【特集・秋葉原殺傷事件2】

人格を否定される派遣労働の現実

−加害青年の転職歴は何を意味するのか−

(インターナショナル第181号:2008年7・8月号掲載)


▼すべてが「家族の責任」か?

 秋葉原事件は単なる殺人事件ではない、現在の社会状況への、負の側面からの問題提起が行われたと受け止め、その捉え直しが進んでいる。
 事件当初、犯人の生い立ちが家族と一緒に取り上げられた。20歳を過ぎ、離れて暮らす子供の行為を、親がマスコミの前で謝罪する。取材する側は、親にどれくらい責任があると捉えているのだろうか。
 そこでは、人間形成は親・家族によって行われなければならず、その教育を誤ると社会秩序を乱すという、国家主義的価値観を浸透させるような世論誘導がされている。
 さらに事件当初は、彼の出身高校名も伏せられていた。名門校の卒業生は社会の落ちこぼれになるはずはなく、彼は例外だという取扱だったのだろう。
 事件を起こしたすべての責任が、本人と家族にあるという主張だった。
 だが「ワイドショー」というドラマは、転職の繰返しの経歴と、家族関係の問題点の接点をうまく説明できない。木に竹を接ぎ木するようなものだからである。
 しかし派遣労働者である彼の実態に迫ろうとしない報道に、いまや決して小さな存在ではなくなった派遣労働者たちから、多くの叫びが届けられた。

 当初の報道では、派遣労働者が事件を起こしたという報道だけで、派遣元も派遣先も明らかにされなかった。
 会社が製造する商品には、会社の名前とセットになった商品名がある。たとえば「トヨタのカローラ」という風に。そしてトヨタの社員は、「カローラを製造しているトヨタの社員」なのである。
 しかし彼には、会社名がつかなかった。社名の付かない「派遣労働者」なのである。派遣元も派遣先も、彼を「うちで働いている労働者」とは認めない。これが、現在の派遣社員の置かれている現状を物語っているのではないだろうか。
 派遣労働者は、まさしくトヨタが考えだした「ジャスト・イン・タイム」と同様に、必要な時に「取り寄せ」不要になったら「返品する」部品でしかなく、彼らは商品以下に取り扱われている。
 「派遣社員」は、勝ち組社会から排除される状況に追いやられてきたが、その結果、今回の事件は、逆に派遣社員の抱える問題を世に問うことになった。

▼いつでも取り換え可能な労働力

 95年、日経連は「新時代の『日本的経営』」を発表した。
 労働者を、@「長期蓄積能力活用型グループ」(総合職正規社員)、A「高度専門能力活用型グループ」(一般正規職員)、B「雇用柔軟型グループ」(パート、臨時)に分けての雇用に方向づけをした。
 この分類は、雇用契約内容に違いはあるが、労働者は建前としては、それぞれ労使が対等な立場で契約を締結していることになる。しかし現実の問題として捉えた時、なおかつ雇用する使用者の姿勢でとらえた時、@は、会社が経営上恒常的と必要とする人材、Aは、能力的、時間的に、部分的に必要に応じて利用する人材である。
 ではBは、どう位置付けられているのか。人格は必要のない、いつでも取り換えが可能な労働力である。人格を必要としない労働者に対して、会社は教育・訓練を保障しないだけでなく、生活も保障しない。
 その分類はそのまま、社会的なさまざまな格差の中に位置付けられている。
 「雇用の流動化」は@からAやBに、AからBに異動することがあっても、逆流はほとんどない一方通行である。さらに、それぞれの細分化も進んでいる。
 当初、派遣労働者はAに位置づけられたが、法改正が繰り返されて、Bに移動させられていった。さらに昨今問題になっている日雇い派遣労働者は、Bでもない、使用者側にとっての「自由裁量労働力」である。労働者は人格だけでなく、人権が奪われて行った。
 今回の事件のように、人権復活の叫びが負の手段で訴えられたということを、私たちはどう受け止めるかが今問われている。

▼「会社は誰のものか」を問い直す

 労働者の人権が、賃金・生活を含めて奪われているが、ではその労働者の業績は、どこに収奪されているのか。
 昨今の会社経営では、ファンドとにわか株主が取りざたされている。
 会社はだれのものか。ファンドとにわか株主は、自分たちのものだと主張する。しかし本来、株主は会社の最高決定機関である株主総会での決定に参加する資格を持っているだけの存在である。
 労働者は、短期間に収奪していくマネーゲームを展開する、ゲリラ的に登場して跋扈する、ファンドとにわか株主のために働いているのではない。
 村上ファンドの「お金を儲けることはいけないことですか」という質問には、「労働者の労働力の成果を対象にしたギャンブルで、お金を儲けることはいけないことです」と断言しなければならない。
 会社は、「法人」という人格を持っている。そこには、労働者の保護や社会的存在価値・責任も含まれる。
 しかしファンドやにわか株主は、会社の人格を無視する。そしてその延長線で、労働者の人格・人権をも無視する。
 私たちはもう一度、会社はだれのものかと問い直さなければならない。
 そこではパート、派遣等の労働者を会社の内側に位置づけ直して、会社は労働者のものであり、社会のものであるということを確認させなければならない。

 労働者はだれでも、安全に働いて安心して生活する権利がある。そのための条件を会社に要求し、実現する権利がある。そのことを主張し、共感され、要求することが当然の権利であると確認された時、秋葉原事件の彼の行為は、間違いであったということができるのである。

(7/15:いしだ・けい)


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