【寄稿】『松崎明 秘録』(同時代社刊 1400円+税)を読んで


人々の琴線に触れない自己を正当化する論調

−「内ゲバ」は「マズイと思った」で済むのか−

江藤正修

(インターナショナル第181号:2008年7・8月号掲載)


 一昨年の2月、寺岡衛著・「戦後左翼はなぜ解体されたのか」の出版を祝って開かれた集いを契機に民主討論クラブが結成され、約2年間にわたって新左翼諸党派の総括を切り口に戦後新・旧左翼の検証を行なってきた。
 その民主討論クラブは今年5月、これまでの討論の一環として、4月に出版された「松崎明秘録」(同時代社発行)を取り上げ、様々な角度から検討を加えたが、このほど、その中の1つの見解として、「先駆」6月号に江藤正修さんが書評を寄稿した。
 今回、「先駆」編集部と江藤さんの了解を得て、この書評を「資料」として転載する。見出しは本紙編集部で付けた。


▼「秘録」の2つの問題点

 「松崎明秘録」(「秘録」)というインタビュー集が発行された。松崎明とはJR総連の元会長、インタビュアーは宮崎学である。この本は2つの点で注目できると思う。1つ目は革マル派(革命的共産主義者同盟革命的マルクス主義派)副議長と目されていた松崎が、革マル派の体現した「内ゲバ」にどう答えているかであり、2つ目は国鉄の分割民営化という過去の経過も含めた日本労働運動の今後を、松崎がどう考えているかである(文中敬称略)。
 なぜ、このような問題の立て方をするのかといえば、JR総連とその源流である動労型運動を今後の日本労働運動再建の重要な一翼として再評価しようという点が、「秘録」から読み取れるからであり、その問題意識は雑誌「情況」1-2月号に掲載された「60年間の実践の教訓と私の自己批判」(樋口篤三)、同「『JR総連・JR東労組=革マル』説に怯える人々に」(戸塚秀夫)とも通底していると思えるからである。
 そして、もしこのような観点から松崎明とJR総連を再評価しようとするならば、少なくとも上記2点が解明されなければならず、また、松崎明自身がどのように自己総括をしているかが問題にされなければならないと私は考えている。
 なぜなら、日本新左翼運動の内部から発生した「内ゲバ」問題は、新左翼だけではなくて左翼運動全般に深刻な影響をもたらし、左翼の回復には少なくとも一世代を要するほどの打撃を与えた。そして革マル派は、周知のとおりその元凶のひとつである。また、80年代の国鉄分割民営化攻撃に対して、動労とその後継組織であるJR総連が中途から積極的賛成派に転じ、国鉄労働者の首切りに関与したことは疑う余地のない事実である。その象徴が1047人の採用差別・解雇問題なのだが、もし松崎が今後の労働運動に積極的な発言をしようと考えるならば、この問題の総括は避けて通ることができないと思うのである。
 私が2点についての解明と自己総括が必要だと言ったのは、このような理由からである。次にこの点に関して、「秘録」ではどのように語られているかを見てみる。

▼黒田を賛美する革マル批判?

 松崎は、70年代末まで革マル派副議長であったことを「秘録」の中で認めている。そうであるならば彼は、日本新左翼運動に壊滅的な打撃を与えた「内ゲバ」問題に対して、どのように語っているのだろうか。
 革マル派の「内ゲバ」を象徴するのが1975年の中核派書記長・本多延嘉殺害だが、宮崎の「あの事件のときに…どういうふうに思われたのですか」との問いに対して、松崎の答えは「うーん、ヤバイなと思ったね」だけである。そして同年6月に革マル派の工作で出された知識人の内ゲバ停止声明、「革共同両派への提言」で埴谷雄高をオルグした場面を次のように述べる。「…当時の全学連出身の男と一緒に行ったんです。ところがこの男が、埴谷さんに対してやたらと生意気なんですよ。この生意気ぶりはなんだと思ったですね。これはもうダメだなあと思いました」。
 ここでの特徴は、本多殺害に対してなぜ「ヤバイな」と思ったのかの説明を欠いたまま、学生出身の革マル派官僚への批判に移行する点であり、革マル派官僚への責任転嫁は「秘録」全体を貫く叙述方法でもある。すなわち、自らが革マル派であったことは認めたうえで、同派の中で自分は取るに足りない存在であり、しかも労働現場を知らない小ざかしい学生出身の革マル派官僚と真正面から渡り合ってきた点を強調するのである。
 しかし、50年代末に黒田寛一と出会い、58年の第4インター除名・脱退の時点で、黒田派5人の中の1人と言われ、63年の革マル派結成で副議長に就任した松崎が、同派の中で“取るに足りない存在”であったことなどあり得ようか。その松崎が「内ゲバ」問題と向き合おうとするなら、本多殺害に関して「ヤバイなと思った」だけで済むはずがないことは、当時の時代を新左翼として共有するものなら誰にでも分かることである。
 松崎は「秘録」の中で「黒田寛一というのは素晴らしい人だとずっと思っていました」と述べ、黒田批判は1ミリも口にしていない。しかし、黒田理論が革マル派の「内ゲバ」に論拠を与えていることは、周知の事実である。これ以上、この問題に踏み込むことは避けるが、「黒田理論は素晴らしい」と言い、本多殺害に関して「ヤバイなと思った」で済ませている松崎は、「内ゲバ」について“戦術的にまずかった”と反省しているだけで、“次はもっと上手にやる”と言っているに等しい。そう疑われてもやむを得ないではないか。

▼革マルにも国労にも「裏切られた」?

 次に、“国鉄の分割民営化という過去の経過も含めた日本労働運動の今後”に関する松崎の叙述であるが、紙数が限られているので国鉄闘争を中心に言及してみる。
 松崎は総評結成以来の戦後労働運動を概括して、岩井章など民同派と共産党の改良主義の限界を克明に述べる。国鉄新潟闘争での共産党、民同派批判、三池闘争での民同派批判がそれに当たるが、これらの批判は私の知る限り、陶山健一が展開していたものと同様であり、中核派、革マル派分裂以前の共通認識と言っていいのではないか。
 しかし、60年代中盤以降の国鉄合理化(後の分割民営化につながる)では、叙述が一変する。それは松崎が動労の中で指導的位置の一翼となったことに対応するのだが、労働組合とは“改良の積み重ね”という発言が中軸を占めるようになるのである。そして、そのような松崎に対して革マル派官僚から「シャミテン」(社会民主主義に転落した組合主義者)批判が繰り返され、ついには「反松崎フラク」まで結成された経過が明らかにされる。
 こうして松崎は、動労をめぐって革マル派官僚と“熾烈な”対立を繰り返し、ついに革マル派と決別したと述べている。松崎が革マル派官僚から「シャミテン」と批判されたというこの部分を読む限りでは、彼が革マル派と決別した点は事実であろうと推測できる。
 以上のような前提の上で、国鉄の分割民営化と1047人の採用差別問題についての松崎発言を検討してみる。彼はマル生攻撃と国鉄の分割民営化について次のように述べる。
 「国労と動労の共闘というのは、マル生闘争の時に一生懸命やったんです。…ところが、いざ順法闘争をやるとなると、国労は戦列から離れていっちゃうんです。…だけど、ここはね、25日間順法闘争をやって、…結局マル生闘争は勝ったんですね。…やっぱり決意を持たないとマル生闘争はできなかったし、(国鉄分割民営化の時にはその力量をもったまま、当てにならない総評は無視して、敵の餌食にされる前に)やっぱり妥協の道を選ぶのが賢明だと。…やっぱり組織としての国労を信じるわけにはいかない、信じたらとんでもない目に会う。」
 そして、分割民営化に賛成したことを次のように正当化するのである。
 「我々は残ると決心したんです。…我が組織は階級的だから、…階級的な組織を残しておけば、やがてそれは次の時代に萌芽となるであろう。…だから、分割民営化にすりよって国労を裏切ったとか言われても、じゃあ、俺は国労の何を裏切ったんだと言いたい。」
 確かに労働組合運動は改良主義で成り立っている。したがって、敵の攻撃が強大で組織の存亡をかけた事態に直面した場合、“戦術的妥協”は必要である。その点について松崎は、国労修善寺大会を評して次のように述べる。
 国労は「修善寺大会で妥協しようと思ったけど妥協できなかった。…あそこで、国労は妥協さえできなかったわけですよ。何とかなると思っていたら、妥協できないわけですよ。私は何ともならないと思っているわけですよ。だから妥協を求めたんです。」

▼正当性の誇示と他者への侮蔑

 私も、当時の国労指導が正しかったと言うつもりはない。また、修善寺大会以降に選出された国労指導部が未熟で政治的能力に欠けており、政治状況全般を見通した上で国鉄闘争の展望を確立できなかったことも事実である。
 しかし、86年の修善寺大会に投げかけられていたのは、それだけであろうか。同大会では、戦後労働運動の階級的性格をどのレベルで防衛するかが問われていた。今日から見るなら、その階級的性格にどのような弱点が孕まれていようと、である。
 また同時に、86年の国鉄職場では国労に残るか否かで線引きが行なわれ、国労を選択した組合員が解雇要員として人材活用センターに収容されたことは、疑いもない事実である。そして、その時、国労を脱退して動労に移行した労働者はほぼ100%、採用された。当時、この2つは一体のものとして、修善寺大会を押し上げていったのである。
 この事実に関して、大言壮語した上で組合員を守れなかった国労指導部を無能としてせせら笑い、自らの戦術判断の正しさを誇るのか、それとも戦後労働運動の総括と絡めながら、おのれの戦術指導にも大きな限界があったと語るのかは、天と地ほどの違いがある。だが松崎発言は、“残念ながら”後者である。しかも正しさを誇示するこれらの発言には、彼が決別したという革マル派特有の臭気がふんぷんとしているのである。
 松崎は1047人問題について、次のように述べている。「(これまでこの問題を解決するために国労に4回の申し入れを行い)、直接JR本体には入れなくともとりあえず傍系のところに入ることは可能ですよ、ということを言ってきた。しかし全て拒否されました。…結局私のことを資本の軍門に降った、鉄労以下だと、こういうことでしょう」と語り、さらに「でも、そういう戦略も戦術もわきまえないリーダーによって、そこに結集している人は不幸にしかならない。しかしその不幸にしかならないことを、何で知ってもらえないんだ、何で自覚してくれないんだ」と語っている。
 この引用の前半はともかくとして、後半部分はあからさまでないまでも、1047人に対する組織分裂の勧めである。いつまでも国労などにこだわらずに、JR総連東労組に支援を求めるならば直ちに救済の方法を見つけてあげますよ、というわけである。
 今は休眠状態だが、国労の支援組織に「国労だから女だから、そんな差別は許さない女のネットワーク」がある。国労闘争団内の女性闘争団員と連帯する組織であるが、この名称が象徴するように、国労闘争団員と家族が何度となく裁判で敗れようとも、20数年間にわたって闘い続けてきたのは、強烈な実感に基づく「そんな差別は許さない」という思いである。
 もし松崎が、国鉄の分割民営化に対する賛成が戦略的ではなくて戦術的なものだというならば、20年が経過した現時点での自己総括に基づいて、「そんな差別は許さない」という闘争団員と家族の琴線に触れる言葉が出てくるはずである。だが、彼の発言には、自らの正しさの誇示はあっても琴線に触れる発言は皆無である。なぜそうなのかと言えば、松崎の選択が戦術ではなくて戦略的転換だったからである。

▼「反差別」の対極にある「内ゲバ」

 松崎は1986年7月の鉄労大会で次のような挨拶をしている。
 「私らの理念は階級闘争の理念でありました。…ある意味でイデオロギーを先行させて精いっぱい闘ってきた歴史を持っております。…今、必要な国鉄改革とは、そこに働く労働者とその家族の利益が完全に保証されるものでなければならないのだと、まさしくイデオロギーによってこの鉄道を駄目にしてはいけないのだと、…そう思っているわけであります。」
 これは、10月に開かれた国労修善寺大会の3ヵ月前の発言である。ここからは、「戦後労働運動の階級的性格をどのレベルで防衛するか」などの問題意識を、いささかも見て取ることができない。しかも、この時点で問われていたのは、大仰な「階級闘争のイデオロギー」などではなくて、ブルジョア法制下の労働法(不当労働行為)=民主主義の問題だったのである。それを破り捨てて生き延びたことへの自己総括なしに、“戦術的転換”などと評価することはできない。
 最後に、人権問題についての松崎発言に触れておきたい。彼はこの点について次のように述べる。
 「私は住井すゑさんをみていろいろなことを感じた。そして奮い立ったんですよ。こういう差別・被差別という関係をつくっているのは、結局我々自身じゃないか。我々もその加担者じゃないかと。」さらに、「こういった問題について、私たちはあまりにもネグレクトしてきました。プロレタリアート、労働者階級って言うけれど、そうじゃなくて、もっともっと幅広く、悩み苦しんでいる人たちの力とか、あるいはヒューマニズムの観点とか、そういうところをどっかにやっちゃった……。」
 この松崎発言は、今日のユニオンリーダーと比べるならば、出色の内容と言えよう。しかし、この発言が評価されるためには、2つの前提が必要である。
 1つは「内ゲバ」問題についての根底的な自己批判である。松崎がここで想定している分野の1つは、NPOやNGOなどに代表される新しい社会運動である。しかし、この領域の運動は何よりも民主主義が前提なのであって、対立意見を肉体的に抹殺する「内ゲバ」行為とは全く相容れない。もし、これらの人々と共通の土俵に立ったときに、“間接的”だったにせよ、松崎のかかわった「内ゲバ」が露呈すれば、どのように弁解しようと絶縁の対象にならざるを得ない。
 それは、1047人問題でも同様である。分割民営化の時点で新会社への選別という「差別」に加担したことの自己批判なしに、新しい社会運動と同列の線上に立つことはできない。労働現場でのワーキングプア―問題を見るまでもなく、この領域では「反差別」が重要なキーワードとなるのであり、2つの自己批判を欠落させた松崎発言は、“乗り移り”にしかならないのである。


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