【三池労組の解散−下−】

三池労組にとって闘争とはどのようなものを言うのか

(インターナショナル第157号:2005年7・8月号掲載)


 日本では産業が勃興する中にあって、職人たちが、いわゆるギルドのようなものを自主的に組織することはほとんどなかった。製糸・紡績工場などにおいて、労働条件の劣悪さに抗議し改善を要求する闘争も起きたが、それを継続する組織の確立や維持には至らなかった。
 日清戦争後、高野房太郎らが「労働組合期成会」を結成して労働組合運動を開始、一時は高揚するが自壊してしまった。
 では日本で、労働者が権利に目覚め、団結が意識され始めたのはいつ頃だろうか。

▼工場法に代わる「工場委員会」の設置

 1917年のロシア革命が勝利して、翌18年のベルサイユ講和会議において国際連盟・国際労働機関(ILO)が「労働は商品ではない」の主張を掲げて創設された。それくらい世界的に労働問題は切迫していた。
 日本でも1919年に米騒動が全国をおそい、各地の工場、炭鉱、鉱山などに波及した。各地で労働者が決起し、それまでの労使関係に「地殻変動」を起こした。1921年には友愛会の日本労働総同盟への改称、翌22年には日本農民組合が成立し、全国水平社の結成など既存の組織から脱皮した新しい組織が作られていった。
 友愛会は治安警察法第17条(誘惑・扇動条項)の撤廃、労働組合法の制定、普通選挙制度の実現の要求を掲げた。また「団体交渉権」獲得運動を開始した。
 これに対して政府は1919年、企業ごとに労働者から選出された代表の意思疎通機関を設置することを内容とした労働委員会法案を発表した。そして法案に基づいて陸海軍工廠(こうしょう)、国鉄、八幡製鉄所などで「工場委員会」が設置され、民間企業でも同様の機関の設置が奨励された。「工場委員会」の導入は、これまでの労使関係では労働現場秩序の安定を保てないという判断のなかで、労働組合を排除しつつその機能を代替させようという意図があった。
 1924年6月に成立した護憲三派内閣のもとで労働組合法案、労働争議調停法案、治安警察法改正案の作成作業が進められた。しかし結局26年、労働争議調停法、治安警察法改正案は成立したが、労働組合法は審議未了・不成立となった。このような中で工場法の制定は延期され、結果的には労働者の会社への帰属意識が強くなった。労働組合は企業内組合の性格を強め、その後産業報国会へと編入されていくのである。
 そしてこの産業報国会の機構がそのまま戦後の企業内組合に再編されていくのである。

▼暴動ちゃあ、力のあるもんばい

 1918年の米騒動の波及は8月27日から9月8日にかけて、三池炭鉱の宮浦、宮原、大浦、万田坑で坑夫たちを立ち上がらせた。なかでも9月4日から8日にかけての一千名の坑夫に家族も加わった万田暴動は、大規模なものであった。きっかけは坑夫の昇給幅の縮小と選炭方法の厳格化、さらに会社による売勘場(売店)での日用品の値上げなどで、炭鉱納屋事務所、坑夫繰込所、選炭機械所を襲撃した。売勘場も放火されたが「民家類焼の虞(おそれ)あり」としてその消火につとめることに見られるように、暴動は、攻撃目標をはっきりさせたものであった。
 会社は軍隊、警察の出動を要請して鎮圧した。結果としては坑夫側の敗北となった。しかしその後の会社・係員の坑夫に対する対応はがらりと変わったという。その実感を「暴動」には参加しなかった労働者が「暴動ちゃあ、たいした力のあるもんばい」と語っていることからもうかがえる。

▼与論島出身労働者の闘争

 米騒動の時の「暴動」に、与論島出身労働者は手をこまねいて参加しなかった。むしろ9月5日から出炭が止まると、8日には与論島からの64人と新参坑夫らが入坑した。
 しかし19年9月8日、会社の荷役主任陳種二郎の無理な業務命令に怒った与論島出身労働者は、日常の陳の差別待遇に対して暴行を働き、事務所の窓ガラスを破る等の事件に発展した。
 「この事件は、与論島出身労働者の結束をかためた事件であり、会社の懐柔と分断の労務政策をきびしく見ぬいた事件であった。そして、やっと地元労働者との差別賃金の解消をかちとることになった。・・・
 この陳事件後三池鉱山は、「労使協調」路線にもとづく労務政策を積極的に打ちだしていくことになった。」(新藤東洋男著『赤いボタ山の火−筑豊・三池の人びと』)
 1919年末、三井本社は全国の三井鉱山会社所属の鉱山や事業者に工場委員会の規約案文を指示した。それをうけた各鉱山は結成の準備に入った。三池では2000年3月、「友愛組合」という、友愛会と名称の紛らわしい「工場委員会」が結成された。
 「友愛組合ノ中枢ヲナスモノハ相談役会デアル、相談役会ハ従業員カラ選バレタ総代互選ノ相談役ト会社推薦ノ相談役カラ構成サレタ労資両代表者ノ懇談熟議機関デアリ、従業員ノ要望議案又ハ会社カラ提出ノ議案ニ付キ会社及組合員相互ノ理解ト信頼ニ基イテ懇談熟議ガ重ネラレ、合意ヲ以ッテ処理セラル」がその趣旨だった。

▼友愛組合を超えた争議

 1924年、三井傘下の三池製作所の労働者と万田坑の坑夫が中心となり、賃金値上げ、友愛組合の撤廃、公傷者にたいする救済資金の増額支給などのスローガンを掲げて闘争を開始した。坑工夫たちの争議は1か月あまりにおよんだが、18年の暴動の経験を生かした整然としたものであった。
 鉱務関係の仕事をしていた労働者が、目撃したことを証言している。
 「最初、我々ノ考エデハ友愛組合ノ総代等ガ此ノ争議ノ中心勢力デアラウト思ツテ居リマシタガ、意外ニモ中心勢力ハ壮年組ニアツテ、万田坑ノ有力者デアル友愛組合ノ或ル惣代ガ表面上中心ノ様ニ思ワレマシタガ、実ハ便宜上代表ノ立場ニ押シ立テラレテ会社トノ交渉談判ニ当タッテ居ル丈ケデ、其ノ惣代ノ力デハドウニモナラナイ車(事?)ガ判リマシタノデ、密カニ手ヲ廻シテ壮年組ヲ会社側ニ抱キ込マウトシテイマシタガ、彼等モ中心勢力トナル丈アツテ流石ニ真剣デ結束ガ固ク、容易ニ動キマセンノデ、『オ前達ガ争議ヲ止メナケレバ、オ前達ノ家族ハ飢エル様ナ事ニナラントハ保証出来ンガ、ソレデモ好イカ』ト言ヒマスト、壮年組ノ連中ハ、『家族等ガ餓エルナラ餓エテモイイ。ソンナ事ハ始メカラ覚悟シテ居ル。其ノ位ノ覚悟ガ無ケレバ三井サンヲ相手ニシテ一カ八カノ争議ハ起コサレ無い』ト言ツテ、物凄イ鼻息デ一寸手ガ着ケラレ無イノデ、壮年組切崩シハ時期ヲ待ツ事ニシテ」などと、会社は手を焼いた。
 結局、会社は争議団員に個別に金一封を渡して切り崩しをはかっていった。
 争議の中心は、友愛組合ではなく壮年組だった。坑工夫たちは結果として敗北はしたが労働条件の改善を実質的に勝ち取った(中村政則著『労働者と農民』)。
 この争議を契機に、会社は労務管理において「経営的家族主義」を浸透させていった。そして産業報国会に糾合されていった。戦後の「企業別労働組合」・三池労組の性格は、このとき確立された。

▼労働者は現場で「まなぶ」

 1924年のこの争議を、60年の三池争議後に三井労組が刊行した『みいけ20年』はまったく評価をしていない。
 争議中、労働者は宣伝活動をかねた行商を行ない地域住民に支持を訴えた。これについて『みいけ20年』は、「常職行商人は大打撃をうけた」と紹介するだけで労働組合としての情宣活動の役割には何ら触れない。三池争議後の三池労組が職場にとじこもりはじめた姿勢がうかがえる。
 この争議には製作所の労働者と一部の坑夫しか参加しなかったが、それについても「『特権階層視』されている製作所職工への外の労働者の反目を感じる」と評価する。さらにつづけて「三池闘争における製作所労組の脱落問題を考える際にも理由は別だが、会社が長期にわたって行なってきたこうした分割支配政策、差別による労働者の団結破壊とエゴイズムの助長とが、想像以上に大きな力をもち根強いものであったことを考えずにはおられない」と述べる。
 確かにこの争議は製作所職工が中心になって展開されたのは事実であるが、その理由をことさら差別・分断の問題に求めることは正しいのだろうか。友愛組合についての評価がちがっていたのではないのか。
 製作所労組はその後の50年代の争議も、そして三池闘争においては新労結成のときまで三池労組と一緒に闘った。
 三池における闘いは、これまで述べてきたように、差別との闘いであった。それは三池闘争後においてもそうである。しかし三池労組50年の歴史を見るとき、三池労組は差別問題に「敏感」で、会社・新労などは差別問題に「鈍感」だという簡単な構造ではない。むしろ三池労組もまた「鈍感」だといえるであろう。
 『みいけ20年』は、1918年の争議の教訓を生かした24年争議の質的飛躍についての評価もなく、ただそのあとの産業報国会の道を準備したと評価する。そこには三池労組の「争議観」が如実に表現されている。
 そもそも争議は、《厳密な意思統一のもとに統制の取れたもの》でなければならないというものではなく、多様な価値観をもつ労働者がそれぞれの思いを持って参加するものでもあろう。また争議を捉え直するとき、勃発する社会状況や彼我の力関係を無視し、労働者の主体と自立の問題だけをとらえるとしたら、あまりに画一化的な労働者像ばかりを描き出し、労働者個々人の〃思い〃が生む争議のダイナミズムを理解するには無意味であろう。なぜなら労働者は、机上で「まなぶ」のではなく現場で「まなぶ」のが最良の教訓になるからである。


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