ロシア:全閣僚解任から新首相の承認へ
国有資産争奪戦にゆらぐ政治

(インターナショナル90 98年6月号掲載)


 ロシア下院は4月24日、2度にわたって承認を否決した前燃料エネルギー相・キリエンコの首相承認を可決した。大統領の指名した首相の承認を3度否決すれば下院は解散して総選挙となるが、まさに土壇場での新首相承認となった。しかしキリエンコ新首相の承認か下院の解散と総選挙かをめぐっては、エリツィン大統領と下院の野党勢力の間でギリギリまで激しい駆け引きが繰り広げられ、最後は、下院が解散された後でもエリツィンは首相を任命できる制度に阻まれる形で、下院がキリエンコの承認に追い込まれた。
 野党議員の多くは「キリエンコへの支持ではなく、解散への反対票だ」と公然と述べたが、「下院なしでもキリエンコは首相になってしまう」と、3度目の投票に際して野党勢力に賛成投票を呼びかけたルイシコフ・人民の権力代表の言動が、こうした事情を象徴的に示している。

内閣刷新の背景

 キリエンコという、国際的にはほとんど無名と言える新首相の誕生をめぐる下院とエリツィン大統領の攻防は去る3月23日、エリツィンがチェルノムイルジン首相ら全閣僚を解任、キリエンコを首相代行に任命して組閣を命じたことで始まった。この閣僚解任に際してエリツィンは、チェルノムイルジンの経済政策への不満を述べて「改革を推進するための刷新」であることを強調し、解任された閣僚たちも異口同音に「正常かつ通常の刷新プロセス」であるとエリツィンに同調しただけでなく、解任されたチェルノムイルジンは、キリエンコ首相候補の支持をも表明した。にもかかわらず、国際的には突然としか言いようのない全閣僚の解任について、ことに欧米諸国から「信頼できる実務派」として評価されてきたチェルノムイルジン首相の解任をめぐっては、当然ながらさまざまな憶測が乱れ飛ぶことになった。
 当初もっとも有力だった憶測は、病気療養の多いエリツィン大統領の代行として権力中枢での影響力を強め、エリツィンの支持基盤を侵食しながら着々と勢力を拡大し、2年後の大統領選挙の最有力候補として台頭するチェルノムイルジンが、エリツィンの不興をかったと言うものであり、同時に賃金や年金の未払い問題の責任をチェルノムイルジンに押しつけ、エリツィンが保身を図ったと言うものであった。たしかにアメリカなどの欧米諸国政府は、チェルノムイルジン首相に次期ロシア大統領としての期待を寄せていたし、ロシア国内の経済政策への批判の高まりは、閣僚解任劇直後の4月9日に、ロシア独立労組連合による賃金や年金の不払いに対する全国規模の抗議行動が計画されるなど、日増しに強まってもいた。
 したがってこうした憶測にもそれなりの根拠はあったのだが、それはロシアへの経済援助や投資を通じてチェルノムイルジンとの関係を深めてきた国際金融資本が、信頼できる実務派の「失脚」に対して抱いた失望感の反映である可能性の方が強い。なぜなら、高齢で持病を抱えるエリツィンが、2年後の大統領選挙のライバルをいま追い落としてまで大統領職に固執するとは考えにくいだけでなく、若手・キリエンコの首相への抜擢は、昨年3月に経済改革の推進を掲げた内閣改造で、チュバイスとネムツォフという若手の改革派を第一副首相に抜擢した手法と同様のものだからである。たしかにこの内閣改造は、目標として掲げた賃金遅配問題などを解決できなかったばかりか、巨大な利権が絡む国営企業の民営化にともなうノメンクラトゥーラ・ブルジョアジーの激しい抗争に巻き込まれ、これに絡んだスキャンダルを暴露されることでチュバイスは蔵相を、ネムツォフは燃料エネルギー相をそれぞれ解任されるハメになった。しかしこの事実は、逆に賃金遅配の解消を含む経済改革の推進と、国営企業の民営化にともなう支配的グループ内の利権争いの調整機能の強化が、エリツィン政権にとって最も重要な課題でありつづけていることを明かにしたとも言える。
 そしてこれを裏付けるように浮上してきたのが、ソ連邦の崩壊以降国有資産のさん奪に血道を挙げ、企業家となってロシアの新たな支配グループとなったノメンクラトゥーラ相互の、政界と産業界を貫く勢力再編を伴う利権をめぐる抗争説であった。

政府を巻き込む利権争い

 ノメンクラトゥーラ・ブルジョアジーの利権をめぐる抗争説は、新聞などでは「新興財閥」と呼ばれる金融産業グループ相互の利権争いなのだが、そうしたグループのひとつである「ロゴバズ」の代表・ベレゾフスキー元安全保障会議副書記が、チェルノムイルジンの解任をエリツィンに助言したという「黒幕説」という形で解任劇の直後から流されてはいた。「ロゴバズ」が、チェルノムイルジンの最大の支持基盤である同様の金融産業グループ「ガスプロム」と、ロシア石油業界最後の利権と言われる国営石油会社ロスネフチの株式売却をめぐって争い、チェルノムイルジン首相が「ガスプロム」に有利な決定を下したのに怒ったベレゾフスキーが、エリツィンに彼の解任を求めたというものである。
 しかしその後の報道などであきらかになった利権争奪戦の構図は、「ガスプロム」「ロゴバズ」という金融産業グループの他にも、「オネクシム銀行グループ」という新興金融グループも加わって三つ巴の争いがあったこと、さらに「ガスプロム」は「ロイヤル・ダッチ・シェル」と、「オネクシム銀行グループ」はイギリスの「ブリテッシュ・ペトロリアム」と、というように、それぞれの金融産業グループが国際石油メジャーと提携し、この利権獲得のための資金調達をすすめていたことである。これに対して「ロゴバズ」は、国際資本との提携で立ち遅れて買収資金が不足し、ロスネフチの株式売却を「50%プラス1株」から始めるよう政府に要求していたのだが、チェルノムイルジンは「75%プラス1株」での売却を決定、さらに政府の関税収入口座をオネクシム銀行に移す決定を行い、怒ったベレゾフスキーがチェルノムイルジンへの支援を打ち切り、「ロゴバズ」の影響下にあるマスメディア(ロシア公共テレビや独立新聞)で、チェルノムイルジンを非難するキャンペーンを展開しはじめたという。前述の「黒幕説」はこうした状況を背景にして、同じく「ロゴバズ」の影響下にあるアエロフロート航空の社長にエリツィンの長女の夫を据えるなど、エリツィン親族を取り込んできたベレゾフスキーが、そのコネを通じてエリツィンにチェルノムイルジンの解任を求めたのだろうとの推測として流された。
 もちろんことの真相は、国営石油会社ロスネフチの利権争いで、チェルノムイルジンを政治的代弁者とする「ガスプロム」とオネクシム銀行が勝者となったこと以外は薮の中である。しかしひとつだけ明かになったこともある。それは国有資産のさん奪をめぐるノメンクラトゥーラ・ブルジョアジーの利権争いが、なおロシア政府の中枢を巻き込んで展開されており、先の若手改革派官僚の失脚にも見られるように、それがエリツィン政権を繰り返し機能マヒに直面させずにはおかないという現実である。そうであれば、エリツィンによる全閣僚の解任と強引なキリエンコの登用が、政権中枢を巻き込む利権争いへの、エリツィン政権の側からする対応策であった可能性は強いと言えよう。

求められた調停者

 エリツィンが、下院の強い抵抗にもかかわらずキリエンコという無名の新人首相に固執したのも、チェルノムイルジン時代に政権中枢に深く食い込んだ新興金融産業グループのコネとは縁遠い人物を首相に据える必要があったと考えれば整合性がある。それは一時的にではあれ新興金融産業グループの政治的コネクションをご破算にし、相争う諸勢力の対立を利用してカリスマ的絶対者へとはい上がり、「唯一の調停者」として君臨する大統領の地位を最確立し、国有資産のさん奪にともなう政治と経済の混乱を収拾しようとする試みと言うことができる。
 したがってもちろん、この「強い大統領」の最確立の試みはノメンクラトゥーラ・ブルジョア勢力とエリツィン政権の癒着を断ち切ることを全く意味しないし、今後の経済改革が、賃金や年金の遅配に苦しむ労働者大衆の窮状の解消に向かう保障にもなりはしない。それはむしろ国有企業の民営化という国家資産のさん奪をより円滑にすすめるために、あるいは国家権力を後ろ盾に国際金融資本との提携と外資の導入をより安全に大規模に展開し、ソ連邦の崩壊にともなって雨後の筍のごとく生まれた金融産業グループの整理統合などの再編をすすめ、手中にした国有資産の私的所有をより安定したものしたいと望むノメンクラトゥーラ・ブルジョアジー自身が、他の誰よりも必要とする調停機能の強化を意味するだけである。
 だが逆に言えばそれは、今日の国営企業の民営化にともなうノメンクラトゥーラ・ブルジョアジーの利権争奪戦が、そうした超越的な調停者を必要とするほど激しく、あらゆる手段を動員して展開されていることを示している。そしてだからこそ全閣僚解任というエリツィンの荒っぽい手法にもかかわらず、チェルノムイルジンをはじめ解任された閣僚たちが口を揃えて「正常な刷新プロセス」であると主張し、その後はキリエンコの首相指名をも支持したのである。なぜなら、彼らはこの利権争奪戦で最も多くの利権を手中にした金融産業グループの利益代表として、ノメンクラトゥーラ・ブルジョア勢力が政界に送り込んだ輩に他ならないからである。
 ところで今回の事件について、ロシア国内には「ノメンクラトゥーラ勢力が、政治家とビジネスマンに分かれてこの国を支配しているだけ」と言った冷めた見方が大衆の間に広まっている(4/8朝日新聞)という。それも当然と言えるが、それは豊かな資本主義の神話と熱狂から覚めた労働者大衆が、改革派と称するノメンクラトゥーラ・ブルジョア勢力を冷静な目で観察し、対象化しはじめていることを物語っている。

                                                                        (みよし・かつみ)


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