●9・11テロ1周年

あの事件で世界は変わったのか

−世界資本主義の今日とアメリカの単独行動主義−

(インターナショナル129号・02年10月号掲載)


 2001年9月11日のニューヨーク世界貿易センタービルに対するテロ以来、世界はまったく異なった様相を帯びたかのように、マスメディアは報道しがちである。
 たしかにアメリカ合衆国政府の外交政策は一変し、国連や同盟国との条約に縛られることを嫌って単独行動主義的に動き、「アメリカとともにテロと戦うのか否か」を世界の国々に押しつけ、「アメリカの側に立つか敵になるか」の二者択一を迫っている。そしてアフガニスタンに大規模な軍事攻撃を行い、テロ組織アルカイダの掃討とこれを支援したアフガニスタンのタリバン政権を崩壊に導き、自己の息のかかったカルザイ政権をアメリカ軍と国連軍の駐屯のもとで樹立した。
 そしてイラク・イラン・北朝鮮を「悪の枢軸国」と名指しし、テロ組織の支援や大量破壊兵器の開発を断念しなければ攻撃すると脅し、とくにイラクに対しては期限つきの査察要求決議を国連に議決させ、イラクが応じなければ戦争をしかけ、フセイン政権打倒を行うと公言してはばからない。
 アメリカが脅威と感じれば、実際にアメリカへの攻撃が行われなくとも先制攻撃を行うとのブッシュドクトリンは、アメリカ外交が従来とは全く質的に異なっていることの象徴である。
 しかしテロはやまず、9.11一周年を前後して、イエメンにおけるフランスタンカーに対する自爆テロや、インドネシアバリ島におけるディスコ爆破などが行われ、アメリカブッシュ政権は、「アメリカ本土に対するテロの危険が高まった」と公言している。
 一見すると世界は、9.11以来大きく変わったかのように見える。

   ●アメリカ単独行動主義の歴史

 しかし詳細に検討してみるならば、アメリカが「単独行動主義」に出たのは、何も9.11のテロ以後ではないことは明白である。
 ブッシュ大統領が「アメリカへの脅威にたいする先制攻撃」と「アメリカはいかなる国際組織や国際条約にもとらわれずに、自国の国益を守るために行動する」ことを最初に表明したのは、たしかに9.11の直後である。
 しかしブッシュ政権自身すでに政権発足直後に、地球温暖化を防ぐために結ばれた京都議定書を批准しないことを表明し、アメリカの産業の発展のためには二酸化炭素の排出量を削減する国際条約に縛られずに、アメリカは国益のために単独行動をすることを明確に表明していた。
 またブッシュ政権の前のクリントン政権時代の1999年の10月に、共和党が多数派を握るアメリカ上院は、包括的核実験禁止条約批准を拒否し、アメリカがいかなる国際条約にも縛られずに単独で行動し、国益を守ることをすでに表明していた。
 さらにさかのぼれば、国家としての行動にはならなかったが、ブッシュ政権の国際政策を牛耳る「新保守主義派」の重鎮であるウルフォウィッツ国防副長官は、ジョージ・ブッシュ政権の国防次官捕であった当時、すでに単独行動主義を表明していたという。
 また1940年代以降の国際主義的政策、すなわち日本や西ヨーロッパなどとの軍事同盟を基礎にして、それら同盟国との協調による世界秩序の維持と、国連を中心とした経済組織による開放的平等互恵的貿易政策をはじめて破って単独行動主義に基づいた行動をした大統領はドナルド・レーガンだった。1980年代初頭、彼が国際的非難に抗してニカラグアに介入したことはまだ記憶に新しい。

   ●「平和維持」の傀儡政権

 また、アメリカの国益にそわない外国政府をアメリカが軍事的に介入して転覆するという行動も、何もアフガンが初めてではない。近いところでは1999年の新ユーゴ連邦におけるコソボ自治州の独立をめぐる問題で、NATO軍とアメリカ軍がセルビア共和国に空爆を行いミロシェビッチ政権を崩壊に導いたこと。またその前にも1992年のソマリアの内戦に際して、平和維持活動の名の下に内戦に介入し傀儡政権を作ろうとしたが失敗して撤退。さらにその前年の湾岸戦争ではクエートを侵略したイラクのフセイン政権を国連決議に基づく多国籍軍として攻撃し、政権の転覆を図ったが失敗。
 また1980年代には、1979年のサンディニスタ革命によってソモサ独裁政権を倒したニカラグアに対しては、右翼反政府ゲリラを支援して介入。当初はソ連よりではなかったサンディニスタ政権を周辺諸国による経済的軍事的封鎖によって左傾化させ、ロシア製ミサイル導入の危機を口実にして1983年には軍事介入。さらにはニカラグアによる国際法廷への提訴や国際法廷によるアメリカ非難をも無視し、アメリカ軍撤退の国連決議も無視して軍事介入を続行。結局は国連平和維持活動の一環とされた国際監視団による選挙という形でサンディニスタ政権を打倒した。
 また1979年にはソ連のアフガニスタン侵攻が行われたが、このきっかけは前年の親ソ連左派政権の成立とそれに対するイスラムゲリラの蜂起であり、その背後にはアメリカCIAの策動がある。そしてカルマル左派政権を維持するため軍事介入に及んだソ連軍をイスラムゲリラとの10年にもおよぶ死闘に誘い込み、カルマル政権の崩壊と、結果としてのソ連邦解体をも導いた。
 あげればきりがないのだが、これらの事件が民主党のカーター政権下や共和党のレーガン政権・ブッシュ政権、そして民主党のクリントン政権の下で起こっていることは、アメリカがすでに1970年代後半には、各地の民族紛争に介入して自己に都合のよい傀儡政権を作ろうとしてしてきたことを示し、これが民主党・共和党の別なく、また国連や国際組織の承認の下に動いた(ユーゴや湾岸やソマリア)か、国連や国際組織の決定を無視して動いた(ニカラグア)か、常に裏から反政府組織を支援して動いた(アフガニスタン)かの違いはあるにしても、70年代末からの一貫した動きであることを示している。
 そしてもうひとつ、この70年代末以降のアメリカの軍事介入の特徴は、それまでの1940年代から70年代までのアメリカのそれが、1949年の中国、1950年の朝鮮、1960年代のベトナムやキューバの場合のような、社会主義革命の阻止またはその周辺への波及の阻止のための介入とは異なることである。
 すなわち、社会主義をめざしているわけではないさまざまな民族紛争に介入してその地に傀儡政権をつくり、そのことでかえってその地域を社会的に不安定な状態に置いていることである。

   ●アメリカ覇権主義の一里塚

 アメリカの対外政策は、1970年代後半以後大きく変わりはじめていたといって間違いないであろう。
 ただそれが、2001年のアフガン攻撃までは、1940年代以降築いてきた国際協調の枠組みを使い、国際的な同盟国との意思一致を優先させながら行動していたが、2001年のアフガン攻撃以後は明確に路線を変更し、同盟国も国際組織もアメリカの意向に従うものとして同調することを迫り、単独行動も辞さずの動きにでたのである。
 言いかえれば1970年代の後半から2001年までは、アメリカが現在の唯一の覇権国家として単独行動主義をとるに至るまでの、国際政策の試行錯誤の時代であったのである。
 そしてこの20年間を通じて徐々に西ヨーロッパや日本という同盟国を、そしてロシアや中国というかっての敵国をもアメリカの行動に同調させ、それに従わざるを得ない状況を作ってきたと言える。
 この観点からすると、1991年の湾岸戦争が今日の覇権国家アメリカの単独行動主義の大きな一里塚であったと言わざるをえない。
 一地域の紛争にアメリカ軍が国連決議を身にまとって介入しただけではなく、イギリスやNATO諸国をも軍事行動に巻き込み、自衛隊の海外派遣を渋ってきた日本をも事後処理と言う形ではあるが動員し、さらにはイラクのかっての同盟国であるロシアの承認をも取りつけて、1991年のイラク攻撃はなされたのである。
 この時は周到な国連での根回しをへてこれを実現し、2001年のアフガン攻撃ではほとんどアメリカの脅しで国連や同盟国を屈服させたという経緯の違いはあれ、1991年のイラク攻撃と2001年のアフガン攻撃、そして近々行われるであろうイラク攻撃とは、唯一の覇権国家であるアメリカが、世界の強国を付き従えて弱小な一地方国家を軍事的に制圧するという意味では、その攻撃の性格も、その攻撃の国際的な枠組みも、ほとんど同じなのである。
 そしてアメリカが、国際組織の枠組みを無視して軍事行動を起こした最初の例は、1983年から1985年のレーガン政権下のニカラグア侵攻であり、いったんこの動きは陰を潜めたが、1999年の包括的核実験禁止条約の批准拒否以後は再びこの傾向は強まり、2001年9月11日のテロをきっかけとして一機に強化されたということであろう。

   ●湾岸戦争後に続発した対米テロ

 では「イスラム原理主義」を標榜する組織によるテロはいつから始まったのだろうか。
 その最初のものは1981年のエジプトのサダト大統領暗殺事件である。そしてこれは対ソ連の「聖戦」を戦った国際イスラム組織(アルカイダはこの一部である)が、最初に自国の政権に対して行ったテロである。
 そしてこのイスラム組織は1988年までアフガン戦争を戦い抜き、ソ連をイスラム圏から駆逐して以後は、アメリカに代表される西洋文明に同化してイスラムの伝統を遵守しない自国の政権に対する闘争をエスカレートし、イスラム圏の内紛に軍事的に介入してくるアメリカへの反感を強めていった。
 そのアメリカ敵視による最初のテロは、1983年のアメリカ軍のレバノン駐留に対する自爆飛行機によるテロであるが、1991年の湾岸戦争でアメリカがサウジアラビアに駐留するにいたって、対アメリカテロは激発していくこととなる。
 イスラムの伝統を守らない自国政権打倒を目指しながら、それを実現できなかったイスラム原理主義組織は、湾岸戦争による米軍のアラブへの介入の拡大を機に大同団結し、アメリカをテロの標的とすることで自国政権に揺さぶりをかけたのである。
 すなわち、1993年のニューヨーク貿易センタービルでのトラック爆弾による爆破。1995年のサウジアラビアのリアドの米軍基地近くでの爆破事件。そして翌1996年にはダーランのアメリカ軍基地近くでの爆破事件。さらに1998年にはケニアのナイロビとタンザニアのダルエスサラームでのアメリカ大使館爆破。そして2000年10月には、イエメンに立ち寄ったアメリカ海軍のイージス艦に対する自爆テロ。
 2001年9月11日のテロは、1991年の湾岸戦争を契機とした、イスラム組織のアメリカを標的にした一連のテロ事件の帰結として存在し、世界貿易センター、国防総省、連邦議会というアメリカ中枢部への痛撃であったのである。そしてこれはビン・ラディンが語っているように、アメリカによるイスラムへの介入に対する報復なのである。

   ●戦後資本主義の退潮とともに

 以上のように、アメリカの対外政策の変遷とテロの変遷とを歴史的に素描してみると、「世界が変わった」のは2001年9月11日ではなく、1979年、1983年、1991年という三つの画期に区切られたいくつかの段階があったとはいえ、すでにずっと以前のことであったことがわかる。
 ではその画期とは一体どのような時期だったのだろうか。
 1979年とは、1971年のドル危機と1973年の第一次オイルショック、1979年の第二次オイルショックによって、1940年代以降に驚異的な成長を遂げてきた戦後資本主義がその発展の頂点を過ぎ、経済的発展が下降線をたどり始めたその始源の時であった。
 そしてオイルショックに典型的にみられるように、戦後資本主義の繁栄を支えていた安価な資源を得ることが旧植民地諸国の民族主義の高揚とともに不可能となった時、アメリカは産油国を中心に自国に従属的に動く政権をテコ入れし、各地の親アメリカ独裁政権の下で、アメリカによる巨額の経済援助を元手にした資本主義的発展を図った。安価な資源を手に入れると同時に、資本主義的市場の新たな拡大を狙ったのである。
 しかしこの路線は、中東の産油地域に激烈な貧富の格差と、アメリカナイズされた文化の移入によるイスラム的な伝統との衝突を生み出しもした。この衝突の一つの帰結として1979年のイランにおけるイスラム革命を誘発し、この地域は以前よりもさらに政治的に不安定な状態に陥ったのである。
 アメリカは治安維持部隊を中心にイランのイスラム政権転覆を図ったが失敗し、以後はソ連から援助を得ていたイラクのフセイン政権に対する軍事的経済的援助を拡大してこれを強化し、イラクによる対イラン戦争をしかけることでイスラム革命の拡大阻止を行ったのである。
 ここから直接的または間接的な軍事介入による、アメリカに従わない政権転覆の路線が始まったのである。
 1983年のレーガン政権によるニカラグアへの軍事介入と、その後の度重なる国連や国際裁判所による警告をも無視した単独行動主義の時代は、ドルと金の兌換を停止(1971年)しながらもドルを国際基軸通貨として維持することになった1985年のプラザ合意を通じて、世界経済をアメリカの政策の統制下に置き、世界経済のアメリカ一極支配へと進む時期であった。世界各国の中央銀行にドルが大量に流入し、他方その見かえりとして世界中の資本がアメリカに流入してバブル景気を支えるという形でそれは実現された。
 世界経済におけるアメリカの覇権の確立と軍事的レベルでのアメリカの覇権の確立とは、メダルの両面のようにして進行した。
 そしてアメリカの一極的繁栄が実現した1980年代後半から90年代前半にかけては、アメリカの単独行動主義は一時的に影を潜め、1991年の湾岸戦争時のような国際協調主義の傾向が強まったのである。
 さらに1991年は、そのアメリカ一極的な繁栄の最中に、1980年代末から東欧における労働者国家群の崩壊としてはじまった動きがソ連邦の消滅へと至り、戦後世界政治を彩ってきた冷戦構造が劇的な形で崩壊し、アメリカが文字どおり唯一の世界的覇権国家となったその時期である。しかも解体された旧ソ連圏を世界資本主義経済圏に組み込んだということは、新たな市場の拡大という側面よりも、経済的に脆弱で、しかも政治的に不安定な諸国をその傘下に抱えることで、世界資本主義経済に対する不安定要因をさらに増やす結果となった時期でもある。
 1991年のイラクによるクエート侵攻を契機にして、それまでの軍事的経済的援助と石油価格の安値安定の取引を通じてアメリカ資本と密接不可分の関係に入った中東のイスラム圏諸国は、軍事的にも政治的にもさらに緊密にアメリカに結びつけられた。そして先にも述べたように、EUの創設と国際通貨としてのユーロの確立によってアメリカとは相対的に独立した動きを示していた西ヨーロッパ諸国や、かつての敵であるロシアをもアメリカの軍事行動に巻き込み、政治的にも従属した立場へ追いこんでいった。
 そして世界経済の持続的退潮の一方でアメリカが一極的繁栄を謳歌する影で激発する地域紛争に対して、アメリカは今まで以上に強硬な態度で臨み、次々と軍事的介入を「平和維持」の名の下に行っていったのである。
 以上のようにアメリカの国際政策の画期を追ってみると、それはすべて戦後世界資本主義経済の退潮局面でのそれぞれの画期に対応しており、アメリカの国際政策は、世界資本主義経済が衰退するとともに変化していったことがわかる。
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 ではこの観点から見ると、2001年9月というのはどのような時期であろうか。
 世界を自国の資本投下・商品販売市場とし、かつ世界中の余剰資本をアメリカに集中させることで、1980年代後半から続いたアメリカの一極的繁栄にかげりが見え始めたのは、1999年のことである。世界市場の拡大もアメリカ国内市場の拡大も、限界に近づいたことによる製造業の停滞。そしてこれによる利潤の低下を補うように起きた資本の投機と、これが世界各地で引き起こした金融不安と通貨危機。2000年末にはアメリカ経済も減速をはじめ、世界経済も同時的に深刻な不況の様相を見せ始めていたのである。
 こうした中でアメリカに共和党右派を基盤とするブッシュ政権が成立し、成立直後からこの政権は単独行動主義をとりはじめ、1940年代以後アメリカが築いてきた世界秩序との間に深刻な軋轢が生じたのである。
 2001年9月11日のテロは、ちょうどこの時期に起き、アメリカはこれを契機に単独行動主義を全面開花させ、世界の国々を政治的軍事的に従属的な立場へと追いこみ始めたのである。

   ●どう世界は変わったのか?

 ブッシュ大統領はしばしばその演説で「世界は変わった」と公言している。この「世界は変わった」とは何をさしているのだろうか。 直接的にはこれは「アメリカに対する脅威、世界の安定に対する脅威が、国家間の戦争ではなく、得体の知れない国際的テロ集団とこれを支援するテロ国家による脅威へと変わった」ことをさすことが多い。そしてもうひとつは、「冷戦が終わり、アメリカが世界の唯一の覇権国家である」という事実を指す場合もある。
 前者はブッシュ政権の単独行動主義を推進する新保守主義派の主観的な世界像であることは明白だ。問題なのは後者であろう。
 「冷戦が終わった」とは、世界のどのような変化を意味するのだろう。
 この問題を考える時、冷戦が戦後世界資本主義経済の驚異的な成長に果たした役割を考える必要があると思う。
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 戦後資本主義経済の高成長の背景は、大量生産大量消費のシステムを導入し、労働者階級や旧植民地諸国の生活改善を市場の不断の拡大の梃子としたことにある。そしてこのシステムの確立と発展のために、国家が大量の投資を行い、社会保障の充実によって市場の拡大を下支えすると共に、科学技術の発展のためにも巨額な投資を行い、次々と更新される技術革新が新たなる市場をも拡大するという好循環の構造を作ってきた。そしてこの経済の発展を基盤に、国内的にも国際的にも民主主義と国際協調を推進し、先進資本主義国内の労働者階級と旧植民地諸国のさまざまな階層の人々を、資本主義と民主主義の陣営に確保しつづけたのである。
 ではこの資本主義の新たな性格と冷戦との関係は何であったのか。
 冷戦とは、1917年のロシア革命による世界で最初の社会主義をめざす労働者国家の成立と、1950年代の中国革命・東欧・ベトナムなどの労働者国家群の拡大によって引き起こされた、資本主義の危機的構造によって生み出された対立の構図である。
 アメリカは、資本主義ヨーロッパが労働者階級の搾取と植民地の搾取の強化でしか発展を維持できず、かえって世界に社会主義を蔓延させかねない状況に対して、旧資本主義のファシズム化を阻止する第二次世界大戦という国際戦争を通じて世界資本主義をアメリカ的に改造し、資本主義の新たな発展を切り開いた。しかもソ連との軍事的経済的競争は巨額の軍事予算を必要とし、より優れた武器を開発するための技術革新にも毎年巨額の資金が投入された。
 大量生産大量消費のシステムとそれを支えた絶えざる技術革新。これを側面から支える役割を冷戦も果たしていたのであろう。そしてこの結果としての新たな市場の絶えざる拡大。これこそ戦後の資本主義の驚異的な発展を支えた基盤であったと思う。
 先進資本主義国内の市場の拡大が飽和状態に陥り、軍事支出の重圧に資本主義が耐えられなくなった1970年代。そしてこれをカバーするための旧植民地諸国の資本主義的開発による新たな市場の開拓も行き詰まりを見せ始めていた1990年代初頭。ソ連の崩壊により、資本主義の高成長を支えていた2本の柱が崩れはじめた。
 アメリカが国際政策を変え始めた背景には、資本主義の高成長の終焉という事態があることはあきらかであろう。

   ●アメリカはどこへ行くのか?

 しかし、唯一の覇権国家としてアメリカが世界を従属させようという新保守主義派の戦略は、いまだアメリカ一国すら包み込んではいない。
 ブッシュ政権内の国防総省を中心とする新保守主義派と、国務省を中心とする国際協調派の死闘は今も続いている。そしてアメリカの盟友であるEUでは、まだ圧倒的に国際協調派が優勢である(日本においても同じ)。イラク攻撃をめぐる国連安保理の新決議をめぐる攻防は、この事態を示している。
 新しいアメリカの国際戦略はまだアメリカ内部ですら合意はできていないし、世界のアメリカ同盟国との合意すらできていない。またイラク侵攻 ・フセイン政権打倒後の中東の政治地図すら描けないことに見られるように、新保守主義派は、その国際戦略の行きつく先すら明示できていない。戦後資本主義の高成長が終焉した今、覇権国家アメリカは、新たな国際戦略をなお持ち得ていないというのが正直な所だろう。
 今後アメリカは、そして世界はどこへ行くのか。これは世界資本主義がどこへいくのかということと同義である。
 この意味でアメリカの個々の動きに対応することは大事だが、その背景にある戦略的思考のあり方の推移に目を凝らすと同時に、その背景となる世界資本主義経済の過去・現在・未来の分析が、今こそ必要である。

(10/20:すどう・けいすけ)


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