第1研究会第4期:<2回>

戦後思想の初発の姿@:丸山眞男の民主主義革命を中心として

2003.12 文責:すなが


【レジュメ】

(使用テキスト:「民主と愛国」第2・3章)

※この二つの章は、戦後思想の特徴である「主体性」「天皇制の廃絶」「戦争責任」が、それぞれ相互にどのような関係を持ち、どのような背景で産まれたかを考察したもの。(すなが)

【1】第2章:総力戦と民主主義

戦後思想はどのようにして生まれたか?

 「日本の場合、フランスや韓国などと異なり、敗戦後に亡命者が帰国して政権をつくるという事態はおこらなかった。戦後の為政者や知識人の大部分は、戦前戦中から活動していた人々であり、思考の転換は容易ではなかった。そのため戦後思想の模索は、新しい言語体系を外国から輸入する以前に、戦時期の言語体系を読み替え、新しい意味を与えることから始まった。そのさい、戦後の民主主義の基盤となったのが、総力戦の思想だった。」(p67)

 つまり、「官僚統制による批判の封殺が、かえって権力の腐敗を生み出し、そして、国民一人一人の主体的な取り組みを引き出すことができなかったゆえに、総力戦を勝ちぬく力を出すことができなかった」という形で、体制批判もしくは自己批判がなされたということ。いいかえれば、「総力戦に勝つためには民主主義が必要」ということ。そしてこれは保守・革新を問わず起きたことであり、戦中、特に戦争末期には噴出していた。丸山眞男の「民主主義革命論」もこの延長にある。

丸山眞男の「民主主義革命論」と彼の「日本近代」観

@丸山の思想的転換:

 丸山は戦前には「近代」を否定する論調をとっていたが、戦中から戦後にかけて「近代」を確立すべしという民主主義革命論をとるようになった。

●丸山の近代を否定する論調は、『近代市民社会を、ブルジョワが中心となった資本主義社会とみなし、そこでの「自由」は形式的な自由にすぎず、実質的な自由はない。そしてこの近代市民社会よりも高次の段階としては、共産主義社会が想定される』(p71)というマルクス主義的理解にそったものであり、『当時流行していた帝国主義論では、資本主義末期において、古典的な自由主義にもとづく近代市民社会は崩壊し、ファシズムに結びついた独占資本と、社会主義に立つプロレタリアートの二大陣営に両極分解する』という理解にそったものであった。

●丸山は1946年1月に軍隊から復員したあと、「近代的思惟」という論考を出した。ここでは彼は、『わが国において近代的思惟は「超克」どころか、真に獲得されたことすらない』と主張した。

 「丸山はその戦争体験から、「近代の超克」などは、日本社会の現実を知らない観念的な先走りにすぎないとみなすようになったのである。」(p73)

そして

「我々は現在明治維新が果たすべくして果たし得なかった、民主主義革命の完遂という課題の前にいま一度立たされている」と1947年には記した。

A転換の背景:

 統制の過剰の中で総力戦体制が麻痺状態になった1943年10月の「福沢諭吉における秩序と人間」。この中で、丸山は、「一身独立して一国独立す」という言葉を残した福沢にとって、「個人的自主性なき国家的自立は彼には考えることすら出来なかった」。国民一人ひとりが責任意識をもち、「国家をまさに己のものとして身近に感触し、国家の動向をば自己自身の運命として意識する如き国家に非ずんば、如何にして苛烈なる国際場裡に確固たる独立性を保持しえようか」と記した。(p75)

 そして「これまで政治的秩序に対して単なる受動的服従以上のことを知らなかった国民大衆に対し、国家構成員としての主体的能動的地位を自覚せしめなければならない」と主張した。

 こうして丸山は国家総動員体制が麻痺する中で、「主体的」な責任意識をもった人間が能動的に国家の政治に参加してゆく社会、そういう「近代的」な「個人」の確立が必要であるという立場に移行していった。そして軍隊に召集されるにあたって書いた「国民主義理論の形成」においてこの思想を発展させた。

 国民主義の国民とは「国政に主体的に参加していく主体性をもった人々」であるが、国家主権を確立するという意味では「国家主義」の方が適当であるのに、あえて彼がここで「国民」という言葉を使ったのは、「国家主義」では「個人主義」の反対概念にとられ、個人の主体性を削ぐ意味に取られて適当ではないので、国家主義と区別して「国民」を使用したとのこと。

B丸山の封建社会認識:

●江戸時代の封建体制の中では、政治は武士の専業であり、「治者と被治者の世界が確然と区画されていた」。被治者である農民や町人の社会的義務は、治者である武士に租税を納めることだけであり、「彼らはそれ以上国家社会の運命になんらの関心もましてや責任も負担する必要がなかった。」。そのため農民や町人たちは、「政治的無関心と無責任の安易な世界」に永遠にとどまってしまう。なかでも商人は、「一切の公共的義務意識を持たずひたすらに個人的営利を追求するいわば倫理外の存在」であり、「私欲の満足のためには一切が許容されているという賎民根性に見をゆだねた」。そうした商人たちは政治に関心を持たず、「官能的享楽の世界に逃避し、そうした『悪所』の暗い隅で、はかない私的自由に息づき、或いは現実の政治的支配関係に対してたかだか歪んだ嘲笑を向けるにとどまった」(p77)

●封建体制にあっては、人間は士農工商という身分と、藩という地域によって分断されている。そこには、薩摩の武士と水戸の農民という意識はあっても、身分や地方をこえた「国民」という意識がない。武士の忠誠対象も、「日本」ではなく藩主であり、それぞれの藩の利害を考えるに過ぎない。

●その結果として、「縦の身分的隔離は横の地域的割拠とからみあって、そこに特有のセクショナリズムを醸し出すことになる」。しかも武士の主従関係では、「その責任意識はもっぱら直接の主君を対象として」おり、「彼らのいう奉公の公とは」「俸禄によって結び付けられた個人関係」にすぎない。すなわち武士にとっての「公」とは、藩の利益と上役への忠誠でしかない。(p78)

●この体制も体制の安定にとっては役に立った。しかしこの結果国民精神は蝕まれた。そこに、蔓延したのは国民相互の疑心暗鬼であり、君子危うきに近寄らざるの保身であり、我関せずの我利我利根性よりほかのものではなかった。(p79)

※この認識は、大戦末期の日本の情況を映し出したものであり、講座派の封建社会認識を下敷きにしたものであり、かならずしも正しいものではない。(すなが)

C丸山の日本近代観:

●「明治初期には自由民権運動も政府も『民権』と『国権』が不可分であることを認識していた。しかし明治中期から政府側は、『上からの官僚的な国家主義』に傾斜し、日清戦争を契機に帝国主義的な風潮が台頭する一方、『近代的な個人主義を異なった、非政治的な個人主義、政治的なものから逃避する、或いは国家的なものから逃避する個人主義』が現れていった。(1946年10月「明治国家の思想」

●「明治維新は下級武士をはじめとした封建体制の支配階級によって遂行されたため、改革は不徹底に終わらざるをえなかった。そのため明治以後の日本でも、地方有力者の地盤だった農村や零細企業の近代化は、容易に進まなかった。政府はそうした「前期的」な状態の改革を怠ったばかりか、これら中間共同体の有力者たちの協力をとりつけ、江戸時代の「間接支配」の延長ともいうべき体制を築き上げた。そのため、明治以後でも、中間集団のセクショナリズムは払拭されず、近代的な「国民主義」は形成されなかった。戦前の愛国教育も、「政治的責任の主体的な担い手としての近代的公民のかわりに、万事を「お上」にあずけて選択の方向をひたすら権威の決断にすがる忠実だが卑屈な従僕を大量的に生産したにすぎなかった」(1951年「日本におけるナショナリズム」)

●そしてこうした体制が限界に達したのが総力戦であった。支配の基盤となっていた「下士官」たちは、国家全体の運命よりも、自分が支配する中間集団の利益を優先した。

●日本社会では、「自由なる主体的意識」を持った個人が確立されておらず、そのため内発的な責任意識がない。そこでは権力者さえもが、責任意識を欠いた「陛下の下僕」あるいは「下僚のロボット」でしかないという、「無責任の体系」が支配する。それと同時に、上位者から加えられた抑圧を下位者にむかって発散するという、「抑圧移譲」が各所で発生する。そしてこれが国際関係に投影されたのが、欧米帝国主義からの圧迫を、アジアへの侵略で晴らすという行為だった。さらにこうした日本社会では、近代的な「私」が確立されていないため、「公」と「私」の明確な境界もない。そこで発生するのは、「公」の名による私生活への介入であり、「公」に名を借りた私的利害の追求である。また近代的な政教分離もなされておらず、最高権力者である天皇が同時に倫理の頂点となり、「天皇からの距離」が、政治的地位であると同時に倫理の評価基準にされた。

※この近代日本認識は、当時の西洋政治思想の常識や講座派の認識に基礎をおいたもの。(すなが)

 「ヨーロッパ政治思想では、近代国民国家の原理は、フランス革命によって成立したとされている。身分や地方をこえた「国民」という意識は、身分制度や藩制度にもとづく封建体制を否定することによって、また村落やギルドといった封建的共同体から「近代的個人」を解放することによって、はじめて成立する。こうして自立した近代的個人が藩や主君への忠誠をこえた、愛国心の担い手になる。この状態を目差したのが、身分制度の頂点である王を打倒したフランス革命であったとされる」(p82)

 この常識からみれば、日本の明治維新は市民革命としては不徹底であり、そこから講座派のように明治国家体制を「絶対王政」と考え、日本はまずブルジョア民主主義革命が必要で、それが達成されてただちに社会主義革命に移行するとの考えが出てくる(共産党の革命論)。丸山も明治維新は市民革命として不徹底であり、日本は近代的個人が解放・確立されていないと考えた。だから民主主義革命を唱えたといえる。だが彼の民主主義革命は、共産党のまず市民社会を形成すべきという下部構造形成主眼のものではなく、「個人の主体性の確立」という面に主眼を置いていた。それはこれが丸山なりの戦争体験から生み出されたものであったからである。(すなが)

D丸山が「近代」を再評価した背景は:

●「いわば、丸山や大塚が「近代」という言葉で述べていたものは、西洋近代そのものではなかった。それは、悲惨な戦争体験の反動として夢見られた理想の人間像を、西洋思想の言葉を借りて表現する試みであった。「個」の確立と社会的連帯を兼ね備え、権威に対して自己の信念を守り抜く精神を、彼らは「主体性」と名づけた。そうした「主体性」を備えた人間像を、丸山は「近代的国民」とよび、大塚は「近代的人間類型」と呼んだのである。すなわち、戦後思想のキーワードともいえる「主体性」とは、戦争と敗戦の屈辱から立ち直るために、人々が必要とした言葉にほかならなかった。今後の章で見ていくように、その「主体性」が国内においては権威に抗する「自我の確立」として、国際関係においては米ソに対する「自主独立」や「中立」を唱えるナショナリズムとしてそれぞれ表現された。」(p100)

●「そして時代が下がるにつれて、こうした「戦後民主主義」の背景は、若い世代からは理解されないものとなっていった。彼らは「戦後民主主義」を、楽天的なヒューマニズムと批判し、西洋を理想化する「近代主義」だと受けとめた。またあるいは、国家総動員を唱えた戦争協力者の思想と非難し、「自我の確立」を説いてナショナリズムを否定した個人主義だと断じたのである。」(p103)

●「丸山の思想や大塚の思想は、戦争体験から生まれた「真の愛国」という心情をもとに、多くの矛盾する理念が束ねられていた、いわばパンドラの箱であった。そして戦後思想の以後の流れは、戦争の記憶が風化してゆくなかで、そこに含まれていた多くの思想潮流がしだいに分裂し、「民主」と「愛国」の両立が崩壊してゆく過程をたどることになるのである。」(p103)

【2】第3章:忠誠と反逆

「主体性」と天皇制

 戦後、天皇の戦争責任が追及され、天皇の退位が論じられた、その背景は

●「天皇制」という言葉は、戦中に人々が隷従を強いられた権威主義の象徴としても使われていたのである。そして、このような「天皇制」に対置されるものが「主体性」であり、「連帯」や「団結」であった。(p128)

●当時の天皇制論議で強調されたのは、天皇制は倫理観や責任意識、すなわち「主体性」の確立を阻害するということであった。(p129)

●天皇制がないと民族的統一が保持されないんじゃないか、と考えるべきではなくて、なにかそういう他の権威にすがらないと民族統一が保てないといった、なさけない状態を抜け出すことによって、はじめて日本民族は精神的に自立できるんだ(丸山:1952年の座談会での発言:p133)

●中野好夫は、1949年に、「天皇制が永きにわたり温存されることは、日本人をしていつまでも真に自ら治める政治能力を身につけえない、半永久的に未成年段階にとどまらせる危険性がきわめて大きい」と主張している。(p133)

※これは一億総懺悔ということで、国を戦争へと導き悲惨な敗戦へと落しこめた責任を、天皇の政府首脳も軍部も取ろうとはせず、しかも新制日本を問うときに「民主主義の確立」が唱えられるにいたるや、「天皇の下における民主主義」を説き、これが日本古来の政治体制であるかのごとき言説を広げて、天皇の戦争責任、そしてひいては政府首脳や軍部の戦争責任を隠蔽しようとする動きが出来きたことへの反論としても出された。

 ▼天皇退位論への反応:

●世論調査:(1948年8月15日、読売新聞)

 ・天皇制存続支持:90.3%

 ・天皇留位支持 :68.5%

 ・皇太子への譲位:18.4%

 ・退位で天皇制廃止:4.0%

●階層別の反応:(1948年 月、日本輿論調査研究所)

 ・「政治・法律・社会問題関係の文化人」の退位賛成:50.9%  反対:42.9%

 ・「教育・宗教・哲学関係の文化人」の退位賛成:49.0%     反対:44.4%

※「天皇制打倒」が天皇個人の問題ではなく、「天皇制」が官僚統制や無責任体制の代名詞であるという認識が国民各層に浸透していれば、「打倒」に賛成した人はもっと多数にのぼるだろう(p148)

●天皇退位に対する反対の背景は

 「議員たちにとってみれば、天皇退位に賛成すれば、素朴に「天皇制支持」を表明している人々の票を失う恐れがあった。そしてそれ以上に、天皇が退位によって戦争責任を明らかにすれば、政界や財界、地方有力者のレベルまで、戦争責任の追及が高まる可能性もあった。」

 「また一方で天皇制廃止を主張する共産党は、共産党に賛成せぬ側の人々が、天皇制擁護のための最後の手段として天皇退位の問題を出していると、警戒的であった。」

 「そしてなにより、占領軍が退位に反対であった。天皇が退位すれば、占領政策が無にきするという認識があったから」

※「天皇の戦争責任の追及は、戦争によって破壊された旧来のナショナリズムに代わる、新しいナショナリズムの原理を模索するものだった。しかし、アメリカの国際戦略と、それに結びついた保守政権のもとで、天皇の戦争責任が不問に付されたことは、その試みを失敗に追いこんだ。それは結果として、戦後日本が独自のナショナル・アイデンティティを築くことを、大きく阻害したといえる。」(p152)

【討論のポイント】

丸山に代表される戦後思想・「主体性の確立」を主張するものは、歴史的に何を意味していたか。

 @当時の日本革命論をめぐる対立(講座派・労農派)との関係

 A天皇制ファシズムといわれる体制との関係

 B世界はまさにヨーロッパや日本の大衆的搾取にもとづく旧資本主義から、アメリカ型の大量生産大量消費と福祉国家にもとづく新資本主義への転換の時期にあった。このアメリカニズムの拡大との関係。

この戦後思想がかかげた課題は達成されたのか?。

また達成されなかったとすれば、その阻害要因は何か?

【討論メモ】

<戦後知識人の意識の背景>

A)報告は以上だが、3章の忠誠と反逆の所にある復員兵の日記をつかった論説は面白いのだけど、長いので省略した。

B)そう。長いね。撃沈された戦艦武蔵に乗っていて復員したという渡邉清の日記の変遷が、天皇に忠誠を誓って戦地に赴いた復員兵たちがいかにして天皇制批判に到達するのかということをとてもリアルに書いている面白い報告があります。

A)丸山などの知識人の体験と大衆の感覚が実は同じだと言う証明編だ。

B)陛下は自決すると思っていたのに、マッカーサーとの写真をみってガガと落ちる。

C)日記を使用した前提条件は、丸山の軍隊経験があって、封建的な農村で育った兵士たちの無知蒙昧さ、特に下士官の無知蒙昧さ、でそれにたいしてインテリの側からは侮蔑の感覚しかないわけだが、渡邉さんの日記が、丸山の戦前の民衆に対するの侮蔑的構成にたいする希望になるという構成であったとおもう。

B)第一章の53ページ。前から5行目。「そしてもう一つの『大衆性に対する本能的嫌悪』は、じつは丸山を初めとした戦後思想の隠れた背景であった。」という構成になっている。で、55ページになると。うしろの方。後ろから二つの段。「民衆への嫌悪と尊敬という、矛盾した心情を知識人たちに植え付けた。」という展開をしている。このへんと渡辺の日記がつながっている。

A)で、53ページの前提、「まず前提となるのが、当時の日本社会の貧しさと、都市と農村、上層と下層の知的階層格差である。」だ。そして大塚久雄がなぜ経済学になっていったか。日本の貧しさを変えないと大衆の主体性はありえないと彼が考えたから経済学なんだ。

B)論点として討論のポイントが掲げられているが・・・

<丸山眞男の評価:主体的総括の欠如>

D)論点に付け加え。丸山のおれの評価は。一番の問題点は、主体の側の総括が歴史的な全体像の中でどういう位置を持ってやられているか。自由民権運動はどう評価されているのか。大正デモクラシー。これをどう評価しているのか。やはり客観的な明治以後の天皇制の、その支配の構造の客観的な評価は他の論者よりは体系的だ。歴史的な、だんだんと歴史を遡って最後は古代にまで、死ぬ前には古代までに行き着くわけだが。体系的にそれぞれが課題として持った、その運動の包括的・歴史的な包括の中に与える、つまり自分が位置付けなおし、全体像を示した点で画期的。他の人間が目を開かせられる、自分の客観的な歴史的な位置を知らされると言う意味で。しかしその主体的な闘争が敗北して行く。結局のところ、天皇制支配の民主主義が欠落した構造が、今日まで続いているということは、その時々の主体の闘争が歴史的に敗北した破産したということの結果だ。天皇制に対して、民主主義のために戦った主体的闘争はそれぞれの時代にあるわけだが、それがなぜ挫折していったのか。それが戦前における総力戦という構造にどうかかわっていたのか。そういう主体の側の挫折の歴史がどう総括されているのか。そういう点ではその主体の問題を自分自身の苦闘と結びつけて提起したのが主体性論争の哲学グループであり文学グループであるわけで、理解されていないけど、労働運動だと思う。しかも、その主体性、いわば個としての自立がなぜ形成されないのかという問題、市民革命というような主体的な革命が民主革命何故できないのかという問題を、右からの国家や歴史的な伝統の流れの中から提起されされているが、左の側はそれを阻害している。主として共産党なのだが、その官僚主義の構造、国際的には、日本的には家父長的な構造。これは左翼天皇制と大井広介なんかが言っているように、この主体性論争をやったものは右から攻撃されただけではなく、左からも集中放火を浴びて、粉砕、阻止された。これを突破できなくて解体された。こういう歴史的な主体の格闘、どういう所までいってどう挫折したか、そしてそれが今日にどういう形で残っていてそれを今日どう引き継ぐのか。これが今日からいえば重要なポイント。丸山ではこれが見えない。民主主義は、国民全般の課題という形にされて一般化され、戦後永久民主主義革命という課題が、国民一般の課題として展開されている。その国民一般の課題を先端的に切り開らこうとして戦った歴史的に戦った主体があった。一貫してあった。それがどのような限界があって挫折し、それを今日その成果をどう引き続くか。これが鮮明になっていないのが丸山の弱点だと思う。それから、江戸時代の評価。江戸時代は近代の時代への転換の過程だ。これが何で日本では天皇制に熟成したのか。封建的倫理や道徳が、家族道徳という形で、どうしてヨーロッパの近代的な流れが欠落したのか。儒教・仏教・神道の流れとの関係。それから鎖国との関係をどうとらえるか。その仏教・儒教・神道という問題が熟成して行って、ヨーロッパからの民主主義的な近代化の流れが遮断された。そういう意味では鎖国問題と主体的には宗教問題。民衆の意識の活性化は宗教である。信長の叡山焼き討ちなどものすごく弾圧。一向一揆は皆殺しされた。これは農民、武士ではない庶民の自治社会だ。宗教という形をとった。しかもこれは武装していた。だから織田信長は苦闘した。しかし、これを粉砕したということは、民衆の自発的な政治への参加の道筋を完全に切断したと思う。もうひとつはキリスト教。これは西洋文明と結びついていた。豊臣の時代以後押さえ、最後は島原。ここで最後的に粉砕される。それまでは大名までもがキリシタン大名という形で支持していて、ヨーロッパの文化が入っていたのが、しかも庶民の自治社会もそれに裏付けられていた。イデオロギーとして自主性によって。これが島原で最後的に粉砕された。この宗教が徹底的に弾圧されて反乱の芽・自発性の芽を粉砕されたことと、江戸時代の構造との関係をどうとらえるのか。こういう問題が江戸時代論としてはあると思う。

<戦後革新の功罪:総力戦体制と戦後復興>

C)このレジュメの最初に戦時期の言語体系を読み替え、新しい意味を与えるというのがあるが、この小熊さんの本でふれていないところがもう一つある。それは総動員体制との関係でいうと、戦後革新のルーツは、清水慎三さんが戦後革新と名づけたというのは、実は革新官僚の所から戦後革新と名づけたので、しかも経済安定本部や有沢広巳がいたり、労農派マルクス主義の連中が、戦前の総力戦体制の中のインテリゲンチャとして組みこまれていて、そこから敵の言葉を読み替えて戦後革新という用語が出てくる。この功罪はいったいなんだったのか、今日の局面において。この清水慎三さんの名づけた戦後革新というこれと総力戦体制の問題。清水さんのいう第二期、一期には矛盾は出てこないのだけど、戦後思想の。高度成長以後、戦後革新が崩れて行く中で、敵の言葉を読み替えて戦後革新と言う言葉が生まれてくるという問題。この本には書かれていないのだが、これはもう一度討論する必要がある。

D)これは重要な問題だ。戦後の産業復興という形で行われたものは、最初のフォーディズムだ。アメリカ型の生産構造を日本的にどう取り入れるかという問題で、これで決定的な役割を果たしたのは旧マルクス主義者だ。特に労農派マルクス主義者が。吉田内閣の経済安定本部長官和田博雄、これは左派社会党の書記長に後になる。勝間田清一とかそういう連中がその流れだ。有沢広巳だとかそう言う連中が傾斜生産方式を取り入れて、重点的に戦後経済を復興させた。国家を総動員して産業を復興させた。国鉄・鉄鋼・石炭・農業。ここにまず第一の産業復興の重点を置いた。マルクス主義者だからできた。これは。自由経済主義者ではできない。国家を総動員して計画経済をやったわけだから。ここから産業復興の基盤を作り上げた。これがマルクス主義者の決定的な役割なんだ。戦後日本資本主義の再建の。これは国家官僚ではできなかったことだ。それともう一つは民同だ。大量生産大量消費の一方における主体的基礎を作ったのは民同左派。この二つの流れが、戦後のアメリカ型資本主義を日本に輸入していく土台を作った。この民同の始まりは、戦後の共産党の敗北のあと、呆然自失からいわば新しい資本主義的息吹・発展の息吹を作り出した。それは朝鮮戦争ブームで作り出した。戦争によって日本経済はブームを起こす。そのブームにのって労働運動に登場したのが民同左派。これは熟練労働者が決定的に重要になった。産業が急速に、戦争に対応するように復興しなければならなくなったわけだから。アメリカが日本に戦争経済への転換を求めるわけだから。この層が産業のイニシアチブを、技能力を発揮した。これまでに労働運動は職場では完全に解体されている。レッドパージで、活動家はいなくなった。その熟練労働者が職場の秩序を作り始める。産業秩序を。生産の軸になって、未熟練労働者を総動員して共同体を、生産共同体の構造を作り上げて、そのトップに踊り出ていく。これが交渉力を持つ。資本に対して。だからこの共同体が労働組合になった。これが民同左派の構造だ。これは前近代的な構造なわけで、ここで、終身雇用制や年功序列の構造だとか企業内組合の頑強な体制だとかができた。これが炭労だとか鉄鋼労連だとか、傾斜生産方式で労農マルクス主義者が上から国家と結びついて産業計画を立てるその土台を民同が職場から作り出していく。これが大衆化路線。職場に労働組合を。左派的な闘争的スローガン。これが55年体制の構造をつくった。その基礎は二つだ。両方とも左派だ。革新勢力というものが、戦後の50年以後の、産別が解体して以後の総評を作り出す。この過程が日本資本主義の復活の重要な柱になった。ブルジョワじゃない。左の側がこの時期、日本資本主義にとって決定的な役割を果たした。これが日本にフォーディズムを輸入する構造だった。

<マルクス主義と主体性論:主体性論争の歴史的背景(総動員体制とは何か)>

C)質問。Dさんに、今の所で。丸山らが戦中体験から主体性論を出したが、これが今日のレポートの中心だが、この主体性論の丸山の立場と労農派マルクス主義はどんな関係にあるのか。戦前総括は基本的に、清水さんの本ではあまり戦中に触れた論述は見たことがない。あの人は戦争中の体験を封印している。基本的に。だから戦後の傾斜生産方式などにおける復興が、労農派マルクス主義と民同だったという問題でいうと、戦中の主体性論が出てこざるをえなかった背景が全然見えない。これは灰原さん(元炭労書記長・三井三池出身)の。灰原さんにインタビューした時にも、すごくそのことを感じたのだけど、彼にとっては、1947年の日本国憲法。あそこがすべての原点であって、あそこで自分たちの感性なんかが解き放たれたと。日本国憲法で。これだと丸山などの戦争中体験からの主体性という問題が、全部憲法に解消されてしまっているということを灰原さんとのインタビューで強く感じた。だから、戦前と戦後の断絶がそこあたりに関係しているのかと強く感じる。

A)それは丸山眞男も全く同じで、丸山眞男は1945年8月15日を革命と呼んで、それ以後の戦後改革全体を革命としている。だからここから全てが始まるとしていて、戦前を総括していない。わざときっている。

D)結局、呆然自失の一億総懺悔。それまで滅私奉公で神風が起こって勝利すると思っていた、圧倒的多数は信じこんでいて、インテリなんかの間にはちょっとはおかしいと思ったのはいるが、庶民は信じきって命を捧げたわけだ。特攻隊など。しかもそれに戦前からのマルクス主義が転向する。総力戦。これは二つの決定的な柱があった。天皇制の上意下達の構造によって成り立ったというよりも、決定的な柱の一つは、5.15・2.26の青年将校のファシズム。これは、農村体制と結びついて満州侵略体制を進めた。人口が過剰だから、しかも30年代の大恐慌があった。食ってけない。娘を売り飛ばしたりしている情況の中で、満州に行けば膨大な土地が安くて、安楽な生活が出きる。これを戦前にやったのが青年将校。いわば何百回何千回の集会を農村でもって大衆を総動員して、その支持をもって中国侵略を進めるエネルギーを大衆的に動員したわけだ。そのエネルギーが最後に2.26と言う所までいき、権力を転覆させ自分らが実権を握ろうという所まで行きついた。それが天皇制の枠組みの中で吸収されていって、北一輝などの連中が犠牲になって、それを国家的体制的なものとしてに吸収していった。これが総動員体制の一つの柱だ。もう一つは左翼の転向だ。数万人の検挙。大正デモクラシーからずっと高揚してきて、左翼体制が戦争という流れと対決しようとした時に、鍋山貞親だとか佐野学、これは委員長だろ、こういう連中が獄中でもってポンと天皇支持の声明を出して、上から下までずっと転向していくわけだ。大量の転向だ。これはいわば左翼の抵抗構造を最終的に解体して、しかもそれを総動員体制に吸収した。左からの総動員体制は転向だ、右からの総動員体制は青年将校だ。左はインテリゲンチャという形。こう言う形で総動員体制は完成する。ここで微塵も反対できない体制ができたんだ。一部の自由主義者を除いて。各個撃破されたんだ。こういう二つの柱で総動員体制は作られた。だから、戦後の民主主義というか、占領軍による改革が起こったときには、呆然自失状態。何の抵抗の余地、素地すらそこで粉砕されていた。労農マルクス主義者も全部転向していた。沈黙。黙っていた。内部からの対抗力は出てこない。なしくづしてきに、一億総懺悔になった。だから彼らは、何の自己総括もなく、転向の自己批判もなく、黙って戦後時代の動きを見ていて、民主的改革と憲法と言うところにぐっと吸いこまれた。主体性が労農派には何もない。だから自分で総括できないから沈黙する。だから戦後の文書には何もない。ただ積極的に動いたのは一人、山川均だ。これは戦前から天皇制についても発言していて、天皇制方向転換論。政治権力としての天皇制と、精神的権威としての天皇制。天皇制というのは明治以後政治権力になったのだが、それ以前はずっと精神的権威であって、権力からはまったく疎外されていた流れだと。たしかにそうだ。だからこれに抵抗して後醍醐天皇だとかが権力を握ろうとして南北朝時代をおこすが、それ以後は明治時代までは政治からまったく疎外されていて、武家権力に政治から疎外されていた。しかし精神的権威としてはずっと続く。しかも万世一系なわけだ。本当かどうか知らないが。この権威は認めるべきだが権力は認めるべきでないという論を山川均は戦前からやっていた。それが野坂参三の意見とあった。彼は、延安で戦後の日本についての再建方針を出すわけだが、これと同じ論理だった。一家族としての天皇というものは認める、ただ政治権力としては絶対認められないと演説している。戦後の日本のありかたの問題として。彼が帰ってくる。山川とぴたっとあうわけだ。それで、野坂参三歓迎実行委員会、これの委員長が山川均だ。いわば統一戦線の流れを作ろうとした。これが共産党の32テーゼ派、つまり徳球派に押さえこまれて挫折し、野坂は転向する。労農派というのは山川が野坂と結びつくまでだ。そのあとは向坂だ。これは異質。山川は統一戦線派。国民連合派なわけだ。これは戦前の方向転換論から連合戦線党―解党主義者とたたかれた路線を、戦後に引き継いだのは山川均だけ。これ以外の人は戦争に協力していた。だから沈黙し、なし崩し的に戦後革新の流れの中に、なし崩し的に移行した。だから戦前の総括をやろうとしたら、なんで転向したのだと問われるから沈黙すると言うのが労農派の構造だ。その点の大論争をやったほうが講座派の流れだ。戦後における戦争責任問題を取り上げたのが彼ら。一人一人吊るし上げだ。獄中18年は天皇みたいなもんだ。一人一人の道徳的・裏切り者なんだ一人一人が。なんで何千の共産党の活動家がなぜ転向したのかという構造について、その歴史について、これを組織的に総括しないで、一人一人の道徳的な裏切りとして、道徳的な退廃としてつるし上げた。だからみんな裏切りましたと頭を下げ、こうやって切り捨てられた。こういう戦前総括はおかしいというのが主体性論争派。講座派の中の近代文学派。荒正人・平野謙など。本多秋五。転向の文学を書いている。哲学では梅本克己や梯だとか田中吉六など。黒田貫一もこの中にいた。

B)おれは、フォーラム90で、パクス・アメリカーナと総力戦体制という研究。フォーディズムと呼ばれる戦後の資本主義のベースはケインズ主義というより、第二次世界大戦の総力戦体制が元になっているというもの。戦前のケインズの開発政策を採用したところはあまりうまく行っていないわけ。所が戦争遂行のための総力戦体制を経過したあとでは、戦争のために大量生産をやっていた資本がケインズ主義を要求する。総力戦体制というものが戦後の資本主義、20世紀全体に与えた思想的影響力ということについては、実はあまり書かれていない。しかも、福祉国家という考え方も総力戦体制の中で生まれる。全国民を戦争に動員するのだから、食料が欠乏したりするのは全部国家が面倒を見るという思想なわけだ(健康保険制度も戦時国債を財源にこの時期うまれる)。これが福祉国家という考え方のスタートになる。戦後もそれの発展として福祉国家が生まれる。連合国は正義の戦争だったわけだからそれの延長で次の時代を組み立てて良い。敗戦国は、どうするか。総力戦体制の大義名分がない。だから大義名分の所だけそっちへ移行する。資本主義の構造としては基本的に総力戦体制だった。これが戦後の資本主義だったと思う。この観点からもう一度日本の戦前の体制を見たらどうなるか。ドイツやイタリアとは政治構造としては明らかに違うし、生産力の社会的基盤としての落差はそうとうある。ここに日本の天皇制の国際的な普遍性と同時に、特別な関係があると思う。おれは主体性論争は勉強したことがないが、そういう問題意識で転向の問題とか日本の総力戦体制の総括だとかいうことは、70年代になって総力戦とパクスアメリカーナなんていうのが出ているが、そういうところではほとんど出ていない。ここが一番気になる所だ。おれらがフォーディズムと呼んだ資本主義を理解するに当たって、日本における普遍性と特殊性。そうでないと、主体性・転向論も全部人間の内面性に帰結していく。

<講座派労農派論争の限界:天皇制についての誤認識>

D)これは、戦前の講座派労農派論争の限界だ。これの総括は主体性論争が出てくる論拠だ。この論争の歴史的継承性がないから、主体性論争はいつも出てくるけど挫折している。このことが今日まで自立した個人としての民主主義が欠落しているという限界、戦後民主主義がもはや方向を失って行くと言う限界、その民主主義の土台として共同体的構造として戦後民主主義はなりたっているのだから。忠誠心・帰属意識・集団主義だとかいうもの、これを温存して組織原理にして行った。だから企業内組合は強いのだ。戦前からの共同体原理をいうものを組織原理として継承してそれを克服することなく労働運動などを作り出した。しかもこれが戦後革新・民主主義の名の下に推進されている。前近代的なものが解体すると革新も解体するという問題。いわば自己矛盾だ。前近代的なものが解体すれば今まで民主主義と主張してきたほうが解体する。社会党が解体し総評がまず第一に解体していったのは、そう言う構造なんだ。なんでこれが認識できないのか。部分的に認識して戦うのだが、どうして挫折するのか。この問題を歴史的に総括すると、ボナパルティズムという問題を捉えられない所にある。だから、講座派は絶対主義。絶対主義と言うのは封建制なわけだから、天皇制は資本主義的であれ進歩すれば危機に陥ると言う認識だ。だから生産性を発達させれば、富国強兵をすれば、天皇制は桎梏に転化して古いものになるから解体していくという自動解体論的認識がある。そうではない。富国強兵としての近代化と王政復古としての天皇制が一体になったのが戦前の構造。天皇制。だから近代国家を全国民的精神的統合としてつくりあげるのは、求心力は天皇制として復古として生み出される。その復古の精神がいわば近代化を、生産力の急速な発展だとか国家の近代的な結集だとかいうものの国民的意識の柱として登場している。これはボナパルティズム。近代性の上に天皇制が乗っている。だから資本主義の基盤の上にある。日本の近代化が産業資本主義と民主主義ではなくて、ただちに帝国主義、海外侵略という形に結びついてしか、富国強兵の性格は発展しないから、大衆の動員というのもを、帝国主義的結集軸として行われる。ヨーロッパ型民主主義という形で結集するのは、まさしくまにあわない。産業資本主義の発展過程が同時に帝国主義という体制を作るためには、これには復古・古いデマゴギー的な精神主義を、歴史的に存在していた天皇制という形で国民統合はなされた。これを強行転化するためにファシズムというか青年将校の流れと左の転向という流れがそれを補完して行くと言う形で作り上げられた。これは頑強だ。すべての矛盾を総合する形の唯一の方法だから。だから総動員体制はアメリカには通用しないが、国内には、国民的意識にとっては決定的役割を果たした。これが講座派には理解できていない。だから古い封建主義は桎梏になって解体されていく。革命近しになる、資本主義が帝国主義に転化するのだから。このときもっとも有効なスローガンとして天皇制打倒をたてた。32テーゼは。ところがこれがまさしくそのようには行かない。これはソ連から持ちこまれた綱領だが、これは完璧ではないという挫折感が大量の転向を生み出したのだ。それが総動員体制を左から支えるという機能を果たした。ボナパルティズムという構造の問題と総動員体制という問題を結びつけて論じていない。講座派は。封建制を明治維新以後発展している資本主義の発展が当然天皇制を挫折させて行く、この矛盾に楔を打ち込んで、一挙にブルジョワ革命をという、こういう楽観論の挫折が転向を産んだ。これに対抗したのがファシズム論。総動員体制は、国民の生活を現に有るものをそのまま吸収する。左の構造そのものを総転向によって吸収するわけだ。ファシズムは敵対者を殲滅して行く、それに最初から積極的に支える部分だけで進撃して行くという体制。ナチスがそう。ユダヤ人を抹殺するという形で。ドイツ人を優性人種として。これは異質なものは全部粉砕するわけだ。日本の場合は、ボナパルティズムは違う。あらゆるものを統合する。市民社会が抵抗をするのを粉砕するというファシズムと、あらゆる生活的歴史的基盤をそのまま一つの権威の下に統合していくというボナパルティズムとの違い。この異質さを捉えきれず天皇制をファシズムという規定になった。左翼は全部。丸山も主体性論争派は全部。ファシズム論だ。われわれがトロツキーのボナパルティズム論に基づいて天皇制はボナパルティズムだと言い出したのであり、吉本隆明など新左翼の影響をうけた若干のものがそういうふうに言っている。ところが総動員体制という日本に特殊な統合力というものが何で産まれて、抵抗が粉砕されるのではなく吸収される、つまり転向。これはなんなのかとう問題は、ファシズム論では理解できないし絶対主義論でも理解できない。ここがいまだに解決されていない。戦前史天皇制をどう評価するのかという問題として、この点を論点に追加して置きたい。これが未解決に残っているがゆえに理解が統合できない方法論的根拠があるのではないかと思っている。

B)新左翼も基本的にはファシズム論。

C)いや、革マルはボナパルティズム論。

D)最初の革共同の時の我々の登場のしかたがそうだったから、革マルも含めてボナパルティズム論なんだ。新左翼ぐらいしか影響を与えられなかったんだよ。

<戦後の時代的性格:平和主義の誕生の背景>

C)レジュメに戻る。さっきDさんが労農派と民同といったところに関わるのだが。丸山は国民主義の国民と名付けている。たしか2・3章の中で展開されていると思うが。ずっと以前に読んだので記憶が曖昧。小熊さんは戦後を三つに分けていると前回のレジュメにあった。2期から3期は私たちが生きてきた時代だから、納得できるのだけど1期から2期は実感がない。

D)1期っていつだ。

C)1期は1945年から1955年くらいまでか?。55年体制が成立するまで。それから、55年体制が成立して1990年にソ連邦が崩壊するまで。これが第2期。これ以降が第三期となっている。一期と二期のところの転換に、特に戦後革新を問題にしようとすると、ここの所に凝縮的に問題が出ているのじゃないかという気がしている。護憲という発想になるのも二期になってからでしょ。一期にはむしろ左翼の側が憲法を変えるというか、今の憲法ではだめだと言って、保守の側が護憲だといって、今の象徴天皇制で良いのだと言うことを含めて保守の側が護憲で、左翼の側が共産党も含めて改憲という論調でしょ。これが55年を境にしてがらっと変わる。しかもそれが高度成長を経ることになって護憲がきわめて保守的なスローガンに変化するわけだ。そしてこれがこの間だの選挙で最終的におわりになるわけだ。55年体制の成立のところと戦後左翼というあたりに、45年から50年代の前半に論争がいっぱいあって、ナショナルの問題などを含めて論争がいろいろあって、それが55年体制が成立した所を境にして全部吹っ飛ぶという構造になる。小熊氏はここでの貴重な論争が継承されていないから、戦後革新は言う人によって全部違ってくると言うわけだが、それは3章かな?。

A)次の4章だ。

D)おれの認識では45年から50年これが一期だ。二期は50年代前半から60年。それから三期が70年から85年あたりまで。それからソ連崩壊あたりから後が四期。おれは四つに分けないと論理的に一貫性をもてない。戦後期は、一方においては総懺悔・茫然自失というのが底流にあって、獄中18年を綱領とする32テーゼ派が、これがGHQを全面支持した。そして2・1ストもアメリカは2・1ストを支持する、吉田内閣打倒を支持するという形で突入していく。所が米軍が弾圧して一挙に自己解体して終わる。獄中18年綱領の現状を見ない突出。保守というのは何かと言うと、圧倒的に少ないが英米派だ。吉田茂を筆頭にして、彼は戦争中はイギリス大使をしていて、東条内閣の時期に外務省をやめて引退する形で批判的に見ている。そして危機の段階ではこの戦争をなんとか収拾しようという動きをする。そういう少数の英米派、戦争中は沈黙した連中が保守派として登場する。圧倒的に、後で自民党を作った鳩山を中心とする連中は追放されたわけだ。だから激動主導の時期だ。いわば共産党主導なんだ。共産党が動けばあとはそれにどう対応するかというのが保守の性格。あとはみんな事態を眺めている。確固とした主体的認識はできないでいる。これが戦後の構造だ。だから、平和もなければ、民主主義もない。民主主義は革命なんだ。平和は、何百万という人間がその直前に殺されているわけで、何を守るのかというような平和主義は見出されようがない。ただ米よこせ、食える賃金をというような、ちょっと動けば暴動が起こる。宮城に押しかけて行って天皇の米びつを暴露するというような、暴動的な闘争。いわば、死ぬか生きるかの飢餓の状況。一般的な民主主義だとか平和だとかいう情況にはない。だから革命しかない。だからこれに対してどう対応するかという問題でしかなかった。これが一期の構造だ。二期は、何から始まったかと言うと、民同が産まれる構造は、朝鮮戦争から始まって、それが終わった段階で、講和条約の問題、日本独立の問題が起きる。それから、バンドン会議。ネールだとかスカルノだとか、アジアの独立だ。それから中国の49年の革命。これが、アジアで団結するのがバンドン会議だ。これが平和五原則がネールと周恩来によって締結されて出され、これが平和五原則・十原則という形で大衆も動員される。こっから平和主義は生まれる。平和共存。平和5原則。総評の綱領は平和3原則だ。社会党左派の綱領は平和4原則。平和というものが出てくるのはここから、バンドン会議からだ。ここでアジアの革命勢力・独立勢力が、第三勢力として、ソ連でもないアメリカでもない。自主独立自力更正の勢力として一挙に台頭してきて、しかもこれが平和5原則というように平和を主要な綱領にして旗を立てる。ここに平和勢力論・第三勢力論が総評の中に起きる。そこに受動的に吸収されていくのが日本の平和運動の流れだ。しかもビキニ環礁の核実験が起こり始め、これに反対する焼津などの動き。

B)53年が講和条約だし、核実験の被爆が55年。

D)それから、ベトナムが54年に、ディエンンビエンフーで勝利する。フランスが追い出される。だから50年の朝鮮戦争から54年のベトナムでの敗北の間にぐっと凝縮して、守るべき平和が必要になってきた。独立するし、革命をやるし、日本は朝鮮ブームによって一定の生活基盤が出来て、民同・高野派革同の潮流が出来あがって、一つの守るべき、これを長期に維持しようという平和主義が生まれる。しかも攻勢的に。平和主義というのは憲法論というよりもこの流れなんだ。この流れが失われた時に憲法にしがみつくという受身的平和論に陥っていく。社会党がね。だからアジアの動向が日本の平和主義・民主主義に決定的。しかももう一つ民主主義は追放解除と関係がある。鳩山一郎だとか河野一郎だとかみんな追放されていたわけだが、これが追放解除されてくる。そして自民党の中で吉田を追い出して鳩山内閣をつくる。そのあと岸内閣を作る。これが吉田の軽武装経済発展路線を否定して、憲法改悪教育反動化、教育改革だな、しかも安全保障条約を片務協定から双務協定に変える。いわば日本帝国主義の復活という反動的な路線をとる。これは結局のところが60年以後挫折する、池田高度経済成長路線と言う形の転換によって。この反動化に対する再軍備反対・反動化反対・憲法擁護・基地反対と言う形で、民主主義を守れが登場する。民主主義の闘争だとか平和主義の闘争というのは、まさしく講和条約から60年安保にいたるこの過程だ。この過程で平和主義は現れた。これを一セットとして考えないといけない。これ以後の高度経済成長とは異質なんだ。この戦後革新を作り出したその時代の構造は。その基盤が民同で、前近代的な共同体の構造を温存して、それが民主主義・平和主義の革新勢力という名の下に結びついた。これが解体されていけば、前近代的なものが解体されていけば、憲法を守れという保守的なものと結びついて、今日のどうにもならない危機の構造に陥って行くんだ。この問題をどう捉えるかが大事だ。

A)小熊さんは戦後を三つにわけているが、実はこの本の構成をみると4つに分けている。中身としては。第1部は50年まで。第二部は50年から55年ないし60年まで。彼も中身としては4つに分けている。第二部の部分で戦後民主主義が成立しているとこで・・

C)第二部の前半と後半は全然違う。それはその通りだ。

A)日本の平和主義は、最初はアジア革命派で産まれ、それが平和共存に変わったときに、アメリカニズムを全面的に支える論理になったということだ。

D)これは、第三勢力論という形で登場してきたものが、なぜ60年以後終焉したのか。これは民族経済の破綻なんだ。各ブルジョワが、ネールにしてもスカルノにしてもバンダラナイケにしても、みんな自力更正で民族経済を発展させる、国際経済にも打ち勝てるように強化するという、ものすごい希望を持っていた。それまでは占領されていた。民族資本というのは成り立たなかった情況から一挙に復活していく。国民経済を復活させるというものすごい希望をもった。中国もそうだった。自力更正、大躍進だとか。

A)一国社会主義路線をやろうとしたんだ。

D)そう。コミューン的な一国社会主義だ。大経済躍進をやろうとした。これが結びついて、これをやるためには平和が必要だった。平和共存の構造をアジアに作り上げて、それを東西対立の枠を超えて、それを突破するものとして第三勢力というものを作り出した。だから民族経済の復興という流れ。これに日本の平和主義は吸収されていった。だがこの民族経済の発展のプログラムがことごとくに破綻する。だから軍事クーデターがことごとくに起きる。インドネシアが典型。64年の。共産党は100万もいたのに、それが一挙に粉砕されるという軍事クーデター。中国は大躍進の挫折。それで周恩来が出てきてなんとか調整しようとして、毛沢東を引っ込めて。調整。この挫折。これによって第三勢力としての団結と平和主義的な展望はここで解体していく。軍事クーデターが独裁体制というものを生み出す。これはフォーディズム的な先進資本主義国の発展に対して、民族経済の復興では対抗できない。経済の独立派では。だから経済の格差がどんどん広がって行って経済が破綻する。そこから独裁体制が成立していくというわけだ。これは平和主義の、日本における平和主義の終焉だ。60年安保が最後のピーク。平和主義は。あとはその基盤を失って行く。

A)むしろ国際基盤がなくなる中で、平和主義の客観的な存在価値は、日本においてアメリカニズムを広げて行く基盤に、支えになっていったわけだ。そしてその後変化する。つまりアメリカニズムが終焉すれば戦後革新も一緒に終焉するという構造になってしまうわけだ。

D)そう言う意味では、平和三原則。単独講和反対基地反対再軍備反対。全面講和でしょ。実際には砂川内灘など猛烈な闘争を展開しているわけだ。ここから革同の基盤が一定の形で成立する。職場に労働組合をつくり大幅賃上げの構造を作り出して行く民同の勢力からすると、平和運動はだんだん終結して行くから、革同派は60年を最後に消えた。それで民同左派が全一的に支配していくようになった。だから高野派がなぜ落ちたかと言えば、アジアの平和主義的運動の高揚が挫折し後退するということと、高野派の後退とがあった。高野はアジア連帯に基盤を持っていたのだが、それが失われて中国派になったんだ。

C)今の説明を聞いて、高野派が中国派になったというのは、これは納得できる。清水さんも含めてみんな中国派だ。

D)そこに吸収されていってしまうんだ。・・・平和主義が日本のナショナリズムというが、そうじゃない。ものすごい受動的だった。平和主義に対して。アジアが平和主義になれば日本も平和主義になるという形。これは第1回原水禁大会。55年だ。で、57年がピークだ。第三回原水禁世界大会がピークなんだ。あとは共産党と分裂してずっと下火になっていく。平和は実力闘争でということ。日本的平和主義というのは、平和を祈るとか平和を話し合いでだとか、平和は願望するもの。こういう市民主義的というか庶民的な願望の運動だった。これがアジアの連中のは独立を勝ちとってそれを守るというものだから実力闘争なんだ。中国は革命に結びついているし。だから平和は戦い取るもの。これが持ちこまれてくる。アジアから。だからアジア派になるわけだ。そこで分裂が起きる。原水禁大会で大論争になる。高野派と全学連がブロックを組んで実力派になる。平和は戦いによって、階級闘争によって勝ち取るものだと。一方において日本的な平和主義の流れ、民同の右の流れ、これは平和はお願いでお祈りで話し合いでというもの。これが原水禁3回大会でぶつかって、ここから新左翼が登場した。これは、平和共存は戦いによって勝ち取るというもので、まだ平和共存派だったんだ。所が3回大会で全世界統一行動を設定して戦うのだが、戦っても戦っても平和共存は安定しない。ここから平和共存反対が出てきて、そこから急速にトロッキズムに接近していく。こういう流れだ。ところが、アジアが独裁政権になって平和運動が挫折していくから、新左翼も独立独歩の運動になっていく。これが過激化する。という形で60年安保の全学連の突出につながっていく。

C)50年代の平和主義な。

D)だから、それ以前は平和はない。平和運動はない。50年以前には。民主主義革命はあったが民主主義闘争はない。

B)朝鮮戦争の時だって、朝鮮戦争反対というよりは、米軍の介入反対で・・・

A)朝鮮戦争は革命だと思っている。

D)日本で武器生産をやっているからな。そこに砂を入れて弾丸をでないようにするとかそういう運動なんだ。革命的反戦運動だ。

A)事実朝鮮戦争は、北が仕掛けた戦争だ。祖国統一革命戦争だ。それを阻止するのがアメリカ軍なんだから。

<主体性論争の始まりとその後>

D)そういう情況だから、民主主義だとか平和運動だとかいう大衆のエネルギーを市民的自己権利として、権利社会ないしは自主的な自治社会として。いわゆるここでいう民主主義というもの、市民主義的権利社会というものに定着していくという発想は全体としてはない。すぐ革命かどうかという論理なのだから。だからこんなものは右だと、市民主義的小市民的右の構想でしかないと、切り捨てられて行った。特に共産党に。ところがなぜ天皇制に挫折したのかというと、権利意識がみんなない。ただもう天皇に言われれば右に動くし、マッカーサーが来て改革をやればそのとおりになびくような主体性のない一人一人の人間で構成するようなものでは、どんな動きに対しても抵抗することはできないのではないかと。大量の転向もこういう滅私奉公の意識の構造であるがゆえ。そういうふうに成り立った日本国民的なの意識の構造そのものが根本的に問われなければならない。結局、一人一人が自立した市民的な権利社会というものをどのようにして作るのかということなしには、そういうことを突破できないのだと自覚した連中が、主体性論争を展開するわけだ。それは、新産別の細谷松太。あれの民主化というのも同じだ。国家からの独立・企業からの独立・政党からの独立。これは共産党のいいなりになるのではなく国家の言いなりになるのではなく、自分自身で自己決定していくという集団・労働組合でなければならないというものだ。これをすぐに政治革命というふうに飛躍させてなならないというのが、新産別の細谷松太の路線だ。これが民主化同盟という形で、共産党の引きまわしに反対して、自分らが民主化しなければならないというものだ。これは孤立する。

B)すってんてんと言って言いぐらいにね。

D)哲学の党派性だとか文学の政治への従属性、ないしは政治の文学に対する優位性。こういう形で展開される。いわば、政治のプロパガンダとしての文学という政治主義的位置付け。これに抵抗して文学の主体性を問題にしてくる論争だ。それから組織と個人。党と党員の関係。民主的中央集権だ。これに対して個としての自立と言う問題、民主主義の問題、党の中においても組織と個人との関係においても提起していく。こういう形で政治と文学、哲学と政治、それから組織と個人、こういう問題が全般的に論争になった。これは、官僚主義的な、左翼にも天皇制的な構造が温存されていること、共産党組織に、特にスターリニズムと結びついてそれが展開されることにどう抵抗して、自分たち自身の自立をどう社会全体の問題にしていくのか。こういう形で主体性論争は展開されていく。いわば市民革命といってよい。労働運動では、賃金の横断賃率。賃金の問題も社会的権利として横断賃率として企業の枠を超えて賃率を確立する。単なる大幅賃上げを図るのではなく、社会的な権利として確定して行くというような流れがある。それも戦後直後から、戦争責任の問題から、転向の反省の問題から出てくるのだが、これは圧倒的に共産党の革命・革命という動きに押し留められて挫折して行く。で、2期主体性論争が六全協のあと。吉本隆明とか?たけいやじろうだとか花田清輝だとか谷川雁だとか黒田とか。この連中が第2期の主体性論争をやる。これは共産党が戦後革命に挫折したから、獄中18年ではだめだということで、引き継いで行われる、だから戦後1期主体性論争、それから六全協のあと二期主体性論争として。これが全学連に影響を与えて、ブントの吉本だとかをバイブルにする構造を作り出す。

A)六全協は55年?。

C)そう、55年。

B)だから、保守合同と左右社会党の合同も同じ55年。

C)全部同じ時にきたんだ。三浦つとむ(哲学者)はいつにつながっているの?。

D)一期と二期の両方に結びついている。

C)三浦つとむのあたりになるとこれは構造改革路線と結びつく。

D)この流れは一つは新左翼の流れにひきつがれ、一つは構造改革の流れに引き継がれる。全体としは社会革命派の流れ、いわゆる国際派の流れに結びつく。綱領論争でいえば社会主義革命派の流れに結びついて行く。これは完結していない主体性論争は。勝手に利用された。その議論を。いわば新左翼的にばらばらにされていく。構造改革もばらばらにされていくという形で、結局は主体性論争は今日霧散霧消という形になる。今もう一度それを再発掘して捉えなおさなければならない。今日が第三次主体性論争だ。この本が出てきたというのは、第三次の始まりだと思う。

A)まだ論争にもなっていない。論争する主体がいないね。・・・・さっきDさんが言った丸山の問題。主体性確立のための自由民権運動を含めた歴史的総括がされているのかというとこについて言えば、丸山においてはされていない。また江戸時代において民衆の主体性・政治的参加がどう阻まれたのかという問題についても丸山は総括していない。彼はそのへんについては講座派の認識を下敷きにしただけで、その言葉を使いながら、天皇制ファシズムと呼ばれる体制の中で戦いがまけていったのは、権利としての主体性が確立した社会がなかったのだという意識でこの主体性という言葉をつかっただけだと思う。

D)だから天皇制という問題を、精神史、物質史、生産力の発展による制度的発展と意識の発展過程とを直結させてた。マルクス主義の側は。生産関係の物質的な構造が上部構造を規定するという、いわば直結した考え方だ。特にスターリニストは機械主義的に捉えている。われわれも含めてだが。天皇制支配の基盤というものを前近代的・封建絶対主義としてとらえ、既成地主制だとか軍閥財閥の構造だとか捉え、これを解体すれば自動的に意識も解放される、民主主義的になると。下部構造の自動決定論というそういう性格として捉えていた。われわれも民主主義革命といってやったわけだ。それは意識の変革、さっき言った前近代的な牢固とした天皇制に従属した大衆の意識をどう変えるかと言うよりも、天皇制支配の物質的基盤である地主制をどう解体するかという所に戦後の民主主義革命の課題を置いたわけだ。だから山村工作に行ったわけだ。おれは。地主を探し出そうとして。でも地主はいない。農地解放だから。だから山に山に入る。山林地主は残っているからな。どんどん山に入る。だから農村から山村へという形。しかし何にぶつかったかといえば前近代的意識の構造にぶつかっている。一軒一軒まわっても、共産党のきょの字を言っただけど戸を締められて追い出される。後ろには村長から消防署長から警察署長までずらずらずらっとくっ付いて歩いてくる。どうにもならない。身動きが取れないわけだ。それを村の人は支持しているわけだ。農村の地主が居るから封建主義の基盤があって、それをなくせば自動的に意識は民主化するなんてものではない。そんなものは物質的にはなくても、牢固として意識は残る。共産党といえばあか。鬼か蛇かという認識。この構造にぶつかったわけだから、何の成果もなく、飢え死にしそうになり、一月二月がんばってノイローゼになって、結局みんな帰ってくる。こういう破綻だ。自動解決論。精神史の問題を独自な問題としては考えない。近代化が進めば自動的に天皇制の基盤と言うものは意識の構造も基盤を失うと。だから寄生地主制だとかそういう所を解体すれば、解決するという、この考え方が間違い。めんめんとして受け継がれている大衆の中の前近代的意識の構造。これが共同体を、自治社会を作り上げている。作ってもそれは上に国家に利用される構造としてしか成り立たないが。こういう精神史的な構造を、これをどう変革するかという問題の、この独自の役割を軽視、欠落していたわけだ。労農派も講座派も。その問題におれは直面したから、これは精神の問題だと、主体性論争だとか、つまり市民意識権利社会にどう意識を転換するかという問題なしには政治革命にはつながらない、その主体が作れないということで、主体性論争だとかに関心を持った。ただ論争が消滅した。全学連だとか構造改革だとかで。霧散霧消して全く社会的に広がらないと言うか、これが機能しない。一方において民同運動が主流だから。革同がいてくれればその意識は拡大し得たわけだが。民同が企業内組合を排他的に組織しているから、われわれは介入が出来ない。だから孤立して霧散霧消して、四分五烈。こうやって消滅していく過程で、われわれはトロッキストになるわけだ。こういう論点を結論付けるには、こういう国際主義的な広がりの中で位置付けないと解決できないなと、一国的な論争の枠の中では結論が出てこないと。国際的なこういう流れの中で位置付けて始めてすっきりすると。こう考えてトロッキストになった。でもこれは日本における歴史的発展の問題だ。それ自身はそういう国際的な論争、国際的な問題には直結しない。すぐには。ここに格差が産まれてしかもこれは解決済みだという結論を出す。トロッキストになって。だからそこで全部ストップする。その論争の発展過程が。二期の主体性論争の終焉が、おれらがトロッキストになることでそこに乗り移ったことによって、発展から逃げたんだ。いまになってまたこれが復活しなければいけない。トロッキズムの国際的論争と結びついてやらなければならいと思う。

C)次が45章。でDさんがさっき出してきた産業民主主義の問題は、この本では出てこない。でも4章5章の討論をやるには産業民主主義の問題と、産業民主主義と企業別社会の成立の問題を、この本とは別個の所で組み合わせて討論しないといけないと思う。

B)今日はここまでかな。4章5章は時代的にはいつ。55年か。

A)いやそこまではいかない。45・6年だ。第1部は50年に入っていない。

C)あれは第二部か。

A)そう、第二部。

C)先に進んだ。討論が。

B)年表ぐらいつくろうか。45年から55年までの。

A)年表があったほうがわかりやすい。

C)平和擁護闘争はいつから起きてくるの。

D)55年から56年だ。これは全学連が使った用語だ。それかその前に、全学連の復活、8中委9回大会路線からのは、56年だ。その時に平和擁護闘争は第一義的に任務であると言う規定があるわけだ。その時から平和擁護闘争と言った。それまでは平和闘争とか言っていたのだが。全学連の綱領、復活の時の綱領、綱領的文書というか、全学連大会の議案で言い出したんだ。

B)3・4回にむけて45年から50年ぐらいの年表はつくります。

<戦後思想を総括する今日的意味とは?>

D)現在の革新勢力の最後的崩壊。それで構造改革が進展して、日本資本主義は大きく変貌している。フォーディズム・アメリカ資本主義の危機と一体となって、前近代的構造から近代的構造に転換している。市場経済を通じて。だから社会そのものの意識が、転換している。そういう意味では企業内組合も崩壊し、戦後革新が登場してきて資本主義を支えて来た構造そのものが、企業内組合だとか終身雇用だとか年功序列だとか。農村共同体の構造だとか、全てが解体して、新しい世代は自己中心的な意識に転換している。いわば共同体意識はどこかへ吹っ飛んでしまっているわけだ。自分自身にしか関心を持たないような世代がどんどん産まれてきて、しかしそれが市民主義的権利としては意識されていない。新しい社会的権利としてその問題を、新しい自己決定意識だとかには転化していない。ただ自分の利益だけを考えるという風にしかいっていない。しかしそれは、旧来の共同体の、滅私奉公的な集団主義的意識からは変化している。新しい社会的流動が起こっているわけだ。旧来の規範では考えられない社会構造、その意識構造に転換しているわけだ。旧来の構造は解体しているけれど、新しい市民社会はできていない。社会的な権利意識ないしは新しい道徳観や規範というものはつくられてはいない。過渡期に有るわけだ。この問題をやるにはその問題とどうつながっているのかというか、この現在の問題を解決するに、この問題はどういう意味があるのかというふうなつながり方。その問題は今度の選挙に明らかなように、社会党共産党の凋落だ。いわば総体としては自民党も民主党も保守だ。構造改革派だよ。アメリカ型資本主義がいわば綱領なわけだ。今日ここに全体として流れている。だから旧来の革新派はないのか。その総保守に対して反発しているのは消極的抵抗としての無党派ないしは棄権だ。この流れは、不安・不信・付和雷同。旧来の道徳だとか倫理だとか規範を無視する。自分勝手。しかし不満や不信や動揺が有る。こういう世代だ。強力なリーダシップを要求する性格を持っているわけだ。だがこれはポピュリズムやへたすれば自己防衛のための構造に転化すれば、ファシズムに転化する。こういう危険がある。そして、政治勢力としての自民党民主党のアメリカ化は挫折の道にますます入りこんでいる。こういうことになれば、これは大変危険な社会情況にあると思う。憲法改悪という問題が、全体として右の流れが、自民党民主党の近代化を超えるて、不信の大衆を捉えようとしてくる。こういう流れに、憲法改悪は大きく流れて行くと思う。ところがそれに対抗する左の流れが見えない。これが一番の危機。大変な危機だ。あと3・4年か?。

B)今の状況なら無人の荒野を行くが如くだから2・3年じゃないか。

A)再来年提起すると言っている。自民党案を。

D)そうするとこれは急激なその層の動きになる。それに対してどういうふうに左の側が戦うのかという問題と、この総括は結びついていないといけない。いわば市民社会という新しい市民主義的権利社会を、民主主義的な権利社会をどうやって、この層をとらえるか。NPOだとかNGOだとかは、左の流れの萌芽的な運動であって、それを意識的なもの、歴史的な総括で、市民的な権利民主主義の構造をどう作り出して運動化するか。この左の主体的な登場が2・3年のうちに決定的に重要になる。こういう現在的な問題とこの歴史的な総括をどう結びつけるか。これが、現在の問題とどうむすびつけるかという問題を前提に置かないといけないと思う。

E)最近気がついたことなんだけど、駅の新聞売り場で、一番日経がどでっと置いてある。その次を見たら産経が多い。えっと思った。最近気がついたんだが。なんだこれって。毎日・朝日は少し積んであるけどね。

B)右の気分、特に40前の世代にとっては、右の気分を代弁しているのは、読売じゃない。読売も権威主義の一部だ。みんな、なべつね大嫌いだから。右の本音をしゃべっているという意味では産経新聞に引きつけられる。歴史は古い新聞社だけど、三大新聞にずっと遅れをとってきていたんだが、その分だけ何の遠慮もなく書くから。

A)しかもこの間、産経は、明治以来の日本の歴史的総括をやっている。外交史という形になっているけど。自衛隊派兵に関わって、1年以上やっている。明快な論旨だ。もの考えているやつは、読んでいる。生徒と論議していてすごい生徒に、何新聞読んでいると聞くと、産経と。産経新聞の切りぬきをもってくる。産経新聞のほうがずっと明治以来の歴史的総括をしている。その上で出ている。右の言説が。新しい教科書を作る会の市民主義的メンバーも、読売ではなくて産経だ。

B)読売は右の権威主義だし朝日は左の権威主義だから。

A)一方でもう一つ部数が伸びているのは日経。これもブルジョワの立場からもう1回総括しているから。

B)当面は憲法問題は2・3年だと思うけど、当面進むのはおそらくFTAを通じた農村社会に対する最後的解体攻勢だと思う。ただし逆に面白いことは、自発的な所から出ている。最近起きているのは、不耕起稲作。ものすごい勢いで広がっている。半年で200箇所。

E)何それは。

B)要するに耕運機などでたがやさない。冬の間から水を入れてそこに微生物だとか虫だとかを繁殖させて直播をする。

A)究極の有機栽培農法だ。

B)これの中心が専業農家じゃないというところに意味があると思う。つまり専業だと所得保証が大変だが、兼業だとあわせて所得保証があるだろ。

A)企業社会が急速に変化している。その次は農村だ。たぶん。農協の解体に向かう。そうすると戦後構造が全部壊れる。その中から次に何か産まれるのだと思う。

C)その通りだ。NPOやNGOろいうのは変化の先駆けだからな。優秀な若いのが多いいから。

A)彼らのキーワードは連帯と社会的貢献でしょ。

C)本当に優秀な連中が多い。頭の良い人ばっかだ。

B)今度のイラクだって彼らのほうが動きが速い。つながりが広い。

A)ただ彼らにないのは歴史的連続性だ。

C)その通り。それが全くない。それをつないだのが勝ちなんだ。

A)その仕事は左翼の仕事だ。


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