●非正規雇用の拡大と労働運動【上】

労働法制規制緩和の進展

−20年前に始まった処遇差別化の流れ−

(インターナショナル第172号:2007年4月号掲載)


▼松下電器の早期退職者募集

 今年3月10日、新聞各紙は、松下電器が早期退職5000人を募集すると報道した。
 経営陣の中で松下電器は、雇用問題を牽引する位置にある。2001年に松下電器が早期退職者1万3000人を募集すると、他社は、「雇用を大事にする松下電器がするのなら」と真似をした。その結果、失業率が5%台に跳ね上がった。
 松下電器が雇用を大事にしていたといっても、労働者がみな正規社員や直接雇用だったわけではない。ご多分にもれず請負労働者や派遣労働者が製造現場を支えていた。
 実は雇用問題は、正規社員の問題がクローズアップされているときに、非正規労働者の問題が深刻化を増す。非正規労働者の問題でも、パート労働者問題が論議されているときに、派遣労働者の処遇が悪化する。この間は、非正規労働者の問題がクローズアップされている間に、請負労働者、個人事業主・偽装雇用の問題が深刻化していた。フリーター、ニートの問題もある。
そして今回、非正規雇用・請負労働者、個人事業主・偽装雇用の問題がクローズアップされている最中に、松下電器が早期退職者を募集した。松下電器に「勇気」をもらって、今後は正規社員の大量早期退職募集が行なわれることも予想される。
 これに対する労働者側からの歯止めはあるのか? 早期退職者の受け皿はどうか? 雇用状況は、松下電器が早期退職者を募集した6年前と比べて、よくなっていると言えるものはない。

▼転換点だった1985年

1985年は、日本の雇用問題を語るとき、大きな転換点であった。
この後の転換を、労働者の多数を占めていた「正規男性労働者」を軸にとらえ返すと、経営陣がどのような雇用関係を目論んでいたかがはっきりする。一言でいうと、正規労働者からはじき出された非正規労働者が増大してきた。また、女性労働者が働きにくい労働環境が作られてきた。
85年5月17日、「男女雇用機会均等法」が成立した。男女差別禁止事項が盛り込まれはしたが努力目標でしかなく、その一方で女性の時間外労働、休日労働の規制が一部解除になった。女性労働者は「男性労働者と均等のチャンス」を保証されたことになるが、現実には「男の『戦場』に均等に『出兵』させられた」のだった。
 同年6月11日には、「労働者派遣法」が成立した。これまで制限されていた労働者派遣事業は、専門的な知識・技能・技術を必要とする業務に限ってだが、民間業者が行なうことが容認された。総合職ではない専門職の人件費を低く抑えるためのものとして、派遣労働者が広く活用された。雇用先には雇用関係がなく、労働力の調整弁にもなる労働者群が登場した。
そしてこの年の12月19日、労働基準法研究会が最終報告書を提出した。その内容は、労働時間の規制緩和ということで、変形労働時間制、フレックスタイム制、裁量労働制などが含まれていた。
次ぎは1987年、労働時間の規制を緩和させる政策として、労働基準法が改正された。裁量労働制の導入は、残業をしても割増賃金を支払わない賃金制度を事実上合法化するものであった。
裁量労働制などの導入は、これまでの賃金が労働時間の対価としてあったものを、業績に対して支払われるものに変えることを承認することで、労働基準法の根幹を揺さぶる転換であった。このような賃金支払方法の転換は、生活時間と睡眠時間を労働時間が大きく侵略し、労働者の人権や生活権を否定するものになっていった。成果主義賃金制度、現在の「ホワイトカラー・イグゼンプション」の萌芽は、この頃にあった。

 85年12月19日、労働基準法研究会は、契約が個人事業主か雇用契約関係かを判断する基準である「研究会報告書」も提出した。
商品販売など最終段階の業務が、社会的状況に左右されることが大きい営業や運送業について、業務上の拘束や指揮命令の対応によって雇用関係の有無を峻別する、裏を返せば「こうすれば労働者ではない」と会社が主張できる、「労働者性」を拒否できる「判断基準」が発表されたのである。
 一方、73年のオイルショック以降、労働の長時間化と過密化が進み、過労死する労働者が増加してきた。そのようななかで88年4月、大阪で弁護士有志が「過労死110番」のホットラインを開設、10月には過労死弁護団全国連絡会議を結成した。

▼労働法制規制緩和の進展

 1985年9月22日、ドル高是正のため5カ国の大蔵大臣・中央銀行総裁が出席した会議で、国際的協調が合意された、いわゆる「プラザ合意」が発表された。「プラザ合意」では、米国の経常収支赤字を解消するために、保護主義圧力に抵抗することが不可欠であると確認された。
これを受けて86年4月、「国際協調のための経済構造調整研究会報告書」いわゆる「前川レポート」が発表された。日本の貿易黒字に対する国際的批判への対応策として、「外需依存型」から「内需依存型」への構造転換が提唱された。
そして外国製品およびサービスに対する日本の国内市場の一層の開放、強力な規制緩和措置の実施による民間活力の活用などの政策が実施されることになった。円高が進み、輸出産業は「円高不況」に陥った。
 これに対して、日銀が7回の公定歩合の引き下げによる金融緩和政策を行なうと、海外投資が急増し、87年頃からは「バブル経済」になっていった。 未曾有の、だが見せかけの好景気が続くと、労働者の危機感は消えていった。「中流意識」が支配的となり、消費が拡大した。労働法制も、労働者の抵抗が小さい中で「保護主義」から解放され、規制緩和に拍車がかかった。
 93年6月11日、「パートタイム労働法」が成立した。だが実際は事業所の努力義務を規定しただけで、効果は薄いものだった。
 このような中でも96年3月、長野地裁上田支部で係争中だった「丸子警報機パート賃金差別訴訟」は、労働時間が長い「にせパート労働者」に対して「正社員の8割以下の賃金差別は違法」という判決を勝ち取った。
 また男女賃金差別訴訟においても、長い闘いのすえ勝利判決を勝ち取った。
 しかしバブル経済が崩壊すると、雇用問題は深刻になった。

 1995年、日経連は「新時代の『日本的経営』」を発表した。この内容を要約すると、「必要なときに、必要な人を、できるだけ安い賃金で働かせて、いつでも首が切れる」雇用戦略をうたっていた。
 労働者を、@「長期蓄積能力活用型グループ」(総合職正規社員)、A「高度専門能力活用型グループ」(一般正規職員)、B「雇用柔軟型グループ」(パート、臨時、派遣)に分けた雇用の方向づけをした。
 これらの政策は「雇用の流動化」と呼ばれたが、@からA、Bに、AからBに異動することはあっても、逆流はない一方通行の流動化である。再構築の意味合いである「リストラクチャー」の言葉で惑わせる「リストラ」が行なわれたが、その実態は、年功序列賃金制度と終身雇用制度を廃止し、解雇の意味も含んでいた。
 人件費削減を目的とする政策は、職場では「窓際族」などの「いじめ」を伴なって進行した。
 そして同じ95年、富士通は「成果主義賃金制度」を導入した。その後それは、多くの企業で導入されていった。
「成果主義賃金制度」は、賃金が成果に基づいて支払われる制度だと説明されるが、まず「成果」ということについての定義自体がまちまちである。
日本の労働者は「職務」ではなく「職能」で業務を遂行しているが、「職能」を分析・評価するのは至難の業である。「能力」はストレートに「業績」に結びつかないし、「業績」と「成果」も違う。さらに日本の職場には、「評価」が馴染んでいなかった。結局、成果主義賃金制度は、人件費削減政策として運用されているのが実態である。
 労働者の「職能」における「成果」は、経験を積むほど発揮される。逆に労働者の「能力」は一夜にして落ちることはない。つまり「成果」は短期間で下がることはない。だから年功序列賃金制度は、実は成果主義賃金制度なのである。
 その「成果」が下がるとしたら、職場環境や評価制度が変わったり、「成果」を恣意的に「評価」した場合である。
そのうえで年功序列賃金制度と成果主義賃金制度の違いは、成果主義賃金制度のもとでは労働者が常に「評価」が下げられるという不安のもとで働かされることであり、高給の中高年労働者が、終身雇用を期待しない低賃金の若年労働者から疎まれる職場環境になったということである。大企業では、早期退職優遇制度も導入された。
「成果」といいながら実は恣意的「評価」を行い、これにもとづいた「業績」を重視する賃金制度として、「年俸制」が導入され始めた。
賃金決定が、労働組合の集団交渉から個人交渉に移行していった。職場では360度ライバルが存在し、労働者の職場秩序、団結を破壊した。

▼価値観の強制的変革

 97年12月11日、労働時間法制と「労働契約法」の見直しについて審議していた中央労働基準審議会が、建議を行なった。そこでは裁量労働制の対象業務の拡大を打ち出すとともに、対象労働者の範囲、賃金、評価制度等については、事業所内に設けられる労使委員会で決めることがうたわれていた。
 労働時間とその対価としての賃金を保証する労働基準法、使用者と労働者の関係を整理した労働組合法とは別の、会社が労働組合を無視して牽引できる「労働法規」の内容が提案された。
企業において、成果主義賃金制度を導入するにあたっての評価規定は就業規則の一部であるが、現在は評価を規定する法律はなく、企業が「自主的」に制定してきた。その結果、労働基準法では懲罰としての「減給」は月額賃金の1割を超えてはいけないが、評価規定の「降給」には制限がないということがまかり通ることになった(裁判判例では歯止めが掛かりつつあるが)。
現在、「労働契約法」法案の成立は阻止されているが、労働基準法と労働組合法に則さない、労使委員会による就業規則の制定・変更は、労働組合をないがしろにするものである。実際に現在の労使の力関係の中では、労働基準法と労働組合法を無視した、会社の言いなりの労働条件が強制されかねない。

 「バブル経済」状況で労働法制の規制緩和に拍車がかかっている中でも、女性労働者は声を挙げ続けた。
97年6月11日、男女雇用均等法と労働基準法の改正された。均等法では男女差別禁止の強化がはかられたが、引き換えに女性労働者に対する時間外労働、休日労働、深夜労働の規制などが撤廃された。時間外労働、転勤などを了承して男性なみに働く女性労働者については、男性と同じ処遇を受けるチャンスを与えるというものである。
97年から、98年9月25日に成立するまで、労働基準法反対闘争が全国で展開された。この時に問題になったのは、裁量労働時間制が11の専門業務からホワイトカラー全体に拡大されたことである。
 反対闘争が大きく展開されたことの成果としては当初の目論見から外れた使い勝手が悪い裁量労働時間制となった。
 99年6月30日、改正した労働者派遣法と職業安定法の改正法が成立した。その結果、派遣業務が港湾運送などを除いて原則自由化になった。
 そして、ホワイトカラーイグゼンプションの導入が提案された。
 このような労働法制の流れを見るなら、ホワイトカラーイグゼンプションの導入は、単に過労死が増大するという問題だけではなく、労働者の働き方(働かされ方)、労働者の価値観の強制的変革が行なわれようとしている。自社株を持ち企業年金制度を保証された労働者にとっては、労働時間に関係なく労働して会社の成果を上げないと賃金も配当も年金も保証されないという危機感を持たせられる。労働者の側が自ら、がむしゃらに働く労働者群を作り出す。
労働基準法が労働契約法に取って代わられ、労働組合の役割が減少し、労働者個人が分断されて存在することになりかねない。
このような、労働者の団結を破壊し、心身も破壊するホワイトカラーイグゼンプションは絶対に葬り去らなければならない。

賃金と労働時間の規制緩和は、20年間に堰を切ったように進行した。しかし労働者の保護規定の整備は遅々として進んでいない。正規社員と同じ業務をこなしながら、パート労働者、派遣労働者らの賃金差別は縮まっていない。請負労働者・個人事業主は最低賃金すら保障されない。女性労働者が、その流れに投げ込まれた。競争に対応できない労働者は排除され、取り残された。
 95年に発表された「新時代の『日本的経営』」のグループ化は、さらに細分化している。Aの「高度専門能力活用型グループ」には非正規労働者が侵入し、Bの「雇用柔軟型グループ」の末端には、請負労働者・個人事業主が加えられた。
最上層は、労働者意識を払拭し経営者意識をもった高収入の労働者、最底辺がワーキングプアである。
 格差は確実に拡大しているが、労働者の「自助努力」で縮小するのは、不可能なことである。【つづく】

  (4/4:いしだ・けい)


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