● 労働基準法と労働者(その三)

職務・職能給の導入で解体された集団主義の優位と職場の権利闘争

― 労働組合の弱体化と「自主管理活動」のパラドックス ―

(インターナショナル第199号:2011年4月号掲載)


▼ 「職場に組合なし」の状況に

 戦後の成熟期までに、企業内のかつての学歴別・身分別の階級制は、ほぼ資格・職能の階層制に置き換えられていく。
 鉄鋼業界に職務給導入の提案がされた時、労働組合の対応は、明確な支払基準を欠く年功賃金に対して技術革新、技能の変化、青年労働者の増加によって近代化が要請されているという認識の上にたった「是正闘争」であった。熟練労働者は排除されていった。
 賃金の生活給という性格は崩れ、労働者同士の「パイ」の奪い合いになった。
 三池闘争の敗北後、労使とも「現場協議制」に対する見直しを行った。総評の運動方針は「職場闘争」から「組織闘争」へと変化していく。
 60年代に入ると、鉄鋼業界においては企業連が強化されていった。企業別労働組合は職場の生産量、人員、時間、賃金等労働条件決定レベルを、職場単位の交渉ではなくその上位機関の交渉に委ねていった。上位機関への権限の集権化が進み、さらに団体交渉から労使協議へと移っていった。企業別組合は平均賃金の交渉団体化していった。
 労働組合にとって、闘いの場としての職場の比重は低下した。人事異動に対する抵抗の風化、正社員以外の労働者の排除が進んだ。「職場に組合なし」と言われる状況が生まれた。これに拍車をかけたのがQCサークルの台頭でであった。

▼ 労働者の欲求が溶け込んだQCサークル

 「労働者の消費生活における史上まれにみる安定をもたらした昭和40年代は、同時に労働者の心のなかにおける労働疎外感の熟成期でもあった。この時代に台頭する『職務拡大』、QCサークル、『小集団活動』などの労務管理は、この労働者の心のなかに成熟するものの可燃性を察知した資本による、労働の単純化、労働者のアトム化の緩和策である。」(熊沢誠『日本の労働者像』)
 1960年代末から、大企業の職場で「自主管理活動」と呼ばれるZD運動やQCサークルなどの「小集団運動」が展開されはじめた。社員は「自発的」にインフォーマルなサークルを作って、職務能力の向上、労災の防止、不良率の削減、稼働率の引き下げ、コスト・ダウンなどのために創意工夫、知的能力を発揮させた。
 この活動は、「集団主義」の意義を労働者に再認識させた。現場労働者にとっては職場集団内の意思疎通、労働者の「知的欲求」を満たす職務拡大、教育訓練、「仕事をやりやすくする」など意義あるものだった。「労働社会の発見」があった。特に経済的理由で勉学の機会を得ることができなかった若年労働者にとっては楽しい活動であった。
 「自主管理」のQCサークルには、職場の組合機能が健在であればその営みを通じて噴出したであろう労働者らしい欲求が溶け込んでいたのである。労働組合の生活維持のための「権利闘争」では満足しない、労働組合にはない雰囲気が作り出された。
 会社にとっては、三井三池における現場協議制に対抗する戦術でもあった。このようななかで、対論を出さない、「反近代」を主張しているとしか捉えられない抵抗闘争の組合運動は魅力を失い、少数派に転落していった。

 QCサークルは、労働者の自主性を尊重するかのように言われてスタートした。しかし、会社は班ごとの競争をあおり、結果を査定に取り入れていった。
 「小集団活動」は水平な監視機能と共同責任として作用し、きわめて過酷な労働強化と企業への従属を強いた。結局は、会社の意図、目的に自己同一化することが強制されてものが言えない「企業文化」を醸成しながら生産性を高めることにまい進させられた。その結果は「余剰人員」を生み出し、おたがいが「生き残りをかけた」競争のライバルとなっていった。職場は個人ごとの縦型社会と化した。
 しかし同じ職務を遂行している労働者にとって、その業績に大きな差はなく、査定基準は公平さを欠いた、あいまいで恣意的なものでしかない。したがって労働者は、職務給や職能給制度における査定で「好成績」を「確実に期待できる」ためには、評価者(=上司)から目にかけられることであると自覚することになる。そのための労働者の行動は“やる気”“献身性”の発揮となった。サービス残業の諾否が“やる気”として人事考課の対象になっていた。各会社で時間外労働が増大していった。
 経済成長が続くなかで、降給がない査定制度は不満があっても定着していった。
 しかしQCサークルによる労働者の作業工程の改善は、労働組合にとっては労働時間短縮に向けた要求をもって介入するチャンスであった。だがそのような要求は出てこなかった。 逆に労働組合会社に完全に取り込まれて闘争力は弱体化し、合理化推進の一端を担うものになっていった。労働者にとって当初は“喜び”であったものが“苦痛”に変わっていった。労働組合は位置を失った。
 労使関係においては、いわゆる「現場協議制」が労働者の自治的要素を拡大していったとするならば、職務・職能給の導入と「自主管理活動」と称したQC運動は「使用者の自治」を拡大させていった。

▼格差と競争を激化させた職務・職能給制度

 公平さを保つはずの査定基準はあいまいで、恣意的なものでしかないことは女性労働者の状況を見れば明らかである。
 協和銀行では「1970年に多数派の従業員組合との協定の下に資格給が導入された。新しいシステムでは、書記―副主事―主事―副参事―参事の各資格は職務と連動し、各資格は15の等級をもつ。危惧されたとおり、長勤続者も含めて女性の全員が書記であった。ここに闘いがはじまる。
 少数派労働組合に集う女性46名はまず1971年、女性への標準昇格などを要求して『女性だけのストライキ』を半日敢行し、人事部長との団交、人事考課にあたる支店長の責任追及を続けた。この闘いは副主事昇格を個々に実現させるとともに、総じて低く差別されていた第一組合全体の反差別闘争を引き起こす。」(熊沢誠『日本の労働者像』)
 サービス残業のできない女性労働者は、査定の対象からもはずされていた。労働者同士の競争と査定、職務・職能給制度は、非正規雇用労働者を排除する方向に拍車をかけた。賃金だけでなく、雇用契約形態間の格差も分断が進んでいった。

 オイルショック以降拡大した営業・サービス業の分野では、商品価値が消費者の言い値で決定していった。サービス業でのダンピングは、賃金を直撃した。
 業務は、QCサークルで合理化・推進されてマニュアル化した上位下達の業務指示は、労働者の創意工夫や個性の発揮を奪っていった。独自の業務遂行は秩序破壊と批判され、物言わない(考えない)労働者が増えていった。
 1980年代後半のいわゆるバブル経済は、労働者の価値観を変化させた。あらゆるものが価格付けされて商品化され、労働者は「中流」と言われる物的商品を所有することがステータスとなった。労働者は「もの」のために働くことになった。
 このようななかでそれまでの職場秩序は崩壊し、労働者の働き方、働かされ方、労働の価値が大きく変化していった。労働から「人格」が奪われ、「人権」が消え、労働者の生活権が奪われていくことになった。

▼生産性を後退させた富士通の成果主義賃金制度

 アメリカでは1980年代から、産業構造の変化に対して1人ひとりの労働者に新たな能力開発を強いる「成果主義賃金制度(Beyond Pay for Performance)」を導入した。
 バブル経済が崩壊した90年代後半になると、日本でも「『実績ではなくて努力で』という態度こそ戦後日本のムラ社会の弊害であり、悪平等である」「そういう態度が活力ある競争社会、真の公平な競争社会の現実をさまたげているのだ」という声が経済界の主流派となった。
 日本の多くの労働者は「職務」ではなく「職務遂行能力(職能)」での業務を遂行してきた。「職能」は「業績」にストレートに結びつかないし、「業績」と「成果」は違う。「職能」を分析・評価するのは至難の業である。「成果主義賃金制度」は賃金が成果に基づいて支払われると説明されるが、「成果」の定義自体がまちまちである。そもそも日本の職場に「評価」は馴染まない。
 会社は、人件費削減を目的として成果主義賃金制度を導入する。成果主義賃金制度は、賃金が労働者という「人」に支払われるのではなく「成果」への対価として支払われる。賃金が評価結果としての成果への対価として支払われるということで、賃金体系においては初めて「降給」が「合法化」された。賃金から生活維持の手段という性格が削ぎ落とされたのである。
 95年、富士通が日本で最初に成果主義賃金制度を導入した。若い世代からの要望で、モチベーション向上のためと言われた。本当の目的はいわゆる高給である団塊の世代の労働者の賃金抑制にあった。

 成果主義賃金制度の目的は人件費の削減にある。「パイ」は最初から小さくなっている。だから対象者全員が成果を上げたからと言って全員が昇給するわけではない。誰かの賃金が上がる分、誰かが下がる。職場に競争がダイレクトに導入された。
 「評価」が下げられるという不安の中で、労働者の挑戦はエンドレスになった。周囲はみな「敵」。先輩でも後輩に仕事を教えない、指導しない、困っていても見てみぬ振りをする。社員たちは「礼儀とか社会通念、常識、モラルなんて評価の対象にならないし、そんなキレイごとを口にしている暇などなく、オレ自身が生き残ることで精一杯」の状況で仕事をすることになった。
 弱音を吐けない、ため息をつけない、愚痴をいえない、仕事上で知らないこと、不明なことがあっても質問できない雰囲気が蔓延した。上司に質問すると「そんなことも知らないのか」と評価が下がる恐れを抱いてしまう。「マニュアル」を自己解釈し、問題を発生させている。
 職場で「人」に対する評価がおこなわれ、年功賃金的要素が残っていた時は、部、課、グループ・班ごとお互いにカバーし合い総合力として成果を達成してきた。
 しかし、職場における労働者の職場秩序、団結は破壊され、人間関係の崩壊が進んだ。分断支配の中で部署やグループが持っていた総合力は発揮されなくなり、会社の業績は個人業績の単純な足し算に落とし込められた。労働者からチャレンジ、冒険、パイオニア精神を奪い、総生産性はデッドロックに乗り上げた。
 成果主義賃金制度の導入は会社の発展を妨げている。これが富士通を襲った現実であり、それはまもなく中止されることになった。
 しかし多くの会社は、相変わらず生産性を高めるためにがむしゃらに労働者の尻を叩き続けている。ストレスがたまり、体調不良者が増大した。しかしこれを「職場の問題」と捉える労働組合は消えていた。気付いても手段と力量を失っていた。

▼「権利紛争」の復活を

 戦後の労働者の闘いは、生活防衛のための賃金闘争の「利益紛争」から始まった。
 しかしほとんどの労働組合は、賃金が生活を保障するものという性格から、職務への対価、職能への対価、つまり“働かせ方・働き方”が変更されるという「権利紛争」の要素を含む事態に対しても、権利紛争の要求をするということはなかった。降給がなかったという条件下で、利益紛争に重点を置くことで権利紛争は後方に置かれた。労働組合や職場風土から平等・反差別の期待や要求が消えてしまった。
 成果主義賃金制度が導入されて降給が現実になった時、労働組合は有名無実化していた。 競争が激化し、「勝ち組」・「負け組」の評価が職場で公然と飛び交う中で、低い評価や降給に対して不当だという声を上げずらくなっている。職場の労働組合は相談されても対応できる権限と力量を失っている。
 そのようななかで不当だという主張は個人加盟の労働組合に持ち込まれている。
 「労働組合がたえずいだいていた自負は、自分たちこそが社会正義を体現していて、自分たちは社会の進歩を推進していく勢力だ、ということであった。……今日では、労働組合の軸に置かれていた思想自体が動揺にさらされているのである。だから新しい基軸になる思想をつくりださないかぎり、労働組合が社会変革の大きな勢力として再生されることはないだろう。そして、労働組合と同じような矛盾のなかに、私たちの労働の世界も置かれている。なぜなら、どのような思想で自分たちの労働を考えたらよいかは、現在の私たち自身の課題でもあるのだから。」(内山節『戦争という仕事』)

【4/10:いしだ・けい】


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