イスラエル首相選挙
バラク政権誕生と和平交渉


バラクの勝利と小党乱立

 クネセト(国会)の総選挙と同時に実施されるイスラエルの首相公選は、95年11月に労働党の故ラビン元首相が暗殺された後、96年6月の総選挙から採用された制度である。そしてその第1回目の首相公選では、ラビンがすすめたパレスチナ解放機構(PLO)との「和平交渉」の継続を激しく非難するリクードのネターニヤフが、ラビンの後継者であった労働党のペレス候補を破って当選し、イスラエル民衆のPLOに対する不信の根強さを改めて印象づけることになった。
 しかし今年5月17日に実施された今回の首相選挙では、「イスラエルは変化を望んでいる」をスローガンに選挙戦に臨んだ労働党のエフード・バラク党首が、現職のネターニヤフ首相を予想を上回る大差(得票率は56・08%対43・92%)で破って当選し、リクード政権下で3年余りも停滞していた93年の「オスロ合意」にもとづくPLOとの和平交渉が、新たな進展を見せるのではないかとの期待が集まることになった。だがバラクの圧勝は、選挙直前に中道党のモルデハイ候補らが次々と首相選挙への不出馬を表明、バラクとネターニヤフが一騎打ちとなったという条件がバラクに有利に作用した結果でもある。
 それというのも、首相選挙と同時に行われた総選挙では、定数120議席に対して15もの政党が乱立する混戦になったこともあって、バラクが党首をつとめる労働党は改選前の34議席から26議席へと激減し、他方のリクードは、モルデハイ前国防相の解任を契機にした内紛で彼を中心にした中道党が結成されるという選挙前の分裂も手伝い、改選前の32議席から19議席へと予想外の凋落ぶりを露呈したのである。さらにネターニヤフが、党首辞任と政界引退を表明するにおよんで、リクードは政党としての存亡の危機に直面することにすらなった。
 この総選挙の結果、議席を得た政党が12から15に増えて不安定な小党乱立状態が一段と強まり、労働党対リクードというイスラエルの二大政党制が大きく揺らぎはじめることになったが、それは人種、宗教そして出身地などが複雑に絡み合ったイスラエル社会が、ソ連圏の崩壊にともなう東欧諸国からの移民の大量流入や国内での貧富の各差の拡大などによって、新たな流動に直面しはじめていることを反映するものであろう。
 と同時に、イスラエル建国の思想的支柱であるシオニズム運動の指導的エリート集団・労働党と、これを「大イスラエル主義」、つまり周辺アラブ諸国との非和解的対決と領土的拡張を主張して労働党を右から批判するリクードという政治対立の構図が、イスラエル社会のこうした流動化に適合的ではなくなりつつあることを示すものと言えるだ。それは言い換えれば、イスラエル建国の国是やシオニズムの求心力の衰退が、あるいは少なくともその始まりの予兆が、労働党とリクードという二大政党の退潮として現れはじめたとも言えるのかもしれない。
 首相選挙でのバラクの勝利と、それによる中東和平への期待の陰に隠れてはいるが、これが今回のイスラエル選挙の、もうひとつのそして重要な特徴なのである。

武装平和の追求

 ところで前回の首相選挙でネターニヤフに敗退したラビンの後任・ペレスと、今回そのネターニヤフを破って新首相に当選したバラクの最大の相違点は、バラクが、ペレスのような耳触りのよい「バラ色の和平」を絶対に唱えなかったことである。
 バラクは、暗殺されたラビンと同様に軍参謀総長の経歴をもち、95年にラビン政権の内相に抜擢されて政界入りした典型的な労働党のエリート政治家であり、PLOに決定的打撃を与えた82年のレバノン侵攻・ベイルート包囲作戦では副司令官を勤めてもいた。したがって「バラクへの支持はアラファト(PLO議長)への支持だ」という、PLOへの不信を煽るネターニヤフとリクードのバラク非難は、それ自身かなり苦し紛れのネガティブキャンペーンの観をぬぐえないものだった。そして事実バラクは、PLOとの和平交渉に関する具体的な見通しや態度を明らかにすることを慎重に避け、むしろ自らの軍人としての輝かしい経歴を「イスラエル・ナンバー・ワンの兵士」というあだ名と共に全面に押し出し、またかつてラビンに与えられた「ミスター安全保障」との称号をも積極的に自らのものとして利用する選挙戦を展開した。その意味でバラクの立場は、PLOとの和平交渉はイスラエル国家の安全保障の一環であるということで一貫したものであり、またそうした立場こそが、暗殺されたラビンの路線であったということである。
 だからそのバラクが、当選直後に「1年以内にレバノン南部からの撤兵」を明言してシリアとの緊張関係を緩和する外交方針を表明すると同時に、PLOとの和平交渉については、@統一したエルサレムは、永遠にわれわれの主権下におかれる、Aいかなる条件下でも1967年の国境(ヨルダン川西岸占領以前の国境)には戻らない、Bヨルダン川の西側にはいかなる外国軍の存在も認めない、Cヨルダン川西岸の入植者はイスラエル主権下の入植地に置かれるを、譲れない四原則とする強硬な態度を明らかにしたのは、全く当然のことであった。しかもこうした強硬な態度の表明は、国内右派向けのリップサービスと言うよりも、安全保障のためのPLOとの和平交渉を睨んで、イスラエル側の基本的要求を国際的にもあらかじめ鮮明にし、そうすることで和平交渉に臨むバラク政権の立場を強化しておく必要にもとづいた、計算された発言と受け取るべきであろう。
 そうであれば、PLOとの対決姿勢をとりつづけてきたネターニヤフに見切りをつけ、イスラエル民衆が新たに支持を与えたバラクの「PLOとの和平」は、イスラエルの圧倒的な軍事的優位を背景にした武装平和の実現以外ではありえない。それはまたネターニヤフが「オスロ合意」のサボタージュによってPLOとの緊張を高め、結果として治安の悪化や社会不安を招き、それが国外からの投資を鈍らせたり流通を阻害して現在の経済的停滞を招いていると考えてきたイスラエル・ブルジョアジーが、リクード路線からの転換によって実現を期待した「和平」でもあったのである。

パレスチナの反応

 こうしたイスラエルの変化を期待していたのは、実はPLOも同様であった。
 「オスロ合意」にもとづいたパレスチナ暫定自治は、イスラエルの首相選挙直前の5月4日に5年間の期限切れを迎えたが、世論調査ではバラクの優勢が伝えられてはいたものの、パレスチナ国家の独立宣言が、候補者乱立ぎみの首相選挙に与える影響を考慮したパレスチナ中央委員会(PCC)は4月27日、クリントン大統領がアラファト自治政府議長あてに送った書簡の要請、つまり1年以内の最終地位交渉の決着を条件にした独立宣言の延期という要請を受け入れ、5月4日に予定していた独立宣言を6月まで保留することを決定した。もちろん後述するように、形式的な独立宣言それ自身は、パレスチナ民衆の自主的で独立的な政府の樹立という要求を保障するものではないが、このPPCの気遣いは、リクード政権からの転換に対するPLOの期待の端的な表現であった。
 しかもこのPCCには、98年10月のイスラエルとの「追加撤兵」の合意にもとづいて、パレスチナ自治政府がテロ防止を名目に予防拘禁を強行したとき、これをいわゆる「和平反対派」に対する弾圧として強く反発し、自治政府閣僚への報復テロすら公言したイスラーム極左組織「ハマス」もオブザーバーながら初めて出席した。それは首相選挙を通じたイスラエルの転換への期待が、パレスチナの圧倒的多数派のものであったことをうかがわせるものと言えるだろう。
 こうしてバラク当選後の5月19日、アラファト議長の側近である自治政府のシャース経済担当閣僚は、バラク政権の誕生を評価しつつ、実態のともなわない独立宣言以上に「オスロ合意にもとづく自治の拡大が優先課題」と述べ、実態ある「パレスチナ国家」の実現を改めて確認し、バラク政権との和平交渉にむけた態勢を整えはじめたのである。

    和平交渉と戦略的再構築

 バラク政権の誕生は、たしかに「オスロ合意」にもとづくパレスチナ和平交渉を進展させることになることは疑いない。しかしパレスチナ自治の拡大や最終地位交渉が、パレスチナ民衆の自主的・独立的政府の樹立をどの程度まで実現し、奪われたパレスチナの地への帰還というパレスチナ難民たちの悲願にどこまで近づけるかは、もちろんまったく別の問題である。
 新首相バラクにとって、PLOとの和平交渉がイスラエル国家の安全保障の一環である以上、バラクは「自治政府の責任によるテロの取り締まり」や「イスラエル人入植者の生命と財産の保障」など、実効ある安全保障の確約を手にすることに全力を挙げることは明白である。そしてこの安全保障が十分に満たされる限りにおいて、パレスチナ国家の存在を黙認するといった妥協を、冷徹な計算の下でおこなうであろう。
 これに対してパレスチナ自治政府は、パレスチナ国家を周辺アラブ諸国を中心とした国際社会に承認させることができたとしても、ヨルダン川西岸のイスラエル入植地のほとんどが残り、聖地エルサレムのイスラエルによる占領が継続するなら、奪われた土地の返還を求めるパレスチナ民衆の要求を抑圧する以外にはなくなる。こうしてバラクが手にする安全保障に比較して、アラファト議長の得るものがあまりにも少なければ、パレスチナ自治政府それ自身の求心力は急速に弱体化し、イスラエルの安全保障を補完する力さえ失うだけである。ここに、バラクとアラファトの交渉と妥協の余地がある。
 実際に冷戦終焉後の現在のような国際的力関係のもとでは、パレスチナ政府の側に多くの選択肢があるわけではない。とすればこの状況を根本的に変革する主体を養い、新たなパレスチナ民衆の攻勢を可能とする展望の再構築が戦略的課題となるが、その展望は、イスラエル社会ではじまりつつある流動化とも連動する、だから民族国家という枠組みを越え、民族主義運動の限界を克服する、国際的なプロレタリアートの連帯の展望にもとづく以外にはない。           

(D)


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