【チベット騒乱の波紋】

伝統文化を破壊する観光開発

−中国共産党の変節とチベットの自治−

(インターナショナル第180号:2008年6月号掲載)


 3月14日にチベットで起きた暴動と、中国政府による弾圧が波紋を広げている。
 8月の北京オリンピックに向けた聖火リレーは、チベットでの中国政府の弾圧に抗議する人々によって格好の宣伝の場となり、リレーを中止させようと実力行使に訴える人々も各国で次々と現れた。そして警備陣に幾重にも取り囲まれ、沿道の観衆から見えなくされた聖火リレーは、いわゆる「チベット問題」を、瞬く間に世界的な関心事へと押し上げることになった。
 ところがその関心のもたれ方は、「チベット独立」問題として一面化され、あるいは中国政府の人権抑圧にばかり焦点が当てられたことで、むしろこの問題の歴史的背景には触れず、解決されるべき課題が後景に追いやられいる観がある。
 聖火リレーの「妨害」をめぐって、「スポーツの政治的中立」なる建前やオリンピック憲章を引き合いに出し、北京オリンピック開催の是非を論じることなどは、むしろチベット問題に関する歴史的理解を妨げ、「解決されるべき課題を後景に追いやる」議論の典型と言える。
 そもそも、国家の名誉と期待を担うスポーツ選手を一堂に会し、その勝利を讃えるのに国旗を掲揚し国歌を演奏して国威発揚に資する近代オリンピックが、政治的に中立であることは現実的には不可能だろう。世界各国をめぐる聖火リレーも、1936年のベルリンオリンピックの際に、ヒトラーがナチス・ドイツの国威発揚として始めた極めて政治的な儀式に起源がある以上、その舞台を利用して何らかの政治的なアピールを試みることは、むしろ必然的でもある。
 だがこうして、暴動の引き金となった事情は報じても、チベット問題の歴史的背景や意味は語らない報道が巷にあふれ、結局のところ「チベット問題」とは何かと言う、最も素朴な疑問に答える情報が極端に不足し、それがこの問題に対する認識を一面化するのを助長している。

▼暴動の発端とチベット近代史

 3月暴動は、「チベット人蜂起記念日」49周年(多くは「チベット動乱49周年」と報じられたが・・・)の10日、中国警察当局が、チベットの首都・ラサ近郊の仏教寺院でデモを計画していた僧侶を摘発、200人以上を拘束したのがきっかけだった。
 この身柄拘束への抗議が14日の暴動へと発展したのだが、その背景には昨年の6月末から7月にかけて、上海などで開かれた中国とチベット亡命政府の6回目の非公式協議で、中国側が「チベット問題など存在しない」という強硬姿勢に転じ、チベット民衆の反発を招いたことがある。
 他方、中国政府が多数の僧侶の拘束に踏み切ったのは、昨年8月30日、亡命チベット人最大の組織である「チベット青年会議」の年次総会で、「デモやハンストだけではない。反抗のレベルを高め、北京五輪前に何らかの動きを起こす」などの議論があったことと関係している。
 オリンピックという、国際的にも注目を集める舞台を利用したチベット民衆の抗議行動を事前に摘発し、その拡大を押さえ込もうとした強硬手段が、逆にチベット民衆の怒りの火に油を注いだと言える。
 こうした、暴動に至る契機は多くのマスコミも報じてはいるが、そもそも「チベット動乱」とは何か、そうした動乱が起きたのは何故か、だからまた「蜂起記念日」の3月10日はチベット人にとって、あるいは中国政府にとってどんな意味を持つのか等々は、ほとんど報じられなかった。

 もっとも、「チベット問題」に関する歴史的背景は、チベットに隣接するインド、ネパールそして中国といった諸国の、19世紀半ば以降の巨大な社会的激動と密接かつ複雑に絡み合い、簡潔に解説するのは難しい。それでも、「現在の」チベット問題の始まりは正確に指摘できる。
 それは1949年10月、国民党との内戦に勝利した中国共産党が中華人民共和国の成立を宣言し、その直後から「人民解放軍は、中国全土を解放しなければならない。チベット、新彊(しんきょう)、海南島、台湾も例外ではない」と主張し始めた時である。これは、周辺地域でも「革命を貫徹し」、もって「国民国家・中華人民共和国に統合する」ことを、中国共産党が次の戦略目標として明確にしたことを意味していた。
 当時の「チベット政府」(=1642年に成立した「ガンデンポタン」のこと)は、1912年に清朝が滅亡した翌13年2月、ダライ・ラマ13世が独立を宣言してから独立国を自認し、モンゴルとの間に「チベット・モンゴル相互承認条約」を締結するなどして、辛亥革命で成立した中華民国政府に、チベットの独立を認めるように訴えていた。
 このときイギリスは、植民地インドに接するチベットが中国に統合されるのを牽制しようと、武器や借款を供与してチベットを支援し、ロシアも同様にモンゴルを支援していたが、植民地争奪戦を繰り広げていた帝国主義列強が、両国を「独立国」として承認することはなかったし、中華民国の北京政府と国民党政府も、「チベットは中国の一部」という態度を変えなかった。
 むしろ第二次大戦当時は、中国共産党の方が「完全な民族自決権」を承認し、中華ソヴィエト共和国憲法(1931年)では、少数民族がそれぞれ「民主自治邦」を設立し、「中華連邦」に自由に加盟または離脱する権利を有すると定めていた。
 実際にも中国共産党は、1934年−36年の長征の途上、カム地方(現西康省)で占領した町々でチベット人に「波巴(チベット人)政府」を樹立させ、1935年にはその代表を集めた「波巴依得巴(チベット人の政権)全国大会」を開催してこれらの政府を統合し、「波巴人民共和国」と「波巴人民共和国中央政府」を発足させている。つまりチベット人の「民主自治邦」が、中国共産党の主導で設立されたのである。

▼チベット動乱と蜂起記念日

 ところが前述のように、中華人民共和国が成立すると、中国共産党は「チベットは中国の一部」とする中華民国政府の主張を全面的に踏襲し、1950年には圧倒的な武力でチベットに侵攻してこれを占領した。
 この中国軍による侵攻最中の1950年10月、チベット国民議会は、当時まだ16歳だったダライ・ラマ14世に国家元首の地位を引き継ぐよう要請し、「チベット外務省」は、「チベットは、全権を引き継いだダライ・ラマの下に団結している。(中略)私たちは、眼前の不当な侵略を平和的に仲裁してくれるよう、全世界に向けてアピールを行う」との声明を発表した。
 ダライ・ラマ14世が、今なおチベット人の精神的支柱として高い権威を持つのは、まさに近代チベットの「国難」の中でその地位に就き、その後のチベットの苦難を体現する存在だからなのである。
 しかし翌1951年、中国政府は「中央人民政府と西蔵地方政府の西蔵平和解放に関する協議」(いわゆる「17カ条協定」)の締結をガンデンポタン(チベット政府)に強要し、ガンデンポタンを「地方政府」と位置づけてチベットの独立を否定し、チベット全域を中華人民共和国に統合したのである。
 この、中国によるチベット侵攻と統合が、今日に至る「チベット問題」の発端だが、それでも当時の「17カ条協定」は、ガンデンポタンが実効支配していた西蔵地方(現在のチベット自治区)を、チベット仏教の法王にして国家元首でもあるダライ・ラマが統治することを形式上は認め、この地方では「改革を強要しない」ことを明示した妥協の産物であった。
 だが「歴史的チベット」と呼ばれる、チベット人が数多く居住するアドム地方(青海省、甘粛省西南部、四川省西北部)とカム地方(四川省西部と雲南省西北部)では、50年代半ばから「民主改革」や「社会主義改造」が強行された。中でも、「宗教はアヘンだ」というドグマにもとづく仏教寺院の破壊と僧侶の殺害は、チベット人の激しい反感を呼び起こし、1956年には「歴史的チベット」地域で、チベット人の武装蜂起が始まった。「チベット動乱」の勃発である。
 当初は中国軍を悩ませたチベット人の武力攻勢も、1959年になると激しい鎮圧作戦の前に劣勢となり、ダライ・ラマ統治下の西蔵地方には、戦火に追われたチベット人難民と共に敗走する武装勢力も大量に流入し、それまで比較的平穏を保っていたこの地域でも中国軍との緊張が高まった。
 そして運命の1959年3月10日。ラサの中国軍司令部がダライ・ラマ14世を観劇に招待するが、チベット仏教の儀礼を一切省き、少数の非武装の護衛以外の同行を認めず、しかもすべてを極秘の内に運ぼうとする中国軍の対応が、中国によるダライ・ラマの拉致という疑惑を、チベット人の間に広めることになった。こうして10日朝、ダライ・ラマを護ろうと固く決意した、3万人とも言われるチベットの人々がポタラ宮の前に集まり、解散を命じる中国軍と一触即発の状態に至ったのである。
 武装抵抗闘争に対しても、「政府」が保有する武器や食料の提供を断り、17カ条協定でかろうじて保持されている「自治」の堅持と武力衝突の回避に腐心してきたガンデンポタンとダライ・ラマ14世にとって、事件の結末は明白だった。数万人のチベット民衆と中国軍の激突は、多数のチベット人が殺戮される惨劇になるだろうと。
 こうしてダライ・ラマ14世はラサを脱出し、翌4月、北インド山岳部のムスーリで「チベット亡命政府」の樹立を宣言した。この亡命政府は1960年4月、インド北西部のダラムサラに拠点を移し、「3月10日」が、チベット人がダライ・ラマを護るために自発的に立ち上がった「チベット人蜂起記念日」に制定されたのである。

▼経済開発と「文化的虐殺」

 もちろん、中国にも反論はあろう。中国軍がチベットを占領した1950年は、朝鮮戦争が勃発して東西冷戦が公然たる戦争に転化した年であり、当時のチベット全域では、インドから移駐してきたイギリス軍の通信施設が、なお多数稼働してもいた。さらに1959年末から、チベット人武装勢力がアメリカで軍事訓練を受けたことでも判るように、チベット人の武装抵抗闘争が、CIAによる支援を密かに受けていたこともある。
 そうである以上、激しい内戦を経て誕生したばかりの若い革命政権が、「帝国主義による反革命包囲網」に抗して、安全保障上の必要から、周辺地域の軍事的制圧を迫られたと言えなくはない。
 それでも、「蜂起記念日」から半世紀を過ぎた現在も「チベット仏教を信仰する自由」が回復されてはいない事実は、弁明の余地のない人権抑圧であり、その発端が、ドグマにもとづく仏教寺院の破壊と僧侶殺害であったことも、厳しく非難されて当然だ。
 だがこれだけなら、「チベット問題」の解決の道筋はそれなりに明らかである。「革命世代の誤り」に責任のない現在の中国指導部が、チベット仏教を弾圧した過去を真摯に謝罪し、信仰の自由を保障して法王であるダライ・ラマに敬意を払うことで、和解の糸口を見いだせるだろうからだ。
 ところが「現在の」チベット問題は、いわゆる「和諧社会」建設という胡錦濤・温家宝政権が推進する政策がチベット地域に新たな問題を引き起こし、その解決を困難にしている側面がある。

 和諧社会の建設を掲げた「第11期5カ年計画」は、内陸部の3カ所を「三陸」として開発重点地区にしたが、そのひとつ「西南部地区開発」は「通商解放」の掛け声の下、2006年7月に青海省・西寧とチベット自治区の首都ラサを結ぶ青蔵鉄道(=青海チベット鉄道)が全面開通した。
 だがこの鉄道建設は、その全通以前からチベットに「観光ブーム」をもたらし、そのブームに目をつけた中国人(=漢人)による観光事業投資を一挙に拡大させた。
 この結果、チベット自治区の07年度の経済成長率は14・0%と、7年連続で12%を超える急成長を達成したが、それは反面、ラサ市街に漢字の看板を掲げるホテルや土産店、食堂が乱立して町並みを一変させたばかりか、チベット人家庭の仏壇にある仏像や仏具、はては民俗的生活用品までが二束三文で漢人商人に買い取られ、「土産品」として観光客に売り払われる事態になった(ちなみに、チベットを訪れる外国人観光客数の第1位は、日本人観光客である)。
 こうした観光開発の急進展は、「漢人経営者」と「チベット人労働者」を生み出しもしたが、その労使間の紛争がまたチベット人の漢人への反感を強め、漢族とチベット族の民族的対立を助長している。
 漢人の経営者は、チベット人労働者を「蔵蛮子」(チベットの野蛮人)と蔑(さげす)み、「豊かにしてやっても、寺に寄付してしまうから意味がない」【朝日:3/28】と語るが、それはチベット仏教に至上の価値を置くチベット族のアイデンティティーを無視する、民族蔑視に他ならない。
 この蔑視の背景には、革命によって「近代国家になった中国」、あるいは今日では「経済発展著しい中国」といった、近代化=進歩であるという、これまた国家主義的ドグマが横たわっており、それがチベット仏教への厳しい規制=僧侶のタイトな定員制、警官の寺院常駐、ダイライ・ラマ批判を僧侶に強要するなどの政策として実行されていると言えるだろう。
 もっとも、文化大革命が公式に否定された1979年、最高指導者・登小平は「独立以外ならすべての問題が議論できる」とし、民族衣装の着用や仏教寺院建立の規制を緩和する軌道修正を図ったが、1988年の「ラサ騒乱」を契機に、中国政府は、自治区の政府幹部に中国各地から次々と漢人を送り込み、経済開発をともなう「チベットの近代化」を推進してきたのである。
 これが、現在の観光事業開発につながっているのだが、そうである以上、チベット人から見ればそれは、「観光資源として民族衣装や寺院建立を認めただけ」と受け取られても仕方がない。
 ダイライ・ラマ14世が、今回の暴動の背景として批判する「文化的虐殺」は、チベット仏教への禁圧ばかりでなく、経済開発に伴うチベットの生活文化全般の破壊という二重の抑圧と破壊なのであり、こうした現実が、チベット人の憤懣を臨界点にまで押し上げたのは疑いないだろう。

▼国民国家による世界分割

 ところで、中国政府がチベット仏教にこれほど神経質になるのは、チベット仏教の法王であるダイライ・ラマが、単に宗教上の権威であるだけでなく、あらゆる世俗権力や政治の上に君臨する存在として崇められていからである。しかもその権威は、かつてはモンゴルや満州(中国東北地方)にまで及び、満州人の王朝であった清朝の乾隆帝はチベット仏教に帰依し、現在の中国河北省に「外八廟」という、チベット仏教寺院群を巨費を投じて建設したほどであった。
 そのチベット仏教では、ダイライ・ラマは人々を保護し導くために「転生」を繰りかえす観音菩薩の化身であり、だからまたチベットが独立国であれば、国家元首を兼ねるのも当然のことなのだ。
 ところが、この「独立国であれば」という前提が、チベットの「独立」や「自治」に関する議論や協議を混乱させる主要な原因になっているのだと思う。なぜなら、チベット仏教におけるダイライ・ラマの「地位」は、いわゆる近代的な「国民国家」を前提にしてはいないからである。
 インド伝来の仏教経典の原典を保存し、高度な哲学から薬草に関する実践的知識までを網羅する、「最古の総合宗教」とでも言うべきチベット仏教は、むしろ原初的な人間共同体の統合原理を体系化したものと言えるし、だからまた世俗の権力や政治を超えて、人々が自らを律する(自律)規範と、生活に必要な知識や技術を「宗教の形で提供する」ことで権威を築いてきたのである。それは中央集権的政府と常備軍とを持って相対峙し、条約や協定で互いに国家主権を承認し合う「近代的な国家関係」とはまったく違う関係の中に、ダイライ・ラマの地位と権威の基盤があるということなのだ。
 乾隆帝のチベット仏教への帰依は、「辺境地域」の安定のために、チベット仏教に寄り添うことでその権威を利用したのだろうし、ガンデンポタン(これも「政府」というよりは「ローマ法王庁」のような組織だが)の側も、清朝の「アンバン(駐在代表)」を受け入れることで、周辺部族に対する安全保障を強化したと言える。そしてこの場合の清朝とチベットの関係は、当然ながら近代的な国家関係ではない。それは「帝国」の周囲に、権威ある法王が治める「自律的地域」として連なる関係である。
 現代のイメージなら、「持ち株会社・清朝」グループの傘下に、知名度、信用性ともに抜群の独立採算子会社が、自発的に加入する関係とでも言えるだろうか。
 だがこうした、ある種の「自律と自治」を前提にした中世的帝国は、19世紀から急速に台頭した「近代的国民国家」による侵略の圧力をうけて、とりわけ中央集権的にあらゆる能力、人材、物資を動員し、国家間の総力戦を担いうる近代国家への再編と変身を迫られたのである。
 1905年、近代国民国家に再編された日本との戦争(日清戦争)に敗れ、朝鮮半島への影響力(宗主権)を失った清朝も、そうした変身を迫られて1908年にチベットに侵攻した。それはチベットからイギリスの影響力を駆逐し、これを「近代国家の領土」として統合しようとする試みだったが、これは達成されることなく清朝は滅亡した。
 だが代わって登場した中華民国は、当初から近代国民国家を自認する、チベットにとっては「自律と自治」を脅かす存在だったのである。かくしてガンデンポタンは1913年にチベット独立を宣言し、自らも「独立国家」と称することで、この脅威に対抗しようとしたのである。
 つまり「チベット問題」とは、近代国民国家が隆盛を極め、相互に植民地と領土の争奪戦を繰り広げ、ついには数千万人の死者を出す世界大戦に至る渦中で生じた問題、言い換えれば「国民国家による世界分割」が生み出した問題なのであり、独立宣言後のガンデンポタンが、自らを近代国家に再編することに「失敗した」といった評価は、当然再検証されるべきなのである。
 そもそも、チベット仏教を基盤とする統治の原理は、政教分離や選挙による議会といった国民国家の統治原理とは次元を異にしており、前者は「野蛮」で後者は「進歩的」とするドグマこそが、根本的な再検討を迫られているのである。
 現に、国民国家の形成が「無条件に進歩的である」という、20世紀前半の「国家主義の流行」に巻き込まれた中国共産党が、内戦の過程で自ら「中華連邦」の理想を捨て、中国を近代的国民国家として強引に統合しようとした結果が、「チベット問題」の発端だったことは前述のとおりである。

▼「高度で広範な自治」

 1990年のソ連邦の崩壊以降、世界各地で激化した「民族問題」は、その後もユーゴスラビア連邦の崩壊と内戦として顕在化し、それは社会主義と連邦主義の誤りの結果であるかのように見なされてきた。
 だが、イスラエルとパレスチナ人の半世紀以上に及ぶ抗争や、フセイン政権崩壊後のイラクでクルド人の「独立」が焦点になったように、それは第二次大戦後の現代世界の、最も重要な不安定要因のひとつなのだ。
 つまり第二次大戦と、その後の数十年におよぶ独立戦争と革命を伴った「国民国家による世界分割」の上に成立した現代世界は、国民国家を手にした民族と、これを達成できなかった民族とに分断され、ソ連邦の民族的分解に刺激された後者が、新たな「国民国家による世界分割」を要求しているのが「現代の民族問題」の核心なのだ。
 しかも、頻発する「民族問題」を通じて★明らか★になったことは、「民族単位の近代的国民国家」の形成が「民族問題」を解決しないばかりか、むしろ「新たな民族問題」を発生させたり、新たな紛争の火種となる危険を伴っているということであろう。

 ところでその後、4月に中国西南部を襲った四川大地震の報道のために、「チベット問題」の報道は大きくは後退した。それでもチベット地区の聖火リレーが中止されたり規模が縮小されたりと、その波紋は広がりつづけている。
 北京オリンピックが開催される8月にむけて、「急進的独立派」を代表する「チベット青年会議」を中心に、亡命チベット人による中国政府への抗議行動が繰り返し展開されるだろうし、現在の政策がつづく限り、「チベット問題」は繰り返し中国政府を悩ませるに違いない。そして、こうした事態を沈静化してチベット族との和解を回復するイニシアチブは、現在のところ中国政府が握っているのも明らかである。
 解決されるべき問題の核心は、チベット仏教に対する信仰の自由の完全な回復であり、チベットの生活文化全般の破壊を促進している漢人の「植民」と開発事業の規制である。しかも、チベット仏教への信仰の保証と、世界遺産・ポタラ宮の不可分の一部であるチベット文化の保全を、「民族独立」問題として政治的に扱おうとする限り、和解の糸口は見いだすことさえ困難である。
 そして現実に、武力によるチベット独立には現実的基盤も推進力もない以上、ダライ・ラマ14世が主張する「チベットの広範で高度な自治」の要求が、極めて現実的な解決策の方向を示していると考えられる。
 したがって問題は、この「高度で広範な自治」をチベット仏教を基礎とした民族的文化の表現ととらえ、国家的独立とは次元の違う要求として容認する柔軟性が、中国政府にあるか否かなのである。
 「和諧社会」の建設が、過熱する中国経済の成長至上主義の軌道修正を意図するものであるなら、チベットの民族的文化の保全は中国西南地域の「開発事業」の質的転換を通じて、「調和のとれた中国社会」の新たな可能性のモデルとなり得るだろう。

(6/5:きうち・たかし)


世界topへ hptopへ