【書評】『生命をめぐる大地』(地球的課題の実験村編)
実験村は公界である
新たな公共性への飛躍と共同体のダイナミズム


公界としての実験村

 『無縁・公界・楽(むえん・くがい・らく)』という、網野善彦氏の著書がある。その増補初版本の発行は、三里塚空港が10年以上にもおよぶ反対運動に包囲されたまま、機動隊と有刺鉄線に厳重に守られてようやく開港にこぎつけた直後、1978年の6月である。
 この網野氏の著書は、いまでは日本の中世史にかかわる学者や研究者だけでなく、多少とも日本史とくに中世史に興味のある人たちの中では知らない人のいない、彼の名著のひとつであろう。
 彼はこの著書の中で、それまで一般的だった日本の中世に関する歴史認識、つまり領主の収奪や貧弱な生産力による窮乏に耐える無力な農民が社会の多数派を構成する、暗く停滞した社会という中世認識に対して、農業に限定されない、百の生業(なりわい)に従事する百姓たち(後には職人と呼ばれるようになる人々も含まれる)が活発な生産と流通をいとなむ、民衆自治にもとづいた地域社会が各地に点在し、それが領主や武家と対峙していたとする認識を、古文書などの詳細な分析を通じて対置していた。
 「公界」は、「無縁の原理」つまり世俗的支配者である領主や武家などの権力とは位相を異にする、神と自然の掟が支配する区域もしくは空間である。世俗とは「無縁」だから、世俗の権力が及ばない「聖域」でもある。しかしもちろんその実態は、歴史的に形成された民衆自治(もちろん中世的で日本的な形でのだが)が統治する治外法権区域であり、当時の社会的諸勢力の力関係や思惑の結果としてではあれ、それが世俗の権力によっても公認されていたというのである。
 「領主の私的な支配の貫徹に抵抗し、その私的な所有下におかれた下人・所従になることを拒否する力が、平民百姓そのものの中に生きつづけていた。私的隷属から、まさしく〈無縁〉であろうとするこの志向こそ、原始・未開以来の〈自由〉の流れをくむ人々の否応のない動きであった」(同書から)。

 「実験村は公界なのだ」、なぜなら「実験村は最初反対派の農民たちが提起はしたが、すでに反対派の持ち物ではない。もともと私の所有の論理が通用する場ではない」からである。本書、「地球的課題の実験村」が編纂した『生命めぐる大地』のプロローグ、「人々は群れはじめた」に樋ケ氏がしるしたこの一節は、実験村が内包している「大衆自治と自己決定」による未来社会の統治原理という可能性を示唆している。

農的価値と統治の理念

 三里塚の実験村は、「農的価値」や「生命の循環」など、比較的エコロジカルな理念で説明されることが多い。
 たしかに実験村は、巨大開発事業である国際空港建設に対峙して、北総台地の豊かな農のいとなみと、そこではぐくまれた土という「地球的財産」を、空港という公共性とは位相の異なる公的財産として対置する運動だし、また97年の地球温暖化防止京都会議で、環境保護運動にかかわる若い活動家たちとの交流と「農的価値」への共感に新たな力を得て実践にふみだしもした。
 したがって本書の記述の大半が、現実に存在する実践的なエコロジカルな経験や事例の報告となり、それが大規模な環境破壊をともなう戦後資本主義の巨大開発と比較・対置され、こうした生産(経済)活動からの転換を実現していこうという問題提起が占めているのは当然なことである。
 もちろんわたしも、エコロジカルな実践的提起に賛成である。なぜなら、わたしの知るマルクス主義的な理解から言っても、私的な資本効率の追求つまり最大利潤の私的な追求は、資源(人間労働をふくむ自然)の最も効率的な利用、つまり資源を十分に節約することで効率的な社会的再生産サイクルを実現することをむしろ膨大な浪費で阻害しているだけでなく、ついには人間の再生産(生命の循環)すら破壊しかねない危機的状況を呈しはじめているからである。その意味でエコロジカルな実践的経験の蓄積や研究は、資本主義に代わる人間社会の未来にとって、欠くことのできない知恵と技術へのあくなき挑戦にほかならないからである。
 その上でなのだが、ではそうしたエコロジカルな技術や生産を土台にする人間社会に対応する社会統治の原理、つまり人間関係を律する原理は、いったいどのようなものになるのだろうか。これが、エコロジカルな実践的経験や知識にはうとい、わたしのような都会者(とかいもん)にとっては、けっこう気になってきた、実験村のもうひとつの課題といっていいと思う。

 土地と農地と共同体

 だから「公界としての実験村」という提起をうけて、わたしはあえて、本書にあるエコロジカルなさまざまな提起についての紹介や検討は、それを得手とするほかの誰かにまかせて、この社会統治の原理に少しだけこだわってみたいと思うのだ。
 「現代の公界」としての実験村で「私の所有の理論が通用」しないのは、空港公団が買収の対象としてしか認識しない「農地」が、その法律的形式はどうあれ、私的な売買には適さない「地球的財産」であることを含意していると思う。農地は、その地の風土とは絶対に切り離せない生産手段だが、買収対象の土地は、私的所有によって分割された登記簿上の面積にすぎない。
 空港建設計画が降りかかるまでは、三里塚の畑作地帯でも、登記簿上の面積と農地の峻別は、ほかの田園地帯と同じように村落共同体の「常識」だったはずだ。その常識は「地球的財産」という理念にもとづていはいなかったけれど、ひとつの田畑の荒廃は、ただちに周辺の農地と耕作に被害を及ぼすし、点在する森の入会(いりあい)は、共同体と個々の営農者に共通する公共の財産であるとう厳然たる事実にもとづいていた。
 こうした農地(生産手段)と人間の関係が生きていた農村社会では、この「常識」は「自然の掟」、言い換えれば世俗の権力や法律とは「無縁」な、営農で生きる人々が自らを律する不文律にほかならない。
 ところが大金による用地買収が「農地」を「面積」に変貌させ、村落共同体の「常識」が解体されはじめる。反対同盟はこれに対して、村落共同体にとっては明白な、農地は公共性をもつという「常識」に依拠して、「農地死守」の抵抗を組織したのだろう。国家権力を驚嘆させた反対運動の堅い団結は、この村落共同体の、不文律と常識に根をもつ結束力に依存していたのだと思う。
 しかし、本書第1部の座談会で語られているように、すでに当時の三里塚は、農業改善事業という「一種の離農政策」が繰り返えされる中で、村落共同体の基盤である伝統的な人間と生産の関係そのものが掘り崩されつつあったし、強い結束力をもつ村落共同体は、他方では地縁・血縁を通じた圧力には弱い家父長的伝統を引き継いでもいた。
 ところで網野氏は、前述した著書の「まえがき」で「本書の副題である《自由》と《平和》を、西欧の近代以降の自由と平和と、直ちに同一視しないでほしい」と断ったうえで、にもかかわらず「その実態は時代とともに衰弱し、真の意味で自覚された自由と平和の思想を自らの胎内から生み落とすとともに滅びていく」と述べ、無縁や公界にはらまれていた〈自由〉や〈平和〉という志向(理念)の歴史的な断絶と飛躍、あるいは連続性と復権に注意をうながしている。
 こうした視点にたてば、実験村の「地球的財産」という公共性をかかげた「農地」復権の試みは、かつての村落共同体の「常識」の回復と同義ではない。それは激しい弾圧という以上に、農地を面積に換算する「近代」に解体された三里塚の村落共同体が、国家や空港の「公共性」に対して、ある意味では共同体の内部でだけ通用した常識や公共性を対置した限界をこえて、より普遍的な公共性を獲得しようとする飛躍である。
 「滅びていく」三里塚の村落共同体の胎内から、「真の意味で自覚された」、国際空港という「公共性」に対置される公共性が生み落とされる可能性。ここに、実験村のダイナミズムがある。

実験村の生命力

 本書にしるされた「現代の公界」が、こうした飛躍を内包した「新しい共同体」の可能性を含意しているなら、その萌芽の実態はどこにあり、その統治原理は何であるのかが次の興味の対象となる。
 実験村を、その名前すら無いころから実質的に準備してきた「新しい共同体」の萌芽は、70年代半ば(本書の座談会には74年に「微生物友の会」ができたとある)に、有機農法と都会の消費者(労働者)を直接にむすんだ「ワンパック野菜」の運動ではなかったかと思う。農機具や種子メーカーによる営農管理という「私的隷属」から自立して、自分でつくる農作物を自ら管理する有機農業を、村落共同体とは相対的には別に、空港反対闘争のなかで出会った「新しい仲間たち」と共にはじめたことで、新しい人間の結びつき、つまり「新しい共同体」の萌芽が育ちはじめたのではあるまいか。
 そして自らの生産物と労働を自ら管理することを前提にした生産と人間の関係は、少し短絡的にはなるが、自治という自己決定の基礎であると言いたい。
 しかもその人間関係は、いわゆる産直によって、はじめから都会の労働者との有機的関係をもつことで、かつての村落共同体とは比較にならない社会的な広がりを手にした。農地は風土とは切り離せないが、人間の意識や思考は、社会的な広がりをもつ人間関係を介して、風土に縛られない自立と自由を獲得する。この自立的で自由な個々人が構成する新たな共同体の統治の原理は、共同体とその構成員を等しく貫く自律、すなわち大衆自治にほかならないだろう。
 かつて三里塚の「村落共同体の自治」としてあった、風土に強く結びついた自然の掟と不文律は、農地と都会の食を結ぶ新しい共同体の大衆自治として、実験村の中によみがえる可能性が現れる。
 こうして地球的課題の実験村は、大衆自治と自己決定という、コミューンの統治原理に通ずる新たな人間共同体の可能性という自らの生命を「空港にも吹き込みつづける」(本書「プロローグ」)ことで、旧態依然たる政官財の癒着構造や地域ボスによる利権政治を侵食し、巨大開発事業の土台を掘り崩しつづけるのだ。そのいとなみはおそらく、世界中の資源を私(わたくし)しようとする多国籍資本に対峙し、資本の「自由を律する」ことを求めてWTOを包囲した、世界中の環境団体や労働組合の闘いとつながっている。
                                                                              (ささき・きいち)


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