NATOはユーゴ空爆を即時中止せよ!
帝国主義的権益の防衛になうEU社民党の政権基盤の動揺


どろ沼の瀬戸際へ

 北大西洋条約機構(NATO)軍は3月24日夜、ユーゴスラビア連邦全域に対して大規模な爆撃を開始した。連邦セルビア共和国コソボ自治州のアルバニア系住民に対するユーゴ軍による弾圧を止める「人道的介入」を名目に始められたNATO軍による爆撃は、その規模を拡大しながら5月15日現在も続行されており、投下された各種爆弾の量は、すでに湾岸戦争を上回るまでになっている。
 しかるにこの1カ月以上におよぶ、しかもほとんど一方的な爆撃は、ユーゴ軍とセルビア人民兵によるアルバニア系住民への弾圧と居住区からの強制追放を拡大し、近隣諸国に大量の難民が流出する事態をもたらしたばかりか、弱体化を狙ったはずのミロシェビッチ政権の民族主義的基盤を逆に強化し、ユーゴ連邦やセルビア共和国のミロシェビッチ批判派をも苦境に陥らせ、これに苛立つ欧米強硬派による地上軍派遣の圧力を強めるという結果をもたらした。
 結成50年目を迎え、冷戦終焉後の欧州で新たな「平和と安定」の期待を担うはずであったNATOは、アメリカの圧倒的な軍事力を頼みにコソボ紛争という「周辺事態」の収拾に乗り出し、その「不手際」を隠蔽しようと逆効果をもたらした軍事介入に踏み切り、ついにはその失墜した「威信」のために〃ユーゴ内戦〃という泥沼に足を踏み入れる瀬戸際に追い込まれつつある。そしてこのNATOの自ら招いた苦境は、NATO加盟諸国で相次いで政権を獲得した、緑の党を含む社会民主主義的勢力の内部に、とりわけドイツとイタリアで、新たな政治分解を顕在化させはじめることになった。

ランブイエの「誤算」

 今年1月15日、コソボ自治州の州都・ブリシュティナの南15キロにあるラチャク村で、アルバニア系住民45人がセルビア治安軍によって殺される事件が発生した。セルビア軍当局は、コソボ解放軍(KLA)との戦闘による死者と発表したが、少なくとも戦場から逃れようとした住民18人と、納屋に隠れていてセルビア軍に連行された男性23人の遺体がこの死者の中に含まれていた。いわゆるラチャク事件である。事件後、昨年10月の停戦合意にもとづいて駐留していた欧州安保協力機構(OSCE)のコソボ合意監視団が現地調査に入ったが、団長のウォーカー(アメリカ人外交官)は「発端となる衝突や緊急事態のあった形跡はなく、事件は冷血な殺人でしかない」(「Newsweek日本版」:2月3日号)と声明、ユーゴ政府は彼に国外退去を命じた。この退去命令は、大慌てでベオグラードに幹部を派遣したNATOの圧力で凍結されることにはなるが、この事件を契機にユーゴ軍によるKLA掃討作戦が強化され、10日間で約80人のアルバニア系住民がKLAとして殺された。しかもこの一連の事態は、隣国であるアルバニア本国や、人口の20%とも言われるアルバニア系住民を抱えるマケドニアで連日の激しい抗議デモを引き起こし、政情不安がコソボ周辺地域に波及する様相を呈しはじめた。
 こうして、今回と同様に空爆の恫喝でユーゴ連邦のミロシェビッチ大統領に受け入れさせた昨年10月のコソボ合意(即時停戦とOSCE監視団の受け入れ)は破綻し、コソボの紛争が近隣諸国に拡大する懸念が強まった。こうした情勢の圧力を受けて、NATO加盟諸国は新たな停戦と和平協定をコソボに押しつけるために、フランスのランブイエに両当事者(ユーゴ連邦政府およびセルビア共和国政府と「コソボ共和国」およびKLA)代表を呼びつけるのである。
 そのランブイエでの交渉は、当初から極めて危ういものであった。両当事者には、とくにユーゴ政府とKLAの間には、ほとんど妥協の余地はなかったからである。ミロシェビッチにとってKLAは、98年にアメリカ自身も認定した「テロ組織」であり、その掃討作戦はテロ撲滅を意図した治安問題に他ならず、欧米諸国の規範である国際法に照らしても、外国ことにその軍隊が武力で介入する余地などない国家主権に属する内政問題である。そうである以上、内戦で先鋭化した民族的激高を背景に連邦大統領となり、民族主義者が多数を占めるセルビア議会に突き上げられていたミロシェビッチにとって、KLAとの妥協や、非武装の監視団とは違う武装したNATO軍の駐留は、ほとんど受け入れ難い要求であった。しかも昨年10月と同様「空爆の恫喝に屈した」と非難されるようなNATOへの譲歩は、自ら政治生命を投げ捨てるに等しい選択であった。
 他方KLAにとっても、コソボの独立を認めようとしないNATO諸国政府による独立問題の先送り(3年後に合意内容の包括的見直し)や、解放軍の解体を意味する武装解除を求める和平案は、ほとんど検討に値するようなものではなかった。現実にラチャク事件を契機にして、いわゆる穏健派の対話と自治の要求に代わって、KLAの掲げるコソボ独立の要求は、苛立ちを募らせるアルバニア系住民間で、急速に大衆的支持を拡大しはじめていたからである。
 だがこうした難航の予想される交渉を控えて、仲介役であるNATO加盟諸国政府は驚くほど楽観的であった。ユーゴ駐在の欧米外交官たちは交渉直前にも、経済制裁下のユーゴはKLA鎮圧の経済的負担に耐えられないだろうとして「ミロシェビッチはコソボを手放したがっている」(前掲「Newsweek日本版」)と放言し、他方のKLAもまたセルビア軍の攻勢の前に苦境に陥っていることから、和平案を受諾させるのは容易であろうとの観測を流していたのである。
 この重大な誤算が、否むしろ現地情勢の変化を正確に把握もせずに、NATO加盟諸国の権益防衛のために、バルカン半島の表面上の和平だけを目的とした調停案を当事者に押しつけ、民族と宗教の諸問題が複雑に絡み合う利害対立を収拾しようとした傲慢さが、ランブイエ和平交渉の破綻を準備したと言っても過言ではない。だから2月6日に始まった交渉では当事者による直接交渉すらままならずに、両者の間を欧米調停団が往復するといった変則的な間接交渉の末に中断を繰り返し、ついには暗礁に乗り上げたのも当然の成り行きであった。
 かくしてランブイエ交渉は、アルバニア系住民側とくにKLAが、NATOの軍事力を利用して武力闘争を有利にしたいとの思惑から調停案の一方的受諾を表明、これを空爆の恫喝で強引にユーゴ側に受諾させればすむと考えた欧米諸国の動きに対して、「合意は両当事者によってなされるべきだ」とロシアのマイオルスキー特使が反対を表明し、調停団が事実上分裂するという醜態を演じて決裂することになる。
 仲介役のNATOは、紛争の一方の当事者となる軍事介入へと追い詰められた。だが最後の切り札である空爆は、恫喝の道具ではあってもコソボの状況を変える万能の手段ではなかったし、停戦を実現する見通しすら定かではなかったのである。

空爆の諸結果

 空爆開始からわずか数日後、NATO欧州連合軍総司令官クラークは「われわれに虐殺を阻止することはできない。もともとできるとは思っていなかった。最悪の虐殺を食い止めるには空爆では不十分だ」と述べた。コソボの虐殺を座視できない「人道的介入」だと大見得を切って始められた爆撃は、実は停戦を実現する展望を欠いた決断であり、それはランブイエ交渉の破産によって政治的に追い詰められた末の決断だったことが、わずか数日で暴露されたのである。
 「沈静化させる」はずのコソボの戦闘はむしろ激化し、アルバニア系住民への弾圧と追放は一段と強化された。国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)の発表などによれば、空爆開始からわずか1週間で10万人が、3週間後の4月中旬までには人口の25%に匹敵する55万人ものアルバニア系難民がコソボ近隣のアルバニアやマケドニアに流れ込み、空爆による難民の流出は、90万人以上に達すると見られている(4月17日:朝日)。しかもコソボでは、ユーゴ軍の攻撃ばかりかNATO軍の爆撃によっても、多くのアルバニア系住民の殺傷がつづけられている。だがこうした事態は、クラークの発言を待つまでもなく容易に予測できたことだし、それはむしろミロシェビッチを利することも明かであった。というのもアルバニア系住民の大量流出と殺害は、人口200万人の8割を占めると言われるコソボのアルバニア系住民の人口比率を低下させ、それによってアルバニア系住民の自治や独立を求める政治的圧力を弱め、さらには武力による独立を目指すKLAの孤立化を容易にする、まさにミロシェビッチにとって〃望ましい〃状況をつくり出すからである。
 そのうえこの大量の難民の流入は、アルバニアやマケドニアなど近隣諸国の政情不安に拍車をかけることにもなった。
 マケドニアでは4月26日、チャド経済相がNATOや欧米各国を痛烈に批判して辞任したが、それはマケドニアにとって最大の市場であるユーゴに対する爆撃が、1カ月で64億デナール(132億円)もの損害を工業と農業に与え、これによって新たに4万人が失業し、難民キャンプで農地を占領された農民たちがNATOの設営した難民用テントを破壊するといった、マケドニアでのアルバニア系難民とNATOへの反感の高まりを背景にしている。他方アルバニア政府は、25万人と言われる難民を積極的に受け入れてはいるが、UNHCRの難民キャンプ増設要請に難色を示すなど難民収容能力は限界に達し、あるいはコソボ在住アルバニア人を裕福だと見なすアルバニア本国人が難民を狙う、強盗や殺人事件の急増が報じられている。さらにユーゴ連邦モンテネグロ共和国では、ジュガノビッチ大統領が戦時体制への非協力を打ち出し、共和国内はユーゴ連邦軍によるクーデターや内戦勃発の危険が指摘される緊迫した事態になりはじめている。
 そして最後に、空爆の極めつけの効果こそが、ユーゴ国内での反欧米感情の高まりと頑迷なセルビア民族主義者ミロシェビッチの政権基盤の強化であった。それまではミロシェビッチのコソボ問題への対応を批判してきた人々も、NATOの空爆という蛮行に対抗するためには、現政権の下に結束する以外にはなくなったからである。
 つまりNATO軍によるユーゴ空爆は、その必要を主張して主導権を握ったアメリカ・クリントン政権とイギリス・ブレア政権だけでなく、これを支持したEU各国の社会民主主義諸政権の主観的願望を何一つ達成しなかっただけでなく、むしろ紛争をユーゴ連邦全域と近隣諸国に拡大し、コソボ情勢を一層悪化させただけであった。とすれば、いまもなお続行されているユーゴ空爆は、コソボのアルバニア系住民の利益のためではなく、ただランブイエの失態で傷ついた「NATOの威信」を取り繕うためにだけ強行されている蛮行と言う以外にはない。

民族問題とコソボ内戦

 かつて欧州の火薬庫と呼ばれたバルカン半島が、およそ半世紀にわたってまがりなりにも安定してきたのは、第二次大戦後のユーゴスラビアの連邦としての再生と、その政権を掌握したチトー率いる共産主義者同盟が、複雑に絡み合う民族的利害に、自治や自決を保障する柔軟な対応をしてきたからだと言っていい。だが他方で、今日のユーゴ連邦の民族主義的分解を、民族と文化・宗教の歴史的関係と対立に解消し、ドグマ化された「民族自決権」で裁断する方法、つまり欧米や日本で今日広く流布されているようなアプローチは、むしろ民族問題への柔軟な対応の障害となる危険をはらんでいる。
 現実の民族的感情は、歴史的な民族的関係と共に現在の民族的関係、例えばコソボで言えば政府や産業の主要な地位の多くが、人口の1割程度のセルビア人によって占められているというような、民衆の生活実感のレベルの感情の相互関係で構成される。後者の日常的関係において民族的差別感が強ければ、前者の歴史的な民族関係が、民族主義を助長するイデオロギーとして繰り返し再生され、民衆への影響力を強める。 したがって現在のコソボにおける民族主義的衝突を理解するうえで重要なのは、1966年にアルバニア人の自治が大幅に認められて以降の民族的関係である。
 神戸学院大学の木戸教授が『世界』6月号の座談会で語っているところでは、66年以降のアルバニア人自治の拡充によって、コソボ自治政府や社会的諸団体の重要な地位を占めるアルバニア人の比重は格段に大きくなり、69年には全面的なアルバニア語教育を行うプリシュティナ大学が設立され、アルバニア本国からも多くの教師が招かれた。だが皮肉なことに、このユーゴで4番目に大きな大学のアルバニア語教育が、コソボ社会の矛盾を激化させた。というのもほぼすべての産業がセルビアの技術と言語で運営されていたために、アルバニア語しか学ばなかった何万人もの卒業生が毎年就職もできず、アルバニア系失業青年の間に募った不満が81年の暴動として爆発したからだという。
 この暴動は、マケドニアのアルバニア人社会にも波及して多数の死傷者を出し鎮圧されるが、これに対抗して組織されたアルバニア人民軍は今度はセルビア正教会やセルビア人女性を襲撃してセルビア各地の抗議行動を呼び起こし、88年末にはコソボの自治権を制限する要求が高まり、コソボの自治権を大幅に縮小する共和国憲法の改正が、89年3月のセルビア議会で成立した。当時のセルビア共和国大統領・ミロシェビッチ(現ユーゴ連邦大統領)のイニシアチブによるこの一連の強硬措置は、コソボ自治政府に協力的なアルバニア人の誘拐や暗殺をも厭わない、後にKLAとして組織される過激なアルバニア民族主義の大衆的基盤を準備したのである。
 さらに翌90年7月、セルビア議会はコソボ自治州の政府と議会の解散を宣言し、91年にはアルバニア語による授業を禁止する措置にまで踏み込み、アルバニア系住民の新たな反発を招くのである。コソボのアルバニア系住民は「コソボ共和国」樹立を宣言、同年9月に独自の憲法を採択して翌92年5月には「コソボ共和国」の議会と大統領選挙を実施し、コソボ民主同盟のイブラヒム・ルゴバ議長を大統領に選出した。KLAとは一線を画すアルバニア系住民の穏健派と呼ばれる勢力は、このルゴバ議長が代表する「コソボ共和国」のことである。
 当時はまだ部分的ではあれ、武力衝突を伴う今につづくコソボの内戦は、この90年代初頭の一連の動きに端を発しているが、武力衝突が激しさを増すのは、コソボの独立を主張するコソボ解放軍(KLA)が、97年以降公然たる武装闘争を開始してからである。98年7月、KLAは「コソボの50%以上を支配した」と宣言するが、当時(98年3月)ベオグラードを訪問したアメリカのゲルバード特使は、「アメリカは世界中でテロリストと戦っている。KLAは公然たるテロ組織だ」と述べてセルビア治安軍を激励した。当時は内戦の拡大を力づくで押さえ込むことでミロシェビッチと欧米諸国の間には完全な合意があったのである。
 だがいまやNATOは、「KLAの空軍」として衛星回線を通じて相互に密接な連携を保ち、KLAに捕らえられたユーゴ軍捕虜はNATOに引き渡され、「テロ組織」と戦うミロシェビッチは、ヒトラー顔負けの虐殺者として非難されている。この何の整合性もないNATO加盟諸国政府のご都合主義は、ランブイエでの傲慢と失態とをあわせて、コソボのような民族的紛争の調停や解決について、帝国主義がまったくの無能であることを改めて暴露している。

EU社民勢力の動揺

 帝国主義による地域紛争へのご都合主義的介入や身勝手な裁断は、もちろん今に始まったことではない。イラクのフセイン政権によるクルド族弾圧はアメリカ軍による爆撃の口実とされる一方で、今も行われているトルコ軍の東部クルド族討伐作戦は、アメリカによる情報提供によって支援されている。バルカン半島で言えば、クロアチアとボスニアの内戦では、セルビアによるクロアチア人やモスレム人の追放だけが非難され、クロアチアからは33万人、ボスニアからも27万人ものセルビア系住民が追放されたことは全く非難されてはいない。クロアチアとボスニア・ヘルツェゴビナのモスレム人には、ドイツとイタリアというNATO加盟の帝国主義の後見人がついていたからである。
 そしていまユーゴに向けられているNATOの軍事力は、EU諸国とりわけドイツとイタリアが手中にしたバルカン半島の権益、つまりクロアチアとボスニア・ヘルツェゴビナをユーゴ連邦から切り離すことで得た権益が、コソボ内戦の激化とその近隣諸国への波及によって、新たな政情不安に巻き込まれることを阻止する、ただそれだけを目的に行使されたと言って過言ではない。民族紛争の混乱に乗じて、ユーゴスラビア連邦の解体とクロアチア、ボスニアの切り取りを強行したEUブルジョアジーは、まさにその連鎖によって台頭した民族独立の要求に手を焼き、かつてはアルバニア人の、そして今はセルビア人の民族主義を弾圧しようとして、火に油を注いでいるのである。
 しかも今回のユーゴ爆撃は、こうした帝国主義的ご都合主義を、ヨーロッパで相次いで政権を獲得した社会民主主義的勢力がこぞって支持し、さらには軍事的主体として参加しつづけている点で、たしかに歴史的な事件と言える。なかでもドイツ社会民主党(SPD)と90年連合・緑の党連立政権下のドイツと、イタリア共産主義者党(PDCI)と緑の党連立政権下のイタリアの動向は、ヨーロッパ労働運動の未来にとっても、重要な意味をもつものとして注目されなければならない。
 そのドイツでは、これまでも非戦闘目的で連邦軍をNATO域外に派遣した実績をもち、これに対する異論もほとんどない。さらに94年の憲法裁判所の判決は、議会の事前承認を条件にだが、武力を伴う国連やNATOの部隊にドイツ連邦軍が加わることを合憲と認めており、今回のユーゴ爆撃も、改選前ではあれ昨年10月に議会の承認を受けた行動ではある。しかしNATO域外の戦闘行動に直接参加し、ドイツ人の兵士が第二次大戦後はじめて国外での民衆の殺傷に手を染めるという事態は、シュレーダー政権の支持基盤に深刻な動揺と分解を引き起こすに十分な衝撃である。それは前述したようなユーゴ爆撃の真の意図と逆効果が暴かれる度合いに応じて、SPDや緑の党に対する大衆的幻想を掘り崩すことになるに違いない。
 他方イタリアの下院は空爆開始から3日目の3月26日、ダマーレ政権の与党議員グループが提出した、NATOの軍事行動の中止と和平交渉の再開を呼びかける決議案を賛成多数で採択、つづいて31日には、与党PDCIと緑の党の両党首が連名で、政府にNATOに停戦を求める具体的工作を求め、それが不調の場合はNATOから離脱するよう要求するなど、政府・与党内部の不一致が公然化し、保守・野党連合が、与党の外交政策不一致を理由にダマーレに対して辞任を要求しはじめる事態となった。
 こうしたヨーロッパの社会民主主義的政権の動揺は、マスメディアによって社会民主主義勢力の「苦悩」とか「苦汁の選択」として報じられているが、階級的労働者が明確に理解しなければならないのは、この「苦悩」はシュレーダーやダマーレら政権首脳たちのものではなく、彼らの掲げた中道路線に幻惑され、だから彼らを政権へと押上げ、だが一方では無意味で不当と思われるユーゴ空爆を支持はできないと考えている、そうした労働者大衆や中間主義的諸勢力だという事実である。むしろシュレーダーやダマーレは、イギリス労働党のブレアほど明快ではないとしても、EUの帝国主義的権益の防衛とNATOの帝国主義的団結の維持が必要だという点では完全な確信犯であり、消極的であろうとこの政策を支持して閣僚にとどまっている緑の党の幹部たちもまた、帝国主義的権益の防衛の片棒を担いでいるのだ。
 つまり欧州社民勢力の「苦悩」と呼ばれる問題の核心は、こうした労働者階級内部の政治的混乱と階級的イニシアチブの不在なのであって、それは4月12日にボンで開催されたSPD大会が左派の提出した空爆即時停止の決議案をあっさりと否決し、シュレーダーに改めて76%の信任を与えたことに象徴される事態なのである。
 もちろん、ユーゴ空爆に抗議する左翼勢力の闘いは、少数派ではあれ組織されはじめてはいる。イギリスでもトニー・ベンらの労働党左派が、空爆開始直後からこれを違法と批判し、4月11日には80年代の核軍縮運動を担った人々を含む「バルカン半島の平和のための委員会」がロンドンで2千人の抗議デモを組織した。またドイツでは4月6日の復活祭平和行進で「ユーゴ爆撃即時中止」の声が上がり、4月18日にはベルリンでドイツ共産党(DKP)系のユーゴ爆撃即時中止とドイツ軍の引き上げを要求する1万人規模の集会とデモが組織された。あるいはフランスやアメリカでも、数千人規模の抗議集会やデモが繰り返し組織されてもいる。しかしそれは、NATO軍の空爆がコソボとユーゴ全域で行っている殺戮行為との比較では、なお微々たる抗議の始まりに過ぎない。階級的イニシアチブの基盤となる労働者大衆の自立的で大衆的な反NATO闘争は、むしろ今後「ユーゴ爆撃の真の意図と逆効果が暴かれる度合いに応じて」、あるいはNATO軍の兵士たちに犠牲者が増大する渡合に応じて発展することになるだろう。
 だがこうして、一見強力に見えるNATOの軍事力が、実は重大な内的脆弱性をはらんでいることが明かとなる。NATO加盟諸国政府は、アメリカ帝国主義をも含めて、人道や和平の大言壮語とはうらはらに、ブルジョア国家の名において「命懸けの義務」を伴う戦争を、労働者大衆に強いる確たる信稔を持ち合わせてはいないのだ。だからこそNATOは、膨大な犠牲の覚悟を要する地上軍の投入をためらいつづけているのであり、それこそが帝国主義のご都合主義的論理で始められたユーゴ空爆の不当性を、なによりも雄弁に物語っている。

  (みよし・かつみ)


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