既成の政治理念では解読できない

−ウオール街占拠デモの新たな性格−

(インターナショナル204号:2011年10月号掲載)


▼世界を席捲した大衆的抗議運動

 9月17日に約1,000人ではじまった「ウオール街を占拠せよ」の大衆的デモは、ニューヨーク市警による強圧的な規制や逮捕にもかかわらず参加者は増加の一途をたどり、同月30日には全米から数千人が参加する盛り上がりを見せるに至った。
 さらに10月に入るとボストン、ロサンゼルス、ワシントン、フィラデルフィア、シカゴ、シアトルなど全米の各都市で金融機関に抗議するデモや座り込み運動へと拡大、「国際行動デー」が呼びかけられた10月15日には、シドニー(オーストラリア)、ベルリン(ドイツ)、パリ(フランス)、ロンドン(イギリス)、ローマ(イタリア)、東京(日本)、ソウル(韓国)、台北(中華民国)など、世界の主要都市でも金融資本の暴走を批判する大衆運動が展開された。さらに同月29日には、11月3−4日にフランスのカンヌで開催されるG20(20カ国・地域首脳会議)に向けた世界一斉行動が取り組まれ、これを引き継いで11月1日、カンヌに程近いニースで、社会格差の是正を訴える5000人のデモがおこなわれた。
 わずかひと月半の間に世界を席巻した「ウオール街を占拠せよ」(Occupy Wall Street=オキュパイ・ウオール・ストリート)運動は、国際金融資本の中心地であるウオール街から、「われわれは99%だ」を合言葉に「1%の富裕層」への課税や、金融取引への規制と課税の強化・拡大を求める大衆運動として世界に広がったが、その発端は今年(2011年)7月、欧米とアジアの英語圏で12万部を発行するカナダの隔月刊誌「アドバスターズ」(=『商業広告(ad)の破壊者(busters)』といった造語)の創始者であるカレ・ラースン氏が、金融機関と政界に抗議の意思を表明するため、金融取引の中心地・ウオール街でのデモ行進やニューヨーク証券取引所前の座り込みなどを行なってウオール街を数ヶ月間「占拠する」運動を呼びかけ、2万人を目標に賛同者を募りはじめたことであった。
 これがアメリカの、特に若い世代の共感を得て金融機関の中心地における大衆的抗議運動へと発展したのは、リーマンショック以降の不況で、19歳から20歳代前半のハイスクールと大卒の失業率が4割に迫る歴史的な高水準にある一方で、「公的資金」なる税金で救済された金融機関が莫大な利益を上げる現実に対する強い怒りを背景にしている。それはまたほんの数パーセントの富裕層が9割以上の富を手中にしながら、今も「ブッシュ減税」の恩恵に与かっている半面、国家財政の莫大な赤字のツケが国民すべてに押し付けられるといった、社会的不公正への怒りでもある。
 だが同時に注目すべきは、この抗議運動の担い手たちが「アドバスターズ」の読者層のような「左派リベラリズム」や「左派ポピュリズム」などの旧来的な理念では括れない、つまり金融グローバリズムを批判しつづけてきた勢力とは必ずしも一致しない、あえて言えば雑多で矛盾に満ちた人々を多く含んだ、その意味では新しい可能性を秘める一方でその性格を見定めにくい事実であろう。

▼リバタリアンに共感する「異能のパフォーマー」たち

 いま、ウオール街のズコッティ広場にある「デモ隊の宿営地」には発電機とノートパソコン、ビデオ装置を備えたメディアセンターが開設され、ツイッターやネットワーク、あるいは「妨害者」に見つけられにくい「閉じられたネットワーク」で伝播される呼びかけに応えて全米から送られて来る支援物資や資金によって、キッチンや医療ステーションも運営されている。
 そこでは、参加者個々人がそれぞれのスキルや知識そして創造性を持ち寄って、緩やかな結合体である「ウオール街を占拠せよ」運動の活動を支え合っているのだが、その宿営地運営とデジタルメッセージ発信の中心に居るのが、「ギーク(geek)」(日本ではしばしば「オタク」と翻訳されるが)と呼ばれる若者たちである。
 アメリカ俗語のギークは、もともとはサーカスなどの見世物で口から火を噴いたり、虫を飲み込んだりする「異能の芸人(パフォーマー)」を指す言葉だったが、70年代に「社会に適応できない者」という意味合いを持つようになり、今日では特に「コンピューター・マニア」を指して使うようになったと言う。つまりハイスクールや大学を卒業した高度のコンピュータ技術の習得者でありながら、不況下の就職難で就労できない(社会に適応できない!?)「ギーク」と呼ばれる若い「異能のパフォーマー」たちが、そのスキルと技術とをフルに動員して社会的な異議申し立てを始めたのが「ウオール街を占拠せよ」の運動だと言えるだろう。
 この若者たちの多くは、おそらくはオバマを大統領に押上げた「草の根運動」の担い手たちだろうが、オバマ政権2年間への幻滅をかかえて、現状に対する異議申し立てをはじめたと考えられる。したがって「ウオール街を占拠せよ」運動のカルチャーは、マイノリティーと多様性を歓迎する左派リベラルのカルチャーであり、現にこの運動は、金融資本主義を鋭く批判した映画「キャピタリズム」で勇名を馳せたマイケル・ムーア監督が激励に訪れたり、オバマ大統領も一定の理解を示すなど、リベラル系の著名人の中に多くの共感を見い出している。
 ところが、マイケル・ムーア監督が宿営地を激励に訪れたことに大喜びする参加者たちは、他方では共和党の大統領候補を目指す「リバタリアン(自由主義者)」のロン・ポール議員をヒーローとして賞賛するプラカードを掲げたりしているのである(「News Week」日本版:10/5)。
 「自由主義」と和訳されて「保守」と定義される「リバタリアニズム」については後で改めて述べるが、若者たちのヒーローであるロン・ポール議員はイラク戦争とアフガン戦争を全面否定して即時撤退を主張し、ブッシュ政権当時のイラク戦争関連の予算審議でも、共和党議員として唯一人反対票を投じた「気骨あるモンロー主義者」でもあり、それが若者たちの共感を呼んでいるのである。
 しかしだからと言ってこの若者たちを、ティーパーティー運動と同じような自由主義を支持する右翼的な草の根運動の担い手と混同するのは早計に過ぎる。
 と言うのもティーパーティーの担い手は圧倒的に自営業者と非組合員の白人労働者であり、「国家の福祉に依存する(マイノリティーの)有色人種」や「アメリカ人の職を奪う(マイノリティーの)違法移民」を敵視する傾向が強いのに対して、ウオール街の抗議運動は、前述のようにマイノリティーと多様性を歓迎する左派リベラルのカルチャーを土台にしているからである。
 さらに言えば、ティーパーティーの主張の核心には「私たちの払った税金が、マイノリティーや〃怠け者〃の為に使われて、自分たちの為には使われていない」といった嫌税感があるのに対して、ウオール街の抗議運動は、「税金で救済された金融機関」や「減税の恩恵に浴する富裕層」に怒りの矛先を向け、金融機関や富裕層への課税を通じた所得移転を要求する、ティーパーティーとは正反対の政治目標を掲げてもいる。
 つまりウオール街の抗議運動を担う若者たちは、新自由主義と親和性の強いリバタリアニズムへの共感を示す一方で、金融取引規制の強化や所得移転(=社会的再分配の強化)の促進といった、新自由主義とは対極の要求を掲げる「矛盾した感性」のままでこの運動を強力に推進しており、これが旧来の政治概念や文脈でこの運動を解析しようとする「大人たち」を困惑させているのである。
 現に、普段はアナーキーな物言いで「アブナイおじさん」キャラで売るCNBCのキャスター、ジム・クレマーが「奴らには何の主張もないんですよ。バカバカしいだけ」と切って棄てるのも、世代的にはデモの若者たちにより近いCNNの人気キャスター、エリン・バーネットが、「ダンスに興じる若者、ピザの出前にかぶりつく人たち、ピクニック気分の子連れ、そして多くの人が高価なMacbookを持っている」デモ隊の宿営地をレポートしながら「このデモは一体何の意味があるのでしょう?」と疑問を呈するのも(前掲「News Week」日本版)、既成観念に囚われた人々の困惑を象徴しているのだ。

▼ 二大政党制の限界とリバタリアニズム

 この若者たちの「矛盾した感性」を理解するために、2年前のドイツ連邦議会選挙を思い返してみるのは、重要なヒントになるかもしれない。ドイツ社民党(以下:SPD)が歴史的大敗を喫し、リバタリアニズムを掲げたドイツ自由民主党(以下:FDP)が歴史的躍進をとげ、それが11年ぶりの中道右派連立政権を成立させた、あの選挙である。
 私はこのドイツ連邦議会選挙の結果に関して、本誌192号(09年12月16日発行)に「社民党の歴史的大敗と自由民主党躍進の背景―欧州自由主義の伝統と「個人の自由」―と題する論考を書いたが、そこで提起した論点のひとつは、リバタリアニズムの歴史的系譜には、新自由主義と親和性の強い「右翼リバタリアニズム」だけでなくアナーキズム(=無政府主義)を含む「左翼リバタリアニズム」も含まれており、そうした伝統を持つ「自由主義と個人主義」への共感は、市場至上主義を核心とする新自由主義への単純な支持ということではなく、「個人の自由」という価値観に対する再評価と再認識が潜んでいる可能性がある、ということであった。
 詳しい内容は実際に論考を読んでいただきたいが、実はこのドイツ連邦議会選挙でも、PDFという「右翼リバタリアニズム」が躍進した一方で、新自由主義に批判的な左翼党と緑の党も大きく議席を伸ばすという「矛盾した性格」が示されていた。つまり「リバタリアニズムに共感を示す新自由主義反対の大衆運動」というウオール街占拠運動の「矛盾した性格」の一端は、すでに2年前のドイツ連邦議会選挙にも、今回ほど明瞭ではないとしても示唆されていたと言えるのである。以下、それを検証してみたい。
 まず最初に確認しておきたいのは、2年前のドイツと今のアメリカに共通しているのは「政治に対する幻滅と閉塞感」だということである。
 民衆の大きな期待を集めて史上初のアフリカ系アメリカ人大統領に就任したオバマだったが、彼はこの2年間を通じて、金持ち優遇として悪評の高い「ブッシュ減税」にさえ手を付けずに社会的不公正の前に手を拱(こまね)き、結果として財政悪化による米国債の格下げという混乱を招いた中庸で妥協を繰り返す「普通の大統領」に成り下がった。そして2年前のドイツでも、SPDが中道右派のキリスト教民主・社会同盟(以下:CDU-CSU)との大連立に踏み切って社会民主主義的な政策の多くを「放棄」したことで、政治的閉塞感が広がっていたのである。
 しかもオバマ政権とSPDの挫折が醸成した閉塞感は、戦後世界の繁栄の象徴であった福祉国家モデルが、新自由主義とグローバリズム抗し得ずに切り崩された現実を映し出す事態であり、その意味では「国家が民衆の生活と安全を保障する」という、戦後世界の常識となってきた「社会的生存権の保障」の問題が深刻な動揺に直面し、だからまた「国家=政府」と「国民=個人」の関係を改めて問い直さざるを得ない事態でもあった。
 こうした閉塞感が、欧米的な近代化に大きな役割を果たしてきた「個人主義と自由主義」のイデオロギーを再評価する契機となったとしても、不思議はない。しかも戦後世界で大きな政治的役割を果たしてきた二大政党のいずれもが動揺と失政を繰り返すなかで、少数といえども「個人の自由」を貫く「ブレない姿勢」を誇示するロン・ポール議員や、自ら同性愛者であることを公表し、巨大政党SPDとの連立を敢然と拒否して「個人主義」と「自由主義」を鼓舞したFDPの若き党首ベスターベレの毅然たる振る舞いは、国家や大政党による政治の恩恵を実感したことのない若年層にとっては、旧弊を打ち破るヒーローに見えても、致し方ない。
 と同時にこの事態は、中道の右派と左派という2つの政治路線に当面の社会的課題が集約され得た政治と経済の安定性が失われ、つまりは二大政党制なる政治システムの歴史的限界が明らかになり、それと共に戦後の工業的先進諸国が広く受け入れてきた中道政治を支えた価値観やイデオロギーの再評価が、広範な人々の意識をとらえ始めているという現実を反映する事態でもあろう。

▼所得移転と「中産階級」の再生は可能か

 かつて60年代後半から70年代にかけて、アメリカでは「ベビーブーマー」、日本では「団塊世代」と呼ばれた〃怒れる若者たち〃が、旧態依然たる権威主義や差別と格差に抗して社会的な異議申し立てに奔走した時代があった。
 当時の急進的な大衆運動は当初、第二次世界大戦という巨大な厄災を生き抜いて達成した〃平和と安定〃を謳歌する大人たちにとっては「理解不能の叛乱」だった。そして今、その世代が築き上げたと信じる繁栄と安定が崩壊の危機に瀕し、それを「虚構の繁栄」として批判する若い世代が、新しい「理解不能の叛乱」に立ち上がっているのだ。
 しかし実はベビーブーマや団塊の世代が享受した戦後の繁栄は、戦争遂行の必要に駆られて実施された強引で巨額な「所得移転」を契機にして、つまり1930年代にルーズベルト大統領が強行した「所得格差の大圧縮」=富裕層への課税を24%から段階的に最大91%まで引き上げた大増税によって、戦後のアメリカに分厚い「中産階級」層を形成する準備ができたことで可能になったと言って過言ではない。中産階級が支える大衆消費市場という戦前には無かった新たな巨大市場が、戦後の大量生産・大量消費という経済的好循環を切り開いたからである。【ルーズベルトの「大圧縮」については、本誌186号『オバマ政権の金融政策になうウオール街のエリートたち』を参照】
 その意味でウオール街占拠運動が、その中心的要求に所得移転=社会的再分配の強化を掲げるのは実にアメリカ的であり、歴史的でもある。
 そして問題は、「ファシズムと軍国主義との戦争」という脅迫的大義名分も無く、あるいは「堕落した欧州に対抗する新世界の構築」というアメリカを覆う熱意も無い〃今〃という時代に、こうした大胆な政治的イニシアチブを発揮できるような変革主体は、どこから、そしてどのように現れ得るのだろうか、ということではないだろうか。

 (11/8:きうち・たかし)


世界topへ hptopへ