● 労働基準法と労働者の権利(上)

戦後労働法制の理想と現実

―産別を前提とした労基法と臨時雇用を拡大した終身雇用―

(インターナショナル第197号:2010年11月号掲載)


 数年前、夕張市が財政破綻したというニュースの中で、高齢者のおかれている状況が報告されていた。炭鉱で40年間以上も働いて退職した労働者の年金が月額10数万円。どうして? 賃金が低かったという問題だけではない問題があった。
 彼らは「本社」との使用従属関係はあっても40数年間、厚生年金、健保組合、雇用保険に加入させられない、そして「怪我は自分持ち」の、労働基準法が適用されないいわゆる請負労働者だった。そのような労働者がたくさんいた。本工と直傭夫、下請会社の雇用関係の「格差」は今にも影響している。
 戦前そして戦後も炭鉱の現場は直傭夫(1年間の雇用契約の更新)と呼ばれる本工ではない労働者がほとんどだった。
 1953年の三井鉱山の「英雄なき113日の闘い」で労働者の権利を拡充する中で直傭夫の本工化も勝ち取っている。しかし他の鉱山では直傭夫や下請労働者は大勢いた。
 60年の三池闘争の最中に三池労組の組合員を刺殺したのはストライキで仕事を奪われた下請会社の労働者だった。

 ▼労基法の制定と施行−その光と影

 戦後に憲法が発布され、労働法規が新たに制定された。その後労働者の処遇はどのように変遷してきたのか。労働者は何を獲得し、何を失ってきたのか。
 憲法第25条は[生存権]として「@すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する」と謳っている。
 憲法第27条は[勤労の権利と義務]として「@すべて国民は、勤労の権利を有し、義務を負う。A賃金、就労時間、休息その他の勤労条件に関する基準は、法律でこれを定める。B児童は、これを酷使してはならない。」と謳っている。
 1946年7月27日、占領軍総司令部は労働者の団結権を保障する労働組合法とともに労働者の生活基準を向上させるため「日本における労働立法及び労働政策に関する勧告」をマッカーサーに提出した。その中には多くの労働者保護規定の骨格が示されていた。
 この動きに呼応して日本政府内部でも制定の準備が進められた。労働組合法の立案を諮問した労務法制審議委員会に労働基準法の立法を諮問した。審議委員会委員長は末広厳太郎東大教授が就任した。末広教授は憲法草案にも目を通していて憲法の理念を生かす方向で審議は進められた。
 12月、最終案を決定して政府に答申され、「労働基準法案」は国会に提出されて47年4月に成立、7月1日から施行された。憲法第27条Aに謳われている賃金と労働時間、Bの児童労働の禁止のほか、労働契約、技能者の養成、災害補償、就業規則などの内容が盛り込まれた。
 労基法は取締法としての性格を強く備えているため適応範囲を事業または事業所を基準に規定している。そして第9条では、労働者の定義を「この法律で『労働者』とは、職業の種類を問わず、事業又は事業所に使用されている者で賃金を支払われる者」としている。

 憲法第27条の「@すべての国民は、勤労の権利‥‥」と「A賃金、就労時間、休息その他の勤労条件」の関係はダイレクトに繋がりを持つものである。
 1949年6月10日に制定された労働組合法は、第3条で労働者の定義を「この法律で『労働者』とは、職業の種類を問わず、賃金、給料その他これに準ずる収入によって生活する者をいう。」としている。労使の関係性の確立を使用者と労働組合の団体交渉によって目指すが、その時の労働者は、賃金労働者や使用者の指揮のもとで労働している者だけでなく失業者をも含む、いわゆる階層を保護の対象としている。
 憲法で「健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する」「勤労の権利を有し、義務を負う」「すべての国民」である労働者の定義が、労基法と労組法では適用範囲が異なるのである。
 ちなみに、戦前の工場法には、職工の定義はないが農商務省局長は「主トシテ工場内ニ在リテ工場ノ目的トスル作業ノ本體タル業務ニ付勞役ニ従事スル者及直接ニ其ノ業務ヲ助成スル為勞役ニ従事スルモノ」としている。つまりはすべての「労役に従事する者」を保護の対象としていた。
 労働基準法は、工場法、鑛業法・労働者災害扶助法を吸収発展させて成立しものであるが、施行に伴ってすべての「労役に従事する者」から下請労働者等の「直接ニ其ノ業務ヲ助成スル為勞役ニ従事スルモノ」を排除することは保護対象を狭め、大きな抵抗が予想された。
 実際の労使関係においては「格差」はあっても工場法の保護対象は続いていた。労働組合は生活保障を基本に、同じ職場で働いていた労働者を契約内容や職務に関係なく包括して組織して団結をしていった。
 いわゆる「使用従属関係」が厳格ではなかった。
 しかし憲法の理念を踏まえて期待を持って施行された労基法は、少しづつ理念から遠ざかり、雇用契約の違いが制度としての「格差」を拡大させていった。労基法の厳格化は労働者の範囲を狭め、保護の対象外とされた「労働者」の生活を奪っていった。

 ▼企業別組合と「ぐるみ闘争」

 占領軍総司令部は占領政策における労働政策については、労働組合結成を促進させる方向で立案論議を進めていった。
 労働三法制定に向けた労務法制審議会委員長の末広教授を始めとする委員はみな、日本では産業別の横断労働組合ができると思い込んでいたという。だから労基法は、例えば就業規則の作成単位を会社ごとではなく事業所ごとに規定することを謳うなど、企業別組合ができるということは誰も念頭になかったという。
 委員であった大河内一男元東大総長は『社会政策40年 追憶と意見』で、期待していた産業別労働組合が企業別労働組合になってしまった要因を回想している。
 戦中の産業報国会が、天下り組織として軍や警察の圧力の下で、全員参加の形で個々の企業ごとに強制的に組織されていたという事実が、戦後の企業別の組合結成に及ぼした歴史の検討について準備不足だったという。
 労働組合運動は、近代化と称される労使関係や組合運動のなかで、指導者が政府や経営者を相手に外を向いて闘争する組合の姿だけが話題になってしまい、組合内部の民主主義の問題はあまり検討されていない。組合内部は旧い、前近代的な実体、例えば労使の人間関係なり、子飼いの制度、組合の運営なり仕組みの中に「封建的なるもの」の骨格をなしているという。
 そうした旧い要因を足場にし、旧いものを飼料にしながら、日本の労使関係も労働組合も、戦後たちまち復興し上昇することが出来たという。
 封建的なものを打倒すれば「近代的」なものになるのではなく、封建的な実体が近代的な外皮をまとって根をおろし、それが日本の労使関係を安定したものにさせているという。大河内元東大総長は、企業別労働組合の完成が総評結成だという。

 1952年末頃から、不況の影響を深刻に受け、設備の近代化が飛躍的に進んだ鉄鋼、石炭などの産業を中心に中小企業の倒産や大企業への系列化が進行し、大量人員整理が続出した。
 これに対して総評をはじめ労働組合は、総評事務局長高野実の指導で「家族ぐるみ・街ぐるみ」の地域闘争で首切り、企業整備反対闘争を闘った。また反戦闘争をはじめとする政治闘争に積極的に参加していった。
 炭労三井炭鉱企業連では主婦会が結成され、居住地域の共同闘争に支えられて、保安闘争や指名ストなどを展開して解雇撤回を勝ち取った。54年の尼崎製鋼所争議では、地元の労働組合や商店街をはじめとする各階層の地域共闘に発展した。日鋼室蘭闘争は、労働者と主婦会、青年行動隊、地域共闘組織が一体となり、文字通り「家族ぐるみ・街ぐるみ」の闘争が展開された。
 「健康で文化的な最低限度の生活を営む権利」のために、労基法に盛り込まれている労働者の権利を、労組法の労働者が社会的問題と一体化させて闘ったのである。これらの闘争の中で第二組合が結成されたり、敗北に至った争議もあったが、「家族ぐるみ・街ぐるみ」は企業別労働組合の弱点を補う戦術の行使であった。
 大河内元東大総長が言うところの戦中の産業報国会などの残影の踏襲や“隣組”の経験が、ここにおいては闘争を強化したのである。
 このことについて、55年9月号の『世界』発表された「大河内・高野論争」において、アメリカ型の産業別労働組合を期待する大河内に対して、「ぐるみ闘争」を指導した当時の高野実総評事務局長は、企業別組合からの脱皮を目指していたがそれが逆に強化されていくなかで、「企業別の弱点を承知の上で、それにかまわずその産業別連合体を作って、これを産別として(階級的という意味――筆者が本人から聴取)運営し、団行とストライキを反復して、家族もろとも辛い闘争経験を積んで、企業意識から産業別一本の意識を積み上げ、形は企業別でも実質は大変違ったものに持っていく」と反論している。
 しかしこの頃、高野は総評事務局長の座を失っている。代わって登場した岩井・太田体制は企業別組合に純化していった。

 ▼終身雇用の弊害と企業内組合の堕落

 日本の労使関係は、企業別組合のほかに年功序列と終身雇用が特徴といわれる。
 戦後に導入された職務に関係のない賃金制度と昇給制度は、技術革新が進むなかで、使用者にとっては過重な人件費負担となった。この人件費の抑制のために採用されたのが、人事査定を導入した職務給・資格給制度である。労働者は「努力すれば昇給する」という建前に取り込まれた。しかし使用者の恣意的な査定が労働者間に不信感をもたらし、分断の契機が持ち込まれた。お互いの賃金は不透明なものになった。そして職種による賃金体系が導入されていった。
 さらに職能給の導入が分断を拡大し、競争原理が職場と労働者を支配することになった。
 それでも降給がない状況では、不満が大きく噴出することはなかった。そのような中で、労働組合の役割はベースアップ交渉に切り縮められていった。
 そして労使とも、解雇争議の経験から終身雇用が定着してきた。
 しかし景気に左右される使用者の経営政策において、終身雇用の維持は自主退職と定年退職でしか雇用調整ができない困難を伴うことになる。その調整策として活用されたのが臨時雇用労働者である。そのためには労働条件の契約期間は短く、賃金も生活補助的な額に抑えるなど、雇用継続の期待が小さくなる条件が設定された。しかもそのために活用されたのが、労働基準法の最低基準の適用だった。
 正規労働者は、使用者のそのような政策を受け入れることで自己の獲得した処遇を維持することができた。
 使用者と企業内労働組合における賃金闘争は、会社の経営状況に左右される。そのなかで労働組合員の賃金アップは、原資を分子とするときの分母を少なくするため、労使がともに非組合員を排除した合意であった。そうでない場合でもそれは〃おこぼれ〃、格好だけ程度のものだった。
 産業別の横断労働組合を想定した労基法が、就業規則の作成単位を会社ごとではなく事業所ごとにするとした規定は、企業内組合では意味をなさず、むしろ発言力がある職種に従事する者、会社の方針により近い考えを持っている者、そして会社の意向を受けたものが労組役員に就任する中で一本化し、現場の声は届かなくなっていった。
 そして激しくなる企業間競争を、労働組合は使用者と一緒に戦った。そのなかで企業別組合はますます使用者からの独立性を失い、一体化していった。
 戦後の労働者の闘いは、生活防衛のための賃金闘争の〃利益紛争〃から始まった。しかし利益紛争に重点を置くことによって、もうひとつの〃権利紛争〃は後方に置かれた。具体的には、労基法は労働時間についても厳格に規定し、使用者が時間外労働をさせることに対するペナルティーとして割増しの時間外手当を支払うことを義務付けているが、労使協定によって時間外労働は労働者の義務となり、サービス残業がはびこることになった。
 このような中で労働組合は力を削がれ、同時に組合員からの不信が増幅していった。

―つづく―(11/20;いしだ・けい)


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