては誰一人、準備している者はいなかった。レーガン、サッチャーと組んだ中曽根が新自由主義の国際的流れを受けて、国鉄等の民営化を進めたが、それは総合戦略として確定したものではなくて、それを引きついた後の政権のジグザグによって、「失われた10年〜15年」の混乱へとはまり込んでいった。
 ヨーロッパ型資本主義(社民型福祉国家)に向けた転換を主導する政治主体の準備は、皆無であった。それは何の現実性も持ってはいなかったが、もし当時、政府をめぐる闘争があり得たとするならば、次のような可能性だったのではないだろうか。
 それは、三木政府の自民党からの分裂に楔を打ち込み、社会党の反戦派追放(高見圭司等)をめぐって反協会派(特に江田三郎を軸に)の社会党からの分裂、国労スト権ストと自主生産・自主管理の地域的・社会的闘争の結合。これらの政治的、社会的エネルギーが、「福祉国家社会―不公正是正、スト権奪還をはじめ労働基本権の確立」を政権スローガンとして合流し、ヘゲモニーとして機能した場合である。
 今さら、そのような構想を描いても、政治的遊びに過ぎないのだが、55年体制崩壊後、最初の政権をめぐる再編と分岐点であったことは確かであり、それを捉えて政権をめぐる攻防に打って出る戦略的政治家が、戦後革新の側にいなかったといえよう。
 しかし、そのような方向に進むことなく、三木政権は挙党協によって引きずりおろされ、富塚路線はその壁に直面してスト権ストで敗北した。こうして福祉国家型の展望は、この時点で完全に失われた。その後の攻防は、アメリカ型で行くのか旧来の日本型システムで行くのかとして展開され、労働組合は日本システムに展望を求めて労働戦線統一の方向に進んだのである。
 その場合、労働戦線がめざしたのはネオコーポラティズムであり、とくに全電通出身の連合初代会長、山岸章にその傾向が強かった。その後の連合会長、事務局長の中に、山岸ほど明確な路線を持っているものはいない。何も分からず、右往左往しているのが現実である。初期の連合は明確にネオコーポラティズム路線であり、したがって連合初代会長も民間出身ではなくて、全電通だったのである。
 70年代に成立したこのような構造は、下部労働者の戦闘性と改良主義的官僚指導部という二層分化を前提とした自動崩壊的要素を完全に消滅させた。戦略的展望として左に向かうとすれば、先ほども述べたように、福祉国家型の三木が自民党を分裂させ、社会党と富塚派がそれと結びつく。そのような展望を福祉国家型の戦略として立てる以外に道はなかった。
 これの取り逃がしが90年代、小沢一郎による自民党の分裂、社会党(社民党)、公明党の引き込み、少数党「日本新党」の細川を首班とする政権樹立の余地を与えた。そのことが、戦後革新の決定的解体の楔となった。

◆社共政府スローガンの破綻

 下部労働者人民が自民党政府を乗り越えて社共政府、労働者政府を実現させ、闘争委員会、ストライキ委員会が大衆的に組織され、労働者・人民評議委員会が政治的実権を握っていく。そのような構想や展望が成立する最小限の基盤すら60年代に失われていて、70年代になると、その芽も存在しない状況になっていたのである。
 そのような状況であるにもかかわらず、社共政府スローガンのもとでロッキード危機、政府危機と減量経営攻撃との対決を結びつけ、76春闘は矛盾が爆発すると展望を立てた我々の決定的挫折は、70年代のそのような構造変化を理解していなかったからである。我々の展望は、完全な幻想の上に成り立っていたのである。
 75春闘からスト権スト、76春闘に至るまでの我々の路線は、労働者大衆の内的ヘゲモニー(姿なきヘゲモニー)によって矛盾を爆発させ、権力のための闘争を展望した。しかし、そこには何のヘゲモニーも準備されていなかった。下部からの反幹部闘争や左翼バネなど、50年代に機能した要素を幻想として持ってみたものの、そこには少数の自主生産、生産管理闘争の拠点が存在するだけである。そこから、自主生産の拠点と反戦青年委員会を結合させて、それを官公労の闘いへと波及させ、大衆的基盤としようとしたが、所詮、それは幻想でしかなかった。
 しかも官公労の青年労働者は、富塚ヘゲモニーへ吸収されていくわけだから、改良主義的戦闘性に変質していったのである。そして最後は、富塚路線の挫折と一緒に反戦派の官公労青年労働者も挫折していった。このような経過の中で、拠点としての自主管理、自主生産の闘いは全くの孤立に陥り、波及力を失っていった。これが、第一次『労働情報』の破綻であり、70年代同盟の戦略的破綻なのである。
 ここで問われているのは、労働運動の現場とその構造を、どのように分析してきたのかという問題である。

◆三里塚開港阻止・福田内閣打倒の幻想

 そのような幻想にもう一つ幻想を積み重ねたのが、三里塚闘争を政府権力闘争として考えたことである。すなわち、三里塚空港の開港阻止による福田内閣打倒路線である。
 日本の場合、敵権力の軍事的、治安的国家機能は、全面的にアメリカに依存しているがゆえに、弱体である。したがって、78年3月の三里塚闘争における戦術攻防において、我々は戦術的機動戦に勝利した。向こうが不意をうたれたのである。そのような機動戦での勝利が陣地戦へと波及し、結合するであろう。そのような幻想の上に戦略を組み立てたのである。
 しかし、機動隊との攻防に勝利して管制塔を占拠したことによって、三里塚空港の開港は阻止したが、その後の逮捕者への処分に対しては労働現場で何の反撃もできない事態が生み出された。企業、職制、労組幹部などの逆包囲によって孤立したのである。敵の現場における社会権力、細分化されたミクロ権力との攻防の中で完全に圧殺され、絞め殺されていったのである。陣地戦を通じて攻勢に転ずるどころか、反転攻勢のための基盤も見つけられないまま解体されていった。
 三里塚反処分闘争を職場で掘り起こしながら、自主生産、生産管理闘争と結合し、新しい戦線を拡大していくという問題の立て方は、成立しなかったのである。
 反処分闘争の敗北は、3年前のスト権スト敗北の段階で決定されていた。もはや、そのような攻防は成り立たない状況にあった。したがって反処分闘争は、全てが敗北に終わったのである。三里塚闘争においては、この労働現場での攻防が決定的であったと思う。機動戦で水路をどれほど切り開いたとしても、その成果が労働現場に波及していかない。仮に第二次、第三次の闘いを展開して開港を阻止したとしても、その闘いは労働現場に波及しない状況になっていたのである。
 我々は、この分断構造を捉えることができなかった。過去に存在した反幹部的、左翼バネ的な戦闘性は改良主義的秩序に吸収されると同時に、それは企業主義的秩序の中に組み込まれていき、対抗的戦闘性は孤立させられていったのである。しかも、三木政府のもとで開始された自民党の分解過程が収拾され、福祉型国家に向かう潮流を作り出すこともできない構造のもとで、職場における反処分闘争は、一歩も前に進めない状況下に置かれていたのである。
 この問題をどのように総括するかが、決定的であると思う。
 三里塚現地での勝利を宣言した指導部も、次の展望が出てこない。それは三里塚現闘指導部も同様であり、そこから闘争の孤立と腐敗が生まれることになる。闘いの結果として、労働現場からの活性化が起こらなかったのだから、事態はそのように進まざるを得なかったのである。
 これまで、三里塚闘争に関して、そのような視点で総括していなかったと痛切に思う。

◆国家概念の拡大とミクロ権力

 第二インターの特徴の一つは、経済主義と資本主義の自動崩壊論であり、それに対してレーニンは上部構造の闘いを重視した。それを国家論として深めたのが、帝国主義時代における国家と革命の理論である。さらに第一次大戦後のヨーロッパ革命敗北を総括して国家を政治的な権力だけではなくて、社会的権力として捉え返したのが、グラムシの理論である。グラムシは、政治社会と市民社会の結合として国家を位置づけ直した。
 国家との対決を機動隊との攻防の側面に絞り、それとは相対的に区別した社会的運動として、労働現場における闘争があると問題を立てるのではなくて、国家支配の構造は現場に貫徹していると考える。ここには権力がミクロ的に末端まで組織されている。この構造を国家の構造として捉えてきたのかどうかという問題である。
 そのような問題を、総体として総括することが重要だと思うのである。
 次の問題に入る前に、労働組合運動とミクロ権力の問題について、若干の補足をしておく。
 60年代に入るとQCサークルやZD運動が展開され、この運動がミクロ権力を形成した。労働者はそのミクロ権力に組み込まれて従属していったのであり、QCサークル、ZD運動はそのような職場システムを作り上げていく契機となったのである。
 官公労の内部に、そのようなミクロ権力を作り上げていく攻撃が、マル生攻撃であった。国鉄の中でもミクロ権力を作り出そうとしたが、そのためにはシステムを変えなければならない。職能的企業秩序を一掃しなければ、職制支配を貫徹しうるミクロ権力を作り出すことができないのである。しかし、職能的企業秩序の一掃は、国鉄という体制のままでは不可能である。それを国家・社会の全面的再編成と結びつけた時にはじめて、一掃することが可能になるのである。それが国鉄の民営化である。
 反マル生闘争の勝利と民営化反対闘争の敗北は、このような敵の攻撃の質的変化の結果である。国鉄という企業内の力学の中でマル生運動という民間のまねをしようとしても、現場秩序を職能的序列の構造に依存する限り、変えることができない。運転士の職能である運転技術能力は、先輩から後輩へと引き継いでいく教育機能と一体であり、それを一掃すれば有効な事業運営が成り立たなくなるからである。したがって、旧来の秩序に依存せざるをえない。職能的ヘゲモニーを変えようとすれば、そのようなジレンマに陥るから、逆に当局の側が追い詰められたのである。
 官公労のJC化は民営化以外に成り立たないという観点から、国家政策として展開されたのが、国鉄の分割・民営化であった。ここでの攻防が、アメリカ型資本主義への道筋の第一歩を切り開いたことになる。だが、民営化に伴う職能的教育機能の破壊が、尼崎事故を生み出したのである。

(2)左翼ナショナルセンターの幻想と少数組合

◆過渡期としての70年代

 次は分裂少数組合の問題である。それは、少数組合主義者ではない我々が、なぜ少数組合を結成せざるを得なかったのかという問題である。我々自身が、スト権ストの攻防で作り出された政治戦略的な歴史的意味合いを、総括しきっていない。富塚の路線を貫徹するならば、保守派内部の福祉潮流と手を組む以外に勝利の展望を切り開くことはできない。その場合の自民党内の福祉潮流は、田中派であった。
 池田・太田会談で道筋をつけた再配分の平等化と格差の均等化路線を、自民党の中で推進したのは田中派であった。70年代中盤の自民党内の対立構造は、本来ならば田中派と福田派であったのだが、三木は福田と組んで田中をたたいた。三木と田中の正面対決となり、田中派を福田派に追いやってしまったのである。田中派は福田を次の首相にするために、挙党協を結成したのである。
 田中角栄は、日本列島改造論による地方の活性化を提起すると同時に、老人医療の無償化、年金問題などの福祉政策を全面に押し出している。年金問題で賃金と物価のスライディングスケールを決定したのも、田中内閣時代であった。
 情勢をこのように認識するならば、田中派の福祉路線と三木が結合して、富塚と社会党の一部を引きずり込み、福祉国家潮流を形成していくのが、当時の現実的な中道左派の路線であった。ヨーロッパでは社民党のもとで、福祉国家に向けた路線が定まっていったが、日本では社会党が無能なので、その選択肢以外に福祉国家に向かう現実的な中道左派の流れを形成することは不可能だった。
 それに対して、右の側は路線がさだまらず、現状維持路線と中曽根によるレーガン、サッチャーに結びついた路線とが交じり合った混沌状況にあった。したがって、アメリカからは日米貿易摩擦などでたたかれて、危機が繰り返し襲ってくる。戦略的路線が定まっていなかったのである。
 労働戦線再編に対抗する中立論や、国鉄の分割・民営化の対案としての"分割反対、民営一元論"は、福祉路線に基づく中央政治の現実的潮流が見えてきて初めて、その攻防が可能になるのである。75年のスト権ストが敗北し、そのような可能性が消滅している段階で、中立論や民営一元化論で動いたとしても、それを可能にする現実的基盤は存在しなかったと思う。
 このような分析の中から左派に問われたのは、左翼ナショナルセンターが成立する基盤があったのかという点である。福祉国家戦略で動いていたならば、国労はそのまま丸ごと、その戦略を支える基軸として存在することができた。そうであれば、官公労の多くもJC派に全面屈服することなく、総評の歴史的基盤は温存され得たかもしれない。それが成り立たないから、修善寺大会で国労は分裂したのだが、孤立しながらも営々として改良主義的戦闘性を維持してきた構造が、結果として国労内多数派の位置を左派が獲得することになった。

◆左翼の孤立と我々のジレンマ、少数組合

 しかし、多数派を獲得した国労左派が今後の展望を考えようとしたとき、ナショナルセンターとしての左の基盤は存在しなかった。もし、福祉国家的、西欧社民的流れが中央政界を二分する状況として成り立っていれば重要な基盤として機能するのだが、それが存在していないために急進派と結ぶ以外に道はなかった。したがって、『労働情報』などと手を組み全労協を結成したのだが、そこから展望を見出すのは困難だったといわざるを得ない。
 スト権ストに至る過程で国労は、戦略的にも戦術的にも敗北していた。福祉的国家構造という戦略でも、現実的な攻防でも国労は敗北したのである。しかし、歴史的に蓄積された力で左派が多数派になったため、新しいナショナルセンターを形成しようと考えたが、そこには歴史的基盤や準備が存在しなかった。その展望は、戦略性を失っていたのである。
 全労協は戦略的構想を形成し得ない企業内左派組合(少数派)の算術的集合体であるから、戦略的展望を切り開くエネルギーがない。内部が路線的にバラバラになる必然性が、そこには存在したのである。今野求は全労協の長期政策委員として活動しようとしたが、その基盤が戦略的構想から切断された企業内左派(少数派)の算術総和でしかなかったから、今野がどのように努力しようと、何の統一性も成り立ちようがなかった。
 その結果、国労がナショナルセンターの軸心になりうるとの幻想のもとで、各産別で労戦の右翼的統一反対を貫徹し、新しいナショナルセンターへと結集しようとする路線は、圧倒的少数・孤立につながった。孤立する必然性が、そのような選択の中に初めから孕まれていたのである。戦略を持たない結集であるにもかかわらず、国労で多数派になったがゆえに生まれる幻想のもとで全労協に参加し孤立していく結果として、少数組合への貫徹となっていったのだと思う。
 当時、直面したジレンマの構造は、このように考えることで総括することが可能になるのではないか。他の左派組合の多くは、最後まで対決してナショナルセンターを求めて結集する動きを貫徹しなかった。途中で妥協したのである。その結果として、彼らは既存の労働組合として生き残ったのであるが、我々の多くは妥協せず路線的に左翼ナショナルセンターを求める動きを貫徹したことによって、少数組合にならざるを得なかったのである。
 本来なら、我々は次の時期を待たなければならなかった。敵の力量がピークに達していた時期に、戦略的基盤を持たないまま分裂していくやり方ではなくて、次に現れる敵の内部矛盾に向けて、内的に勢力を温存し企業組合を越える戦略と組織を準備していく。
 だが我々は、労戦の右翼的再編に反対し、左翼ナショナルセンターに向けて闘うことを、当初から一貫した戦略路線として定めてきたのである。その戦略的展望の困難さに直面して、途中で戦略路線を変更することは、闘いに混乱と挫折をもたらすことになる。
 そのジレンマの中で、我々は引き裂かれていった。大阪電通合同労組が結成されようとした時、今野が分裂に反対して中電のメンバーと衝突したのも、そのようなジレンマの現れだった。現場のメンバーは当初からの戦略的方針に基づいて準備し、貫徹しているのだから、現在のままの分裂は得策ではないと今野が考えても、抑えることはできない。行き着くところまでいかざるを得なかった結果が、少数組合の結成であった。

◆少数組合の今日的任務

 このようにして、少数組合は結成されたのだが、次の局面で右翼的再編の構造が危機に陥り、分解し始めた時に、少数組合として保持してきた機能でどのように対応できるのか。本来なら内部にいて、来るべき危機の構造に向けて主体的に闘えばいいのだが、しかし、やりきって分裂し、少数組合として主体が生き残っている現状がある。
 その場合、今日、新に起きている内部矛盾と有効に結合し、切り込んでいく路線を、今、出さなければならない。生き残ったことによって、少数組合は新しい矛盾に切り込んでいく主体として成り立つのだから、そこに向けた路線をどのように新に準備し直すのか。そこに挑戦しなければならないと思う。
 例えば郵政全労協は、自らの名前に"全労協"とつけたように、全労協がナショナルセンターとして機能するという幻想を持っていたし、郵政全労協としての結集が、そのまま活動家集団になると考えていた。だが、全労協が成立する戦略的基盤が存在しないのだから、郵政全労協は時間がたつにつれて風化、分解していく。したがって、再び活動家を再結集して、新しい危機に主体的に切り込める活動家集団を、どのように作るのか。そのようなものとして、少数組合は自らを再構成しなければならない。
 鉄産労や教組、電通の少数組合も同じだと思う。全てがもう一度、自らの存在を位置づけ直し、新しい格差社会がつくり出す危機の構造を明確に見据えながら、そこに切り込む主体として、再武装しなければならない。
 少数組合の問題は、スト権ストの攻防の時点で必要とされた戦略が、国家戦略との関係でどのようなものであったのかという観点から位置づけ直したときに、今後の方向性が明確となってくるであろう。ナショナルセンターは、そのような戦略と結びついて成り立つものである。全労協は企業内組合左派の算術連合にとどまり、その成立の戦略を獲得することができなかったのであり、少数組合とは労働戦線の再編成過程で、左翼の立場が孤立に追いやられた結果である。
 ヨーロッパは福祉国家と労働権の確立とを結びつけて、一つの流れを形成した。これが日本との違いである。この点を踏まえた総括と、戦略的方針を立てなければならないのである。


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