●ドイツで中道右派政権が発足

社民党の歴史的大敗と自由民主党躍進の背景

― 欧州自由主義思想の伝統と「個人の自由」―

(インターナショナル第192号:2009年11月号掲載)


▼ 左翼党躍進論評への違和感

 ドイツ連邦議会は10月29日、賛成323、反対285でキリスト教民主・社会同盟(CDU・CSU=以下「同盟」)のメルケル首相を再選し、同盟と自由民主党(FDP)の連立政権が発足した。これによって同盟とドイツ社会民主党(SPD)の大連立は解消され、コール政権以来11年ぶりとなる「中道右派」政権が成立することになった。
 中道左派・SPDが下野し、右派・FDPが新たに政権に参加したことで、10月24日に公表された連立合意に盛り込まれた240億ユーロ(約3兆3千億円)の減税などが実施される一方、大連立による第1次メルケル政権が決定した「脱原発」政策などは修正されことになると見られている。
 11年ぶりの中道右派政権の成立は、言うまでもなく9月27日に投開票が行われたドイツ連邦議会選挙でSPDが歴史的大敗を喫し、FDP が歴史的勝利を収めた結果である。SPDは、前回比11・2ポイント減の23・0%という「史上最低」の得票率で222議席から146議席に後退したのに対して、FDPは逆に前回比4・8ポイント増の14・6%という「史上最高」の得票率で61議席から93議席へと躍進、これが大連立の解消と中道右派政権成立を決定づけたのである。
 その意味で今回のドイツ連邦議会選挙の総括の焦点は、昨年9月のリーマ・ンショックを契機とした世界的な金融危機を受けて、危機の震源地アメリカではブッシュ政権の経済政策を批判する民主党が大統領選と連邦議会選挙を共に制したのに対して、EU主要国であるドイツでは、フランスやイタリアと同様の中道右派が勝利したのは何故か、なかでもFDPという「自由主義=リバタリアニズム」を掲げた政党が、歴史的な躍進を見せた要因は何かを考察することにある、と考えていた。
 ところが、日本共産党の「しんぶん赤旗」をはじめ日本の左派勢力は、SPDの凋落と「左翼党−民主社会主義党」(以下「左翼党」)の躍進を大きく報じ、それがあたかも「社会主義に対する再評価」であるかのように論じる一方で、肝心のFDPの歴史的躍進にはほとんど触れていない。日本の主要メディアもまたドイツの「二大政党離れ」とSPDの歴史的大敗を論評はしても、FDP躍進の要因を探ろうとしない現実がある。
 こうした論評に、少なくとも私は違和感を抱く。と言うのは、こうした論評はドイツ左翼勢力とくに旧東ドイツの「社会主義統一党」(SED)の後継政党である「民主社会主義党」(PDS)への過大評価を助長する一方で、EU主要国の政治動向を単純に「右傾化」と断じ、ベルリンの壁崩壊後の欧州諸国で進展する社会的変化を見誤る危険をはらんでいるように思えるからである。

▼ PDS−WASG統合と左翼党の躍進

 たしかに、ドイツの「二大政党離れ」はまぎれもない現実である。保守派の選挙連合体である同盟と、伝統的な社会民主主義政党であるSPDの得票率は選挙のたびに低下し、左翼党や「90年連合・緑の党」(以下「緑の党」)など、理念や政策の明快な小政党への支持は増加傾向にある。今回の選挙でも、メルケル首相の高い人気に支えられて第1党になった同盟でさえ、得票率は前回比1・4ポイント減の33・8%にとどまっており、「同盟」とSPDとで得票率の7〜8割を得ていた冷戦時代と比較すれば、人々の「二大政党制離れ」は誰の目にも明らかである。
 また今回の選挙では、同盟との大連立で社民的政策さえ満足に実施できなかったSPDへの幻滅が、その「左」に位置する左翼党や緑の党へと流失したのも事実だろう。
 しかしながら、たしかにSPDは前回比11・2%の支持を失ったが、左翼党と緑の党の得票率の増加は合計でも前回比5・8%(左翼党3・2%、緑の党2・6%)と、SPDが失った得票の半分に止まり、残り半分は棄権したか他の政党に投票したと考えられる。さらに左翼党の全国における得票率は11・9%だが、その前身であるPDSの元々の基盤である旧東ドイツ地域5州では平均25%超なのに対して、旧西ドイツ地域11州の平均は4・9%と依然少数派にとどまっている「支持の偏り」もある。
 この得票率の偏りは、後述するドイツ統一後の東西地域の経済格差によると考えられるが、まずは左翼党躍進の要因とくに旧西ドイツ地域での躍進が、05年にSPD左派の党員らが結成した「労働と社会的公正のための選挙オルタナティブ」(WASG)との組織統合によるものであることを確認しておきたい。
 PDSとWASGの「組織統合」による最初の成功は、前回05年の連邦議会選挙であった。前々回の02年選挙で、議席配分を受けられる5%の得票率を下回る4・0%しか得票できず、98年選挙で得た36議席(得票率5・1%)から小選挙区の2議席に転落する大敗を喫したPDSは、05年選挙直前の7月、WASGとの統合準備のために「左翼党−民主社会主義党」と名称を変更し、両者は9月の選挙に「統一名簿」で臨んだのである。
 ちなみにドイツの選挙制度は比例代表小選挙区併用制で、政党に投じられた票にもとづいて議席を比例配分するのが基本だが、小選挙区での当選者が配分議席を上回った場合も「暫定議席」として認められており、連邦議会の基本定数598を上回る「暫定定数」になるのはこの為である。
 この05年選挙で「左翼党」は、02年選挙のPDSを倍する8・7%の得票率で54議席を獲得し、PDSが98年選挙で達成した最高得票率5・1%と最多獲得議席36をあっさりと超える躍進を見せた。と同時に重要なことは、旧西ドイツ地域の州議会選挙では5%の壁を突破できずにいたPDSが、WASGとの組織統合を目前にした07年5月に、州議会と同格のブレーメン市議会選挙で8・4%(7議席)を獲得し、旧西ドイツ地域の州議会で念願の初議席を得たことである。
 それは、07年6月のPDSとWASGの正式な組織統合をさらに強く後押したであろうし、旧西ドイツ地域の州議会選挙で、WASGと組織統合したPDS=左翼党が次々と議席を獲得し、今回の連邦議会選挙での更なる躍進を示唆することになったからである。そして今回の連邦議会選挙と同時に行われたレスウイヒ・ホルシュタイン州議会選挙で新たに5議席(6・0%)を得たことで、左翼党は、特別市を含むドイツ全16州のうち12の州議会に議席を有することになったのである。
 こうした経緯からも明らかなように、左翼党の躍進はかつてのSPD左派=WASGとPDSが統合した結果であり、左翼党が「広範な左翼統一戦線党」の性格を持ったからに他ならないのである。そして旧西ドイツ地域におけるPDS というよりはWASG への支持は、SPD右派のシュレーダー政権が、改革プログラム(ハルツ4)など新自由主義的経済政策を推進したことに反対して結成されたWASGに対する「伝統的な社会民主主義的な抵抗」への共感によるものと言えるのであり、これが「SPDへの幻滅」票が左翼党へと流入する主要な要因になったと考えられるのだ。

▼ 東西経済格差と左翼党

 こうした旧西ドイツ地域での左翼党躍進の要因に対して、旧東ドイツ地域での左翼党への支持は、必ずしも「新自由主義的政策への反感」という、アメリカの政権交代に通ずる要因があったとは言えないと思われる。
 と言うのは、現在の旧東ドイツ地域の経済的不振は新自由主義的経済政策の直接的結果というよりも、金融グローバリゼーションの展開で日本と同じような打撃をこうむったドイツ経済の低迷のために、ここ10年ほどは、旧東ドイツ地域への直接投資が伸び悩みつづけてきた結果と考えられるからである。現に旧東地域の一人当たりのGDP(国内総生産)はこの10年、旧西地域の71%でほとんど変化していない。もちろん東西統一後の旧東地域には、1990年から2009年までの20年間で1兆6000億ユーロ(約210兆円) の公的資金が投じられて道路網など社会的インフラは改善されたが、これによって西ドイツ企業が旧東地域に大規模に進出したわけではない。つまり旧東ドイツ地域では、「古くからの製造業」が西ドイツ製造業との競争に敗れて次々と姿を消した一方で、それに代わる製造業が生まれたり、西ドイツ企業が進出したりはしなかったのである。
 結果として昨年08年の失業率は、旧西ドイツ地域の6・4%に対して東は13・1%と2倍となり、同じく08年の平均所得も西の3213ユーロに対して東は2431ユーロと75%にとどまる経済的格差がつづいている。
 ベルリンの壁崩壊から20年目を迎えた今年、政府主催の記念式典が華々しく開催される一方で、こうした「東西格差」への不満と反感は、各種の世論調査でも明らかになっている。昨年12月、ドイツのフォルサ研究所が行った意識調査によれば、旧西ドイツ在住の72%の人が「統一後、東ドイツの人の境遇はよくなった」と回答したのに対し、東ドイツで同じ回答をした人は51%に止まり、逆に「境遇が悪くなった」と感じている人が25%、「統一によって暮らし向きがよくなった」と感じている人も46%と過半数を割り込んでおり、こうした「東西格差」への不満が旧東ドイツ地域での左翼党への支持、厳密には「PDSへの郷愁を含んだ支持」の背景となっているのである。
 ここで言う「郷愁」とは、「自由もないが失業もない」旧東ドイツ時代への回帰さえ期待する意識であり、今回の連邦議会選挙でも「左翼党への追い風」として早くから指摘されていたことであって、「社会主義への再評価」などとは到底言えないものであることは明らかであろう。
 ところでこの「東西格差」問題で、ひとつだけ付け加えておきたいことがある。それはSPD左派=WASGの一枚看板であり、現在はロタール・ビスキー旧PDS党首と共に左翼党の「共同党首」でもあるオスカー・ラフォンテーヌ元財務相が、当時のコール政権による急速な東西統一案を痛烈に批判し、「東ドイツは拙速な西ドイツとの統合を避け、独自に改革を進めその立場を強化してから、ヨーロッパ統合の枠組みの中で西ドイツとの統一を実現すべきだ」と主張したことである。
 もちろん彼のこの主張は、早期統一を熱狂的に求める「東西の」世論の反発を招き、90年4月には遊説中に襲撃されて重傷を負い、その入院中にはSPD自身も早期統一に賛成する立場へと転換した。そして東西ドイツ統一から2ヵ月後の12月に行われた連邦議会選挙では、ラフォンテーヌを首相候補にしたSPDは得票率33・7%(前回比3・5ポイント減)と実に1957年以来の大敗を喫し、ラフォンテーヌもこの敗戦を機に一旦は連邦政治から身を引くことになった。だがこの「拙速な東西統一」はその後、「拙速なクロアチア独立の承認」を機に泥沼のユーゴ内戦へとのめりこむ、「戦後ドイツ外交の危機」につながったのだと、私自身は考えている。

▼FDP躍進とリバタリアニズムの伝統

 今回の左翼党の躍進が、いわば東西ドイツ統一政策の失敗とその結果生じている「東西格差」に大きな要因があるとすれば、自由民主党=FDPの歴史的躍進の背景には、どんな問題が潜んでいるのだろうか。
 この問題を考えるにあたって、あらかじめ2つのことを確認しておきたい。その第1は、01年に現党首のベスターベレが党首になる以前のFDPは、相手が保守政党であれSPDであれ「柔軟にふるまって」連立政権に参加する「連立用の中庸な小政党」に過ぎなかったことであり、その第2は、FDP の掲げる「リバタリアニズム」は「自由主義」と和訳されて保守派と規定されているが、自由主義がリベラリズムの訳語として必ずしも保守派を意味しないのと同様に、その政治理念は日本的な保守的自由主義とくに「新自由主義」と称する近年の市場原理主義やグローバリズムとは一線を画す、「自由至上社会主義」やアナキズム(無政府主義)にも起源を持つ歴史的伝統を持っていることである。
 まずは「連立用の中庸な小政党」の「変身」について見ておこう。
 今回の選挙で、1948年の結党以来最高の得票率を獲得したのは前述のとおりだが、FDPの98年選挙までの平均得票率は8・75%(最高得票率は1961年の12・8%)で、同盟とSPDの二大政党の間でキャスティングボードを握り、柔軟に連立政権に参加することで延命してきた小政党の印象が強いのも当然である。東西統一直後の90年選挙では11・0%(79議席)を獲得したものの、以降4回の選挙でも10%割れがつづいていたFDPが改めて注目されたのは、前回05年選挙で9・8%(61議席)を獲得しながら、同盟に僅差で競り負けたSPDが緑の党に同党を加えた連立を打診したのを拒否し、「連立用の中庸な小政党」が「私は私の主張を掲げる」立場を貫いたことであった。
 SPDとの連立を拒んだベスターベレ党首は、39歳の若さで党首に選ばれて以降、市場寄りの自由主義路線を強めてきたが、自ら同性愛者であることを公表し「同姓婚の承認」を政策として掲げる「リバタリアン」でもある。彼は、連立拒否で「ぶれない党」という新しいイメージを確立するのに成功したが、この「ぶれない」態度の土台にあるのは「リバタリアニズム」という「個人主義」と「自由主義」の理念であり、「自由と個人の責任を原則とし、政府は『必要なだけの、できるだけ小さい』ものとする」という同党の政治方針もこれを裏付けている。そしてこの主張が、新自由主義経済政策の特徴である「自己責任」や「小さな政府」に通じているという意味では、同姓婚を承認するFDPも「保守勢力」あるいは「右派」には違いない。
 だが欧州リバタリアニズムには、こうした「保守・右派」とともに、前述したアナキズム(とくにプルードン)や自由至上社会主義の流れを汲む「左派リバタリアニズム」と呼ばれる思想潮流があり、70年代以降欧州に広がった緑の党などの政治勢力を「現代的な意味で」左派リバタリアンだと指摘する研究者もいる。いずれにしろこの思想潮流の特徴は、「私的財産権(もしくは私有財産制)は、個人の自由を保障する不可欠な原理」と考え、基本的には政府による徴税権すら否定する点にある。つまり他者による私的財産権の侵害は、それがたとえ政府であっても「個人の自由に対する制限もしくは破壊」に至る行為として批判されるし、したがってその経済政策は、政府による市場への介入や「大きな政府」による規制を「自由に対する侵害」として反対する、新古典派経済学や市場原理主義との親和性が強いのも確かである。
 ところがアナキズムの流れを汲む左派リバタリアニズムは、私的財産権を否定はしないものの、「個人の自由」をより徹底できるのは社会的公平、和解、連帯であると主張し、政府の関与がより小さい統治形態として自治や分権を積極的に擁護するのであり、それは新自由主義や市場原理主義とは違った意味で、「個人の自由」と「小さな政府」を追求しているとも言えるだろう。
 多少蛇足ながら付け加えれば、マルクスの言う「生産手段の社会的所有」は「私的財産権の擁護」とは非和解的だという認識は、必ずしも正確ではない。と言うよりもこのテーマは、日本でも論争がつづいてきたからである。具体的には、資本論の第1巻第24章第7節で、マルクスは「資本主義的生産様式から生まれる資本主義的取得様式は、したがってまた資本主義的私的所有もまた、自己労働にもとづく個人的な私的所有の第一の否定である」と述べ、それに続けて「生産手段の共同占有にもとづく個人的所有」の「再建」について述べていることにかかわる論争である。
(詳しくは、さざ波通信の「科学的社会主義」討論欄を参照のこと http://www.geocities.jp/sazanami_tsushin/discussion/marxism/x9911j.html)。

 少なくともマルクスは、「資本主義的私的所有」と「自己労働にもとづく個人的な私的所有」とを対立的に捉えて「個人的所有の再建」の考察を試みているのであり、その限りでは、リバタリアニズムの言う「私的財産権の擁護」を「資本主義的私的所有の擁護」と同一視することはできないのだ。
 そしていずれにしても、欧州のこうした思想的伝統やその歴史的背景を考慮に入れて、「SPDの凋落」と「FDPの躍進」という選挙結果を見ると、少しばかり違ったドイツ社会の変貌が垣間見える。

▼二大政党制の衰退と「個人の自由」

 SPDの歴史的大敗の要因として、SPDへの投票を呼びかけてきたドイツ金属産業労組(IGメタル)が、今回の選挙では「自主投票」を決めたことが指摘されている。同労組のフーバー会長が、「過去に過ちを犯し、支持率が下がったことを正直に認めよ」とSPDを批判したこともあって、4年間の大連立時代のみならず、シュレーダー政権でも年金改革や失業手当給付期間の短縮など伝統的な社民的政策に背を向けてきたツケが、SPDの歴史的大敗に直結したとの見方は根強い。
 だがフーバー会長は同時に、「労組が特定の政党や政治家を推薦する時代は終わった。人々は自分の頭で考えるべきだ」と述べたし、同労組広報も「政策によってわれわれが支持する政党は異なる。こうした状況では1政党への支持を求めることはできない」として自主投票を決めたように、IGメタルの自主投票の決定は、単にSPDへの幻滅という以上に「労組が傘下組合員に支持政党を指図する」時代の終焉を象徴する事態だったのではないだろうか。言い換えれば、「集団主義的な政党支持」が現実の組合員たちの要求とは一致しなくなり、あるいは「個人の自由」にもとづいて支持政党を決めようとする組合員の割合が増えたことの反映と考える方が、的を得ていると思うのだ。
 もちろんSPDの「裏切り」に対する幻滅はあるだろが、無視できないのは左翼党や緑の党というSPDの「左」に位置する「主張の鮮明な小政党」の存在であり、それもまた「個人の自由」な政党選択を容易にしたと考えられる。そして同じことが、SPDと同様に得票率を低下させつづける同盟と、「ぶれないリバタリアン」を党首に戴くFDPの躍進についても言えるだろうと思う。
 同盟とSPD二大政党の得票率が90%に達していた70年代、同盟の強固な支持基盤は大戦後の奇跡的な経済成長を実現した「強力な製造業」だったし、それはまた「産業労働者の一大集団」というSPDの基盤をも培ってきたのは疑いない。だがこうした安定的な二大政党制の社会的基盤は、敗戦による破滅という逆境に立ち向かい、東西冷戦による「祖国の分断」と対峙するための国民的団結の必要性ゆえに、欧州の政治的伝統である「個人の自由」とは少しばかり違った、ドイツ的な「集団主義」に彩られてきたのだろう。新たなEU統合条約の批准をめぐって、有権者「個々人」がその成否を左右することになる国民投票が欧州各国で波紋を広げる中で、「ナチズムへの反省」から国民投票制度を持たないドイツでは連邦議会がこれを批准したという事実は、こうしたドイツ的な集団主義のひとつの傍証と言えるだろう。
 だが90年代後半からの金融グローバリゼーションで、強力なドイツ製造業は国際金融資本の投機や奔放な動きに翻弄され、「産業労働者の一大集団」もまた既得権を次々と奪われはじめている。さらに東西ドイツの統合によって、ドイツ的集団主義はその経済的基盤と精神的必要の両面で、急速な衰退の過程に入ったのではないだろうか。自由主義を公然と掲げ、同姓婚を含めた「個人の自由」について「ぶれない」FDPの躍進の背景には、この集団主義の衰退と、これに変わって「個人の自由」という意味での自由主義の復権が進行する、ドイツ社会の「静かな変貌」が横たわっているように思われる。
 そしてこの「個人の自由」という点では、左翼党は緑の党よりも集団的思考が強いし、逆に緑の党は、同党のフィッシャー外相がNATO軍のユーゴ空爆を支持したように、政治的には多くのブレを抱えていると言わざるを得ない。

 もちろんFDPは、右派もしくは保守派の政治勢力である。だがFDPが突き出した欧州リバタリアニズム=自由主義の伝統は、「個人の自由」を何よりも重視すると言う意味で、いわゆる保守反動のアナクロニズムとは一線を画す、人々をひきつける「進歩的側面」をはらんでいることを見落としてはならないだろう。
 むしろ戦後の左翼勢力の方が「ロシア革命モデル」に固執し、国家権力の強襲的奪取と、その国家権力を使った「上からの変革」という革命のプロセスを、これを強権的に推進した共産党官僚独裁体制の容認も含めて絶対的な規範として崇め、まさにその結果として「個人の自由」を軽視する傾向に陥ってきたと言えるだろう。この意味で戦後左翼勢力は、少なくとも左派リバタリアンよりも国家主義的で、集団主義的で、中央集権主義的だったと言って過言ではないし、それは躍進したドイツ左翼党とりわけ旧東ドイツの政権党・SEDの後継党であるPDSにも受け継がれているのだ。
 そして今ドイツにおいて、右派リバタリアニズムの台頭を通じて「個人の自由」という意味での自由主義の復権が進行しつつあるとすれば、「人間の自由と平等の達成」を目指す社会主義運動の担い手たる左翼勢力は、改めて「自立的個人の自由な連帯」というコンミューンの理想を思い起こす必要に迫られていると思う。

(10/20:きうち・たかし)


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