再び「原発労働者を友として」
空洞化していた労働現場の安全
被爆という労働災害と社会的労働運動の課題


現場労働者の致死量被曝

 9月30日に茨城県東海村にある核燃料加工会社ジェー・シー・オー(JCO)東海事業所で起きた臨界事故は、日本の原子力産業史上最悪の被曝事故となった。この事故による周辺の被曝被害は、例によって通産省や科学技術庁ぐるみのデータ隠匿によって、住民や農作物の被曝線量などは判然としない。だがひとつだけ明らかなことは、「作業員の致死量の被曝」という事故は、国際原子力機関(IAEA)が90年に決めた「事故についての国際評価」(0〜7の8段階)に照らせば、97年3月に旧動燃(動力炉・核開発事業団)の東海村再処理工場で起きた爆発事故の評価「レベル3」を越える「レベル4」の重大事故であり、それによって原発関連事故による日本で初めての「死者」が出る可能性のある深刻な被曝被害が起きたことである。 そこには「原発労働者を友とする反原発運動」の立ち遅れが、言い換えれば原発労働者の中に、自らの命を守る「あたりまえの」労働組合を組織できないできた日本の労働運動の本質的欠陥、つまり社会的課題を労働組合の課題として捉えようとしない弱点が凝縮して突き出されているように思われる。なぜなら今回の事故は、企業社会にからめとられ、資本の利潤追求に追従し、結果として自らの身の安全すら軽視する「違法な労働」に従事してきた「階級的に堕落した」労働者が、周辺住民を巻き込む大事故を引き起こした、とも言えるからである。
 もちろん事故の最大の責任は、これまでわれわれも指摘してきたように、原発利権をむさぼるために電力会社、原発産業、国家官僚機構が癒着して安全神話を取り繕い、他方では「あたりまえの」労働組合を含む内的監視機能を徹底的に解体してきた日本の原発行政の構造そのものにある。にもかかわらず今回のような、「手抜き作業」が直接の引き金になった「信じられない」過失の背後には、原発関連労働者の多くが、腐敗した原発行政とこれに連なる原発関連資本のモラル的堕落に巻き込まれ、自らの命の危険をも顧みないだけでなく、地域社会の安全など眼中にない反社会的な働き方に「慣らされた」とでも言うべき問題が、つまり「企業戦士」の過労死に通底する「労働問題」が潜んでいるのは明らかである。
 原発労働者自身の安全の確保こそが、原発事故に対する最も効果的な抑止力となることは言うまでもないことだが、ではなぜ日本の労働運動は、反原発という社会的運動との連携を実現し、原発産業の中に「あたりまえ」の労働組合を組織できなかったのだろうか。80年代には反原発を掲げた市民的運動の高揚があり、90年代には重大な原発事故が相次ぎ、94年7月には原発労働者の病死が被曝による労災と認定される画期的な闘いがあったにもかかわらずである。
 この問題についても、今回の臨界事故の構造的問題点の分析とともに、この小論のなかで検証を試みたい。

労働者の被曝と労基法違反

 今回の事故による労働者の被曝被害は、年間被曝許容限度の340倍にも達する17シーベルトを一瞬のうちに被曝した大内久さん(35歳)をはじめとする3人の現場作業員、事情の説明もないまま通常の装備で被曝作業員の救助に当たった3人の救急隊員、そして放射能を撒き散らしつづける臨界反応を止める作業のために「決死隊」として選抜された18人のJCO職員、さらには事故直後の10時40分頃に退避を命じられはしたが、現場から半径350メートルの住民に避難勧告(「退避要請」とされているが、これは「避難勧告」以外の何物でもない)が出された午後3時以降も、事業所敷地内のしかも屋外に、午後5時30分頃の帰宅許可が出るまで、実に7時間近くも放置されていた120〜130人と言われるJCO職員にまで及んだことは疑いない。
 しかもこの人数の中には、午後になってようやく実施された事故現場周辺の交通規制以前に、だから臨界事故による放射線が極めて強く出ていたはずの時間帯に、事故を知らずにJCOに出向いた労働者や、JCOの近辺まできて事故を知って引き返した労働者などはまったく含まれてはいない。まして原発関連労働者以外で、交通規制以前に偶然事故現場周辺を通過した運転手や労働者・市民の数は把握すらされていないし、周辺住民の被曝を含めれば、いったいどれほどの人々が被曝したであろうか。中でもJCO労働者の被曝被害については、放射線測定データの意図的な操作も含めてかなり悪質な真相隠しが行われようとしている。
 JCO労働者たちの被曝被害は、厳重な箝口令のもとで彼ら自身の訴えとしても表面化してはいない。だがこうした労働者の消極性を利用して、原子力関連企業の監督官庁である科学技術庁は、被曝の被害を過小に見せかけようと、正確な被曝線量測定値を公表しようとはしないのである。
 たしかに致死量の被曝を被った3人の作業員のデータは公表されているが、その被曝線量が人体に及ぼす深刻な影響については極めてあいまいにしか説明されておらず、「決死隊」に選抜された職員の被曝線量の公表データは、中性子線やガンマ線など様々な放射線が区別もされていないズサンなもので、これでは被曝被害の実態は判定できない。さらに現場近くの屋外に放置されていた100人以上もの労働者の被曝線量は、「ただちに健康に影響があるものではない」としてデータの公表すらされていない。
 もちんこれらのデータが公表されず、被害者であるJCO職員にすら正確に伝られないのは、ただちに健康に影響のない被曝といえども、今後何年にもわたる厳重な健康管理が必要となる被害が明らかになり、それが職員の不安をかきたて、内部告発の契機になる危険があるからに他ならない。
 そうした被害隠しの中で、「週刊現代」(10/30号)が「JCOが核燃料開発機構に協力を依頼し、秘密裏に調査・作成していた極秘データを入手した」として報じたのは、これら被曝したJCO職員のうち、「決死隊」として選抜され「愛社精神の塊となって突入を志願した」と報道された現場突入メンバー18人および作業補助要員を含む35人分と、事故現場付近で被曝した職員43人分の「本当の被曝値」であるという。
 この報道によれば、人体にとって最も有害な中性子線の被曝線量では、原子炉等規制法に基づく関連作業員の年間被曝許容限度である50ミリシーベルト以上の被曝をした職員は、JCO広報部の2人という公表に反して5人もおり、49・9ミリ、45・3ミリといったかなり危険な水準の被曝が他に2人、30〜40ミリの被曝はさらに5人、補助要員など35人の中にも限度量を越えた可能性の強い職員が11人もいるという。ちなみに一般人の年間許容限度はわずか1ミリシーベルトだが、50ミリの限度を越えた「決死隊」の被曝者の中には3分の作業で91・2ミリ、2分で67・9ミリという恐るべき量の被曝が含まれている。
 これは深刻な労働災害というべき事態である。そればかりか、「決死隊」などといって許容限度を越える被曝を覚悟した労働を「愛社精神」を楯に強要する行為は、労働基準法に定められた「安全及び衛生」の各条項(第5章)に明白に違反する犯罪に他ならない。もっとも「裏マニュアル」などという違法な作業手順書の存在は、違法で危険極まりない作業に、事実上の業務命令で労働者を従事させていたということであり、これ自身が明白な労基法違反である。
 ところで、もしこのスクープ記事が偽物なら、科学技術庁は正確なデータを公表すればいいだけだが、彼らがこの記事に無関心を装って沈黙すればするほど、やじ馬的週刊誌の記事とはいえ逆にその信憑性は高まる。そして科学技術庁は、この雑誌の発売から1週間以上も沈黙をつづけている。

核燃料の過剰と弱い社会的規制

 ではなぜJCOはこうした違法な作業をつづけ、JCOの職員もまた労基法に違反するこうした作業に従事してきたのだろうか。
 JCOが、ひそかに違法な作業手順を導入してまで作業効率を上げ、労働生産性の向上を図ってきた最大の要因は、世界的に過剰供給の状態にある核燃料の国際的な価格競争の激化にある。
 90年代に入って、欧米各国政府は原発事故に対する強い社会的非難と経済効率の悪さなどの批判に直面し、原発の新設を断念したり原発から撤退するといった政策転換に相次いで追い込まれたが、その結果として原発新設件数が大幅に減少して核燃料が過剰生産ぎみになり、このダブついた外国産の核燃料が、原発の増設を強引に進めてきた日本に流入しはじめたのである。こうして、それまで「エネルギー自給」を名分とした国策によって保護されてきた日本の核燃料加工産業は、激しい国際的価格競争という市場原理にさらされることになった。
 事実、核燃料の大量消費者である東京電力も認めていることだが、東電の原発用核燃料の半数はすでに外国産で、残りの半数をJCOが受注しているのが実態であり、この価格競争だけが原因ではないとしてもJCOの業績はここ数年急激に悪化、今年3月期の売上は前期比で14%も激減し、税引き前利益も前期比で半減という状況にある。つまり事故の直接的原因となった「裏マニュアル」による「手抜き作業」とは、この核燃料の国際的価格競争の激化に対応した資本の労働生産性向上の追求、要するに労働者の命すら犠牲にして搾取率を引き上げる手段に他ならなかったのである。
 しかもこうした急激な業績の悪化が安全管理を無視したコスト削減につながり、これとともにJCOでの安全意識の低下が生じ、あるいは「エネルギーの自給」という大義名分や「先端技術の担い手」といった〃誇り〃が労働者の中で動揺しはじめ、それが労働者の社会的モラルをむしばみはじめた可能性は、むしろ十分に推測できるだろう。だが同時に、こうした違法行為や安全無視を伴った資本の生産性向上の追求に対して、労働者の側からの、しかも自らの命に直接かかわる作業現場からの抵抗や反対は、おそらくほとんどなかったであろう。
 その理由のひとつは、例の安全神話を取り繕うための秘密主義と危険性の過小評価といった原発行政の結果として、原発事故、ことに原発本体と比較すれば安全基準も甘い周辺施設と作業に関する危険性の知識が、核物質を扱う労働者の中で希薄なことである。人間の五感では感知できない放射線被曝のような危険は、知識を介して認識する以外にはない。だがそうした知識は、安全神和を維持するために労働者にはまったく不十分にしか教えらていないことは、病死した原発労働者・島橋さんの労災認定を求めた闘いの中でも暴かれた周知の事実である。
 そしてふたつ目の理由が、労働現場の安全衛生に関する社会的規範の衰弱、もしくは社会的規制の大幅な後退である。より正確に言えば、労働組合が企業社会を防衛する連合労働運動の成立によって、就業規則や企業内マニュアルなどの私企業内部の規範が、労基法や原子炉等規制法といった社会的規範以上に優先される事態が、資本や行政ばかりか労働組合内部にすら蔓延し、労働現場の安全衛生に関する社会的規制はほとんど無視され空洞化されてきたことである。労基法の改悪を資本とともに支持した電機連合の職場では、労基法が定める8時間労働制が事実上解体されていたのと同様に、原子炉等規制法が定めた安全管理や作業手順は、JCOの労働現場ではすでに空洞化していたのだ。
 こうした条件のもとで、JCOの労働者たちは社会的常識から隔離され、資本の反社会的な利潤の追求に対峙する「民衆の護民官」たる資格を自ら放棄して「階級的に堕落」し、自らの命をも危険にさらす違法で反社会的な労働に従事したのである。

内在的変革の契機

 原発労働者が作業中に被曝したのは、もちろん今回がはじめてではない。むしろ原子炉内の作業は常に被曝災害の危険があり、被曝が原因とみられる原発労働者の病死もいぜん後をたたなし、これらの多くはほとんどが闇から闇に葬られてもきた。
 だが明かに違法な作業が原因で、しかも致死量の被曝災害が誰の目にも見えるかたちで発生したのは、日本の原発産業史上はじめてのことである。そればかりか、原発産業労働者がこれほどいちどきに被曝したことも考えれば、これまでも安全神和に疑問を持ちながらも、企業社会の閉鎖性や企業防衛意識のもとでその危険性に目をふさいできた労働者の中に、自身の労働に関わる安全性を求める声が、客観的には強まるであろう。
 その意味で今回の事故は、原発関連の事故に対する労働者の態度に大きな変化をもたらす、客観的可能性をもつ事件と言える。しかし問題は、やはり主体的である。原発産業労働者の中に安全性に対する意識の高まりが現れたとしても、こうした要求を組織し体現するイニシアチブがなければ、そうした声はこれまで同様に無視されるだけである。したがって「原発労働者を友とする」反原発運動が、だからまた原発労働者の中に、自らの命を守るために闘う「あたりまえの」労働組合を組織することが、いまほど鋭く問われるときはないと言って過言ではない。
 だがそうであれば階級的労働者は、これまでの反原発運動のあり方や対する自省を含めて、この課題に真剣に取り組むことを求められもする。そこで最も重視されなければならないことは、「階級的に堕落」した労働者の内的変化、つまり今回の事故を契機にして、原発事故と自らの安全の確保の直接的関係を自覚しはじめ、資本や行政が繰り返す安全神和に本質的疑惑を持ちはじめるなどの変化に注目し、それ自身遅々とした変化に粘り強く働きかける、労働者の内在的変革のための方法や運動である。
 こうした問題提起に対して、「それは原発廃止の闘いを〃事故防止運動〃に矮小化するものだ」との非難が、とくに新左翼主義の諸君から挙がるだろう。だがそうした急進主義的な、労働者の内在的変革のための粘り強い闘いに絶望し、その裏返しの方法である最後通牒主義、つまり労働者に事実上「原発産業で働くのを辞めろ」と迫る外在的ショック療法で階級形成を試みた運動が、結局のところ原発事故の防止すら実現できず、労働者大衆からは孤立し、果ては内ゲバに象徴される最悪のセクト主義に堕落したことを忘れるわけにはいかない。あるいは同様の非難は、沖縄の米軍基地撤去にむけて「保守派とさえ手を組んだ」海兵隊の撤退要求をめぐって、また帝国主義軍隊の解体にむけて「軍隊を敵とし兵士を友とする」運動の提起をめぐって、これまでもあったことである。
 しかしいま、まさに歴史的な大事故を契機にして、原発産業労働者の内的変化の客観的可能性が現れたのである。しかもJCOの親会社である住友金属鉱山は「核燃料事業からの撤退」、いわば国際的価格競争で利潤率の低下した事業を切り捨て、いいとこ取りの食い逃げをほのめかしている。しかしそれが同時に、大半が被爆被害を被ったJCO労働者の一方的解雇を意味する以上、「あたりまえ」の労働組合の必要性は増しこそすれ、いささかも減少しはしない。
 そして原発産業労働者の被害に対する保障要求を含め、原発関連事業の安全性を要求する闘いこそが、原発の危険性と安全を確保するための膨大なコスト、つまり原発の不経済性をも社会的に暴き出し、原発を全面廃止する王道を切り開きうるのである。「原発労働者を友とする」反原発運動が追求されなければならない所以である。

  (きうち・たかし)


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