【世界金融危機】

人為的な装置が醸成した非常識な市場心理の結末

−投資銀行を消滅させたモラルハザード−

(インターナショナル第183号:2008年11月号掲載)


▼中枢に波及した危機

 昨年8月、「サブプライムローン」を組み込んだ債務担保証券(CDO)の損失拡大で欧州の金融機関が次々と経営危機に陥り、これを契機に世界中に広がった金融不安が、ついにアメリカの大手投資銀行を破綻や業態転換に追い込む事態に発展した。
 直接の契機は9月15日、アメリカ投資銀行大手第4位のリーマン・ブラザーズが、連邦破産法11条の適用を申請して破綻たことでニューヨーク市場の株価が暴落、世界同時株安の連鎖が始まったことである。だが、数カ月前から経営危機が顕在化していたリーマンの破綻が、「大恐慌以来の危機」と言われる金融危機にまで発展したのは、「期待を裏切られた」金融市場に、予想を越える狼狽が広がったためであった。
 と言うのは今年3月、同じくアメリカ証券大手のベアー・スターンズが経営破綻に追い込まれたときは、連邦政府が事実上その損失を補填する形で大手銀行JPモルガン・チェースに救済買収させ、9月7日には、ファニーメイ(連邦住宅抵当金庫)とフレディマック(連邦住宅貸付抵当公社)の政府系住宅金融2社の救済も発表されたことから、「リーマンも救済されるはず」との見通しが支配的だったからである。
 しかし、ポールソン財務長官が「公的資金での救済はない」と繰り返し表明してリーマン救済を拒絶したことで、救済合併の交渉は頓挫してしまった。
 リーマン破綻後の金融不安の高まりにもかかわらず、9月27日に「金融救済法案」が下院で否決されたことでも判るように、連邦政府・財務省は、多くの訴訟を抱えるリーマンの悪評もさることながら、詐欺まがいの住宅ローン貸し付けに関して全米で400人を越える逮捕者が出ているなど、「強欲な」投資銀行救済に対する批判が高まり、リーマン救済を躊躇せざるをえない事態に直面しつつあったのである。
 だがリーマンの破綻は、ニューヨーク株式市場の暴落と、世界同時株安という最悪の展開の引き金となった。この事態に驚き、連邦政府は金融救済法案の提出へと180度の路線転換に追い込まれたが、投資銀行もまた、なりふりかまわぬ自己保身に走った。投資銀行大手3位のメリルリンチは、大慌てで大手銀行バンク・オブ・アメリカへの身売りを決め、同じくゴールドマン・サックスとモルガン・スタンレーも、連邦政府による規制と保護の対象となる銀行持ち株会社への「変身」を余儀なくされた。
 こうして、金融グローバリゼーションの頂点に君臨し、金融工学を駆使した多様な金融派生商品の開発・販売と、高レバレッジ(高い借入比率)の手法で荒稼ぎをしてきたアメリカ大手投資銀行は、わずか数日の間に姿を消し、独立系の大手投資銀行と呼べる金融機関は、野村ホールディングスを残すのみとなったのである。

▼「非常識な市場心理」の形成

 もっとも、大手投資銀行の消滅が、投資銀行が引き受けてきた多様な金融業務やビジネスモデルの消滅を意味する訳ではない。現に多くの銀行持ち株会社は、その傘下に商業銀行と共に「投資銀行」を抱え、銀行と証券の分離規制の撤廃を受けて、商業銀行の多くも投資銀行と同様の業務を行う部門を抱えてもいるからだ。
 その意味では、現在の金融危機の背景や要因について、ひとつは投資銀行の相次ぐ破綻の要因となったモラルハザード(倫理崩壊)の問題として、いまひとつは世界的な金融バブルの背景である「空前の金余り」、つまり後期資本主義の危機の現れである過剰流動性の問題として、それぞれ区別して考える必要があると思う。
 本稿では、大手投資銀行の消滅に帰結した金融危機と、その要因となったモラルハザードについて考えてみたい。

 もともと「投資銀行」と邦訳されているアメリカ型金融業は、日本では「法人向け総合証券会社」と理解した方がなじみやすい。だが反面で、日本における証券会社のイメージは、株式売買の取り次ぎを行う「証券ブローカー」という、リティール証券に限定されているのも実情だろう。
 しかし投資銀行と証券会社の収益源は、企業が金融市場から直接資金を調達するのを仲介して手数料を稼ぐこと、つまり証券や社債の発行仲介手数料を稼ぐことであり、他には財務リスクヘッジ(=債務不履行の危険への歯止め)やM&A(企業の買収や合併)への助言や仲介、つまり顧客企業と有料のアドバイーザー契約を結ぶなどにある。
 そして金融仲介業の必要は、投資銀行が消滅しても無くなりはしない。
 もっとも、全盛を誇ったアメリカの投資銀行が築き上げたビジネスモデルは、これら金融仲介業に加えて、自ら資金を調達した投資(トレーディング)を最大の収益源とするような、いわば自らが「ヘッジファンド化」して荒稼ぎをするモデルであり、その投資先が、金融工学を駆使した多様な金融派生商品だったのである。
 ただ問題の核心は、投資銀行が「最も利回りの良い」投資先、言い換えれば短期間で高収益を得ることができる投資として顧客にも推奨した金融派生商品の多くが、実は「高いリスクに見合う高い利回り」(ハイリスク・ハイリターン)だったにもかかわらず、金融工学という複雑な確率算定数式に依存した証券化技術と、アメリカ証券取引委員会(SEC)がお墨付きを与えた「格付け会社」による格付け(=リスク評価)によって、まるで「低いリスクで高い利回り」(ローリスク・ハイリターン)が可能な「夢の金融商品」であるかのような、非常識な市場心理が醸成されてきたことにある。
 金融工学の、とくにディフォルト(債務不履行)確率を算定する怪しげな論理ついては、本紙176号(07年10月)の「『根拠なき熱狂』をあおった米住宅バブルと債務担保証券」で触れたので、ここでは省略する。
 ただCDO(債務担保証券)価格の大半は、この怪しげな数式で算定された「理論価格」であり、それが金融機関の損失の確定を困難にし、「何処にどれだけ損失があるのか判らない」という相互不信を助長し、金融機関の短期資金調達を困難にして流動性危機(クレジット・クランチ)を深刻化させ、金融不安を一段と深刻にした大きな要因であることを付け加えておきたい。
 と言うのも「理論価格」は、サブプライムローンを組み込んだCD0をはじめ、多くのCDOが市場ではほとんど流通していない為に必要とされたからである。つまりCDO売買の大半は、証券市場の自由な取引ではなく、対面販売の形でヘッジファンドや機関投資家そして他の金融機関に販売されていたために、新自由主義者が偏重する「市場価格」が形成されなかったのだ。結果として買い手の無くなったCDOは、投げ売りさえできない事態に陥ったのである。
 「すべてを市場に委ねる」を旗印にした新自由主義の下で、市場価格が成立しないCDOが大量に売買され、それが金融バブルを醸成したという事実の中に、90年代以降の金融グローバリゼーションの危うさが凝縮されていると言う他はない。
 しかもこうした「理論価格」や「リスク評価」の怪しげさを隠蔽し、「非常識な市場心理の形成」に積極的役割を果たしたのは、SECのお墨付きを得た格付け会社の「格付け」というリスク評価や、金融工学の権威づけに貢献した「ノーベル経済学賞」など、市場原理とは無縁な「人為的装置」だったことは、あまり問題にされていない。
 だが、これら「人為的装置」の検証ぬきには、今日のモラルハザードの正体は見えてこないだろう。

▼コーポレート・ガバナンスの監視役

 では、SECの「お墨付き」得た格付け会社とは何者だったのだろうか。
 ドルと金の公式な兌換停止から4年後の1975年、SECは幾つかの有力な格付け会社(レーティング・エイジェンシー)に、「NRSRO」なるお墨付きを与えた。
 全国的に(Nationally)、認められた(Recognized)、統計処理をする(Statistical)、格付け(Rating)、組織(Organization)の頭文字を取ったNRSROは、創設から30年以上も経た今日でも、世界でたった7社しか認定されていない。日本には、07年9月に認定された日本格付研究所(JCR)と格付投資情報センター(R&I)の2社があるだけだ。
 この7社の内の上位2社、ムーディーズとスタンダード・アンド・プアーズ(S&P)は、両社合わせて世界の格付けシェアの80%超を占める絶大な影響力を持つが、その格付け、つまり「お墨付きのリスク評価」の威力をまざまざと見せつけた例がある。
 本山美彦著『金融権力』(岩波新書)によると、1991年末、アメリカ自動車メーカービッグ3のひとつGM(ゼネラル・モータース)が45億ドルの巨額損失を発表すると、ムーディーズがGMの格下げを発表、これを受けたGMは21の工場閉鎖と7万4千人の人員整理というリストラ計画を発表した。GM経営陣は、資金調達を困難にする「格下げ」に押されて、大量解雇に踏み切ったのである。
 ところが翌92年3月、今度はS&Pがリストラ計画が不十分だとしてGMの格下げを発表、さらにS&Pは11月に、GMが新機軸を打ち出さない限り、格付けをジャンク・ボンド並に、つまり「投資不適格」に引き下げると警告し、翌93年にこれをを実施した。理由は、同社の年金資金の積立不足と莫大な医療費の支払いだったが、これによってGMはCP(コマーシャル・ペーパー)の発行が不可能になり、金融市場で資金を調達できない事態に陥ったのである。
 GMのような巨大企業さえ、NRSROによる格付け引き下げに抗し得ないとすれば、他の企業は推して知るべしである。現に日本に進出したムーディーズとS&Pは、1997年に日本企業の格付けを執拗に引き下げ、その年の11月には、戦後最大となる山一証券の倒産が起きたのである。
 これだけの影響力を持つNRSROだが、SECはその認定基準を公表していないし、格付け基準も個々の格付け会社に委ねられ、実態は不透明というよりブラックボックスである。だがその意図は、明快である。
 『エコノミスト』誌(94年1月29日号)は、利益最大化の原則を取るよう企業所有者を誘導し、その原則以外の考え方で行動しないよう監視する役割を格付け会社が果たしてきたと報じたが、この「利益を最大化する」行動原則は、当時のクリントン政権が推奨する「コーポレート・ガバナンス」(企業統治)に他ならなかったのである。直接金融よりも間接金融への依存が大きいドイツや日本の企業の格付けが低いのも、グローバル・スタンダード(世界標準)とされたコーポレート・ガバナンスを基準にしてのことであり、その監視役を果たす格付け会社、とくにNRSROと認定されたそれは、グローバル・スタンダードを世界中の企業に押しつける道具=こん棒だったのである。

▼最上級格付けの瓦解とレバレッジ

 ところが今回の金融危機では、格付け最上級の「AAA」(=トリプルA)が、次々と破綻に追い込まれた。
 その典型は、住宅バブルに陰りが見えはじめる前の05年まで、最大最強の保険会社としてAAAの格付けだったAIG(アメリカン・インターナショナル・グループ)が、AAAよりも安全とされ、「スーパー・シニア」と呼ばれる最強のCDS(クレジット・デフォルト・スワップ)の損失拡大で、リーマンが破綻した翌日の9月16日、連邦政府による850億ドルの緊急融資を受け、事実上の国家管理下に置かれたことである。
 CDSとは「デフォルト保険」、つまり証券化商品が債務不履行になったとき、その元本を保証する金融商品だが、AIGはその最大の売り手であり、保証した証券化商品の元本総額は4410億ドルに上っていた。
 しかもAIGのCDSは、格付け上は「最強の保険会社」が売った「最も安全なCDS」ということになり、そのCDSさえ決済できないとなれば、CDSやモノライン(金融保証専門会社)の保険の上に成立している金融派生商品市場600兆ドル(なんと6京円!)は一挙に瓦解し、アメリカ発の金融恐慌が世界経済を襲うのは確実だった。
 これが、連邦政府・財務省があらゆる逡巡を振り切って、1民間企業たるAIGを救済した理由であり、単に「大きすぎて潰せない」ということではなかったのだ。
 その後の「金融救済法案」の否決とニューヨーク市場の暴落、手直しされた「金融救済法」の成立と更なる株価の暴落と、連邦政府の混乱と金融危機の拡大がつづいたが、事はそれに止まらなかった。
 ヨーロッパでは、今年5月までAAAだった金融グローバリゼーションの優等生・アイスランドが、「国家非常事態宣言」を発して銀行の国有化に追い込まれた。
 9月末から10月初旬にかけて国有化された3大銀行のカウプシング、ランズバンキ、グリトニルは、00年の民営化を機に投資銀行化し、海外から莫大な資金を借りてイギリスやデンマークに投資してきた。日本では「テコの原理」などと訳される、高レバレッジ(高い借入率)投資である。
 非居住者口座預金を含む3行の資産総額は、アイスランドGDP(国内総生産)の実に10倍にも達していたが、世界株式市況の暴落でバランスシートにはGDPの何倍もの損失が生まれ、短期の対外借り入れだけでもアイスランドの外貨準備の15倍と、文字通り国家が破産の危機に直面したのだ。
 これほどの高レバレッジと比べれば、AIGが自己資本の4倍の想定元本保証をしたのは可愛い部類だが、そのアイスランドにAAAの格付けが付与されていたのは、借入で投資額を膨らますレバレッジこそは、グローバリズムの「正しい生き方」、つまりアメリカ金融資本の推奨するコーポレート・ガバナンスだったからに他ならない。
 そもそも短期資金の借り換えを繰り返しながら、証券化された住宅ローンのような長期債券に投資すること自体、財務体質の脆弱化をもたらさずにはおかない。借り換えや資金調達に支障が出れば、たちまち経営破綻に追い込まれるからだ。そのうえ、借金で投資額を膨張させるレバレッジが奨励されて多用されれば、自己資本比率(対資産)がたった1%という、変身を余儀なくされたモルガン・スタンレーのような投資銀行は持ちこたえられるはずもない。
 アイスランドの実例は、金融グローバリズムによるモラルハザードの行き着く先を暴いて余りある。

▼「ノーベル経済学賞」の虚構

 AAAの凋落はいまや覆い隠しようもないが、格付けというリスク評価の算定もまた、金融工学の産物であった。
 この金融工学という新しい技術(そう!これは学問というより技術なのだ)に、NRSROによる格付けのような権威を与え、「非常識な市場心理の醸成」に大いに貢献したもうひとつの「人為的装置」が、「ノーベル経済学賞」である。
 実はこの賞は、正確には「ノーベル賞」ではない。正式には「アルフレッド・ノーベルを記念するスウェーデン国立銀行による経済科学賞」という名称で、スウェーデン国立銀行がノーベルを偲んで、1968年に設立した賞である。だから選考方法や賞金額は他のノーベル賞と同じだが、その賞金はノーベル財団からではなく、スウェーデン国立銀行によって支払われている。
 「ノーベル経済学賞」のいかがわしさは、ノーベル賞の選考機関であるスウェーデン・アカデミーが、1997年にスウェーデン国立銀行にその廃止を要請したことや、ノーベルの兄弟のひ孫であるピーター・ノーベルら4人のスウェーデンの人権派弁護士が、2001年に地元の「ダーグブラデット」紙に、経済学賞は「人類に多大の貢献」をした人への授与というノーベルの遺訓にそぐわないとの批判を寄稿したことでも知れる。
 しかもこの賞のおよそ3分の2はアメリカの経済学者に授与され、とくに新古典派経済学の牙城として有名なシカゴ学派のオプション理論やリスク評価モデルに与えられているのも、際立った特徴である。
 これだけでも、この賞の果たした役割は十分に推察できるが、その最初の綻びが露呈したのは、ノーベル経済学賞の受賞経済学者2人が参画したヘッジファンド=LTCM(ロング・ターム・キャピタル・マネジメント)が、ロシア国債のデフォルトをきっかけに、巨額の損失を被ってあっけなく破綻した1998年のことである。
 このとき、LTCMの「金融界のドリームチーム」は、ロシア通貨危機は「標準偏差値10個分の現象だ」と言う有名な言葉を吐いた。標準偏差値10個分は数百億年に1回のことで、宇宙の歴史を数回やり直しても1回しか起きない現象だと言い放ったのだ。
 それはまるで「間違っているのは現実の方だ」と言わんばかりの迷言だが、金融工学のこうした致命的欠陥は、自然科学ではよく用いられる確率論の「頻度理論」を、安易に経済学に適用した結果である。
 簡単なことだが、自然科学の分野で現れる諸事象の確率頻度は、長期に渡って数多く反復される事象が「確率を数値化する」基礎になっているが、主観的意図や思惑でバラバラに行動する無数の人間が営む経済現象では、「長期に渡って数多く反復される事象」などあり得ない。人間は学習し、新たな制度や技術を開発するからだし、ケインズが喝破したように、人々の経済行動の多くは、将来への不安など、心理的要素にも大きく影響されるからである。
 つまり経済学的な「予測」とは、「10年の間に一定の地域で戦争が起きる確率」を予測するような不確実なものであって、宇宙工学やロケット工学が「宇宙船と隕石が衝突する確率」を数式を用いて予測するのとは、基本的に性質を異にするのだ。
 わたしが、金融工学を「怪しげな」と形容するのは、こうした致命的欠陥を持つからに他ならないが、それはそのまま「ノーベル経済学賞」のいかがわしさでもある。
 だがこうして、90年代以降の国債金融市場は、NRSROやノーベル経済学賞といった「人為的装置」によって、繰り返して言うが「市場原理」とは無縁な、むしろ政治的な意志によって、大きな変貌を余儀なくされてきたのである。
 この政治的意志とは、「ワシントン・コンセンサス」と呼ばれた、アメリカ金融資本の国際的優位を実現しようとするものだったのだが、それに言及する紙幅はない。それは次号以降の課題としたい。

▼緊急課題は金融取引の規制

 最後に、本稿の目的であるモラルハザードについて考えてみよう。
 モラルハザードは「倫理崩壊」などと訳されるが、もう少し正確に言えば、新しい制度や技術が、その本来の目的とは違った結果に帰結することを含意している。「強欲な経営者」が、倫理や道徳を無視した儲け主義に走ると言った矮小な事象とは、少しばかり意味が違うのだ。
 具体的に言うと、「リスク・ヘッジ」つまり金融取引上の損失の可能性に対して、それを最小限に止めようとする技術や取引の開発は、それ自身としては安定した経済活動に必要なことでもある。だがそれが、ヘッジファンドとして富裕層による資産運用の手段となり、さらにファンド相互が資金集めを目的に高配当を競い合うようになれば、リスクを回避するはずの資産運用も次第にレバレッジを効かせた投機の様相を呈し、「リスク・ビジネス」なる本格的な投機へと変貌する。このように、リスクヘッジ本来の目的が後景に追いやられ、リスクビジネスなる投機がそれに取って代わるような事態が、問題とすべきモラルハザードである。
 「債権の証券化」も、その本来の目的は、住宅ローンのような長期債権をひとつの金融機関が保有しつづけるよりも、「住宅ローン担保証券」(MBS)の形で多数の投資家に分散して保有してもらい、証券販売で回収された資金を新たなローン原資として貸付に回そうというものであり、それ自身としては「リスクの分散」という意味でも、資金の効率的活用という意味でも、決して「怪しげな」金融商品ではない。
 ところが金融会社が「証券を売る」ことを目的に、しかも「より魅力的な」金融派生商品の開発という名目で、プライム(優良)ローンもサブプライムローンもごちゃ混ぜにしたMBSを組成し、さらに他のクレジットローン担保証券などと束ねて新たなCDO(債務担保証券)にする再証券化を繰り返し、価格さえ金融工学の数式でしか決められないCDOを大量生産すれば、数式がいかに精緻だろうと、そのリスクを正確に管理するのが不可能になって当然だろう。
 こうしてMBSやCDOは、事実上金融会社の債権リスクを簿外に「飛ばす」手段と化し、帳簿上のリスクが消える分だけ融資資格審査は軽視され、ついには、住宅資金を貸し付けてMBSやCDOを売るだけで「利益の最大化」が実現できるという、「非常識な市場心理」が醸成された。その結果が、詐欺まがいの手法で無収入の失業者にまでローンを組ませる、貸付競争の激化であった。
 蛇足ながら「飛ばし」は、倒産した山一証券が、当時は不良債権や損失隠しのために多用した手法である。
 これが、金融危機の契機となったサブプライムローン問題のモラルハザードの正体であり、それを促進した道具と技術が、NRSRO認定の格付け会社と、ノーベル経済学賞で粉飾された金融工学であった。

 このモラルハザードの結末は、極めて深刻である。世界経済は、文字通り奈落の淵に追い詰められている。
 しかもモラルハザードが、以上述べてきたように引き起こされたとすれば、それを回避するための金融取引の規制は、最優先の重要課題である。レバレッジの上限規制、CDS組成の際の構成要件の制限と情報公開、リスク管理の義務化等々、それこそ「公正な市場」を実現するためにも必要な金融取引規制の必要性が、これほど明快に認識される事態はないからである。
 もちろん、アメリカ金融資本の代弁者たちは、必ずや「行き過ぎた規制」に反対するだろう。だが、90年代以降の「金融グローバリゼーション」の完全な破産は、いまや誰の目にも明らかである。

(11/14:さとう・ひでみ)


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