労働基準法と労働者の権利(中)

平等主義的秩序を育んだ職場闘争と不屈の抵抗を自己確認した職場闘争

(インターナショナル第198号:2010年12月号掲載)


▼「明るい青空」の見える人事管理の登場

 産業別労働運動を想定して制定された労働基準法は、事業所・職場を適用範囲にする。また労働組合法の団結の基盤は雇用契約の差異を問わない。
 そのような闘いが企業内組合の中に登場した。
 だが職階構造は、本来的にはピラミット型である。しかし朝鮮戦争の停戦後、新規採用が抑制されると、日本における労働者の勤続年数別の人員構成は提灯型だった。つまり勤続が短い労働者と長い労働者は少なく、自立して業務遂行できる熟練に達した労働者が多くを占めていた。
 この構造が一方では不満を作り出し、一方では職場闘争のエネルギーを引き出した。前回触れた「ぐるみ闘争」は、まさしくそのような構造のなかで労働者が主人公となった闘争だった。

 そして職場における不満の激化を防ぐため、それまでの構造を解体するための方策が職階制の導入と賃金制度の変更だった。
 大企業では職階給の導入によって企業秩序の再建をはかる試みがなされてきたが、職務の明確化は難しかった。
 1953年、八幡製鉄では「指揮命令系統においての秩序すなわち役分以外には、必ずしもその能力、知識、技能、経験などに応ずる妥当な処遇が与えられていない」ために、「業務能率の向上に阻害をきたし、さらには従業員の不断の向上心を振起する点において欠くる」ところがあるという反省の上に立って、職分制度の導入に踏み切った。事務員・技術員・作業員など従来の職名区分に応じて従業員を事務職、作業職などの職掌ごとにくくったうえで、作業職には技手・工手一級、・二級・作業員の級別をおくというかたちで、それぞれの内部に職分を設定するものであった。
 具体的には、各職分を役職とも対応関係をもつように設定したうえで、一定の勤続年数を満たした者のなかから勤務成績を勘案して選任することとされた。
 このようにして、資格制度を導入した昇給制度の整備が図られた。
 さらに、八幡製鉄では58年、第二次合理化計画の一環として「ライン・アンド・スタッフ制」が戸畑製鉄所で導入され、作業長制度が創設された。これまでの工場管理組織である課長−掛長−伍長のラインの中間に、「監督」と呼ばれる掛長付きの技術員が介在することになった。
 さらに監督技術員をスタッフ部門に引き上げ、組織系統は課長−掛長−作業長に単純化された。作業長は現場労働者から登用され、大幅な職務権限が付与された。作業長は「経営サイドの一員」と職掌替えになり、賃金が日給から月給に変更になり、さらに掛長、工場長に昇進する道が開かれた。だれでも努力すれば昇進する可能性がある「明るい青空」の見える人事管理と言われた。

▼労働者間の競争と下請け労働者の増大

 しかし技術革新と現場への高卒労働者の参入は、「年功勤続秩序と技能秩序の乖離」を進めることになった。そして技術革新と技能の変化は、職場秩序への不満と明確な支払い基準を欠く年功賃金「是正」要求として、青年労働者から出されることになった。
 1962年、それらのことを解消することを目的として鉄鋼大手3社で職務給の導入が提案され、翌63年から実施された。職務給は、職務をどのような作業か、目的は何かなどに分析し、資格要件、責任、努力などを評価要素として評価点をつけて職級の格付けを行うというものである。
 八幡製鉄所の場合には、約15%を占める職務給に1級から20級までの職級が設定されたが、実際にはそれまで職場の中心だった熟練工が排除され、高技術取得者や高学歴者が優遇されていくことになった。
 しかし評価は恣意的な要素が多く、労働者は同僚ではなく、職務評価をする上司の顔色をうかがって業務を遂行するようになっていった。職場闘争は難しさを増していった。
 「明るい青空」の見える人事管理は、努力すればだれでも「やる気」を起こせば昇進する可能性があると言われた。しかし別の見方をすれば周囲はライバルとなる。
 会社は、「やる気」を起こさせるためにはすべての労働者に無駄も含めて平等にチャンスを保障しなければならない。それは膨大な支出をも伴う。その人事的、財政的対策として、こうした労働者同士の競争に組み込まれない下請労働者群を増大させていった。
 そのようななかで、正規労働者は自らの競争相手を減らすために下請け労働者の固定化を了承するようになっていった。さらにその差別的処遇にも、目をつむるようになっていくのである。
 雇用契約の差異を問わない労働組合法の団結・「職場の団結」基盤は掘り崩され、正規労働者の闘争は賃金闘争中心と政治闘争の運動方針になっていった。ひとつの職場に雇用形態の違いによる複数の就業規則が存在することになり、使用者も別々の団体交渉が開催されることになっていった。

▼平等主義的ルール化の期待

 「国鉄工機工場の平社員による、役付工の指導がなくても仕事をやれる自信をたかめ、作業上のイニシィアティブを蚕食する運動。私鉄職場での実ハンドル時間、走行キロ数、仕事範囲などの具体的な規制闘争。炭坑の最短切場における作業割当の輪番制と請負給の平等な配分、いわゆる『合建制の廃止』。さらには繰込みにたずさわる係員の恣意的な権限の剥奪と、採炭夫たちによる『出炭競争防止』の申しあわせおよび生産コントロール。それから組合の職場組織への『三権委譲』と、その弱点を補うための『到達闘争』という組合運営の工夫……。いわゆる『組織づくり運動』とよばれるこれらの営みのなかでは、労働者の労働組合にたいする期待は、それが職場の労働そのものとなかま関係を集団として平等主義的にルール化することであった。」(熊沢誠著『新編日本の労働者像』ちくま学芸文庫)
 戦時中の「天皇の赤子」としての平等観は、戦後の民主化闘争の中に引き継がれ、職場秩序の近代化を推し進め、労働者の仲間意識を強化し、自治的要素を拡大していった。
 まさしく炭坑でいうならば、1953年の三井鉱山の「英雄なき113日の闘い」を引き継いだ職場安全確認闘争の時期である。
 54年秋、三鉱連は「首切りが出されてからスクラムを組み鉢巻をしめるのでは遅い」という認識で経営方針変革闘争を提起し、「協議決定制」の経営協議会の設置を要求した。だがこのような労使関係を、使用者側がいつまでも認めることは出来なかった。その団結を破壊するために、「生産阻害者」のレッテルを貼った活動家の大量の首切りを強行し、それに反対する闘争が、いわゆる「総資本対総労働」と言われた三池闘争だった。

▼「職場闘争」と「組織闘争」

 2010年は三池闘争から50周年ということで、10月にはいくつかのイベントが企画され、10月23日には「三池闘争と向坂逸郎」のシンポジウムが開催された。
 そこで配布された向坂の発言録資料のなかに、「三権委譲」のいわゆる「現場協議制」について、「清水慎三さんや藤田若雄さんは高く評価していた」というくだりがあった。そのニュアンスからは、向坂は現場協議制について高い評価をしていないように思われる。
 その違いをあえて言えば、「職場闘争」と「組織闘争」ということになるのではないか。
 例えば、「職場闘争」は人権闘争・近代化でもあった。差別され続けてきた与論島出身労働者にとっては、処遇改善で生活実態の改善も進んだことを肌身で感じていた。労働者と労働が平等の基盤から醸し出す雰囲気の「職場」を作り出したのである。
 だから会社は第二組合を結成した時も、与論島出身者は最後まで三池労組に残るだろうと捉えていたという。
 清水らはこのような到達点を踏まえ、企業別組織にわだかまる企業意識の内的変革をはかり、産別統一闘争を支える組織力を養っていかなければならないという視点から総評「組織綱領草案」を作成した。企業別組合のなかからその弱点を克服しつつ、階級的労働者組織へ向かう道を自覚させようとした。
 しかし「組織綱領草案」は、流産した。
 そして「組織綱領草案」を批判する人びとは、三池労組のとった、現場の職制を労働者と対抗させるのではなくて労働者の側に立たせる、顔を会社の方に向かせる「あっち向け闘争」を行きすぎと評価して「現場協議制」を批判する。
 太田薫は、「あっち向け闘争」は末端職制との間に摩擦を生みだし、逆に「こっち向け」になってしまう、「職場闘争激発主義」は統一闘争を弱めると批判した。三鉱連内部にも彼我の力関係がそこまでには至らず、ついていけないという労組も出てきて三池労組は孤立を深めたのも事実である。
 三池労組にはもうひとつ特異なものがあった。組織運営のあり方として、企業別組合の意識構成をXYZとして把握し、組織戦術を立てていた。組合に意識的に結集するX層、資本に通じるY層、両者の中間に位置する無感心層Zから成ると捉え、学習活動や職場闘争を通じてX層を強化拡大することに重点を置き、無感心層Zを影響下に引き寄せて多数派を構築し、Y層に対しては注意深い対策をとるということである。そしてY層に対しては対抗して圧倒することに勢力が注がれた。
 企業内組合が多様な意識によって構成されているのは当然であるが、三池においては異分子排除の風潮があった。それは第二組合が結成されたとき、いわゆるY層が離脱していったという報告を受けたときの向坂の発言、「かえってすっきりした」に現れる。
 向坂は企業内組合の何たるか、Z層のかかえている不安を理解できなかった。だから組合に意識的に結集するX層の強化のための学習活動と多数派工作に重点がおかれた。これが「組織闘争」であり、後には「組織維持闘争」になる。
 このような路線の違いが存在する中で、三池闘争は闘われていった。

▼「長期抵抗闘争」の背景

 闘争に敗北すると、会社が推し進める差別待遇、保安軽視にたいする三池労組の闘いは団体交渉に比重が移っていった。そして大衆の抵抗闘争による以外にないという立場を確認するに至る。
 会社の攻撃は1人ひとりにかけられてきた。そのため三池労組は、61年初めから組合脱退を防止するための仲間作りとして、各支部ごとに「5人組制度」を作って抵抗をはじめた。組合員だけでなく、家族をまじえた人間関係で対応するというものであった。
 そして1962年の定期大会で「長期抵抗闘争」の方針を確立する。その行動方針は、要約すると、差別は資本主義が存在する限り存続するし、三池の今日の差別は、資本主義的合理化の一形態にほかならないということである。とすれば、差別に対しては、姿勢を低くして抵抗を放棄するのではなく、合理化攻撃そのものに抵抗する以外に道はないことは明らかであり、差別されて困るという組合員の意識がある限り差別攻撃はなくならないという点を組合員に意識させることの必要性が強調された。そして、資本の体制的合理化に対決する反合理化の闘いは長期展望をもった抵抗、長期抵抗路線しかないことが確認されたのであった。
 この反合理化長期抵抗路線のなかから「主体性の強化」をかちとることが目標とされた。「主体性の強化とは、反独占の立場にたった思想を確立していくことによって、団結をうち固めていくことをさす」。
 この路線の根底を流れる思想は、実は三池闘争後新たに出されてきたものではなく、その前から存在していた。
 闘争中、若松不二男総評全国オルグは三池労組の方針を「三池労組は(会社の)情勢について細い分析をしない」と語っていた。また清水慎三は争議後、「炭労戦術の特徴は百かゼロであった」語っている。
 このような思想的背景をもとにして「長期抵抗路線」は提案された。

▼「労働者が作り出した社会」の喪失

 団結や仲間の持つ意味は、「職場闘争」と「組織闘争」では違う。
 三池闘争敗北前における職場闘争は、職階に潜む差別を解消し、職場の安全を保障させ、生活の安定を推し進めるものであった。その平等感の追及は確実に「働きやすさ」をもたらし、そのための活性化を作り出した。そして地域での暮しやすさをもたらした。そこには「労働者が作り出した社会」があった。
 しかし長期抵抗路線はこの思考を一掃した。労働者の職場での対案がない。
 闘争は具体的にはどのように展開されたか。政治闘争と組合活動の接ぎ木、認識の深化=学習会による教条化と排外主義・閉じこもり、ねばりつよい抵抗闘争=個々の組合員の「不屈」の精神の確認、そして教条化と排外主義は上位下達の組織形態につながる。守るべきものは「数」になっていく。
 組織活動とは、会社秩序のなかでの反対派として集団的意思表示をすることしかない「会社の土俵の上での活動」となっていった。
 しかし日本の労働運動において三池闘争は神聖化され、意見を言うことは許されてこなかった。

 

 国鉄においても、70年代に現場協議制は導入された。しかしマル生攻撃などとの攻防戦のなかで解体されていき、分割民営化が推し進められていった。
 分割民営化における国労への集中攻撃は、「総評をつぶす」だけではなく、まさしく現場協議制の経験・思考を持っているがゆえの、そのような労使関係の抹消を目的に行われたのではなかっただろうか。
 「国鉄分割民営化に反対する国民運動」や「国民のための鉄道政策提案」などの運動は、「労働者と市民が作り出したい社会」に向けての運動の要素を持っていた。
 しかしいつの間にか国労と市民の間には乖離が生まれていた。


              ―つづく―(12/27:いしだ・けい)


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