第1研究会第4期:<3回>

戦後思想の初発の姿A:戦後ナショナリズムをめぐる言説構造

2004.1:文責:すなが


(使用テキスト:「民主と愛国」第4・5章)

【レジュメ】

【1】第4章:憲法愛国主義

 この章は、憲法第9条とナショナリズムとの関係を検証し、保守と革新の主張が後のものとは正反対であったことを示して、その根拠を論証したもの。

▼ナショナリズムとしての「平和」(憲法9条を受け入れる基盤)

 「平和」や「道義」の主張は、軍事的にも経済的にも破れた日本に残された、最後のナショナル・アイデンティティの基盤であり、それは、原子爆弾に象徴される欧米の軍事力への、対抗意識と結び合わされていた。そしてこれはアメリカの占領政策が開始される前から起きていた。

●石原莞爾の「非武装平和主義」:

 戦に負けた以上はキッパリと…軍備を撤廃した上、今度は世界の輿論に吾こそ平和の先進国である位の誇りをもって対したい。将来国軍に向けた熱意に劣らぬものを科学・文化・産業の向上に傾けて、祖国の再建に勇往邁進したならば、必ずや10年を出でずして、この狭い国土に、この膨大な人口を抱きながら、世界の最優秀国に伍して、絶対に劣らぬ文明国になりうると確信する。(1945年8月28日:読売報知)

 原爆を使用したアメリカを非難する声は8月15日の天皇の放送などにも見えた。このことは逆に日本側が「世界平和」を掲げなければならないことを意味する。石原はこうした論理にそって非武装平和主義を唱え「身に寸鉄を帯びずとも世界平和と人道の為に彼の態度を糾弾し反省を求めねばなるまい」と主張した。

 ※ 満州侵略―満州国建設を推進した張本人の石原莞爾が後に戦後思想の根幹を成した非武装平和主義を主張したという逆説。ここには「大東亜戦争」が主観的には欧米による世界の植民地化への反撃と意識されていたことを反映していたし、1928年の不戦条約を締結したにも関わらず、日本が自ら戦争を開始したのは、世界恐慌以後の欧米帝国主義の世界支配の強化が背景という主張があったものと思われる。帝国主義を批判するには社会主義に立つ以外には、不戦条約に体現される絶対的平和主義によるしかなかったということか。(すながの感想)

▼歓迎された憲法第9条

 1946年2月13日に、憲法のGHQ案が日本側政府要人に手交された時には、彼らは呆然自失の呈であったにも関わらず、3月6日にそれがそのまま日本政府案として公表された際には、政府要人・保守派ともにそれを絶賛し、平和主義を讃美した。

●石橋湛山:

 我が国は、憲法をもって世界国家の建設を主張し、自らその範をたれんとするものに他ならない。(1946年3月16日東洋経済新報)

●吉田茂:

 高き理想をもって、平和愛好国の先頭に立ち、正義の大道を踏み進んで行こうという決意をこの国の根本法に明示せんとするものであります。(議会での発言)

 【彼はこの審議の中で、今日までの戦争は多くは自衛権の名によって戦争を始められたと述べて自衛権を明確に否定した。】

●幣原喜重郎:

 消極的に敵軍の我領土に上陸侵入することを防ぐにたる程度の中途半端な自衛施設などは、かえって侵略国を誘き出す餌となるに止まる…或いは比較的に弱勢の兵力でも…ある期間は侵入軍を阻止するだけの効果があると…想像されるが…近代の歴史はその反対の事実を示している。…第三国より兵力援護を受けんとする構想は…その第三国自ら現実の利害関係をもっていない場合でも、あらゆる犠牲を忍んで、日本を援護すべき義務を引きうけんことを期待する如きは、元来無理な注文といわざるをえない。

▼9条が歓迎された背景

●情況に順応し、勢力の温存をはかろうとする保守派

 ・共産主義革命が目前にあると捉えられた危機において、天皇制の存続は、保守派の生き残る最後の手段であった。天皇制が存続し天皇の戦争責任が不問に付されれば、それは同時に戦争を遂行しそれに協力した保守派をも免罪することになる。この意味で象徴天皇制の容認と平和主義とはセットになっていた。

 ※「この新しい憲法の諸規定が受け入れられるならば、実際問題としては、天皇は安泰になると考えています。…マッカーサー将軍は、これが、数多くの人によって反動的と考えられている保守派が権力に留まる最後の手段であると考えています。」(ホイットニーGHQ民生局長の発言)

 ・連合軍の既定方針としてすでに日本の武装解除は進んでおり、二度と戦争の出来ない国家に日本を変えると言うのが、連合国の一致した政策であった。敗戦国の日本はこれに従うのがもっとも現実的選択であった。

 ※「9条は日本の再軍備に対する連合国側の懸念から生まれた規定で、修正することは困難である。」(吉田茂)

 ・もちろんこの基盤としての、国民各層に広がっている絶対平和主義と素朴な天皇家への敬愛が、政権の存続基盤として想定されていた。

 ・5章で詳述される、知識人の「戦争を阻止できず、自分だけ生き残った」という悔恨に基づく平和主義への志向(同じく天皇家への尊崇の気持ちも)も、この基盤としてある。

★しかしこの保守派の対応は弁便宜主義であり、「占領軍撤退後」の再武装を放棄したものでなかったことは、あとの歴史が示している。

▼新憲法への反対意見

@共産党の反対論

●天皇制廃止:

 貧富の格差も戦争も天皇制から発していると考えていた。

●9条反対:

 すべての戦争の反対ではなく、人民のために行われる「解放戦争」と、資本主義・帝国主義による「侵略戦争」を区別する。「民主主義的国際平和機構に参加し、いかなる侵略戦争をも支持せず」という趣旨への変更を主張。

 ※この主張の背景:

 資本主義の末期である現代では自由主義経済は崩壊し、国家独占資本主義と結びついたファシズムの陣営か、それに対抗する社会主義の陣営に、世界が二分される。そうして情勢下では、問われるべきはどちらの陣営に立って戦うかであり、「中立」などはありえなかった。資本主義の社会体制のまま「中立」を唱える者は、社会主義陣営への参加を拒否しているだけであり、帝国主義が支配する世界の現状から利益を得ている敵対者だとみなされた。戦争は資本主義の末期である帝国主義の必然としておこるのであるから、戦争の廃止はスローガンで達成されるはずもなく、日本国憲法9条は絵に描いた餅と見なされた。

A南原繁の反対論

●国家の自衛権と国際貢献の問題から9条に反対:

 日本は侵略戦争という罪過を贖った上で、正義に基づいた平和の確立のために積極的な国際貢献をすべき。その際、国際連合へ加盟するときに、憲章第43条に加盟国に対して国際平和維持活動への兵力提供を義務付ける規定があるが、日本が軍備を全廃すればこれができず、このままで国連加盟ができるのかと反対。

●占領軍の権威と既成事実に流されて憲法を改正する安易さに反対:

 どんな事情があったにせよ、日本政府がつくり帝国議会がこれに協賛して新憲法を作った以上、その責任は日本のものであり、日本の憲法としてどこまでも確立する覚悟があるか?。

B後に護憲を唱えた人たちの多くは反対した

●現実は憲法よりすすんでおり、あまりに微温的な内容に「何をいまさら」と受取られた。

 ※貧困の原因となっている社会体制を問題としないで、何の「健康で文化的な最低限度の生活を営む」権利か?。⇒私有財産制の適切な制限を盛りこむべき(社会党にもこの認識はあった)

●アメリカの権威と既成事実に順応する安易さへの反発=自分自身で考え納得したものでなければ了解できない=主体性の追及

▼9条の最終的なあつかい

 国際平和をうたった第1項と、戦力放棄をうたった第2項のあいだに、「前項の目的を達成するため」という文言を入れる修正がなされて決着。

 ※国際平和という目的を害さないならば戦力の保持が可能だという憲法解釈を生んだ。(国際平和という目的を害さないならば自衛隊の海外展開も可能という解釈も生まれている。すなが補足)

【2】第5章 左翼の「民族」、保守の「個人」

▼共産党が権威を持った背景:「悔恨」としての平和主義

@圧倒的な貧富の格差⇒共産党を輝かす=歴史の必然を体現し科学によって武装された輝く存在

A共産党が日本において唯一戦争に反対した党であった=獄中18年

B知識人たちの「悔恨」:

 戦争を阻止できなかった悔恨。自分の身を守るために迎合や密告、裏切りなどに手を染めた悔恨。積極的に戦争讃美に荷担しなかったとしても戦争に抗議すらしなかった悔恨。身近な者を死なせて生き残ってしまった悔恨。戦死者への懺悔。=死をもって守るべき平和

 ⇒これが「主体性」を求める戦後思想のバネであり、積極的に平和運動に参加するエネルギーとなった。

 =共産党、とりわけ獄中非転向の幹部への尊敬と畏敬

 ※戦後共産党の党員の多くは、皇国青年か転向していた知識人や労働運動家。とくの後者の人々には獄中非転向の幹部に忠誠を誓うことで免罪符をえようという傾向が強かったので、党の権威を借りて、非共産主義者を批判する傾向が強い⇒戦後知識人はこれを嫌った

▼共産党の愛国論=人民戦線論に依拠したもの=民主民族戦線の形成

 ※「民主民族戦線の形成によって祖国の危機を救え!!」

★「真の共産主義者こそ真の愛国者」の主張

 ・ブルジョア民族主義とほんとうの愛国主義とを区別すべし。ブルジョア民族主義は自己民族のエセ優越性を唱え、むきだしの民族的偏見や帝国主義的欲望につながる。ほんとうの愛国主義は、植民地独立運動やフランス革命に見られるように、自己民族の自由のために戦うという決意であり、他民族の平等の権利を主張する。

 ・かってドイツの占領下のヨーロッパにおいて「愛国主義」を唱えて、レジスタンスを行う共産党を攻撃していた保守派こそが「祖国の裏切り者」であった。

 ・共産主義はコスモポリタン主義とは何の共通点もない。各国の共産主義者はしっかりと祖国の基盤に立っている。コスモポリタン主義は国際カルテル大ブルジョアの手先にすぎない。

   (1946年3月「前衛」掲載、「愛国主義について」)

【背景】 

・コミンテルン第7回大会の人民戦線路線

・日本は中国などと同じアジアの後進国とみなされ、植民地においては、旧支配層は外国勢力と協力して自国の独立を妨げるゆえに、旧支配層を打倒する「民主主義革命」は植民地からの独立を意味し、それはただちに社会主義革命へと直結する。「愛国」と「独立」「革命」は一体の関係にあった。

 ※獄中非転向の幹部に導かれた「人民戦線」は、「共産党の主導する民族戦線」だけを真の愛国と唱え、社会党などを排撃する傾向が強い。幹部が7回大会以前の「社会民主主義主要打撃論」=社会ファシズム論に今だ拘束されていたゆえ。

▼保守派の「個人」主義=エリートによる統治という自由主義の擁護=社会変革への恐れ

 ※保守派の主力は、戦時中戦争に非協力の傾向の強かった「自由主義者」がなした。国粋主義者=民族派の公職追放ゆえ

 ※彼らは戦争への消極的協力者か傍観者であったゆえ、主体性を求め戦争責任を追求する戦後派の知識人から「オールドリベラリスト」と呼ばれた。

 ※彼らは「個人の自由」と「天皇制の擁護」を掲げて、共産党と対抗

【特徴】

@戦後の民主化や労働運動などを、軍部の独裁と同一視する傾向

 ※マルクス主義と総力戦体制の類似性を強調し、それによって自由主義経済が損なわれたと主張(経済学者:小泉信三)

A個人の自由を強調し、天皇への敬愛を中心とした愛国心や公共心を主張

 ※全体主義になってしまえば、政治が一切を決定する。そうでなければ、政治ばかりではなく、別の面を受け持つ人もなければならない。文化を主要な関心事にしている人も有って良い。…人間というものは、各自の天分に従ってそれぞれの役割を演じる(竹山道雄)

 ※民族間に平和が願わしいと同じように、階級間にも平和が願わしい(小泉信三)

【背景】

@彼らは欧米文化を謳歌してきた、特権的な中・上流階級に属していた

A彼らには「無知な民衆に秩序を与えているのは、知識階級と天皇であり、共同的訓練のない民衆が皇室と言う中心を失った時に日本は混乱に陥る」と考えていた。

B戦争の進行と総力戦体制によるインフレの進行で、豊かな生活の崩壊と、軍人や庶民という「無知な民衆」が戦争遂行の主体となることで、彼ら知識人の存在価値が下降したことへの不満と恐れ。敗戦後の加速度的なインフレの進行と労働運動の進展・共産党の躍進によって、彼らの恐れはさらに倍化した。

C政治の優位を唱え、勢力を伸張する共産党に社会変革への恐れを抱き、昭和期の異常な事態から大正期の正常な状態に戻すと言う、旧来の特権的生活を守るという意味で、「個人の自由」と「天皇制の護持」を唱えた。

それゆえ、戦時体験によって「大衆」と接触し、日本社会の現状分析から、戦争を引き起こした原因を変革しようとするより若い世代の自由主義的知識人からは強い批判を浴びた。

【討論のポイント】

@左翼の「民族」(革命)、保守の「個人」(平和主義)の基盤の確認

A何ゆえ、保守派=「平和主義」「個人の自由」「天皇制の擁護」であったものが、なぜ後に「平和主義」「個人の自由の擁護」が保守派ではない革新派の主張へと転換したか?。

※この転換の契機が「冷戦」の始まりであったわけだが、冷戦とは何であったかということにこの問題は関わる。

※「冷戦」=世界のアメリカ化であったわけだが、それが社会主義化の阻止=民主主義の進展を阻止する歴史的反動と捉えられた限りでは「平和の敵」になるが、世界のアメリカ化=豊かさの進展・一定の平和と捉えられれば、アメリカ化こそが「平和主義」となり、「冷戦」=アメリカ化に反対した平和主義はその主張の基盤を失う。

B世界のアメリカ化の開始とう情況の中での、共産党の革命論の是非

【討論記録】

★(C)まず知識人のもんだいだ。一番のポイントは

★(B)討論のポイントにもあるが、南原繁の憲法制定に対する批判は白眉だ。内容はともあれ事情はともあれ自分で責任取れるのかという批判だ。もう一つは、日本国憲法は戦い取られたものではないというものへの憲法擁護論での批判がある。ページ173の「この憲法の成立が、欧州諸国のそれのごとく、血を持って戦いとられたものでなく、明治憲法にさえ先行した自由民権への闘争を経ずに文字通り無血裡に成立したこと、更にその内容が、近代社会とその政治思想を母体として、歴史的に形成された英米諸国の制度が多く取り入れられていること。これらを理由として、果たして日本国民の一人一人に真の共感を以って迎えられるであろうか。」という現実の批判を受け取って、そのあと「しかしながら、この危惧に対してはわれらは、この憲法がわれ等に与えられる前に、満州事変に始まって太平洋戦争に終わるまで、永い間にわたって多くの血の犠牲が払われたこと」。だから血をもって成立したんだという憲法擁護論。この憲法擁護論は保守の側から出ているが、そこがせめぎあいの核心なのに、実際にはほとんど問題にならない。つまり、南原の憲法制定過程に対する批判と、それに対するこの批判は対極にあるわけだが、小熊の記述によれば、両方とも大量の戦死者の記憶をベースにしていると。これが共通している。ここでの論争が当時の憲法論争で核心的な問題だったのだが、実際に力を持っていた吉田自由党と共産党が、そんなことを全く気にしていないという感じの討論に終始する。そういう問題を全部ネグレクトしている。共産党も。

★(A)というか、今の読売の社説の主張は実は丸山眞男と全く同じなんだ。主力の戦後知識人も全く同じことを考えていた。で、丸山眞男は(敗戦を)8.15革命と捉えようとした。

★(C)そう、そのとおりだ。

★(A)あの膨大な戦死者の血で贖われた日本の社会変革の基点なんだという主張だったわけだ。その考え方と保守派が言うとことはほとんど紙一重ぐらいに接近しているわけだ。だから論争になりようがない。

★(B)いや。論争にというのは、この時点でというよりは、その後の主体性論争などのときに、こういう問題が基本的に些少されている。

<革命運動敗北の主体的総括の欠如:戦後の問題点>

★(C)それは一つの論点だと思うが、もう一つある。第5章の最初の知識人の悔恨の問題。主体性論争だとか丸山眞男なんか以降の論理展開はこれがベースになっている。これが結局、どうして60年安保闘争以後解体、それなりに普遍性を持っていたものがなぜ壊れていくのか、このあとの章の問題になるのだが、これが核心的問題だと思う。

 もうひとつは、この間、壺井栄の24の瞳を読み返してみた。昭和27年に書かれた、1952・3年か。ちょうど冷戦が始まって逆コースというふうに言われ始めていた時に書かれた小説だ。その意味では、戦争反対の色彩が非常に強い。ある意味ではソフトというか、戦後の人々の平和意識の積極面を引き出すのに、戦前の天皇制ファシズムの弾圧というかっこうで、それが教育でどういうふうに進んでいったのかを小豆島の女性教師の姿を通して描いたものなのだ。以前読んだときには気がつかなかったけど、その責任は、当時の日本共産党が二つの弾圧、5月の何日かと3月の何日かの、あの二つの弾圧によって日本共産党が天皇制ファシズムによって壊滅的打撃をうけたことが、その後の反動的構造にいく最大のポイントなのであって、なぜ共産党が弾圧を受けたかは不問に付せられている。原因が共産党が弾圧を受けた結果としての戦前の天皇制、それが1945年の敗戦まで続き、それをベースに、そこから生まれる平和主義で大石先生は戦後の教育にもう1回関わっていくという形にこの小説は書かれている。壷井栄(やその女友達の佐多稲子)の小説の中には、戦後知識人の悔恨の問題が書かれているのだが、共産党の弾圧を没主体的に、与えられた条件でこうなってしまったんだという形で、主体的総括が何もないまま書かれていた。没主体的なんだということに気がついた。

 だから、壺井栄たちの世代は、当時30〜40代。たしか敗戦当時には。だから戦前の共産党が弾圧される前の事態なんかも知っているわけだ。この本に書かれている知識人の悔恨の世代はこのあとの世代だ。だからこの真中の、丸山眞男などより一世代上の、戦前の様々な左翼運動を経験してきた世代はどうなっていたのか。獄中18年の同世代はどうなっていたのか。これを壷井栄の本を読んでいてすごく感じた。これは感想。もうひとつぜひDさんに聞きたいことは、中西3兄弟の中西功の天皇制論。あれは戦前の天皇制の分析でしょ。あれは共産党の中で異端だったわけだ。あのあたりと、これはこの本とは直接関係ないが、共産党の問題を考えるとときに、中西功の天皇制論は、あたまに入れておく必要があるのではと思う。

★(A)それはどういう論なの?。

★(C)だから戦後の日本共産党のステロタイプな考え方に対して、もう少しきちんとした戦前の天皇制問題について論及している本で、60年安保を前後するころには、中西功の天皇制論はけっこう、いろんな人が読んでいたようだ。

★(D)この論点を解明するためには、戦前の構造を分析するところから全面的にやらないといけない。というのは、戦後構造というよりも、戦前の構造の中で、無責任自由主義者や共産党の層、それから労農マルクス主義、また、主体性ということを問題としてそれを超えようとした人たちの流れも、戦前の攻防の中で全部集約されていると思う。

 第1に、日本における産業資本主義と言う問題があったのだろうか。だから自由だとか平等だとか人権だとか言う問題は、産業革命と産業資本主義の発展、そしてそれを前提とする市民革命ということによって、自由主義的な、いわば自由主義だとか平等だとか博愛だとかいう意識が、大衆的に定着したわけだ。産業資本主義と市民革命、産業資本主義としての発展過程を通じて啓蒙思想というものが大衆のものに転化して、個としての自立、市民社会的な意識の構造というものが生み出されるわけだ。しかし日本の場合は、その時期があったのかということが問題だ。
 絶対主義というのは、大政奉還から廃藩置県のこの間しかないと思う。絶対主義的天皇制の構造というのは3・4年のことだ。そのあとはボナパルティズムだと思う。廃藩置県を通じて、近代資本主義、近代国家というものをめざすわけだから。旧来の封建的な藩を全部解体して中央主権的な国家というものに、統合していくというのが廃藩置県だ。だから大政奉還から廃藩置県までしか絶対主義的天皇制はないわけだ。だが共産党はすべて(これ以後の天皇制をも含めて)これを絶対主義のものとして考えるわけだ。
 で、絶対主義というのは、資本主義の発展においては、これは桎梏に転化するわけだ。阻害物に転化するから、資本主義的発展をという大衆の意識は、この天皇制を打倒する解体するという意識に転化すると考えたわけだ。これはツアー打倒の、ロシアにおける絶対政を打倒した大衆の意識というのは資本主義的発展の意識なんだ。ロシア資本主義の発達だ、レーニンが書いているように。これがツアー打倒の大衆的エネルギーに、その基本土台となるわけだ。32テーゼだとか27テーゼだとかは、これらのテーゼの基本は絶対主義なわけだ。すなわち日本の資本主義的発展は、この桎梏たる天皇制支配というものを大衆的に打倒するというもの。これが戦前のテーゼなんだ。そういうふうに皆信じたわけだ。
 だから我々の天皇制打倒のスローガンは、アジア侵略戦争反対というスローガンと結合して、大衆的反乱に、すなわち一挙に革命の展望は開けるというふうにして、大正デモクラシー以後のエネルギーを結集しようとした。その幻想だ。転向と言うのはこの崩壊なんだ。ということの問題が、背景にあるんだ。

 それから自由主義者というのは、戦後保守体制の基本は、戦前でいうと自由主義者なんだ。これはおれはインチキ自由主義者だと思う。本来自由主義者というのは、もしその思想が大衆的な足場を、定着しているとすれば、これは産業資本主義というものの営々とした発展を基礎に、いわば自由主義者の闘争というのがあるわけだ。その自由主義的な、ブルジョワ民主主義的な闘争に基盤を置いて、自由主義者というのはヨーロッパに置いては、マルクス主義の先行の層として流れとして革命的に登場してきている。マルクス主義はこれとイデオロギー的な闘争をやりながら自己のマルクス主義的社会主義的理論をつくるわけだ。日本にはそれはない。
 何が先行したかというとマルクス主義が先行したわけだ。思想として。マルクス主義との関係で、社会民主主義だとか自由主義とかがどういうものなのかということが解明されていく。だからマルクス主義は、大正デモクラシーに先行したのは、ロシア革命だ。これに直結だ。このイデオロギーから見て、ヨーロッパマルクス主義者はみな、社会民主主義だとか自由主義を批判しているわけだ。その理論を借りてきて日本の自由主義批判・社会民主主義批判、マルクス主義の側からの批判、これで自由主義というものが規定されていった。
 だから足はないんだ。近代的な思想として磨かれて闘争して自己を確立した自由主義者というのはいないわけだ。だからこの自由主義者というのは、天皇制と癒着している。西田幾太郎だとか三木清(彼は獄中で死んだけど)だとか、京都学派というのは、自由主義者なんだが、これはみんな戦争讃美論に転向していったわけだ。これは層としてだが、多くの自由主義者も最後には、決戦体制の下では、転向するか沈黙してしまう。いわば闘争できないわけだ。こういう形で解体していく。すなわち、自由主義というものを天皇の自由というかたちで存在意義を与える。そして日本主義的な、神武天皇以来の歴史観というものは、日本主義的意識として日本の伝統意識として存在している。これはこれとして積極的に承認しなければならない。ところがそれが、軍部と結びついた天皇制権力として転化することには反対だと言うのが一貫した立場なんだ。自由主義者の論理は。
 だから文化的権威としての天皇は認める、しかし政治的権力としては認めないという論理でずっときたわけだ。そのあいまいさ、自由主義を標榜しながら天皇制を思想的には認めて行くと言うこの構造が、結局の所沈黙せざるを得ないというわけ。総力戦の構造の中では。こういう形になったわけだ。それから労農マルクス主義は、そういう構造の中で、同じ論理なんだ。これは合法マルクス主義・合法左翼というわけだが、すなわち天皇制の文化的伝統というか日本主義的伝統という流れは、イデオロギー的には承認する。すなわち天皇制を承認するということをもって、マルクス主義を主張しながらいかに合法性を獲得するかという立場に立つわけだ。

 それが戦後の構造の中で、保守の自由主義者、だから象徴天皇制を日本の側から支えたのは、保守の自由主義者。アメリカの側は天皇を戦犯として追放しないで起用することによって、平和的に占領政策を有効ならしめるという政策、これを支えるのは自由主義者だ。保守の側からは自由主義者だ。これがさっき言った、戦前の自由主義者、産業資本主義、自由民権だとかの戦いをやらないでヨーロッパから受動的に受けとめた思想は、血肉化していないし大衆化していないし闘争化していないから、天皇制の伝統と結びつく。その思想が象徴天皇制というものの歴史的な意識の基盤になっている。これが戦後保守の流れになるとみて良いと思う。戦後の直後の体制を支えた保守の側の流れだと思う。
 労農マルクス主義の側は、この前も討論したように、有沢広巳だとかいう連中が、日本の再建を、いわばアメリカ型のものに再建するためには、計画経済でやるのが最も有効だと考えた。傾斜生産方式でね。だから有沢広巳らのマルクス主義経済理論が、戦後産業の復興のためには決定的な役割を果たした。こういう形で労農マルクス主義の役割がある。だから戦後の天皇制を支える自由主義者と労農マルクス主義の経済再生とが、いわば天皇制を認める二つの流れとして存在した。

 ところが問題は共産党の側で、これはものすごい幻想を持っていたわけだ。さっき言ったように。天皇制は桎梏なんだから、資本主義的発展は当然ブルジョア革命のエネルギーとして爆発するだろうと考えた。その先頭に立っているのが32テーゼだ。民主主義革命論だ。これに基づいて、天皇制打倒、アジア侵略反対で大衆的な革命は間近だという幻想を持った連中が、天皇制打倒と言っても異邦人みたいに拒否される。大衆に。とくに下層大衆に拒否される。だから平等論にしても、大正デモクラシーの一番有効な戦闘的な成果は水平社なんだが、この水平社の平等論というのは臣民の平等論だ。天皇から与えられた臣民の平等という、あの解放同盟ですら天皇制の流れに組み込まれて行って、結局最後に戦争賛成に転化していくわけだ。というふうに、あらゆる下層の層が右に動員されて、満州侵略に動員されていくことで解放されていくというあの右からのキャンペーン、青年将校のキャンペーンに動員されて、共産党の天皇制反対ということは一から通じてない。異邦人に語るように拒否反応が産まれる。だから天皇制打倒の大衆的決起というツアー打倒のイメージは全く逆転する。ここで絶望するわけだ。そして二つの弾圧がある。それで獄中だ。その時に、敵の検事が、天皇制を認めたら一定のマルクス主義としての活動を認めるという工作をやる。すなわち合法マルクス主義の労農マルクス主義の位置におまえらもなれと、そうすれば一定の活動の条件を与えると、そういうふうに総動員体制にオルグるわけだ。だから上から転向が始まる。佐野学だとかは幹部だろ。しかも執行委員会・政治局の半分は権力のスパイだろ。だから筒抜けなんだ。それを聞いてオルグするんだから、全部まとめて右に持って行かれる。幹部が獄中から声明を出して、天皇制賛成という形に転向していく。こういう形で絶望と、スパイがいっぱいいると、何かしゃべると全部筒抜けだと言う情況をみんな薄々知っているから、だからこんな所で命かけてやってもという気持ちと、絶望意識と、完全孤立の構造だ。こういうことで、あの世界に冠たる大転向が生み出されたんだ。その構造を獄中18年をやった幹部連中は何にも理解し総括をしようともしないで、それをみんな絶賛して神様のようにおだてて戦後の共産党は出発する。この路線はただちに挫折する。過去の総括も何もないわけだから。こういう形で挫折する必然性があるわけだ。そういう形で文化人の言いなり、それから労農マルクス主義者の、有る意味ではマルクス主義の革命的精神が骨抜きになった、ブルジョワ経済復興を一生懸命支えていくという理論をもって、それから共産党は歴史的な大敗北、テーゼの破綻というものを総括することなく出発する。こういうことなんだ。

 その中で中西功というのは、戦後にそういうことについて第1に批判した、極左分派といわれた層だ。これはゾルゲ、尾崎秀美、それから中西功だ。彼は偽装転向というのか、満鉄にいて、

★(C)満鉄調査部かな?。

★(D)そう、満鉄調査部にいて、そこで、日本帝国主義の情報を全部収集して、中国共産党にどんどん流した。こういうふうにしてしか日本ブルジョワジーに対抗して、ゾルゲもスパイだし尾崎秀美も新聞記者、そして中西は満鉄調査部、この連中は連絡しあって、大破綻の下でも一定の有効な戦いを展開したわけだ。そういう意味で、格闘、非合法的な情況で、しかも左翼が大敗北を喫し、侵略戦争がどんどん進んで行くと言う情況の中で、ゾルゲだとか尾崎秀美だとかの少数の、おそらく春日庄二郎なんかも偽装転向だと思うが、偽装転向して出獄しそこで共産党を再建しようとして解体される。

★(C)共産主義者団だ。

★(D)そう、共産主義者団。こういう連中が幾人か、いわば幻想を持つこともなく、しかも過去の32テーゼなどへの批判的立場から、問題を柔軟に、どのように天皇制の枠の中で革命を準備するというありかたがあるのかを模索した連中なんだ。これが徳球18年体制に第1に反乱を起こして、一番弾圧されることになった。極左分派は、一番ちっぽけだけど、国際派の流れの中では、一番ちっぽけなものだったと思う。だから戦前の流れの中でこれを見て行くと言うことが、その必然性としての戦後のこれらの連中の動きと言うものを見る必要がある。

 ただ、おれはちょっとのちだけど、占領下におけるその情況というのは、いわば迎合派ばかりだ。南原繁なんかは腹が据わっていて主体性論なんだが、多くは時の流れというものに迎合するという情況がある。これは戦争に一定の形で抵抗した連中も、全面的に戦争を遂行した連中もふくめて、戦前で運動をやった連中は追放されているわけだ。だから東洋経済新報なんかで活動していた石橋湛山だとか、上原えつじろうなんかの連中も、後に追放解除になって出てくるわけだ。
 その時に岸信介だとか鳩山一郎だとか、東条内閣の閣僚連中も出てくるわけだ。ここで衝突がある。鳩山に対抗したのは、朝日新聞の記者だった、東洋経済新報社なんかで大正デモクラシーの流れとして運動を展開していた緒方竹虎なんかだ。これは緒方貞子の親父でしょ。緒方竹虎は鳩山一郎なんかと対抗しようとしたわけだ。でも彼はその直前に死んだ。それから岸信介には石橋湛山が対抗したわけだ。そしてこれもまた病気でだめになったわけだ。いわばあそこが分かれ目だ。吉田内閣から鳩山内閣に、いわば独立の後に、日本が講和の後に、保守派の中でも戦前に一定の抵抗をやった連中。石橋湛山には小国主義と言うのがある。これはさきがけが継承したわけだが。武村政義が。結局だめだったが。小国で、満州も放棄するし、朝鮮も独立させるし、中国侵略反対という、小さい国で結構じゃないかという主義なんだ。だから戦前のアジア侵略反対と言う立場を最後まで思想的に貫いたわけだ。こういう連中が、登場するのだが、これが全部敗北して行く、挫折して行く。その流れは頓挫してしまう。だから時々京都の野中広務だとかがひょこっと平和主義者で出てくるわけだが、大きな潮流にならないわけだ。あそこで切断されているからだ、保守のそういう流れは。
 革新の流れは、共産党の全面的綱領的破綻だ、幻想でもって決起するだろうという。ところがボナパルティズム論は評価できずに絶対主義として評価しているから。ボナパルティズムというのは、近代国家をいわば貴族社会で成立した天皇制という歴史的反動、王政復古・尊皇攘夷論という思想でもって、近代国家と資本主義的発展の動力になっていく。イデオロギー的動力になっていく。だからこれは桎梏ではなくて動力になったわけだ。明治維新以後の。だから帝国主義に直結する。帝国主義だから、この反動思想が資本主義的発展・経済的発展の動力になっていく。いわば帝国主義というのは反動の時代なんだ。だからドイツの帝国主義の危機というのは、ものすごい人種偏見というかナチズムという反動的なもので動力になるわけだ。それがものすごい力になるわけだ。侵略戦争を展開するわけだ。それと同じように、動力になる、支えになる。それを積極的に推進・支持する力になる。
 ところがこれは桎梏に、絶対主義だから桎梏だ、だから資本主義的発展の桎梏になると。産業資本主義ならその通りだ。王政を打倒して、自由民権だとかと言う形で、資本主義的発展をするのだが。そういう理解がまるでない。だからボナパルティズム論がまるで理解できない。こういうことから32テーゼの破綻があり、その破綻から獄中18年ということで頑張ったやつだけが、神様に戦後祭り上げられて、その構造そのものは、いわば惨めなんだ、転向した連中がみんなバン万歳で、獄中18年に結集していくという。ろくな自己批判もなく。自己批判といえば、いわば懺悔だ。自己の歴史的理論的な解明ではなく、懺悔をして再結集する。これは転向の、戦前に転向してもう一度転向したようなものだ。こういう連中の主体性のなさに反発したのが主体性論争なんだ。
 それは政治主義的な官僚支配の構造と、それは文学の世界にも貫徹してくるし、文学に対する政治の優位と言う形で、だから政治のキャンペーンをやる手段として文学を位置付けているわけだ。それから哲学の党派性。哲学に党派性なんていうもので立場を、理論を組み立てれば、それは酷いものにいくわけだ。そういうことが平気でやられるような指導だ。しかも神格化された指導によってなされる。そういうことに対する反発と主体性の確立ということが問題になって、しかもそれが戦前からの総括と繋がれば、自我の確立、近代的自我の確立、自我さえ消滅させられたボナパルティズム的支配のありかたを超えるのに、自我を確立して行くことから始めると言うのが、荒正人の論理だ。それからその共産党の論理と戦前の天皇制の論理とどう違うんだと、神格化した共産党への結集のしかたと、イエスマンしか結集しないという構造は、まさしく天皇制とどう違うのかという告発をやったのは平野謙。こういう連中が主体性論争を哲学と文学において展開する。
 それと呼応したと思うのだが、労働運動における細谷松太は。産別の中での民主化を要求した。すなわち共産党の産別に対する引き回しに対して、民主化を要求する。それから労働組合の国家からの独立・政党からの独立、共産党の引きまわしからの独立だ、すなわち労働組合の主体性をどう定着させるのかと言う展開がなされたわけだ。
 で、この流れが全部消滅していくわけだ。それは左からの共産党の茶坊主みたいな連中が、社会主義といえば共産党しかないわけだから。ここで書いているように、平和主義というのも、観念であって、もう二度と戦争はいやだというのは気分としてはあるのだが、主義の流れとしては、この時期にはない。だから革命の潮流しかないわけだ。それが共産党の官僚主義的な構造なわけだ。
 それが資本主義がもう少し発展しはじめた段階で民同が出てくる。民同は、前近代的な構造という、徒弟的な労働社会という構造の中で、朝鮮ブームの中で登場してくる。この双方、共産党と民同という、この双方に引き裂かれて分解されていく。主体性論争は。細山松太は新産別という5万の組合になる。ほんとうは、産別が解体したあと、細谷松太と高野実が、新統一労働組合を作るという構想をたてるわけだ。ところが高野実の政治主義に対して、民主主義的な路線の定着というのが、これが分裂して総評が産まれ新産別が産まれるという形で分裂して行く。この過程で論争がある。大河内・高野論争だ。外延的拡大か内包的充実かという、すなわち民主主義的に充実していって定着させなければいけない、民主主主義的な権利・市民的権利というものを労働組合に定着させなければいけないという。高野はそういう職場からの戦いを政治闘争への転化という、いわば革命の流れに合流させるという、だから共産党とブロックを組んでやると言う形で革同なんかは全部高野派と合流していって、最後は中国共産党に吸収されるという形に終わる。
 そういうふうにして労働組合も含めて主体性という流れは解体される。本来戦後の主体を再建しなければならない流れは、そのようにして解体されていく。保守派も茶坊主、左もひどい官僚主義と、それに抵抗した連中が消えて行く。そういう構造で、戦後体制の今の崩壊は、まさしくその構造の崩壊だ。だから、総崩壊だ。右も左も、ごっちゃまぜになって崩壊している。そういう構造だと思う。だからポチ外交なんて必然的なんだ。主体性が何にもないから、アメリカに追随するしかないんだ。何の腹もない。イラクに派兵するにも、攻撃されたらブルブル震えるという、こういう政治の構造になっている。この意味で自由主義者の社会主義者の全体の構造を捉えるということは、今、必要だと思う。

<日本資本主義発展の特殊性>

★(A)今の、天皇制が資本主義発展の桎梏である、まずそれを倒す民主主義革命があり、その次に社会主義革命があるという考えは、1905年の時のレーニンの考えだね。基本的には。で、レーニンはそのあとそうではないと。ツアーリズムがロシアの一定の資本主義的発展の牽引車であったのだから、ここにおいてはもう社会主義革命しかないというふうに17年の4月の事件の所で転換する。この前の所の考えかたが、スターリニズムが勝って行く中でマルクス主義の主流になるわけですね。

★(D)そこの所をもう少し分析すると、なぜ、ツアーの場合は資本主義の発展が、ツアーも改革をする、何人かの改革者が王政の中で出てくる、それはそれなりの資本主義的発展の基盤を作るのだけれども、急速なヨーロッパにおける産業資本主義の発展が、それが桎梏に転化してツアーの打倒の流れが、しかも戦争にむびついて大衆的決起になったいったわけだ。すなわちツアーに対して親近感も忠誠心も大衆はそれほどないわけだ。
 ところが日本の天皇制は、大衆的な、最も底辺層の、本来なら革命的主体であるべきその流れが、最も忠実な天皇制の立場を支持していく。だからそれにオルグしても拒否反応だけだ。戦後も山村工作をやったら、赤が来たっていうひどい拒否反応がる。すなわち大衆が天皇制を支持しているわけだ。これはなんで産まれたかという問題だ。
 日本における天皇制は単なるヨーロッパの王政とは歴史的に異質な大衆的基盤を持っていると言うこの分析。だから明治維新においても近代国家の統合のために天皇制は有効だし、戦後における占領政策においても有効だ。
 このことの歴史的基盤は何なのか、他の王政、イギリスの王政などはチャールズがダイアナを殺したとかなんだとか、あんなことが平気でどんどん新聞にでる。こんなことは日本の場合は絶対にない。天皇制は道徳や倫理の手本なわけだ。というふうになぜ歴史的に作り上げられたのか。
 それは産業資本主義というものが日本にはなかったというこの過程で、それが分解しなかったということだ。これは前回言ったように、鎖国の問題だと思う。鎖国で切断されている。啓蒙思想という思想が、入りようがないということが一つと、もう一つが宗教の解体だ。大衆の不満と言うのは信仰という形態をとって結集する。それが下層であればあるほど。それが一向一揆が織田信長に解体され、キリスト教が相当入ってきたとたんに、徳川のキリシタン弾圧によって。でも戦争に反対したのは共産党と大本教と創価学会だ。これは神様仏様というのは絶対的だからだ。それを天皇の従属物にさせることにはものすごい拒否反応があるわけだ。権力に対して、下部のそれに絶対的に服従しない流れに結集することによって抵抗しようとする意識を表現する。こういうものが解体されて、坊主は戦争のための知識人にみんななっていったわけだ。村の知識人なんだ。村落共同体の知識人で、過去帳を持っていて、過去のことは何でも知っているわけだ。だから習慣だとか伝統だとかを知りたいときにはみんな寺に聞きに来る。説教というのをお経の後には必ずやる。それは戦時においては、戦争高揚の説教をやっていたわけだ。村の知識人が戦争を煽っていたわけだ。こういう坊主ばかりだったんだ。だからおれは坊主にはならない、先生にはならない、この二つだ。教師は子供に戦争を教えていたんだ。それが戦争が終わった明くる日には、とたんに、民主主義者づらをして出てくる。で進駐軍に聞かれたら、アイ・ドント・ノウだけ言えと言う、こういう教えをする。ひどいものだったな、教科書を全部墨で塗りつぶすという。

★(A)その、なんで日本が、ボナパルティズムの下で資本主義的発展が可能だったか、そのあとの植民地が発展するときもそれだと思うが、なぜ日本だけがボナパルティズムの下で資本主義的発展が可能だったかという問題だが、たとえばロシアと比べてみると、ヨーロッパとの位置関係の問題も大きいのではないか。ロシアはやはりヨーロッパの周辺部だ。ヨーロッパの帝国主義的発展の影響をまともに受ける。そうするとツアーリズムの中における一定の資本主義的発展という程度では、ヨーロッパ帝国主義からの独立すら図ることすらできないというくらいの圧力にかけられたわけだ。ところが日本ははるか遠くの、資本主義の中枢からもっと遠くの、植民地である辺境からもさらに遠い所。ウォーラースティンというのは面白いことを言っているのだが、日本という国は世界の外にあったのではないかという言いかたをしている。世界の外にあったから日本を植民地にしようという意識もあまりないから、すごい圧力がかからない。かからないから、ここだけ真空状態の中で、天皇制を核にしながら資本主義的発展を、一気に帝国主義まで行ける国際環境があったのではないかと。日本の場所の問題だというんだ。

★(B)よくおぼえていないのだけど、マルクスも日本の明治維新と資本主義的近代化の始まりを捉えて、資本主義はようやく地球を一周したのだという言いかたをしている。だから最後の資本主義的近代化なんだよ。最後っていうのは両側からきて最後なんだ。そういう意味では辺境なんだ。ヨーロッパ資本主義からみれば。

★(C)極東だもんな。

★(B)そう。極東だよ。

<脱亜入欧路線をどう総括するか:アジアとの連帯の基礎>

★(E)この中で、れいの一国平和主義。ようするに朝鮮植民地化から中国侵略の過程について、おれらも含めて全部封印されて、戦争の被害者っていう立場でずっと来たわけだ。社会党がそれを象徴して、共産党もそれをあまり否定はしなかった。おれたちが極東解放革命を言っていたころ、一国平和主義って批判した、今も小泉が同じ批判を使っているわけだが。そのへんの問題点については、この本はなんか言っているの。

★(B)ようするに、主体性の問題提示とあわせて、加害の問題が語られ始めると言う。

★(C)要するにここでやっている最大のポイントは、この知識人たちの所で、特に丸山真男を中心とする知識人たちは、戦争に対する悔恨がずっとあったけれども、丸山真男などは、植民地の問題を全然触れていない。

★(E)触れていないんだ。

★(C)唯一それに言及したのが荒正人だと。それで主体性論争にいくわけだが、おれが驚いたのは、丸山真男たちは、加害の問題にほとんんど触れていないという、これはおそらく致命的な問題だったんだと思うのだが、丸山真男の。

★(E)だからその辺がなぜなのかということについて。ここに書いてあるかどうかじゃなくて、我々の戦後総括を組み立てて行く上で、これが必要なのではないかと思う。新左翼運動の波をかぶって、中核なんかは決済の思想なんて馬鹿なことをいっているわけだから。そういう加害というか、民族国家を超えた、革命というのは民族国家を超えるわけだから、その民族国家を超えた観点からどういうふうに考えるべきなのか、歴史を。そういう視点も必要なんではないかと思う。

★(D)今の前半の問題、ロシアにおける資本主義があったというのは、それが外資なんだ。ヨーロッパ資本なんだ。それでもってプロレタリアートだけが強大に膨れ上がって、ロシアブルジョアジーと言うのは、まさしくないんだ。外国資本なんだ。それでプロレタリアートだけは、その外資によって作り出された。このことの弱さ、ロシアの弱さが、プロレタリアートが少数でありながら、ツアー体制を転覆させられる力足り得た。そう言う意味では資本はヨーロッパと直結しているわけだ。

 日本の構造と言うのは、外資なんていうものはありはしない。黒船が来て大騒ぎしているわけだから。明治維新以後、いわば政商的資本主義なんだ。官僚が上から政商として生み出した。八幡製鉄がそうだし、鉄道がそうだし、すべてが上から、官僚によって産業が育成されていって、そして富国強兵という国策の下に、資本主義が生み出された。だから産業資本主義じゃないわけだ。下からの産業革命を通じて自発的に生み出された産業の発展ではない。上から作り出された。このことと富国強兵ということが結びつき、急速に帝国主義に仲間入りする。すなわち脱亜入欧だ。
 入欧というのは入帝、入帝国主義なんだ。だから産業資本主義が発展して帝国主義段階に入ると言う、段階を踏むことができないんだ。資本主義になったとたんに帝国主義に仲間入りしなければ植民地になるという構造でしょ。
 だから日本がなんで植民地化されなかったかといえば、アメリカの南北戦争に助けられたんだ。それから1905年革命に助けられたんだ。日露戦争の勝利は。だから帝国主義の仲間内に入りこむためには、急速に上から産業を発展させて富国強兵をやらなければいけない。だから政商的、政治が主導して産業を育成するというやりかたを取ったんだ。で、戦後もそうなんだ。有沢広巳の傾斜生産方式っていうのは、そう言う形でやられる。この脱亜入欧の帰結なんだ。太平洋戦争に行き着く。すなわち帝国主義にどのようにして仲間内に入っていくか、そのためには最初はヨーロッパ帝国主義の植民地政策からアジアを守ろう、共に自分も守ってアジアの国々も守って、それで資本主義的発展を急速にやれるようにアジアを解放して、すなわち鎖国を解いて帝国主義に抵抗するアジアをつくろうと、その先頭に立つ、その防波堤になるという思想で、日本におけアジア派は生まれるわけだ。その意味で中国の辛亥革命だとかを日本の政府が支持して、最初の段階ではやるわけだ。
 ところが脱亜入帝と言う形で帝国主義になるという形でそれは、アジアを守るのではなく、帝国主義者としてヨーロッパに対抗して、帝国主義者として支配する。こういうことに転化したわけだ。これは日清日露で持って甘い汁を吸って、第一次世界大戦で漁夫の利を得る。そのことを通じてアジア侵略構想を立てて、大東亜共栄圏というところで帝国主義に転化した。

 この歴史をどう総括するのかと言うことを抜きには、一国平和主義を脱皮できない。明治以来の、結局の所ヨーロッパに対抗して自国が独立するということが同時に帝国主義に転化したという、これは必然的に天皇制ボナパルティズムでなければ国内的には出来なかった、そういう構想。だからアジア侵略と一体なんだ。天皇制支配の構造は。この構造を全面的に総括して、全面的に自己批判して、その正反対をアジアに行う。すなわち新しいアジアの利益のために、ある意味では自己犠牲になるというぐらいの自己反省があってはじめて、平和主義の土台・基盤が出きる。ところが戦後は、ずっとアメリカにくっついて、今だに脱亜なんだ。イラク外交を見ても、今や脱亜入欧の第二段階。第1段階が戦前で太平洋戦争の敗北ならば、今日のイラクに至る戦後は、脱亜入欧の第二段階だ。この構造であるかぎり、平和主義は一国平和主義で、日本だけが良ければ良いというこの構造を絶対脱出できない。だから国際的にはこの平和主義は、絶対に信用を得られない。このことから国際貢献論というか、アメリカの軍事侵略に呼応する、その流れに対抗できないんだ。平和主義では。
 唯一あったのは、平和5原則のバンドン会議以来の50年代後半、この一時期に平和主義は国際主義としてひっぱられる、日本ではそれに(アジアの動きに)引っ張られるという形で国際主義的ポーズが出来た。これが平和主義が盛り上がって60年安保まで行った背景だ。あの大衆のエネルギーの。この前言ったように、バンドン会議の平和5原則平和10原則、相互不可侵だとか平和共存だとか平等互恵だとか民族自決だとか、こういうものでしょ。そういうものの流れに対応して平和3原則だとか平和4原則というのを総評と社会党の綱領にしていくわけだ。これが非武装中立という論理になっていくわけだ。この流れの時だけだ。それから原水禁闘争が盛り上がったのもこの時だけだ。1回大会から3回大会まで。55年から57年の間だ。57年がピークなんだ。その過程で砂川闘争が勝利している。56年。内灘闘争が52年。それで55年56年で砂川闘争だ。基地反対でものすごく盛り上がった。これが高野派と全学連がブロックを組んだ闘争なわけだ。ここから新左翼が登場してくる。これがピークで、この時だけがあたかも国際主義的平和運動という性格を唯一持った。アジアと連帯するという形で。アジアの新しい反植民地の勃興ということに対して連帯するという形で登場した平和主義という形で。この時は大論争になる。大論争が始まるんだ。平和は戦い取るものかお祈りをするものかという。だから焼香デモなんというのにはケチをつけていたわけだ。我々は機動隊と戦闘的に対決してでも平和というものは戦いとるものだと、こういう分化が始まった。国際主義者と国内的な願望主義者との間で。これが中途半端に終わる、60年安保の挫折で一頓挫する。この問題をもう一度、ベトナム反戦の時に新左翼の流れが出てくるが、それは潮流として組織されないまま崩壊していく。

 ここの所を歴史的に総括して一国平和主義をどう超えるのかということなしには、今日の革新勢力の解体は阻止できない、留めることはできないと思う。ナショナリズムとさえ、国際的貢献勢力に対抗できるには、一国だけ自分だけ平和を守れれば良いというような思想ではできない。護憲勢力というのはそういうものだ。我々は護憲とは絶対言わなかった。改憲阻止だから。改憲に対しては対抗して戦う。だから単なる護憲じゃなくて、それを超えた新しい平和の運動を作ろうというもの。そういう流れで一貫していたわけだ。この問題を理論的に再構築するかという問題だと思う。

★(B)潮流としては、もちろん登場していないのだが、小熊はこの本の中で、天皇の戦争責任、この間やった第3章に戦艦武蔵の乗組員だった渡辺清と言う人の手記を紹介すると言う形で、加害と言うよりはこういう書き方をしている。日本のナショナリズムが傷つけられる痛みは、アジアのナショナリズムの共感に繋がったと。で、フィリピン解放戦線の女性達の方が、今の日本人なんかよりよっぽどすばらしい、と彼は書くわけだ。渡辺氏は。でもその時はたぶん、小熊が書いているとおりだと思う。要するに、米軍に占領されて誰も戦争責任をとらなくて、なんだこのやつらはと思っている人から見たら、もう日本人は信用できないと、それに比べたら解放闘争を戦っていたフィリピンの女性だとかなんかはすごい、という、そういう感覚から産まれ出る加害の問題。だから彼は、なんで天皇はアジアの民衆に謝罪しないんだと日記に書く。ただ、それは潮流としては成立しない。小熊はそういうのをこの本の中にエピソード的に入れているのだけど、それ自身は全然潮流としては成立していない。

★(C)Dさんがさっき言った、アジア主義と辛亥革命と孫文の話し、これと丸山真男の話しを結びつけて考えてみる必要があると思うのだが、丸山真男はえらく明治維新の所にこだわるわけです。この本に書かれている所によると。ところが彼は結局一国平和主義の枠を出ないと言うわけ。明治維新にこだわりながら。この間、その時歴史は動いたという番組で孫文をやっていて、ものすごく面白かったんだが、そこで孫文の日本における最大の支持者が日活の創設者だという、映画会社の日活の創設者だというのも始めてそこで知ったのだが、

★(B)外務省の仕事をなげうって、一緒に走りまわっていたんだな。

★(C)結局、孫文は日本が山東半島を占領したときに、日本に対する最終的な警告の大演説をうつ。ところがそれ以前の段階では、日本の中に相当いたわけだ。中国革命を支持する、物質的にも支持するし、それから中国から亡命する人達を迎え入れる。結局、その時の転換は、伊藤博文がその時の転換を最終的にさせるわけだ。この間の番組を見た所によると。だから、明治維新から始まって、大アジア主義と言う潮流が一つ完全にあって、それが第1次世界大戦とその中での山東半島と二十一か条要求。あれで最終的に解体させられるという。こういうことが歴史的にあったわけだが、なんで丸山真男をあれに目をつけなかったのかということが私には非常に疑問だ。

★(A)これは丸山真男は、福沢諭吉で止まっているでしょ。

★(C)そう。福沢諭吉で止まっている。

★(A)で、大アジア主義の方にいっていた中江兆民の方には、彼は全然目が行っていない。見ていない。

★(B)少なくとも辛亥革命に向かうときの孫文にとっては、日本には非常に当てになる同士がたくさんいるという感じなわけだ。現に日本人の中にもそれを実践的にやろうとする流れがあるわけだ。

★(A)中国革命同志会を作ったのは、東京でしょう。

★(C)そう。東京だ。

★(A)もう少し言えば、1920年代の中国革命までは、中国共産党の中にかなりの日本人がいる。そういう流れはあそこまでは続いている。

★(B)実際には中国侵略が本格化して行く時の先駆になっているのは、基本的に大陸浪人というか右っぱになっていくじゃないか。

★(A)そう。たしかに右っぱになっていく。あれは、1910年ぐらいまではあれは、左も右も渾然とした状態だ。日本の資本主義的発展にとってはアジアの同志が絶対に必要と考えていたわけだ。・・・そこに丸山はまったく目がいかない。

★(D)だからやっぱり脱亜入欧なんだよ。福沢諭吉は。これは、結局、アジアから手を引いて、ヨーロッパと結合すると言う、近代化思想というのをこのように捉えていたわけだ。その流れだ、丸山の思想の流れは。でも、竹内好はアジア主義者だったわけだが、そういう風には問題を総括していないわけだ。アジア主義者は全体としては右翼と、で、近代主義はヨーロッパ主義者という考え方だろ。

★(A)そうすると大正デモクラシーと中国侵略が実はセットだというのが見えなくなる。

★(C)そう。今のは核心問題だと思う。

★(D)それが、彼らが主体という問題を総括できない、すなわち1945年の8月15日が民主革命という捉え方だろ。しかしその主体たるや全く空白なわけだ。なぜなら戦前は皆天皇のアジア侵略に従って、ないしは皆沈黙して、反対しているのは獄中の何人かという情況で、これを民主主義革命だとすればそれは、主体なき民主主義革命になる。全く空白なわけだ。この空白をどのようにして解決すべきなのかと苦闘しているのが、主体性論だとかいう、主体性をどう確立しなおすのかということをもって総括をしようとする主体の連中が登場したわけだ。この空白を埋めるために。ところがこれは主体抜きに革命だと言って、その主体は国民全体だと、一般論にすりかえたわけだ。丸山は。そこに彼の主体のなさ、それはアジアを総括できないと言うかその視点がないという、すなわち主体といものがアジアを侵略したことをどのように総括するのかということと、それと不可分の関係にある天皇制支配というものをどう総括するのかと言うことなしに、そこの所を克服することなしに主体は再建できないわけだから、そこのところが欠落することとその空白を一般論で埋めてしまうこと、国民一般にしてしまうということとの間に、丸山の欠落、主体的欠落があるのだと思う。

★(C)だからさっきDさんが言いかけた、ベトナム反戦の時に、新左翼がそこの所を相当鋭く批判して、福沢諭吉の脱亜入欧の問題なんかを含めて批判して登場してきて、それはそれで思想的インパクトはあったわけだが、あれは内ゲバで全部消えてしまったわけだ。あの時期に今いっていたことがかなり討論されていた。脱亜入欧の問題を含めて、60年代末に。

★(D)だから被害者意識、これは戦争は嫌だ、お願いすると言う、お祈りの気持ち、平和を求めるお祈りの気持ちだ。ところが、アジアにいかに侵略したのかと言う総括と、現在アジアに対して、自分の犠牲に基づいて支援するというこの連帯なしには、水平的に結合することはできない。日本では。自分が侵略したのだから自分が犠牲になって始めて水平的結合ができるという、この観点が全部欠落しているわけだ。それどころか、靖国問題にしても教科書問題にしても、アジアから異議申立てが来た時に、それを拒否して靖国に行くだけではなくて、革新派がアジアの人達が反対しているからということだけを口実にして反対するという状態。なんの主体性もないわけだ。韓国や中国が反対しているじゃないかと、それを強行すれば友好関係がつぶれるじゃないかということで、アジアの人達に転化していて、自分がそういう思想で戦うということが、左も全く欠落している。革新派も。この構造である限り、脱亜入欧じゃない脱欧入亜に転換しなければ、脱米入亜の思想に大転換しなければ、そして自分を犠牲にしてアジアに貢献するという関係でもってアジアと連帯をどう組織するかということでなければ、と思う。

★(A)その問題は、日の丸君が代拒否闘争の中で、批判されていた。日の丸君が代を拒否する人達の主力の言い方は、在日の子供達にこんなものをなぜ押し付けるんだという言い方をするけれど、じゃあ日本人の先生達はなぜ日の丸君が代を拒否するのですかと在日の人達からポーンといわれた時には、皆何も言えなくなって止まってしまう。日教組の中で最後まで日の丸君が代を拒否していたのは高教組が強い所。

★(C)神奈川なんかな。

★(A)そう。神奈川高教祖なんかは民族教育の問題から来ているから、そういう反対論をはる。大阪もそうだ。だから、あなたの主体はと言われた時に、それが出てこない。だからあとは物理的な拒否闘争をただただやり抜くか、一辺につぶれるかのどちらかだ。

★(B)だから物理的な拒否闘争というのは、ある意味では免罪符なんだ。展望がなくても私は頑張るという。獄中18年と一緒じゃないか。思考構造は。

★(A)そして実際には免職される。かっこ良く。

★(B)かっこ良いけど何も残らない。

★(A)近代主義だからアメリカにくっ付いていくわけだ。平和主義者も最終的には。どう考えても。

★(B)で、憲法だけ守れと言ってもそれは無理だよな。

<人民戦線路線と平和革命論の破産>

★(C)単純な質問だが。Dさんに。獄中18年組というのは、コミンテルンの第7回テーゼは知らないんだね。

★(D)だから人民戦線を戦後は知っているのは、野坂参三と中西功と、いわば活動を戦中にずっと続けていた連中。だから32テーゼは社会ファシズム論の時代だから、そういう観点で徳田球一なんかは出てきて、しかも32テーゼは天皇制以外はだいたい実現されてしまっているから解放軍なんだ。解放軍でばんばんざいということで行くんだが、野坂参三は戦後人民戦線を作ろうとして山川均らと、野坂参三帰国大歓迎集会なんていうのは人民戦線の構造として作るわけだ。ところが野坂参三は人民戦線の路線を貫けないんだ。徳球なんかに脅かされて。それで結局徳球に屈服してしまうわけだ。で、32テーゼでもって2・1ストなんかで革命ができると、内閣まで作ったんだ。松本治一郎首相・野坂外務大臣だとか、そういう幻想だ。32テーゼというのは、さっき言ったように、天皇制打倒の大衆的民主的爆発という幻想が依然として彼の綱領にあるから、しかも野坂参三の解放軍、だから愛される共産党という平和革命論だ。占領軍というのは人民戦線軍だから。アメリカ軍だから。だから野坂にとっては解放軍なんだ。この点は一致している。で、占領下における平和革命が可能である、2・1ストの革命的闘争を米軍は全面的に支持するという立場でやったわけだ。だから米軍が弾圧にきたらひとたまりもない。その幻想が吹っ飛んでしまってどうにもならないということになる。この構造の敗退だ。これは32テーゼというか人民戦線との両方の破綻だ。国際的平和主義者の占領軍と天皇制構造を大衆的爆発で打倒できるという、この人民戦線と32テーゼとが結合した破綻が2・1ストだと思う。

★(B)これの憲法論争の所では、野坂が持ちかえった路線では、天皇制については、自由主義にずっと接近した天皇制の容認と政治権力の剥奪、そして国民投票。こういうのが野坂のだ。

★(D)これは、延安で演説して、文化的権威としての天皇制は国民がすべきだと。政治権力としての天皇制は解体すべきだというのが、これは合法マルクス主義の理論と同じだから山川均と結合して人民戦線という構想を立てて、そうとう大衆的基盤を、自由主義者も含めて、そうとう広範に結集したのだけど、その路線を発展させられないでセクト主義的な32テーゼ路線に屈服するわけだ。で、自由主義者は離れて行って、官僚主義になる。で、民族主義に転換するのは、トルーマンドクトリンの後だと思う。

★(B)公然たる民族主義への転換は?。

★(D)民族民主革命はその後だ。それまでは反封建民主主義革命だから。トルーマンドクトリンは、47年だ。チャーチルの鉄のカーテン演説も47年。ここで冷戦構造に転換するわけだ。そこから、それまでの解放軍的な路線をコミンフォルムから徹底的にたたかれるわけだ。コミンフォルムからの批判。第1回はソ連から、第2回は中国から。両方からたたかれる。それをめぐって所感を出したり、国際主義派に分裂するわけだ。そのあとだ。綱領的に民族主義に転換するのは。民族解放民主主義、民民路線に転換するのは。これが51年綱領だ。一番ひどい。いわば中国革命の物まねだから。

★(C)それが所感派だ。

★(D)他は分裂していて綱領なんかはないからな。各派ばらばらだから。中西派・神山派・宮顕派・春日派・志賀派と。こういうふうにばらばらになっていくから、総体としては国際派は統一した綱領がないわけでしょ。51年綱領でもって中国革命を模範にして軍隊を作って、中核自衛隊を作って、火炎瓶闘争・山村工作をやって行くわけだ。だからそこらへんから愛国主義というのが出てきている。

★(C)たしかそうだ。この本でもそう書いている。

★(B)この本はむしろ、1946年2月日本共産党機関誌前衛で、「朝鮮民族は民族として単一民族である。朝鮮民族を真に愛し、朝鮮民族を友として、朝鮮民族の完全な解放のために最も忠実に戦うのは、朝鮮共産党であるとうたい、民族を総結集して民族統一戦線を結成することを唱えていたと。これは朝鮮の問題なんだけど、基本的に日本でも民族統一戦線という主張が、しかも真の愛国主義者が天皇制と戦うのだとかなんだとかの論議が展開されたのは、むしろ戦後直後からずっとそういう流れが有るというようにおれは読んだけど。

★(C)歴史教育の所で民族主義が共産党の中で出てくると言うのは、たしか朝鮮戦争のころからじゃなかったか?。

★(B)そういう底流が1946年にはすでにあって・・

★(A)底流はあるけど、綱領としてそれに変えたのはずっとあとでしょ。この辺はこの本はぐちゃぐちゃになっている。1948年だと書いてあるよ。今あなたが読んだ所のすぐ前に。186ページと187ページの間に。最初は野坂の民主人民戦線路線だったけど、48年3月の中央委員会の提唱で民主民族戦線に改められたと。トルーマンドクトリンのあとですよ。日本民族のというのは戦争直後から言われていたけど、路線としてなるのは1948年。

★(B)1948年はすでに冷戦だからね。その前の話しなんだな。46年2月の前衛は。


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