【三井三池労組の解散 −上−】

60年に及ぶ歴史と闘いからどんな教訓を汲みとるのか

(インターナショナル第155号:2005年5月号掲載)


 2005年4月18日(月)、三井三池労働組合の解散式が行われ、組合旗を天に返すという儀式である組合旗を燃やす「返魂式」が執り行われた。
 三井三池炭鉱の閉山は97年であった。しかしCO中毒でいまだ入院中の組合員や関連施設で働く組合員もいた。また退職者や家族、そして地域的な運動の中心を担っていたということで労働組合の役割は続いていた。
 今年の春、北海道の太平洋炭鉱が閉山になり日本からヤマは消えたが、三池や太平洋を含む炭労の闘いの検証は、現在の労働運動を捉え直すなかでももっと取り組まれなければならない課題でもある。
 三池闘争については今後も語り継がれていくだろうが、まだまだ埋もれている資料や証言がたくさんある。
 そして三池労組60年の闘いの歴史だけでなく、「職場の安全」を要求しつづけた100年以上におよぶ三井三池の労働者の苦闘の掘り起こしはまだ済んではいない。労組が解散しても、これらの作業を続けることが三池で働いた労働者への真の顕彰であり、闘いを引き継ぐことになる。
 JR宝塚線での100人以上の尊い犠牲者を出した事故を捉え直す作業においても、「安全」を最大の課題として取り組んできた炭労と三池労組の闘いはたくさんの教訓を示唆してくれる。

▼職場における三池労組の実相

 三池労組は、終戦直後に産業報告会を基盤に結成された。
 1945年12月17日、最初の労働組合が三川鉱で結成され、つづいで各鉱所で準備会が始まり、46年1月14日の単一組織結成準備会事務局の発足に至った。炭労の他の労働組合が活発な活動を開始する中で、当初は労使協調の活動を展開した。
 5月19日に資本別連合として西日本三井炭鉱労働組合連合会を結成し、中立系の全国的単一組織の結成を目指した。三池労組は「三井王国」内の中立系組織として模範生だったし、なおかつ三井系列の鉱山なかでは採炭量も多かった。
その後、労組は職場に根を張る活動を続けて力をつけると、炭労の他の労組を牽引する位置を占めるにいたった。現場の労働者を基盤にして安全と差別の問題に取り組んだ。三池においては、与論島からきた下請け労働者は「ヨーロン」と呼ばれてさげすまれ、差別分断支配構造に組み込まれたすさまじい状況におかれていた。
 「直傭夫(ちょくようふ=1年契約の臨時工)だったときの供利政広さんの悩みは、三池労組がストライキにはいっているときに働かなければならないことだった。・・・かれらは『スト破り』になってしまうのだった。彼は、三池労組本部へ相談にいった。ストライキのとき、自分たちは働いていいものかどうか、それをたしかめにいったのである。『さしつかえない』と組合が答え、彼は安心した」(鎌田慧著『去るも地獄 残るも地獄』)。その後三池労組は直傭夫の本工化も勝ち取っている。そして1953年の「英雄なき113日の闘い」に勝利した。さらに保安の問題などを追及するなかで、職場単位で労組との交渉権を認める、いわゆる「現場協議制」を勝ち取った。同様の「現場協議制」は後に国鉄でも取り入れられた。国鉄の分割民営化による国労潰しはその解体も狙っていた。さらに三井鉱山では労使間の話し合いで、労組から委員を出して坑内の保安点検をする「安全委員」制度がつくられた。
 50年代後半、三池労組は職場において炭鉱では、毎日坑内への入り口の繰込場で係員からその日の出勤者の確認、配役、その他の作業指示を受ける。坑内は自然条件がちがうため、配役場所の指定が労働条件を決定してしまう。特に出来高給の労働者にとっては収入が左右される。そこで三池労組は、自主的な配役として輪番制をとっていた。また、職場においてトラブルが発生した時は翌日繰込場で職制と交渉をし、時として入坑遅延となる。
 しかし職場のルールを労使が現場で決めることを、会社は容認し続けることはできなかった。三井以外の炭鉱経営者や「総資本」も三池労組の路線を見過ごすことはできなかった。
 会社は57年から労務政策を大きく変更、59年に「安全委員」の中心人物を解雇、そして同年末には三池労組の行為を「業務阻害」として、見せしめに1492人の大量解雇をかけてきた。それをめぐって11か月にわたって闘われたのが「総労働対総資本」といわれた「三池闘争」である。

▼争議の敗北と「主体性の強化」

 三池闘争が闘われた当時、三池労組内勢力においては、社会主義協会派は機関を握っていたものの多数派ではなかった。「英雄なき113日の闘い」と職場での保安の闘争を大衆的に展開・牽引してきた阿具根派(阿具根登三池労組初代組合長・後の参議院副議長の影響をうけた労働者)と、差別と闘い続けてきた「ヨーロン」が、労働者が首を切られたということに対して「本気で怒った」ことが壮大な闘いとなったのである。
 三池闘争の最中、労組は分裂した。しかしこれは会社が画策して分裂させたとだけ捉えることはできない。そうだとしたら大量の脱退者の動向を掌握できていなかった組合側の問題点が出てくる。分裂の経緯については関係者が語らず、いまだ全貌は明らかにされていない。ただ徐々に勢力を拡大し、硬直した路線に固執する協会派を多くの労働者が嫌悪していたのも事実である。

 会社は争議をつぶすため、あらゆる手段を使った。
 3月29日、ピケを張っていった労組員と支援を三井鉱山の下請土建会社で人夫をしていた暴力団が襲い、久保清さんを殺害した。このとき暴力団員は「会社よりよけいに金ば出しきるならあんた達の味方ばしても良か」と車上から叫んだという。
 これは三池労組発刊の『みいけ二十年』からの引用である。しかし「下請土建会社で人夫」が「会社よりよけいに金ば出しきるならあんた達の味方ばしても良か」と言ったことに何の論評もない。三池労組はストライキによって収入の道を閉ざされた下請労働者には関心は向かなかったようだ。50年代前半の直傭夫への対応と比較すると、やはり三池労組の路線には変質があった。
 闘争は結局敗北に終わった。「生産疎外者」とよばれた多くの組合指導部が職場から追放された中で、残された労働者による闘いが困難を極めたことは想像にかたくない。「去るも地獄 残るも地獄」だった。
 そのような中での62年の定期大会で「反合理化長期抵抗闘争」の方針が確立された。そして「主体性の確立」が提案された。長期抵抗闘争とは状況が厳しいときの閉じこもり路線であり、防衛のためには1人ひとりの労働者に対して「まなぶ」ことを手段とした主体性の強化(中ソ対立が表面化した同じ頃、北朝鮮で発案された「チュチェ思想」と似たようなもの)が要請された。そして防衛の単位が「なかま」であった。
 その後の労働強化の時代に、「黒い肺」の塵肺患者が多く発生している。そして事故が多発した。
 『三池炭坑殉職者名簿』によると、61年から63年10月までに47人が死亡している。内訳は三池労組員が20人、三池新労が25人、下請け組夫が2人である。そして最大のものが63年11月9日の三川鉱の炭塵爆発事故である。458人の死亡者と839人のCO(一酸化炭素)中毒患者を出したが、犠牲者を組織別にみると、三池労組163名、第二組合242名、職員組合25名、組夫28名となっている。
 政府の石炭産業縮小化政策は、三井の各鉱山で人員削減の提案となっていった。「余剰人員」は、希望すれば条件付きで三池に送られた。その1人に広瀬勝さんがいる。
 「広瀬勝さんは・・・・筑豊に生れ、筑豊で育った、きっすいの〃川筋男〃である。・・・・その彼が20年働きつづけた田川四鉱が閉山になったからである。その時の三池への再就職者は田川四鉱従業員の1割にあたる約50人。むろんその全員が、受入れの条件として第二組合に忠誠を誓うことを強制されている。
 ・・・・昭和43年(1968年)8月7日、広瀬勝さんは落盤事故のため三川鉱で即死。……死んだ広瀬勝さんは、三池で採炭夫として再出発するようになってからも後も、ひまを見つけてはオートバイを飛ばして筑豊へ戻り、田川鉱時代の仲間と語り合うのを、なによりの楽しみにしていたらしい。・・・・彼は次のように話していたという。
 『なんぼなんでんひどすぐるばい。なんでああまで第一組合を差別せんとならんのか。第一に残っちょる連中は、みんな立派な、まじめか人ばっかしばい。せめて田川からいった者だけでも話合うて、こげなひどか差別だけはやめさするごと、組合(第二)に申入ればせんといかんと俺は思いよる』
 彼はついにその申し入れさえ実現できないうちに殺されてしまった。・・・・分裂このかた日に日に強められる差別支配の鎖、・・・・。これを名づけて三井資本とその御用組合は、いみじくも〃害虫駆除〃政策と名づけている」(『朝日ジャーナル』69.11/2:上野英信『三池ルポ与論から網走まで』)。
 三井鉱山の労務政策がどのようなものだったかが垣間みられる。

▼俺たちは誤っていたのではないか

 炭鉱爆発は、保安が不十分であったために起きた人災である。ではなぜ三池労組は人災を「起こさせ」たのか。
 爆発当日について、当時の三池労組副委員長だった久保田武己さんが『わが三池闘争−かくして敗れたり−』で語る。
 「昭和38年、11月9日、あの悼しい大爆発は終世忘れることはできない。私は死体安置所(本社体育館)に終始立ち会った。そして家族の悲嘆にくれた様が、この目に焼きついている。最後の遺体を体育館の外に出て見送った時、なんともいたたまれなくなって涙がドッとこみあげてきた。私たちは、三池闘争で失ったものよりも、もっと大きなものを失った思いが、時がたつにつれて募った。私たちの運動が地に着いていなかったのではないか、と思うのだった。
 災害の知らせを受けた阿具根さんは、取るものも取りあえず、いち早く三池に到着した。・・・・旅館に落ち着いたのは夜の11時を過ぎていた。・・・・この時、阿具根さんから『久保(久保田)ちゃん、俺たちの運動は誤っていたのではなかろうか』と急に話しが出た。『実は私もそれを考えていたのです』と答えた。阿具根さんは概略、次のようなことを話した。
 『たしかに俺が考える組合運動と、いまの三池の運動とには違いがある。しかし、それは組合員が決めることだから、とやかく言うことは憚る。ただし、こと保安(人命)にかかわることについては、黙っとくわけにはいかない。しかも、今回で終わるというものではないからなおさらだ。われわれは1人では弱いから、助け合い団結する。そして団結の偉大さを知った。
 しかし、いまの三池労組のあり方は強さを引き出すことにアクセクしているようだ。階級性を鼓舞するあまり、おうおうにして組合の原点が疎かになる恐れがある。その現れが、この災害ではないか。保安に対する組合のチェック機能を喪失していることは、組合としての機能を喪失していることではないのか。日本の労働運動の先頭にたって流れを変えるというが、足元の組合員が無惨にも命を奪われているのを見落としていいはずはない。俺にはこのことが重くのし掛かっているのだ。しかも、あれだけ首切り反対で闘った者が、保安を忘れるはずはなかろう。ストライキが終わり、生産が再開されればその合理化のシワ寄せがどこに来るかは当然、検討されねならないことではないか。その当然なことに取り組まないのはなぜか。思想の違いではなく、怠慢というべきだろう』」(久保田武己著『我が三池闘争』)。
 組合役員でありながら、労働組合が本来の任務を後回しにした結果が事故を招いたと総括する姿勢から、虚像ではない三池闘争の実態が見えてくる。そしてこの2人の苦悩は、労働者の職場の安全を考えるとき、過去のこととしてではなく、もっと共有される必要があるのではないだろうか。

 81年10月16日、北海道夕張市の北炭夕張新鉱で死者93人を出すガス突出事故が発生した。「夕張新鉱は、75年に開鉱した全国でも最も新しいヤマだった。その採炭技術と機械力においては最新鋭のヤマだった。炭もカロリーの高い原料炭である。カロリーの高い炭ほど、炭にふくまれるガスの含有量も多い。
 ・・・・そして、最新の採炭技術と機械力の資本投下と同じように、悪い自然条件に対応するための保安面における設備投下はおこなわれたのだろうか。事実は、採炭部門の設備投資と逆比例するかのように、保安面は手抜きされていた。
 ・・・・では、そのような保安上の問題について、現場の労働者はなぜ声をあげなかったのだろうか。この点は各方面からも指摘されている。・・・・答えは、馬の鼻づらにニンジンという請負給制度にある。・・・・どのヤマでも、収入の6割以上は請負給という仕組みになっている。さらに北炭のばあいは、切羽請負のほかに、ヤマごとの全山請負という他のヤマでは例をみない得意な二重の請負制度がしかれている。
 『請負給やめて全部月給制にしたらヤマの事故の大半はなくなるよ』―村上清人・三井砂川炭鉱労組書記長はいいきる。
 唯一月給制がひかれているのは、釧路にある太平洋炭鉱である」(後藤正治著『はたらく若者たち1979〜81』)。
 「炭鉱で爆発事故があっても、炭鉱労働者は『ヤマがあるかぎりヤマで働きたい』・・・・。石炭産業がどんなに不安定な産業であったとしても、なおひきつけるものがここにはある。・・・・早くヤマに見切りをつけたいという声は意外にもまったくなかった。その理由として彼らがあげたものを整理すれば、稼ぎがいい、暮らしやすい、人間関係がいい、の3点になるだろう」(前掲書)。

▼労働者たちの願い

 100年間、炭鉱の労働者はその鉄の腕に何を希求していたのか。「稼ぎがいい、暮らしやすい、人間関係がいいところで働きたい。そして安全なところで働きたい」というだった。しかし多くの苦難とぶつかった。三池では、会社は新労にも優しくなかった。それは死者の数からもそうだし、事故への補償においてもそうである。
 JR宝塚線の事故は、炭労の経験からするならば起こるべくして起こった。国鉄の分割民営化は総評つぶし・国労つぶしのためにおこなわれた。そしてもう1つ「安全の分割民営化」もおこなわれていたのである。今回の事故が明らかにしたのは、国労だけではなく、他の労働組合も虐められていたということである。
 三池については三池労組の関係資料を中心に語られるが、他の資料を見ると新労は闘っていなかったわけでもない。同じく現在のJR内においても国労だけが闘っているわけではない。国労は闘っているのにどうして小数派になってしまったのか。本社、他労組、他勢力を批判することでことたれりにするのではなく、自分たちの方針をとらえなおして原因を追求しなければならない。
 その意味では、分割民営化反対の闘いは、1047名の解雇撤回だけではなく「安全の国有化」を要求するものでなければならなかったし、保線などにおける下請労働者の労働条件処遇の問題でもあった。
 そして安全運転を求める闘いは、鉄道労働者だけの課題ではなかった。スピードに慣らされ、危険を顧みなかった私たち乗客にも運転手を急がせた責任があった。JR宝塚線の事故は、私たちの生活そのものが、危険の方向にアクセルを踏んでいることへの警鐘を鳴らしてくれた。しかしそのための犠牲者の数は多すぎる。
 だとしたら、私たちの犠牲者への弔いは、JR職場の労働者の「稼ぎがいい、暮らしやすい、人間関係がいいところで働きたい。そして安全なところで働きたい」という労働者としての当然の要求を掲げた闘いを、利用者の安全とタイアップして、JRそして政府に要求し、実現させることである。

【つづく】

(6月10日:いしだ・けい)


労働topへ hptopへ