●人格否定の雇用は、どうやって出来たのか

労働者の衣食住を破壊する雇用と効率よく富を作るのに徹する経営

(インターナショナル第187号:2009年5月号掲載)


▼新時代をめぐる激論

 1995年、日本経団連は報告書「新時代の『日本的経営』」を発表した。
 労働者を@「長期蓄積能力活用型グループ」(総合職正規社員)、A「高度専門能力活用型グループ」(一般正規職員)、B「雇用柔軟型グループ」(パート、臨時、派遣)に分けた雇用の方向づけをした。
 この報告書の発表に至る論議が、2007年5月11日付の『朝日新聞』に掲載されている。
 94年2月25日、日本経済同友会は研究会を開催したが、そこでは激論が交わされた。
 「企業は、株主にどれだけ報いるかだ。雇用や国のあり方まで経営者が考える必要はない」。
 「それはあなた、国賊だ。我々はそんな気持ちでやってきたんじゃない」。
 前者はオリックス社長の宮内義彦で、後者は新日鉄社長の今井敬である。
 「終身雇用を改めるなら経営者が責任をとって辞めた後だ」と、今井に同調する日産自動車副社長(当時)の塙儀一。「人口構成が逆ピラミッド型の高齢社会で終身雇用・年功序列は持たない」と、宮内を援護するウシオ電機会長の牛尾治朗。そして「終身雇用が会社人間を作ってきた面もある。行き過ぎた会社中心社会を改める機会だ」と主張する日本IBM会長の椎名武雄。
 さらに宮内は、「これまで企業が社会に責任を負いすぎた。我々は効率よく富を作ることに徹すればいい」と発言。今井は、「苦労していない経営者に何がわかるか」といら立つ。
 その後、日経連でも同じ論議が始まり、決着がつかないまま95年、報告書「新時代の『日本的経営』」は発表された。
 同友会の研究会に参加した富士ゼロックス会長の小林陽太郎は、後に「効率や株主配当は重要。場合によっては雇用にも手をつけなければいけないのは分かる。だが1にも2にも株主という意見にはちょっとついていけなかった」と話している。
 その富士ゼロックスは、95年に「成果主義賃金制度」を日本で最初に導入する。雇用を維持するためには、経営者は人権費予算増減の裁量権を持つ必要があるという論である。だが実際の「成果主義賃金制度」は、正規労働者の人件費縮小を目的にしたもので、この後、他社も取り入れていく。
 報告書を書いた日経連賃金部長・小柳勝次郎は、「雇用の柔軟化、流動化は人中心の経営を守る手段として出てきた」と振り返る。「これが派遣社員などを増やす低コスト経営の口実としてつまみ食いされた気がする」とも言う。
 雇用の柔軟化、流動化といっても、前記の@からAやBに、AからBになることはあっても、Aから@に、BからAや@になることはない。雇用は継続しても、大幅な処遇の劣化が伴う対処方法の提案である。

▼「18歳初任給」への平準化

 一方、グローバリゼーションとは世界のアメリカナイズであるが、それは同友会や日経連での論議の予想をはるかに超える、猛スピードで進んだ。雇用制度でも、集団的労働者保護から個人的契約関係に移行されようとしていた。
 97年12月11日、労働時間法制の見直しと「労働契約法」の審議をしていた中央労働基準審議会が、建議を行なった。そこでは裁量労働制の対象業務の拡大を打ち出すとともに、対象労働者の範囲、賃金、評価制度等については、事業場内に設けられる労使委員会で決めることが謳われていた。
 労働時間とその対価としての賃金を保証する労働基準法、使用者と労働者の関係を整理した労働組合法とは別に、会社が労働組合を無視して牽引できる「労働法規」の内容が提案された。
 「労働契約法」は、かなりの修正が加えられ、2008年に施行されるに至った。
 宮内らは、規制緩和、構造改革路線の旗振り役となった。「効率よく富を作ることに徹すればいい」の路線は、「お金を儲けることは悪いことですか」の発言に見られる、社会的モラルハザードも引き起こした。

 日本的経営の「三種の神器」の1つである年功序列は、賃金の右肩上がりが継続することが問題だと言われる。競争を排除するからである。では、そのスタート時点の賃金はどのように決まるのか。
 労働者として社会に踏み出す「18歳の初任給」は、決して自活できる賃金ではなく、親元か会社寮からの通勤を前提に生活を維持できる水準である。20代前半でやっと自活が可能となり、結婚すると家族手当が加算され、社宅が貸与される。
 このように、社会に踏み出す段階での親や会社への依存が、会社人間を育てる要因にもなって「終身雇用が会社人間を作ってきた」。従順な会社人間は、経営者にとって損なことはない。
 年功序列の廃止が叫ばれると、同時に、社員寮や社宅などを含めた福利厚生予算も削減された。その結果、18歳の初任給水準は維持されたままで、生活維持の自己責任が強制されていった。「これまで企業が社会に責任を負いすぎた」という宮内の論理は、18歳の初任給水準が、何歳であっても、どういう家族構成の者であっても、新たに就職する場合の初任給となっていった。
 さらに、最低賃金制度を下回らなければ違法ではないという賃金水準が登場し、生活保護手当額もこの水準に近づいている。実際に生活を維持できない賃金の蔓延は、1日8時間働いても生活できないワーキングプアを大量に作り出している。
 まさに経営者は、「雇用や国のあり方まで経営者が考える必要はない」と、社会に対する責任を放棄した。労働者にとってはセーフティネットが取り払われ、会社秩序も解体されていった。

▼分離される人格と労働力

 「新時代の『日本的経営』」は、企業が雇用に責任を持たない方向に進行した。経営者は「必要なときに、必要な人を、できるだけ安い賃金で働かせ、いつでも首が切れる」雇用戦略を取り始めた。
 教育において、団塊の世代に対しては、産業界の期待する労働力養成のために、「詰め込み教育」が行われた。90年代以降の「ゆとり教育」は、新たに参入予定の労働者に対して、国家も産業界も、何も期待しないという通告の裏返しである。その一方で、経済的にゆとりがある親の子供たちだけが教育を受ける権利を保障され、「勝組み」のコースをたどる。
 「つまみ食い」された、派遣社員に対する派遣法は85年に成立し、その後改訂が繰り返された。雇用関係のない労働現場で働かせるということは、労働する人格と労働力を分離する。派遣労働の究極の形態である日雇派遣は、労働者の人格を無視し、労働力だけを摘出して安価な売買の対象にするに至った。
 こんな「つまみ食い」の典型が、外国人労働者の処遇だ。
 日本の失業者等を対象にしている場合は、職業訓練は3カ月か6カ月、長くても1年しか保証されていないにもかかわらず、外国人労働者に対しては、研修の名目で、ほぼ無償にも近い労働が2年間強制されている。しかも職場環境や住宅事情などは、劣悪そのものである。
 「第二次世界大戦後において、現在東欧やソ連領となった旧ドイツ領から避難民、追放者、捕虜などの帰還者が何千万人もの数で流れ込んで、西ドイツの『奇跡の経済復興』を支えたが、この流れをぴたりと止め、西ドイツに極端な労働力不足を引き起こしたのは1961年の、『ベルリンの壁』であった」。「西ドイツ政府は、労使協議の末、やむを得ず外国人労働者を入れるが、一定の期限付きでローテーションを原則とし、永住を認めない」。「この当初の思惑は数年たたずして幻想に終わった。……不本意なままに外国人労働者がどんどん国内にたまった事は周知の通りである」(西尾幹二著『「労働鎖国」の勧め』カラバオの会編『仲間じゃないか外国人労働者』から孫引)。
 この頃、西ドイツでは、外国人出稼ぎ労働者が人間としての闘いを開始したことに対して、「労働力を呼んだつもりだったが、人間が来てしまった」と暴言が吐かれたという。労働力は欲しいが、人格はいらないということだ。
 現在の日本でも、「人間」としての闘いがやっと開始された。

▼生活と成果から乖離する労働

 昨年の年末に社会問題になった「派遣切り」は、どのようにして起きたのか。
 消費者の欲望を刺激して商品の購入回転を早める製造会社は、ロボットの設備投資よりも、人間の導入の方が切り替えが安易で安価だと判断する。末端の不安定労働者を不可欠とする一方、簡単に解雇することができる調整弁が派遣労働者なのだ。
 商品は「生(なま)もの」だが、人間は「生(い)きもの」扱いをされない。
 「18歳の初任給」、「労働力を呼んだつもりだったが、人間が来てしまった」、商品は「生もの」だが人間は「生きもの」扱いをされない雇用政策は、労働力の買いたたきと我慢を賃金の決定手段とした。
 その結果、職場秩序だけではなく、社会正義、社会秩序が失われ、人間性が保障された生活が喪失させられた。

 賃金は、産業間の職務給の社会的均一を基礎にした同一労働・同一賃金で、生活を維持できる額でなければならない。
 しかし消費者の安物買い、競合する企業間のサバイバルは、販売業界の流通、製造・生産者への廉価の強制と、そこで働く労働者の労働条件と賃金の低下・破壊を強制している。
 その一方、「お金を儲けることは悪いことですか」とうそぶく者たちは、あらゆる手段を行使して略奪・収奪をくり返し、冨者となっている。他人の資産を勧誘して投資と運用をするマネーゲームの勝敗が業績として評価される、利益は生み出すが価値を生み出さないギャンブル労働が、横行している。
 また企業が繰り返したリストラは、人材の流出という結果を生み出し、雇用を留保した雇用方針は、現在、不足する管理職、営業社員を高い賃金で招聘する結果となっている。彼らは、ハイリスクだからとハイリターンの賃金に浸りきり、賃金の高低を自身のステータスにする。
 結局、長期的経営方針を持たない、人材育成を放棄した企業の人事政策の失敗が、少数者の賃金バブルと、多数者の賃金体系の破壊という二極を作り出している。
 このように、労働と生活、労働と成果が乖離する関係性が、人間関係を、さらには共同社会を破壊の方向に導いた。
 労働者に対するセーフティーネットの内容は、子どもを育て上げる家族単位が生活を維持できる賃金、生活給の保障が基本とならなければならない。
 最低賃金は「18歳の初任給」ではなく、家族単位の生活が維持できる賃金から割り出されなければならない。労働者の病気休暇、失業に際しても、その水準を維持する社会制度が確立されなければならない。

▼改めて「会社は誰のものか」

 昨年秋からリストラが横行し、大量解雇と契約期間満了での契約解除が、横並びの護送船団的に横行している。人材育成を怠ってきた経営者が、またいとも簡単に解雇を繰り返している。
 しかし、80年代にヨーロッパから貿易摩擦の原因と指摘され、日本政府が目標とした年間労働時間1800時間が製造業で実現したのは、年末にレイオフが増大した昨年になってのことである。長時間労働は、まだまだ続いている。雇用継続のためのワークシェアリングも、実行されてはいない。
 レイオフは、労働者の財産である職能維持のための職業訓練を伴うものでなければならない。ワークシェアリングは、働き過ぎの労働と余暇のバランス、生活スタイルの再検討と発見のチャンスでもある。 
 就業の権利は、労働者の生活に自己責任を強制する社会では、最優先のものである。労働者に離職を強いる場合、転業救済資金は必要最低限の保障である。
 産業の栄枯は必須である。しかしその結果として、労働者が離職と同時に衣・食・住が奪われることはあってはならない。これらを保証する事業が、早急に公共事業で進められなければならない。なぜならそれは、困窮状態から脱出に向けて確保しなければならない、最低限の条件だからである。
 かつてイギリスの社会保障制度を破壊したサッチャー政権でも、全住宅に占める公共住宅数は15%を占めた。しかし現在日本の公共住宅は、公団・公社住宅を含めても7%弱である。しかも雇用促進住宅を含めて、さらに削減されようとしている。
 日本の多くの労働者は、住宅ローンと教育ローンを抱えている。賃金カット、降給、休職に遭遇したら、まさに〃滑り台社会〃の中で、ハウジングプアに転げ落ちる恐怖を日々抱いている。
 すでに起きているハウジングプアの解決と雇用創出のために、利権を排除した公共事業で、公営住宅建設や改築が進められなければならない。これで〃安心〃が保証される。

 会社は、誰のものなのか。「これまで企業が社会に責任を負いすぎた。我々は効率よく富を作ることに徹すればいい」の主張どおりに、ストックホルダー(株主)が発言力を持ち〃改革〃を強行している。
 しかし会社は、労働者なくしては存在しない。会社は、利用者を含めたステークホルダー(管理する人)のものである。そのために労働者は声を上げ、人格をもっと大きく登場させなければならない。そうすることで〃希望〃が確保される。
 会社は社会的存在である。経営者の〃自己責任〃という分断策動に抗し、〃安心〃と 〃希望〃に向けて、お互いの尊厳、共生、未来のための運動を作り出そう。

(5/10:いしだ・けい)


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