【三井三池労組の解散 −中−】

三池を闘った多様な人々のそれぞれの「思い」を探る

(インターナショナル第156号:2005年6月号掲載)


▼「三井王国」の労働者気質

 今年も盆踊りの季節となった。今も若者向け、地元の歌にまじり、どこでも流れるのが太鼓の囃子にのった『三池炭坑節』。さて、いまどれくらいの人がこの歌の内容を知っているのだろうか。

 ♪月が出た出た 月が出た
  三池炭坑の うえに出た
  あんまり煙突が 高いので
  さぞやお月さん けむたかろ
    サノヨイヨイ

 そもそもこの歌のルーツは、明治末期の筑豊・田川の三井「伊田の炭鉱」だという。新しく発掘された炭坑への希望の歌だった。この煙突はいま、田川市石炭記念館の前庭に設置されている。
 三井鉱山においては1945年8月時点で、田川鉱業所で朝鮮人2,195人、中国人623人、俘虜1,409人、山野鉱業所で朝鮮人1,850人、中国人581人、俘虜573人、三池鉱業所で朝鮮人2,297人、中国人2,348人、俘虜1,409人が働かされていた。
 終戦によって強制連行された朝鮮人・中国人そして俘虜などが解放され、「勤労報国隊」も引き揚げて炭鉱の労働力は激減した。また資材不足や戦時中の乱掘で坑道は荒廃し、45年秋の枕崎台風は筑豊を直撃して120あまりのヤマを水没させた。
 GHQ(連合軍総司令部)と政府は、エネルギーの供給がなければ経済再建と活性化はないと電力、鉄道、鉄鋼そしてGHQ用の暖房のため石炭の増産政策を打ち出した。
 政府は1946年12月24日の閣議で「鉄鋼、石炭の超重点的増産の経済危機突破方針」を決定し、いわゆる「傾斜生産方式」が採用された。経済復興のために生産システムを鉄と石炭に傾斜せよという有沢克巳東大教授の提言に基づいたものである。さらに48年4月には炭坑国家管理法案が施行されたが、施行後わずか1年2か月で廃止された。
 GHQもラジオや新聞などでの石炭増産のキャンペーンを奨励した。そのテーマソングのひとつが編曲された『炭鉱節』だった。おそらく戦後最初の、広く歌われた労働歌ではないだろうか。
 「長い間に大抵の炭坑作業唄が忘れ去られる中でひとりこの炭坑節だけが、炭坑人はむろんむしろ炭鉱以外の人たちからも好まれ、かつ愛された。敗戦後の絶望に似たあの時代に、この唄は明るく生きよと奮起を呼びかけた」(伊藤時雨著『うたがき炭鉱記』)。
 そのときなぜ歌詞が田川の「伊田の炭鉱」から「三池炭鉱」になったのか。前回述べたように、三池の労働者が「模範生」だったことによる。
 「親子二代三代と閉鎖された『三井王国』にのみ生活をつづけてきた三池の労働者にとっては、たとえ不満はあっても三井に逆らうことはおろか、「王国」の外におこっている歴史のうねりを鋭敏にキャッチすることはできなかった。だから会社が音頭をとる産報組織と労組準備委も、なんのためらいもなく、とうぜんのこととしてうけとめられたのである。むしろもっとも関心がはらわれたのはそれが総同盟系であるか、産別系であるかを問わず『王国』以外からの指導を排除するということであった」(三池労組編『みいけ20年』より)。

▼与論島出身者と部落解放同盟

 三池港が開港される前、三池で掘り出された石炭は三井物産の手に渡り、遠浅の有明海を団平船で長崎県島原半島先端の口之津まで運ばれ、本船に積み替えられた。この船底に隠れて「カラユキさん」たちが東南アジアに渡った。1898年奄美諸島最南端の与論島は大暴風が襲い、疫病が流行し大飢饉に見舞われた。翌年2月、島民数百人が口乃津の長屋に積込荷役として集団移住した。しかし1907年、三池港が開港されると仕事は激減した。半数近くは三川坑近くの新港町に再移住、半数以上は島に戻った。
 与論島出身者の状況が1913年9月の『福岡日日新聞』に連載された。
 「口ノ津港に於ける彼等は全く三井直属ではなかったため、只訳もなく容易に酒を飲み得るに至った位即ち飲食上に於ける幾分の快楽が増長したといえるに止まって、他の住居衣服習慣などより衛生上の観念に至りては、全く鎖国主義に一カ所に立てこもりているだけで、何らの変化もなかった。……垢に染まった五体を真裸にして焼酎の酔に浮かれ、単調なグニャグニャした踊を踊っていたのは、全く日本人種の間にこんなのがあるかなァと不思議がらぬ者はなかったという話」(森崎和江・川西到著『与論島を出た民の歴史』)。
 この「単調なグニャグニャした踊」とは、おそらく沖縄と同じ海洋文化のなかのカチャーシではないかと思われる。言葉や文化・風習が違う異郷・三池の閉じ込められた地域で、彼らは奏で、歌い、踊って労働者の喜怒哀楽を身体で表現していた。これを記者は理解することができなかった。そしてこの記者も持っていた偏見による差別が、三井三池における分断労務政策の基礎になっていた。筑豊で「炭鉱節」が歌われ始めた頃、三池ではカチャーシーが踊られていた。

 三池闘争の最中の3月29日、三井鉱山の下請労働者がピケを張っていた久保清さんを殺害した。
 「この時、われわれ(部落解放同盟の支援者)は、団結館に待機していたのだが、『今、久保さんが暴力団にドスで刺されて死んだ。労働者たちはこん棒や旗竿で応酬している最中だ』という伝令が入ったのだ。われわれはすぐ出動した。
 ・・・・途中私はみんなに『暴力団の連中はみな武器を持っているから注意しろ。いたずらに喧嘩に飛びこむな』と注意を与えていた。ところが、(部落)解放同盟の一団が現場に到着し、バスを降りていっせいに『やるぞ』といったところ、日本刀を持ってあばれまわっていた暴力団の彼らが、あっという間にみんな山の方へ逃げていってしまった。
 われわれ解放同盟が出ると、いつの争議においても暴力団が撤去してしまう、ということの意味を、もう少しわれわれ自身も深く考えなければならないと私は考える。・・・・会社側のスキャップに出てくる連中の中に、部落大衆が多数いるということなのである。親父が解放同盟員で支援にかけつけて暴力団と対峙してみると、その暴力団の中に息子がいる。・・・・別にいえば、その息子には全く仕事がないわけなのだ。部落出身ということで就職からしめ出されている」(上杉佐一郎著『部落解放と労働者』)。
 現象面だけを見て部落解放同盟の「力」に期待して支援を要請した争議もあった。1952年、宇部窒素争議の時、合化労連委員長だった太田薫も同じような経験をしている。しかし60年当時総評議長だった彼の著書『わが三池闘争』には、部落解放同盟の支援については一行も出てはこない。

▼三池闘争とブラジル移民

 「ところで1960年は・・・・三井鉱山が解雇者対策の主要な一環として、ブラジルをはじめ、ラテンアメリカ諸国への集団移住を計画し、積極的に取り組んでいることである。
 『三池のスジ金入り』『共産党分子』の侵入におびえる現地受入れ側の緊張を緩和するために、炭鉱離職者としてではなく農業経験者に重点をおくこと、農村出身者以外の移住希望者に対しては農業指導をおこなって万全を期することを確約した三井鉱山・・・・の要請に即して、急遽・・・・炭鉱離職者専用の農業訓練所が開設された・・・。
 要は一人前の『棄民』にふさわしい『立派な人間』のパスポートを与える儀式としてのこの訓練所には、福岡県下ばかりではなく、佐賀、長崎等、全九州の炭鉱出身者が収容されていた。
 長崎港外の伊王島炭鉱で働いていたという青年であった。・・・・やさしい明るい声でいった。『三池だけが、日本の思い出です。』一度だけであるが労働組合から動員されて、三池闘争に参加したことがあるという話であった。
 いよいよ別れの日がきた。一夜語りあかした伊王島の青年が、私の手をかたく握りしめていった。『三池のみなさんによろしゅう伝えてください』ほかの連中も彼につづいていった。『俺からもよろしゅう!』『俺からもほんとうによろしゅう!』『三池だけは忘れんけんなあ!』・・・。
 もちろんそれは、総評や炭労が怒号したように『総資本対総労働の決戦』であったからでもなければ、闘争の激烈さによるものでもない。この国の地底深くとじこめられた“下罪人”にとっては、三池こそ、呪われた日本という国の底であると受け止められていたからである。彼らはその底をぶちぬかないかぎり、みずからを救いだすこともできなければ、解き放つこともできないことを、知っていただけのことである。
 それだけに三池闘争の敗北は――と言うより総評と炭労の裏切りは、彼らにとって致命的な打撃とならざるをえなかったのである。そして、国を棄てるべき秋がきたことを、深い慟哭のうちに悟らずにはいられなかったのである。
 『三池だけが日本の思い出』といい、『三池のみなさんによろしゅう』という。それはそのまま、日本という国のもっとも深い地底に生きながら葬り去られた自己自身に対しての、哀切な決別の挨拶でもあるのだ。」(上野英信著『出ニッポン記』)。

 演劇『南回帰線にジャポネースの歌は弾ね』は、三池闘争から33年後のブラジルでの元三池闘争の勇士たちの物語である。「人間死ぬことだけが、たったひとつの平等たい」と語り『炭坑節』をうたう。

  月が出た出た 月が出た
  三池炭坑のうえに出た ・・・・・

 しかし、実はブラジルには三池労組を支援した労働者と三池で働いていた下請け労働者はいても、三池鉱山の解雇者はいない。

▼それぞれの期待と闘い

 この春、映画『ひだるか』が完成した。ひだるかとは、三池地方の方言で「ひもじくてだるい」という意味だという。
 ストーリーは、福岡にある赤字経営のローカルテレビ局に、まもなくデジタル化を迎えるなかでアジアのキー局を狙う外資系資本からの買収の話が持ち上がる。労働組合は反対の運動を開始するが、人員の半減はやむなしと判断する管理職を中心に第二組合が結成され、極秘に組織拡大をはかる。そして局の花形キャスターに接触する。一方労働組合は隠し資産があることを暴露し、合理化は必要ないと主張する。
 そのような状況なかで、花形キャスター、ディレクターは報道とは何かを問い直し、地域起こしの企画として大牟田市そして「三池闘争」の取材に至る。
 いろいろなつてを辿り、かつての三池労働者を取材すると、いまだ解決されていない問題、隠されていた事実が明らかになっていく。花形キャスターの友だちの祖父は、塵肺で今も苦しんでいた。偶然聞けたその奥さんからの話から、生前は何も語らなかった花形キャスターの父親も三池の労働者だったことを知る。父親は三池争議の最中に三池労組から新労に移った。炭鉱爆破事故で父親を亡くし、自分が面倒を見ていた弟を大学に進学をさせるためにはお金が必要だった。そのため収入がいい新労に移ったのだった。
 映画は、これまでのさまざまな論評に見られる三池労組は正義を貫いた、新労は裏切ったというような単純な区別はしない。監督自身の祖父が与論島から三池にきた、いわゆる「ヨーロン」だったと聞く。
 それぞれが三池の労働者として生活をしていたことを浮かび上がらせ、今に手繰り寄せる。三池闘争は「総労働」そしてそれを取り巻いた支援の人びとの闘いでもあった。それぞれが「懸けたもの」、期待したものは何だったのか。理論や言葉ではない「団結」の吸引力は何だったのだろうか。

【つづく】

(7/11:いしだ・けい)


労働topへ hptopへ