【管制塔基金カンパの超過達成】

人々は何に共感したのか

−「他者との連帯」という価値観と新自由主義が奨励する利己的個人主義−

(インターナショナル第160号:2005年11月掲載)


 去る11月11日、27年も前の成田空港(新東京国際空港:以下=三里塚空港)管制塔占拠事件に関する損害賠償の強制執行(元被告たちの給与差し押さえ等)を跳ね返し、わずか3カ月の短期間で1億円もの基金を集めて運輸省と空港公団に叩きつけたカンパ運動の報告集会が開かれた。
 報告集会の会場(全水道会館)には、管制塔を占拠した元被告たちと共に1978年3月26日の開港阻止決戦(以下:3・26闘争)を担った当時の仲間たちのほかに、この闘争に直接は関与しなかったにもかかわらず基金カンパ運動に共感して自発的にカンパを呼びかけてくれた人々、さらに当時は4、5歳で三里塚闘争も管制塔占拠闘争も直接には知らない世代の人々も集まり、「準」当事者である私も、このカンパ運動の思いがけない広がりを驚きと共に実感させられた。
 では何故このカンパ運動は、戦後左翼運動の凋落著しいこの時期にかくも多くの人々の共感を得、あえて言えば「国家に支払うためだけの大金」を驚異的なスピードで集めることができたのだろうか。
 実はこうした問いは、11日の集会で運輸省、空港公団に対する「叩きつけ行動」を取材したマスコミ各社の関心もこの点に集中していたと報告されたように、この運動に関心を寄せた多くの人々が是非とも知りたいことであり、結局は「近年まれに見る快挙」と言って過言ではない管制塔被告連帯基金カンパを成功裏に達成した原動力は何だったのか、という疑問に他ならないと思う。
 だとすればこの運動に対する広範な共感は何ものなのか、それはなぜ今、快挙を達成する現実的力として現れたのかを解明しょうと試みることは、四半世紀を越える時間の断絶を越えて、三里塚空港建設反対闘争と78年の開港阻止決戦に示された成果と限界とが、戦後資本主義が危機に直面しはじめた今の時代といかに結びつくのかを明らかにしよとすることであり、三里塚闘争と3・26闘争を、今という時代の中に位置付け直すことにもなると思うのである。

▼新たな人間関係の対案

 管制塔基金カンパ運動がわずか3カ月で集めた1億1千万円余という金額のうち、私のような「準」当事者、つまり何らかの形で3・26闘争に関与した人々が集めた金額は、まったく個人的推測だがおよそ半分の6千万円ほどだったのではないかと思う。つまりその程度の金額までは、なんとか見通しの立てようがあったと言うことでもある。
 およそ半分を占めるであろうこのカンパの基本的な性格は、私自身や私の仲間たちがそうであったように「上等だ!決着をつけてやる!」という私的な憤激、つまり3・26闘争にかかわった自己の責任をいわば管制塔被告に対する「義理」として果たし、それによって自らが関与した3・26闘争の正当性を自らが納得する行為=カンパによって擁護しようとするものだったと言える。
 ところがこうした、準当事者たちの私憤にもとづいた呼びかけが、「構造改革」の中で叫ばれてきた「個人主義」や「自己責任」とは対極の、その意味ではある種「新鮮な人間関係」を図らずも例示すことになったのだと思われる。
 互助つまり人間相互の連帯を旧い縁故関係と意図的に混同し、これを日本的悪習として攻撃する「構造改革」が利己的な個人主義を奨励してきたのに対して、管制塔基金カンパ運動が体現したのは「他者との連帯」を土台にして自発的に自己責任を果たす、そうした人間関係の実例だったからである。年収が2〜3百万円がザラになったこの時期に、決して少なくはない身銭を切って旧い仲間の窮状を共に克服しようとカンパを呼びかける運動は、ミーイズムや利己主義が蔓延する今の日本では一見ダッサイようでいて、「新たな人間関係の対案」という性格を客観的には孕んでいたと言えるからである。
 だからそれは自己責任、自発性、自立的個人といった今流のトレンドが、他方では決定的に欠落させている「連帯と互助」という価値観を、いまさらながらに再評価する契機を提供したのだろう。
 これが3・26闘争に関与しなかった多くの人々の、世代を越えた共感を呼び起こす最初の契機になったのだと思う。だがもちろんこうした契機だけで、驚異的成果が達成された訳ではない。
 少なくともカンパ運動のこうした客観的性格を感受する社会的基盤、いうなれば「構造改革」が促進する人間関係の荒廃や連帯という価値観の破壊に抗して、「連帯と互助」という社会的価値観を再評価する必要性を自覚する人々が存在しなければ、目標額を超過達成する現実的パワーは現れはしなかっただろうからである。

▼自立的な社会運動からの共感

 では、準当事者たちが見通しさえ立てることが困難だった残り6千万円を集める原動力となった、「連帯と互助」という社会的価値観を再評価する必要性を自覚した人々とはどんな人々なのだろうか。
 カンパ運動を短期間のうちに、しかも全国に広げるのに決定的な役割を果たしてくれたウエブサイト「管制塔被告連帯基金ウエブサイト」(http//www.)には、地域で地道な活動をつづける様々な社会的運動に関わりをもつ人々からの意見が少なからず寄せられた。神戸の冬を支える会、医療過誤裁判の原告、そして北海道と沖縄という「構造改革」によって切り捨てられる地方から発信をつづける人々などがそうである。
 しかもこうした地域的な社会運動の関係者たちは「勝手連」的に、つまり自発的かつ積極的に自らのホームページやブログで連帯基金へのカンパを呼びかけてくれた。11日の集会にも参加して「地方議員として、自分のホームページでこのカンパへの応援を呼びかけた」という新潟市議の中山均氏の発言は、カンパ運動へのこうした共感がどのように生まれ広がったのかを裏付けているし、「連帯基金ウエブサイト」自身が、地方からの勝手連的な応援として始まったこともそれを象徴していると思う。
 これら地域的な社会運動の担い手たちは、まさに国家や企業から自立して社会的問題に自発的に目を向けるという自らの実践と経験にもとづいて、カンパ運動が客観的にそして多分に無自覚に体現した「連帯と互助」という価値観に共感し、カンパ運動の自発的な担い手になってくれたのである。
 そしてもちろんこうした共感の背後には、公共事業の名の下に強権的に進められた三里塚空港建設という国策に抗して、旧い農村共同体を基礎にしてではあれ土着的抵抗を頑強に貫いた三里塚空港反対同盟の闘いと、その農民たちの闘に共感し、ある意味では自らの人生を賭けて管制塔占拠闘争を担うことで連帯しようとした、管制塔被告たちへの共感もあったのだろう。

 だがもしこのカンパ運動に対する共感がこうしたものだったとすれば、管制塔占拠闘争を頂点とする開港阻止決戦とはどんな闘いであったのかを、改めて再検証してみる必要があるだろう思う。なぜなら当時、私たちが3・26闘争を「政府・権力闘争」として闘った事実と、「連帯と互助」を土台とする自立的な社会運動という共感の基盤の間には、大きなギャップがあるからである。
 そしてこのギャップを越えようとする努力なしには、カンパ運動に寄せられた多くの共感と私を含む準当事者たちの思いが、次代を切り開く共働へと発展することができないだろうと思うのだ。

▼「権力闘争」の敗北と局地戦の勝利

 端的に言って私は、「政府・権力闘争としての3・26闘争」はその後、三里塚空港の廃港どころか福田自民党政府の打倒さえ達成できなかったことで「敗北した」と考えている。さらに言えば、3・26闘争の4年前の参院選挙で戸村一作・反対同盟委員長一人さえ当選させることのできなかった少数派が、「自民党政府打倒」を目標とする「決戦」を構想するのはどう考えても無謀である。それは農地に根づいた農村共同体の存亡をかけた農民の抵抗闘争に対する全国的共感と、「政治権力の転覆だけが社会を変える」というドグマに囚われ私たちの主観的願望とを混同する誤りだったと言わなければならない。
 しかもこの主観的ドグマはその後、3・26闘争の被告たちが職場復帰をめざす不当解雇撤回闘争で、労働者大衆の現実の意識と私たちの主観的願望のギャップにも目を塞ぎ、解雇撤回闘争の孤立を招いて多くの仲間が運動を離れる事態をも生み出した。だからこの点について私たちは、はっきりと自己批判をしなければならない。
 にもかかわらず3・26闘争は、三里塚反対同盟の頑強な抵抗闘争に連帯する闘いだったことで、農業と農村共同体を暴力的に破壊する公共事業の理不尽さを暴いて全国の住民運動や農民運動を鼓舞し、政府・運輸省に妥協を強いるには十分な打撃を与えた「局地的な勝利」だったことも確かである。だから私は、その闘いの一翼を担えたことに今でも誇りを持ちつづけている。
 こうした3・26闘争の客観的性格、つまり私たちの主観的願望と全国的共感を獲得した三里塚闘争の実像とのギャップは、「政府・権力闘争」と「連帯と互助」に共感した自立的な社会運動との間にあるギャップが何かを教えてくれだろう。
 つまり管制塔カンパ運動への予想を越えた広範な共感は、あえて言うが「政府・権力闘争」への共感ではないのだ。それは三里塚闘争それ自身がはらんでいた農村共同体を防衛しようとする頑強な抵抗への共感を背景にして、これに連帯しようと困難な闘いに挑んだ管制塔元被告たちの心情や、その結果として苦境に陥った仲間を見捨てることなく自己責任を果たそうとする準当事者たちが無自覚のうちにも体現した「連帯感への共感」だったのだと思う。3・26被告団の一員であった私は今、カンパ運動の成功をそのように受け止めるべきだと考えている。
 それは私自身が連帯を求めて闘った三里塚闘争自身もまた、3・26闘争の敗北と勝利を契機に「対政府闘争」の呪縛を自ら解き、環境問題や反原発運動あるいはNGOによる国際援助運動を担う若い世代の中に新たな共感を見いだす、社会変革運動への転換に挑戦し始めた現実があるからである。

▼円卓会議と反対同盟の転換

 三里塚闘争が「対政府闘争」から社会変革運動へと転換する契機は、91年10月から1年半におよんだ三里塚闘争に関する公開シンポジウムと、これを引き継いだ円卓会議(93年9月〜94年11月)であった。
 もちろん隅谷三喜男東大名誉教授を団長とする「隅谷調査団」が運輸省・空港公団と反対同盟の調停役を自認してはじまった公開シンポジウムは、「政府・運輸省に妥協を強いるには十分な打撃を与えた」3・26闘争の結果として、「ボタンの掛け違い」を非難される政府が三里塚闘争の収拾を意図したものだったから、反対同盟がシンポジウムと円卓会議に参加することは「敗戦処理」の危険と紙一重のことでもあった。
 しかしこの一連の過程で反対同盟側が掲げた「農的価値」と名づけられた価値観は、国家が主導する公共事業という公共性に「自然との共生」や「命の循環」という現在に通じる「新たな公共性」を対置し、運輸省に「地球的課題の実験村」構想具体化検討委員会の省内設置を認めさせ、円卓会議で強制収用の断念を表明した二期工区内に、この「新たな公共性」を探る実験村を設立する議論へと引き継がれた。この議論は98年5月に「若い世代へ−農の世界から地球の未来を考える」という論文を生み出して解散するが、それは現在の実験村運動の礎石を作り出す作業ともなったのである。
 詳しい経緯や内容は『生命めぐる大地』(2000年3月:七つ森書館刊)に詳しいし、実験村発行のニュース18号(03年6月)掲載の私へのインタビュー記事と、本紙108号(00年4月号)掲載の『生命めぐる大地』の書評「実験村は公界(くがい)である」を参照して頂きたいが、この過程で三里塚闘争は、政府との対決ばかりが注目され焦点化する「全国政治拠点」から、自然との共生や命の循環という価値観を復権し対置する「対案型の社会的運動」として、農業と農村共同体を廃墟に帰して作られた三里塚空港の隣接地で展開する持久戦へと転換したと言える。
 しかもこの転換を準備し実験村運動の基盤となったのも、1971年の日本有機農業研究会の結成とほとんど同時期に始まった、反対同盟青年行動隊有志を中心とする有機農業への挑戦と、これを基盤とする有機野菜の産地直送運動「ワンパック」という社会的な運動に他ならなかった。
 もちろん運輸省と空港公団がこうした反対同盟との「約束」を誠実に守ったとは到底言い難いが、国家主導の公共事業と対決しつづけてきた三里塚の農民運動は、自らの転換を通じて次代への懸け橋を構築する事業に着手したのである。

 だが3・26闘争を「政府・権力闘争」として闘った私たちは、反対同盟農民のこうした転換を理解し、これに寄り添うような自らの転換を実現できなかった。なによりも当時の私たちは、今では社会の趨勢とさえ言える有機農業や産直といった社会運動がはらむ先進性や可能性について、ほとんど関心を示すことはなかったのである。

▼変化の兆しと「陣地戦」

 こうしてロシア革命型の「機動戦」=「政府・権力闘争」のドグマに囚われていた私たちは、社会的な知的・道徳的ヘゲモニーをめぐる「陣地戦」=イタリアの革命家グラムシが提唱した社会変革運動へと転換しはじめた三里塚現地の動向とのギャップに直面したのではないかと思う。
 だが管制塔カンパ運動が予測を越える広い共感を呼び起こした事実が象徴するように、変化の兆しはたしかに現れ始めている。新自由主義が蔓延させた利己主義と人間関係の荒廃を前にして、互助と連帯そして社会的公正といった価値観の再評価が、地域的な社会運動の中から始まりつつある。
 だからもう少し広い視野に立って、つまり新自由主義に対抗して「もうひとつの世界」を目指そうとする国際的潮流が登場している国際情勢の中に、有機農業や産直を源流とする実験村のような社会運動を位置付けなおして見る必要があると思うのだ。

 実際に、99年11月にシアトルで開催された世界貿易機構(WTO)閣僚会議を包囲し、グローバリズムが蔓延させる社会的経済的格差の拡大に反対して「もうひとつの世界」をめざす国際的潮流の最も強力な基盤は、三里塚の実験村と同様に、多国籍資本によって破壊される「南」の国々の農業とこれを営む人間共同体を擁護し、あるは原発に変わる持続可能なエネルギーへの転換によって人間と自然の共生的環境を目指すといった、「権力闘争」というよりは「社会変革運動」を担う運動体である。それはまた国家と資本(企業)から自立して、大衆自治と自己決定に基づく民衆自身の互助と連帯を再建しようとする、新たな人間共同体=コンミューンの萌芽を孕んで発展してもいる。世界社会フォーラムの最初の開催地・ブラジルのポルトアレグレの住民自治や地域再生運動は、その好例である。
 そう!管制塔被告連帯基金運動は、こうした国際的潮流に連なって、日本各地で地域的な社会運動を地道に担う人々の中に共感を呼び起こしたと言って良いと思う。
 マスコミ各社の取材陣が理解できなかった謎、つまり戦後左翼運動の凋落著しい今という時期に1億円もの大金を短期間に集めた原動力は、それこそ今という時代が求める社会的課題に挑む最も先進的な運動体が、「連帯を土台にした人間関係」の小さな実例に共感して、文字通り自発的に生み出したパワーに他ならないのだと思う。

▼文化的運動としての持久戦

 こうして、管制塔カンパ運動の成功を継承して私たちが立ち向かうべき今日的な課題が明らかになる。
 それは、グローバリズムに追従する「構造改革」が利己的な個人主義を「自立的個人」と呼び、人間の生存に不可欠な社会保障と再配分を「自己責任」の名で切り捨て、低賃金やリストラという他者の犠牲によって得た経済的成功を「勝ち組」として称賛する、いわば社会的規範の破壊と逆転に抗して、連帯基金運動と三里塚実験村の運動が示唆する新しい価値観を広げるために、地道だが頑強な持久戦の展開である。
 私たちが新自由主義が広めた価値観に対置するのは、自立的個人が当然負うべき「社会的責任」であり、利己的欲望を満たすために他者を犠牲にしない「自律」であり、苦境にある人々を援助する「互助と連帯」である。それは政治闘争というよりも社会変革運動であり、むしろ文化運動とさえ呼べる地道な持久戦となるだろう。
 しかも社会の統治者を自認する政府と多国籍資本が、当然負うべき社会的責任を逃れようとする現実と対峙しようとすれば、国家や企業に依存しない民衆の自立的連帯が必要であろう。そしてそれが、政治権力を奪取して上から代行的に社会保障と再配分を差配する代行民主主義を越えて、大衆自治という直接民主主義に依拠した社会変革のための「社会的陣地」として登場するとき、世俗権力から自立した「公界としての実験村」との連帯を全国的に再構築する、新しい大衆的基盤となるに違いない。

(11/25:ささき・きいち)


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