第一研究会第4回  「アメリカ労働党とニューディール」

1999.10.文責:すなが けんぞう


【レジュメ】

 1938年。恐慌の中で激化した産業別労働組合運動(CIO)の運動の発展の中で、アメリカ社会主義労働者党(SWP)は、その労働者の先端部分との結合を図ろうと闘争する。この時トロツキーは、過渡的綱領の適応を提起し、その不可欠な一部として労働党の形成と工場の労働者管理・労働者民兵創設のスローガンをアメリカ労働者階級に提起すべきと主張した。
 このトロツキーの提起に対し、SWPの少なからぬ部分が反対を表明し、トロツキーとの間に激しい論争が生じた。反対者の論拠は「CIOの先端の労働党を作ろうとした部分は民主党のニューディール派に吸収されつつあり労働党のスローガンは急速に意味を失っている」というものであり、労働者民兵のスローガンは「ファシズムの脅威が現実には存在しないことにより現実味がない」というものであった。
 これに対するトロツキーの反論は、「現実にはなくとも情勢の基本的性格がそれを要求している」というものであり、「遠からずアメリカにもファシズムの危機がおとずれそこで必ず独立した労働党の形成と労働者民兵の創設が問題となる」というものであった。
 この論争はCIOが民主党ニューディール派に吸収されていき、SWPの孤立が深まり、資本主義の新しい改革の可能性を認めた一派が分裂して行く形で終わり、トロツキーの展望が崩れ敗北した形で終わった。
 このトロツキーの展望の崩壊は第二次世界大戦前の世界の彼の分析のおいて唯一その展望が崩れた例である。この論争をふりかえり、トロツキーがこの問題にどのように取り組みどのような論拠でそれを主張し、そして敗北したのかを再確認することで、彼の主張の背後にある資本主義分析の問題点を明らかにしたい。

@反対意見:シャハトマンはトロツキーに真っ向から反対している。

 私は今日労働者の間で労働党を求める感情がそんなに強いとは思わない。労働 党を求める感情が生まれたとしても、その大部分は、ルーズベルトの方に吸収さ れてしまっている。 ・・・いずれにせよ1930年を1924年と比較すれば、労働党を 求める運動は現在かろうじて存在するに過ぎない。(著作集38−39下P202)
 ・生産の労働者管理というスローガンや労働者民兵というもう一つの過渡的スロー ガンを前面に押し立てるべきだとのあなたの見解は正しくないとおもうが、資本家 階級の簿記の監査というスローガンは,現在の時期により適しており,人気をえる ことができるでしょう。他の二つのスローガンは,確かに過渡的スローガンであると は言え、権力の獲得の準備に近づいた終点のためのスローガンです。過渡期は 長い道程と短い道程を含む。道程のそれぞれの段階ごとに,固有のスローガンが 必要です。(々、P210)
 ・労働者民兵という組織を求める感情を引き起こすようなファシズムの危機は米国 にはまだ存在していない。労働者民兵の組織は権力獲得のための準備を前提と します。これはアメリカではまだ日程に上っていない(々、P208)

 また、ダンも同じ状況を指摘している。

 ・スターリニストは進歩派や知識人の広範な層と一体になって、労働党を民主党や リベラル派の候補者との一層緊密なブロック政策の方に振り向けようとしている。 ・・・しかし民主党とのより緊密なブロックを阻止する点ではわれわれはぜんぜん 成功してはいない。(々、P200)

A賛成意見:これに対して労働党のスローガンに賛成するキャノンは、以下のように 述べる

 ・スターリニストは人民戦線の最初の時期にはアメリカ人民戦線として労働者党を 組織せよというスローガンを掲げていた。現在ではそれは儀式的な行為でしかな い。・・・CIOは政治的に組織されており、自分たちの党を求める大衆の感情はき わめて強い。(々、204)

 両者の論争は、つまるところはアメリカの労働者の先端的な運動の中に、労働党を求める強い大衆の要求があるのかないのかに帰結し、労働者の要求に重きを置くキャノンとその要求を民主党との結合・人民戦線へと導こうとしている共産党の動きに重きを置こうとするシャハトマンという対立の構造となっていた。

Bこの両者の論争に対してトロツキーはどう答えたか?

 いまわれわれは資本主義の衰退期に、ますます混乱し激化する危機の時代に、 そして差し迫る戦争の時代にいるのです。戦争の中で労働者は直ぐに学び取りま す。われわれが待機し、見守り、それから宣伝を始めるというのであれば、そのと きわれわれは前衛ではなく、後衛です。10年以内にアメリカの労働者が権力を握 ることは可能でしょうか。もしあなたがこうたずねたら、私は然り、まったくありうる ことだと答えます。CIOの爆発は資本主義の基礎が掘り崩されたことを示していま す。(々、P211)
 ・CIOが出現した理由は何かというと、それはアメリカ資本主義の崩壊にあります。 (中略)合衆国においては資本主義の衰退の開始は産業別労働組合を生み出し ただけでしたが、それは資本主義の衰退の新たな開始にちょうど間に合って舞台に登場したのです。より正しく言えば、1929〜33年の最初の危機が組合を押し上げCIOへ結束させたと  いえるのです。しかし、やっと結成されたCIOは、1937年〜38年の持続的かつ深刻な第二の危機に間に合ったのです。(中略)今や本当の組合が組織されているからには(中略 )資本主義衰退の基礎の上では組合は政治活動へと向かわざるを得ないのです。(々、P217)
 ・過渡的要求の綱領全体についてかって言ったことを私はここでも語りましょう。問題は大衆の雰囲気ではなく、客観的情勢であり、われわれの任務は心理学ではなく、客観的事実によって決定される任務を大衆の遅れた雰囲気にぶつけることです。同様なことが、この労働党についての特殊な問題にもまさにあてはまります。(々、P218)

 トロツキーは、CIO運動の発展の先に、労働者の独立した政党の結成、資本主義の衰退の状況の中で、その利害を守り、闘争を発展させ、労働者の戦いを革命へと発展させていく可能性のある政策 (=過渡的綱領)を遂行する労働党の結成。この労働党が資本主義の救済を試みたルーズベルト率いる民主党の左側に建設される可能性を展望していた。そしてその根拠は、「客観的情勢」つまり資本主義の衰退期にあるというトロツキーの認識であった。ここについてトロツキーは次のように詳しく述べている。

 ・アメリカ合衆国の資本主義の強靭さを見て、われわれのある部分は、私自身も含め破壊的内部矛盾に対するアメリカ資本主義の抵抗力はより強く、一定の期間それはヨーロッパ資本主義の衰退を利用し,自身の衰退の前に繁栄の一時期を経過するのではないかと考えました。どの程度の期間それが続くのでしょうか。10年ないし30年と言えたでしょう。ところで、私個人は、現在の鋭い恐怖ないし一連の恐怖が次の一時期に始まり、ますます深刻化するだろうとは思っていなかったのです。そんなわけで8年前にアメリカの同士と討論したとき、私は非常に慎重だったのです。(中略)1930年に労働党の必要性を強調することは完全に衒学的で抽象的で不自然であり、そうした抽象的スローガンはわが党自身にとって有害であるとしたのです。(中略)そしてさらに新しい危機が繰り返されました。つまり、5倍から10倍も深い影響を伴った深刻な新しい危機が続いたのです。(中略)アメリカ資本主義は非常に強力であるが、しかしその矛盾は、資本主義それ自体よりも強力です。衰退の速度はアメリカ式の速度に到達し、このことがAFLでなくCIOと言う新しい組合にそって新しい勢力を作り出したのです。(中略)われわれは、客観的情勢がわれわれの以前の予測とまったく食い違ったため、路線を変更しなければならないのです。(々、P220)

 つまりトロツキーは「ヨーロッパとアメリカ」た題する講演でアメリカ資本主義のヨーロッパ資本主義とは違った新しい力の源泉を分析しその新たな発展の可能性を認めた。その認識をいまや変更しなければならないと彼は述べているわけである。その客観的根拠は何か。1930年と1938年との間におきた情勢の急速な変化とは、第一次世界大戦後の混乱を終息し一定の安定を得たかに見えたヨーロッパ資本主義が1929年のアメリカに発する恐慌により崩壊しドイツでもファシズムが勝利しやがてはファシズムが全ヨーロッパを覆う可能性の強い状況。そしてヨーロッパの支配権を巡って再びイギリスとドイツとの間で戦争が勃発しそれはやがてアメリカをも巻き込み第二次世界大戦に突入すると言う情勢の急変であった。
 いまや旧資本主義ヨーロッパの危機の構造は新資本主義アメリカをも巻き込み、資本主義の衰退の新たな段階が始まったとトロツキーは認識していたわけである。

Cトロツキーのアメリカ資本主義認識

 進行しつつあるニューディールについてのトロツキーの認識にも同様な性格が見て取れる。

 ・歴史的にその破滅を運命付けられた資本主義を救済する二つの方法、つまりファシズムとニューディールが、今日そのすべてをあらわにして、世界の舞台で相互に争いつつある。ファシズムはプロレタリアートの階級闘争の機先を制するために、労働者諸組織の破壊、社会改良の絶滅、民主的諸権利の完全な否定をその綱領の基礎においている。ファシスト国家は、国家と人種ー腐朽していく資本主義がこのあつかましい名目をつけて現れるーを救うという名目の下に、労働者の地位の下落や中間階級の窮乏化を公式に合法化している。
  ニューディール政策は、労働貴族と農民貴族に餌を与えることにより、帝国主義的民主主義を救おうとしており、だいたい非常に裕福な国家にのみ可能な政策であり、したがってこの意味で優れてアメリカ的政策である。アメリカ政府は独占資本家たちに対して、賃金引き上げ、労働日の短縮をやり、かくして国民の購買力を増大させ生産を拡大させるように勧告し、この製作の費用の一部を独占資本家に肩代わりさせようとしてきた。
 ・ニューディール自体は、過去の世代によって蓄積された膨大な富の存在によってのみ  可能であった。きわめて裕福な国家のみが、こんなぜいたくな政策に浸ることが出来るのだ。しかし、このような国家でさえ、無制限に過去の世代を犠牲にして生活していくことはできない。ニューディール政策は、その偽りの業績と国債の非常な増加のために、獰猛な資本家の反動と帝国主義の荒廃的な爆発を不可避的に生み出すのだ。言い換えれば、ニューディールとは、ファシズムの政策と同じ経路を指向しているのである。(「現代のマルクス主義」著作集1938〜39下、P253〜254)

 トロツキーは明確に述べている。アメリカでさえ資本主義の衰退の趨勢には逆らえない。なぜならその世界化は、資本主義世界のすべての矛盾をアメリカ資本主義の中に、その爆発の要因として持ち込まざるを得ない。ニューディールはつまるところファシズムと同じところへ行き着き、それは新たなる世界戦争へ導く。したがってその戦争を内乱へと導く政策が必要とされるアメリカにおいて非常に小さな労働者階級に大きな影響を及ぼし得ないSWPは、労働者階級に対して労働党を作るべきことを要求し、その綱領として過渡的綱領を受け入れるように要求すべきとトロツキーは提起したのである。

Dトロツキーの認識の限界

 CIOを民主党ニューディル派に結びつけたのは共産党の人民戦線路線に根拠があったのではなく、それを可能にしたアメリカ資本主義の力にこそその根拠はあった。ニューディル派は戦争へと踏み込むことでアメリカ資本主義総体を巨大な戦争マシーンに組替えそのことをもってして労働者階級を内部に組み込み、その巨大な力をもってして危機に貧していたイギリス・フランス、そしてソ連をもファシズムの脅威から救い出し世界をアメリカ的に組織することで新たな長期にわたる発展の道を築いた。その方向をトロツキーが捉えられなかった根源は旧資本主義の危機の救済としてのファシズムと新資本主義の危機の救済としてのニューディールを同じとみたこと、ひいては新旧の資本主義を同じと見たことに、その限界の根拠があったと思われる。

【討論】戦略の問題や同盟の総括など多岐にわたる興味深い討論なので、全文を掲載します。

A)
ちょうど、そのトロツキーが予測をした状況というのは、45年から 47年の間に起きるんだよね、アメリカで、だからCIOの中のUE(電気?)とUSW(鉄鋼労組)とそれからUAW(自動車労組)とその三つがストライキに入ってほとんどゼネスト状況になる、その後47年に一挙にCIOの反動化が始まり、マッカーシズムでレッドパージ、ほとんどファシズムと同じ状況になるわけだ、47年以降は。だから俺は、今聞いていて思ったんだけど、45年から 47 年の SWP の討論がどういうものであったのか、(資料が)見つけられたら非常に面白いと思う。だから、こちらのアメリカの組織、テンデンシーと一回討論しておく必要がある、ようするに、45 年から 47 年のあたりの SWP の討論がどういうものであったのかと。 戦後、兵士が帰ってきてみんな失業状態になり、労働条件がいっきに引下げられ、それに対して強力なストライキ、ほとんどゼネストのようなストライキがうたれる。このあいだ俺がアメリカに行ったとき会った UE の活動家達は、ようするに、冷戦というのは勿論ソ連との関係もあるんだけれども、我々のストライキに対する弾圧、アメリカ労働者階級の決起に対する武器としても、冷戦が使われたんだという総括をしている。

B)
というか、その、冷戦の登場のしかたなんだけど、ある意味で、非常に一方的にアメリカというか、連合軍の側なんだ、ソ連はどちらかというと人民戦線の延長上にいて、戦後直後は。一生懸命擦り寄るんだけれど、擦り寄りきれない。朝鮮で、またドイツで起きたこともそういう側面が非常に強い。

A)
アメリカ軍の占領政策の転換は、アメリカの労働者階級のゼネストの敗北がそうとう影響している感じがする、このことは、今まで誰も言ってこなかったことを、このあいだアメリカに行って初めて聞いてきて、なるほどなと思った。まあ、これは本筋ではないかもしれないが。

B)
いや、それが本筋と関係があるんだ、そういう話が。そのへんのところを一度もちゃんと歴史的にきちんと位置づけて見てないから、たとえば、マッカーシズムはみんな知っているけども、トロツキストの視点から、マッカーシズムがどういう歴史的意味をもっていたのか、そのへんは、だれも気にしなかった。

A)
石垣綾子はマッカーシズムはファシズムだと言っている。彼女はアメリカのマッカーシズムを経験しているから。

C)
この頃というのは、さっきの労働党をめぐる諸問題のころからは7,8年でしょ、SWPの分裂から 5 年くらいだよね、SWP 自身の分裂がどう総括されているか、そのときどういう論争があったかが、また繋がる。

D)
SWPの論争、トロツキーの場合は歴史的な情勢の根本的性格から解き明かしているわけだ、で、シャハトマンやバーナムの反対派の側は、今ある大衆の意識がそういうふうになっていないじゃないか、いうことでもってその方針を(批判する)、だからものすごく大衆追随的・迎合的な立てかたになっている。
 そのまあ違いなんだけど、問題はトロツキーの、いうところの歴史的な根本的情勢の性格が、トロツキーが構想したように、危機が世界的に合体して世界的危機の根本がアメリカの危機へと転化していくと捉えたわけで、全世界の危機がアメリカの危機へと集約されていくという、情勢の根本的性格を捉えて、今始まっているCIOの爆発はまさしく世界危機のアメリカへの直撃なんだと、そのことによって展望は革命的にならざるをえない、現にある大衆の意識がどうあれ、大衆の意識は一挙に革命的に発展せざるをえない,それを、現にある意識に順応しようとすれば、必ず大衆はそれを乗り越えていってしまう、という捉えかただよ。だから、このスローガンの提起のしかたの根本は、トロツキーのほうが正しい、方法論的には。
 にもかかわらずというか、だから、シャハトマンのように、現にある大衆の意識うんぬんで論争したってダメなわけであって、トロツキーの側の根本的情勢の捉えかたが正しかったのかどうかについて検討しなければならなかった。
 ただ付け加えていえば、シャハトマンもバーナムも危機であるということは認識している、第二次世界大戦に向かう世界危機であると、ところが大衆は全然革命的にはならない、このギャップに引き裂かれたんだよシャハトマンは、だから、第四からの離脱する要因はその二律背反にあるわけだ。結局のところ、ソ連も労働者国家ではなく国家資本主義であるという論に転換していくわけだ。バーナムの場合は経営者革命論で、アメリカのいわば資本主義は旧来の資本主義とは全く修正された、新しい資本主義であると捉えて、これをある意味では革命的なものとして捉えて経営者の側に転向していくわけだ。最初はトロツキストの自己矛盾、大衆は革命的にならない、しかし情勢は危機だと、この二律背反のときから第四に言わば疑惑をもった、でトロツキーを批判して、もう一度第四インターの綱領・立場の根本的な批判へと発展して、第四インターから脱落していった。バーナムは最終的には経営者の理論的先端をいく役割を果たす。
 彼らがなんで分派闘争から転向していったのかといえば、アメリカ資本主義を捉え切れなかった結果として転向していったのだと思うが、根本はトロツキーの情勢をどう捉えるか、トロツキーが言った情勢が、この結果を見て正しかったのかどうか、というところから捉えられなければならない。
 トロツキーの場合は、「アメリカとヨーロッパ」から一貫して方法論的に、次の第二次世界大戦にむかう世界危機の構造というのは、たしかに二重的な危機の性格を持っている、一方は経済的に発展するアメリカがあり、、一方には衰退する旧資本主義のヨーロッパがある、で、この衰退の側が危機を作り出している、アメリカは発展しているが市場を見出せない、市場の側が衰退している、大衆市場を失っている、だから過剰生産に陥って金融恐慌に転化している、発展したが故に危機に陥っていく。いわば、二つのこの発展と衰退が、第二次世界大戦にむけて危機として合流して行く、ないしはヨーロッパの衰退と危機がアメリカの危機へと還流していく、流入して、最終的にはアメリカ危機へと集約される、そしてアメリカ危機の爆発へと、こういう考えかた。
 そこからファシズムの危機とニューデールの危機とは同じ延長線上にあると捉える。ファシズムはヨーロッパの危機を母体として発展する、その延長上にアメリカの危機が合体していくが故に、ニューデールの危機がその延長上にあって、同じ通路のうえにあるものとして捉えるわけだ。だからこれは、明らかに前期資本主義の危機が後期資本主義の危機としてのアメリカ危機へと転化して、全世界的危機へと転化するのだ、第二次世界大戦の危機はアメリカもヨーロッパもひっくるめた資本主義の危機へと転化していく、で、最終的にはその革命的ヘゲモニーはアメリカのプロレタリアートが握っている、全世界の永久革命としてのヘゲモニーは。
 こういう考え方から、アメリカ労働者党をいかに前もって準備するかということが重要だというのが、トロツキーの必死の提起だった。だから、世界永久革命論のいわば最後のかなめをオルグするという、ここんとこが一番肝心なんだと思ってトロツキーは乗込んでいって、シャハトマンとも喧嘩し、「マルクス主義の擁護」で必死の闘いを展開した。
 トロツキーは「戦争と第四インターナショナル」の論文の中で、前期資本主義の危機としてのヨーロッパの危機を反革命的に克服するものとして、ドイツがヨーロッパをファシズムとして組織する、それに対して、資本主義全体の危機をアメリカが世界の資本主義を組織する、ドイツはヨーロッパを組織し、アメリカは世界を組織する、これの激突が資本主義の全体の危機への転化と捉えた。
 ところが、ファシズムが確かにヨーロッパを席巻し、ヨーロッパの危機に基礎を置いた爆発として登場してくるわけだけれど、それに対抗してルーズベルトが展開した反ファシズム戦争というのは、大衆にとってどういうふうに見られたか、。そこで、危機の二つの性格が、いわば戦争論にもっとも集約的に政治的に現れる、ファシズムというのは人民を虐待するものとして登場し、それにたいし、アメリカの側の戦争は民主主義を防衛するものとして登場するわけだ、ルーズベルトの戦争は。また同時に、人民戦線はアメリカどソビエト連邦の合流なわけだ、アメリカとソビエト連邦が手を結んで反ファシズム統一戦線・人民戦線を結んだ、だから後期資本主義のアメリカと労働者国家ソビエト連邦が合流してファシズムに対抗するという形で戦争が成立ったわけだ。
 そのことによって、ルーズベルトにたいするプロレタリアートの見方というのはどうなるか、人民戦線の一翼なんだ、ニューデールは。スターリニストはアメリカでは弱いにもかかわらずそれが大きな影響力をもって、ルーズベルトを支持する人民戦線政策がCIOの爆発的戦闘力をルーズベルトにくっつける。ちっぽけな組織だが、強力な接着剤の役割を果たす、ルーズベルトを見る大衆の意識が民主主義防衛派として、ファシズムとの対抗上、見るようになる。人民戦線政策はCIOを民主党に吸収させていき、第四インターが孤立する。これはアメリカプロレタリアートがルーズベルトを民主主義の防衛者として見ただけではなく、フランス人民戦線、中国の延安に至るまで、そういう幻想、ソ連邦とブロックを組んでヒトラーと戦争をやっているわけだから、ソ連邦に援助をしているわけだから、そういう意味では強烈で、ファシズムと同一線上にある危機としてではなく、ファシズムから世界人類を救済するものとして見られることとなった。
 戦後でも、危機の救済者としてアメリカ占領軍は登場したわけだ。勿論ソ連邦もそうだが。こういうわけで、ファシズムと同列に見る意識は全然成立たなかった。そういう意味で、トロツキーのこのファシズムとニューデールを同一線上に見る見方が、危機が時期的に早い遅いはあるにしても、大衆を捉えられなかった根本的要因であった。
 結局のところ、前期資本主義の危機が後期資本主義としてのアメリカを包囲して、輪をだんだん縮めて最後アメリカの危機へと転化するというこの捉えかた、たしかに、戦後直後はアメリカは国内に於いては激しいストライキはあった、だが爆発的な危機はなかった、ストはそれはどこでもあった、しかし革命的危機はなかった。
 マッカーシズムが出てきたのは、全世界の革命的逆包囲が、アメリカにものすごい恐怖を与え、特に中国革命の激動だとか、これは日本をひっくるめてアジアの危機へ加速度的に発展するのではないか、という客観的可能性、この危機感はものすごい引き締めを、反共・レッドパージを国内的にもやり、世界政策としても反共政策へ転化する。それまではニューデーラーが中心となって世界政策、だから日本国憲法などその産物なんだけど、その後中国革命・朝鮮戦争をさかいに反共政策にガラっとかわる、特に植民地革命がそう、ヨーロッパでもフランスやイタリアなんかが危機で、共産党が閣内にトリアッチとかが入っていた、それが47年からいっきに変わっていく。そういう意味ではこれらの危機によって、アメリカの資本主義の発展が、ヨーロッパを中心にした旧資本主義の危機によって引きずり込まれるのとは、逆の作用が起こったわけだ、すなはち、マーシャルプランやドッジプランによって、アメリカがその発展した経済力でもって援助することによって、資本主義を逆にアメリカ型のものに作り変えて発展させるという要因に力関係は働いた。

C)
実際に、戦後のところを見るとトロツキーの予測したように、植民地革命の勃発とかヨーロッパが崩壊して共産党の力がグッと伸びてくる、ヨーロッパの危機の構造がアメリカ内部にも起こり、その危機の構造に引っ張り込みそうな状況が生まれたわけだが、そのときにアメリカ資本主義がそれに対応する力があったということで逆転が生まれる。

D) .
だからマッカーシズムが登場するときは本当に危機を感じていたんだ、それが現実にはアメリカ危機へと貫徹することなく逆転現象が起こってくる。

C)
ややこしいのは、まえD さんが言っていたが、過渡期だからアメリカ資本主義の側にもできあがった戦略はない、起きてくる危機に一つ一つ経験的に対応する巾で克服しながら、戦略体系が出来上がったときは、たぶん後期資本主義がこんど壊れるとき、・・

B)
戦略的な体系はたぶん60年前後にピークを迎えると思う、世界を組織するアメリカ型資本主義として。ただ意識としては遅れるから、キューバの革命で危機感を抱き続ける。戦略的には、例えば、OECDとかが本格的にいわゆる発展途上国に援助をしながら、アメリカの場合はヨーロッパと南米を決定的に自分の懐に抱える、しかし意識としては遅れる、目の前でキューバに革命が起きるんだから。アジアでは中国革命の影響でずっと遅れる、というわけで、基本的な戦略は、50年代いっぱいを通じた基本路線として、つまり、援助をしてアメリカ型に再組織することによって、資本主義をその地域に安定させる、このパターンは特にヨーロッパと日本で、マーシャルプランやドッジプランが成功する中で形作られたんだと思う。

D)
この時期で決定的なのは、朝鮮戦争で朝鮮革命を半分で阻止したことだ、中国義勇軍が中国革命の勢いをかって怒涛のように押し寄せ、韓国軍を一挙に追い詰める、でアメリカが全面的に入ることによって今日の休戦ラインまで押し返した、これでアメリカはほっとしたと思う、そこで反共軍事包囲網が作られた。、あの攻防、朝鮮戦争は中国革命がアジア革命に発展するのか、逆にアメリカが押し返して、反共包囲網を作ろうとするのか、この攻防戦の、やはりテストでもあった。そして膠着状態におちいる、その膠着状態が 55年体制を作るわけだ。日本では、朝鮮特需による神武景気から高度経済成長が始まる、あの攻防で決まったわけだ、55年体制は。だから、それ以降、アメリカ型資本主義への作り替えが、先進国では可能になったわけだ。ただ、後進国では、膠着状態の延長上に、まだ動乱がずっと続いていた。キューバ・ベトナムに至るまで、60年代終わりまで、いわゆる後進国では続いた。だが、先進国に於いては、もはや作り替えが 60年代に於いて形成されはじめている。ド・ゴールによる EC 体制や、日本では池田・高度経済成長にはいって、経済的な安定を作り出していた。
 この流れが第四インターを真っ二つに分裂させたわけだ。この 47 年頃のマッカーシズムの危機感から始まるいわば資本主義の側の反撃、この時期、、アメリカの SWP の戦後第一回の大会が開かれる。これは、勿論キャノン派が招致したから、このトロッキーの過渡的綱領に至る認識の延長上に大会の方針を立てていた。その、いわば路線を国際化したのが第三回大会の「来るべき対決」の路線なんだ、いわばパブロ路線と言われているけれど、第三回大会の路線は SWP も含めた全会一致なんだ。そこまでは、戦前のトロツキーの路線をそのまま戦後にあてはめて展開した、それ以後だよ、朝鮮戦争で膠着状態になり、先進国では援助によって経済回復をやり、後進国では危機が連続する、だから、いわば周辺革命論のパブロ派と先進国革命のキャノン派に第四インターが分裂するのは。だから、三回大会以降に分裂する。だから、トロツキー路線の最初の挫折の現象は、アメリカ労働者党の失敗だよ、これが最初の、その路線が正しいかどうかの検証だよ、まあ、あとから総括してだが。

C)
あそこで、シャハトマンらが指摘している、労働者階級の意識がそこにいかないという現状と情勢のずれの問題が、資本主義の問題として深められていたら全然違っていただろう。

D)
バーナムが資本主義の問題として深めて絶賛したんだよ、アメリカ資本主義を、これは革命の対象ではないと、逆に資本主義の発展そのものが革命だと。「経営者革命」、資本家の当時のバイブルになったわけだから。この現象はなんなのか、アメリカの資本主義は旧来の資本主義論では捉えられない事態になっているのではないか、というふうに、旧来の資本主義論を展開したトロツキーにたいして、どうもそうでもなさそうだという最初の感覚から、それを研究して、「経営者革命」を著わし、資本主義の賛美者になった。
 こっちの側もすぐにはスッキリとは、わからないわけだ、全世界の前期資本主義の危機が、アメリカの危機へ転化するかも知れない状況というのがあちこちにいっぱいあったわけだから、だから経験的に一つ一つ確かめながら、55年体制に至ってはじめてアメリカの側が逆に資本主義の危機を救済したということが、トロツキーが死んで何十年後にはじめて結論づけられたわけだから、そのあいだの状況は、スッキリとは結論が出ない、だから、いわばトロツキーの権威があってその路線が戦後もずっと引き継がれた。
 ただ現実は、資本主義はヨーロッパでも日本でも回復していく、トロツキーがいうところの革命的危機というのはアメリカに行くというよりも、植民地革命いう領域に限定されて発展していく。だから植民地革命派と先進国革命派が綱領的対立をおこし、こういうことになってはじめて、もういっぺん見直さなければならないということになった、だけどベトナム革命は続いていた、だから70年代までしがみついていたわけだ、まだ可能であると。

C)
そしてそれがそのまま南ヨーロッパ革命へと?

B)
いや、というよりも、ベトナム革命とあわせてもうひとつ東欧での反乱があるわけで、それがトロツキーの政治革命の展望と重なるもので、俺はそういうのがあるから「きたるべき対決」のあとは「スターリニズムの上昇と衰退」、労働者国家の問題のところにいくわけで、その両輪がトロツキーの旧来的な理解のしかたでもそれなりに分析できるが、肝心のヨーロッパのフランスやイタリアみたいに回復しちゃったところ、特に著しいドイツや日本、いったい何なんだ!、というところを、ある意味では見ないことに、あるいはちょっと置いといて.・

D)
 置いといて、というより、それは見直さなければということで、マンデルは見直しを始めたんだよ、マンデルはパブロ派でトロツキーの延長上で捉えていた、現実は高度資本主義の側はアメリカ的資本主義として経済的発展を続けていたわけだから、これは見直さなければならない。次にその発展の結果としての危機はどう現れるのかということを見直さないと、植民地革命だけの延長上に世界革命は成立たない、と考えてその危機の展望を立てようとした。
 で、フランス 5 月で新しい資本主義の新しい危機が青年労働者を中心に爆発する、ちょうど、たまたまチェコに危機が起こり、ベトナムは依然として続いていた、だから三セクター論という新しい世界革命論が、この、発展が不均等だが、三っつの革命が合流する三セクターの永久革命、すなはちマンデル理論が70年代第四インターの綱領的指導者として登場した。
 これは、高度経済成長をとげたアメリカ型資本主義に作り替えられたものを分析し直して、その危機の延長を捉え直す、これが100%できたかどうかは別にして、そういうふうな問題意識で捉えたから、7 0年代以降も革命の性格について、正しかったかどうかは詳しく総括しなければならないが、革命の一定の綱領的結論を提起することはできた。
 S の場合は植民地革命派として、先進国の労働者はブルジョア化してこれは問題外だと切り捨てて、植民地革命のみが革命的前衛であるとした、それが唯一の展望であるとして立て、これが基本的に70年代の日本支部の性格を作り出してしまう。
 日本における先進国革命派、これはいわば西派、旧関西派でプロレタリア派、60年安保まで、第一次第四インターを組織した、その時は学生運動は勿論基盤だったが、革同・高野派といわれる、日教組・国労・炭労こういうところの草同派が主導権を握って戦闘的な労働運動を展開していた、だから「労学提携」という形で労働運動のヘゲモニーのもとに、学生の先駆論ではなく、プロレタリアートの戦闘的枠組みと学生がブロックを組んでゆくと立てた。60年以降は国労が新潟闘争で敗北し、日教組は勤評闘争で敗北、炭労は三池で、と戦闘的流れは全部敗北していく、で、高度経済成長でJC が登場するという状況の中で、いわば先進国革命というかプロレタリア派は、理論が抽象化されていく、労働運動の本流が右傾化するから、そこに希望をもって結合しようとすると自分が右にいかなければならない、右にいくのは自分の理論と背反していく、だから抽象化していく、観念的になり、だから大衆の感性を捉えられない、だから孤立していく、第四インターの中でも孤立する、こういう状況になった。関西を中心にその流れがあった、が、それでも、基本的には大衆と結びつこうとした、それが構造改革派に流れた、関西には構造改革の流れが労働運動としてあるから、その流れと結合してしかもそれを理論化しようとした、だから、どうしても理論的にはトロツキー路線から離れざるをえない、構造改革路線に接近せざるを得ない、どうしても、それで消滅した。もうお手上げ、加入戦術していた社会党からも出られない、プロレタリアートもそうなり、理論も対応してそうなったんだから、社会党から闘争して出ることができない、理論闘争ができない。という形で結局消滅してしまった。
 一方、S の方は、植民地革命のほうに最後の希望をもってすすむ、これがどうして軍事力学主義になるのか、それはプロレタリアートの内在的革命的発展と結合できない、ゲリラ闘争を戦っているわけだから、軍事包囲網というかたちでアメリカの反革命軍と戦って勝利するこの力学しか、いわば攻防というのは考えられなくなる、だから政治力学主義・軍事力学主義という論理になり、最後には労働情報は捨てるということになる。こうなると、もう感性なんだよ、三里塚闘争に役立たない、右傾化している、ということで切り捨てる、感性がそこまでいく、こういう繋がりかたになってしまう。ま、70年代同盟、各潮流の動きの根拠というか背景はこういうものだった。

A)
YさんはSを軍事力学主義といって批判するね。

B)
傾向としては、70年代同盟の中にあった、S はおそらく、70年代世界組織の再建はマンデルのイニシャチブだが、彼自身はマンデルの左を張っているつもりだったと思うけど、日本支部というのは最も強硬な反マンデル派なんだよね、世界大会にいくと、それが日本支部の主流をなしている、でも、「でも、どうかな・・??」という部分がメンバーとしてずーと居る・・

D)
M は関西派なんだよ、だからプロレタリア派なんだよ。でもプロレタリアートと言ってもものすごく抽象的になるし、現実の基盤がないし、現にあるプロレタリアートと結合しようとすると、関西では右に行かざるを得ない、だから、一時期、そこから外れて関東にくる、いうかたちで生き延びたんだよ。俺なんかもそうだよ、生っ粋の関西派だよ、西派なんだから。だからプロレタリア派で労働情報にずっと注目し続ける、そういうふうになってくる、生き延びた連中は。だけど現実に生きようとすれば急進主義と折り合いを付けなければならない、妥協していくという柔軟さが生き延びる手法だった、喧嘩したら一発で方向を失って、どっかで脱落するということになっただろう。ベトナムしか無かったんだから。

B)
今日のCのレジュメにもあるけれど、労働者党の展望の挫折というものについて、トロツキーはまとまった総括をする前に殺され、「帝国主義衰退期における労働組合」で総括をしなければという意向が少し残っているだけだ。後は、第四インターの歴史のところで、一研で言えば次のサイクルのところで、論争をもっと詳しく検証しなければならないが、戦後の再建三回大会とその後の分裂、論争のけりがハッキリついていない、マンデルがとりあえず出したところで、お互いがちょっと妥協して、いっしょになる、勿論、それが情勢なんだと思うが、つまり植民地革命の高揚という局面があったから。そういうところまでいかなければ体系としては出来上がらない。

D)
たしかに、トロツキーは、アメリカは資本主義として発展しているにもかかわらず世界的な規模に於いて、ま、いわば経済が発展すればするほど、資本主義の経済基盤は国際化せざるをえない、国際化する基盤は危機の資本主義に国際化するわけだから、危機にその足を伸ばして行くことになる、その危機が逆にその足を通じてアメリカに危機を発展させる、いうかたちで危機が世界的に合体するという考え方、結論としては、結局、レーニンの帝国主義論の路線を基本的には修正しないということになり、戦争を内乱へという、特に国際的内乱へと転化していくという革命の、第二期永久革命論、第一期というのはロシア革命からヨーロッパ革命へで、三・四回大会以後だよ第二期の永久革命を提起したのは、基本的にはレーニンの帝国主義論から出てくる革命的な結論というところを、組み立て、その論を基盤にしたんだけれど、
 にもかかわらず、トロツキーには圧力がものすごく加わるわけだ、現実にロシア革命と同じ方式でアメリカ革命をやろうとしてもできない、現実はそういうようには成っていないではないか、という意見が、シャハトマンばかりではなく、いろんな所から、現実に携わっている人たちから出てくる、そうなると、その意見を取り入れて理論化しなければならない、そこでトロツキーにも変化が出てくる、全面転換ではない、がレーニン路線のそのままの延長上にはゆかないな、いうようないわば改良、特にヨーロッパの先進国革命を手がけて、東欧はともかく、ヨーロッパの先進国革命はロシア革命の延長上にはうまくいかなかったという経験、各国の共産党の抵抗やらで、アメリカにのり込んだらもっと抵抗が激しかった、そこで路線の改良、グラムシの機動戦から陣地戦へという概念に似ているけれども、トロツキーは社会革命という概念をおおいに取り入れた、だから、ロシアなんかは社会改革というのは問題外だよ、あの前近代的な独裁体制では、とにかくプロレタリアートが権力を握って、権力をもって改革する以外にない、だから権力を握ることがある意味では全てであるという、プロレタリア独裁の強固な理論があったんだけど、先進国では、とにかく権力をとなれば革命派は極少数になり大衆の現実の生活から浮き上がってしまう、ということで、日常にある社会矛盾をどう改革するかというところに、ずーと接近しなければならない、革命家は革命の大局を言っていればよいのではなく、現実の日常に接近してそこから、それを改革することから大衆の支持と多数獲得の基盤を形成して、その改革者としての力をどう発展させて革命につなげていくのかいうふうにして、階級の多数を獲得して権力奪取をなしとげ、権力奪取した後も民主的運営できる基盤を獲得する。こういう考え方にずーと変化していると思う。
 過渡的綱領というのはそういう性格を、ロシア革命の体系ではなく、新しい、先進国革命を含めた革命の路線を取り込んだものであり、体系化はできなかったが、そういう要素をいろんなところから取り入れて展開したのが過渡的綱領の性格だとおもう。
 だから第四インターを形成するときのトロツキーの苦闘、蓄積、ここらへんのところを、70年代同盟というのはある意味では第一次永久革命・・ロシア革命からヨーロッパ革命へという、あの時期のトロツキーによるレーニンの原則に戻れという、スターリンとの闘争で、この繋がりかたのところで展開した・・その延長上に自分ら自身を立てて、レーニンから独立してトロツキーが左翼反対派から第四インター創る苦闘の中から、部分的ながらも摂取してきて過渡的綱領に到達したこの過程の本質を70年代同盟は全然理解しなかった。
 で、そういう意味では、三里塚闘争の方式や労働情報に対する最後的な対応もそうだし、危機に陥ったとき、後退戦のときの粘り強い大衆の日常性に結合できなくなってしまう。大衆が部分的であれ、突撃しているときはいいが、旗を振っていればある意味では役割を果たせるわけだから。大衆がずーと後退している時、この時に大衆と結合して粘り強く次を準備する、これは三・ 四回大会から始まって・・トロツキーの過渡的綱領に到達する、あの経験を全然主体化できなかった。三里塚で棒をもって突撃するエネルギーはあるけれど、職場に帰って労働者を説得し獲得することは全然できない、三里塚闘争をやったらボカボカに浮いて、でもって三里塚闘争を理解しないといって大衆を恫喝する、そういう急進主義の性格というものが何で70年代同盟に生まれたのか。このところの問題に根拠がある。それはまだ中間的にしか、トロツキーは経験的にしかつめられなかった、根本的にはその延長上でしかなかったがゆえに、戦後の三回大会路線が出てきた。

A)
しかし、70年代同盟というのは、世界の第四の中では特異な支部、理論的にも・・

D)
いや、世界的には中間主義だよ、ラテンアメリカのボサダス派がある、これはゲリラだよ、先進国プロレタリアートなんてナンセンスだ、農村ゲリラに徹していけというやつで、マンデルなんかは転換して、先進国、ヨーロッパ革命の特にフランスの5月を基礎にして戦略・戦術をプロレタリア革命へと組み立てる、日本の場合は後進国革命なんだけども同時にプロレタリアートの組織化いうものも結合してやろうとするわけだ、だから俺等の位置もあるんだ、俺の位置もあればSの位置もある、プロレタリアートのほうを俺がやり、急進主義運動のほうをSがやり、Kがそれを結合し使い分ける。これでやってきたが、PBが若手に移行した段階でプロレタリア派がいなくなり、Kが追い出されることになる。ものすごく政治的だよ、典型的な政治力学的な動きだと思う。

B)
中間主義でなかったら今頃中核とー緒になっていただろう、新時代社は。

A)
なんでそんなことを聞いたかと言えば、フランスの反失業運動をやっている活動家にインタビューをしたんだけど、時間が無いから英語で質問してくれといいながら、逆に第四の日本支部の現状にたいする質問ばかりされてしまった。 ・・適応力はフランス支部は持っていたんだよね、世界革命戦略は一旦なくなってしまったんだ'けど、現実に起きている新しい社会運動、ここに注目しなくちゃというのは、70年代から始まった社会運動に適応する能力は持っていたんだよね、そこにフランス支部が対応し、その過程の中でもう一回労働運動と再結合やって、その社会運動を基礎に新しい労働組合運動を作りあげてくる、その場合のキーワードは徹底した組合民主主義や女性の問題だとかみんな入ってくる、で今は、他のフランスの左翼はみんな駄目になって、フランス支部しか左翼は残っていないから、数は倍増している、こういう構造になっている、これが私の実感で・・。日本の場合は、確かに新しい社会運動は起きていたんだけれど、三里塚だよ、S の理論の中からは、その新しい社会運動、フェミニズムなんか含めて、そういうものが日本にもあったにもかかわらず、その方法論に接近することができないまま、蹴散らして、女性差別問題が起きて、で、階級は後退戦に入る、フランスも後退戦に入っていたんだけれども、・・という感じが非常に強い・・

D)
だから日本の支部の場合は理論的には「レーニンに帰れ」なんだよ、だから前期資本主義の攻防を正当に表現していない、レーニン・トロツキーこそロシア革命の正当な継承者であるという「レーニンに帰れ」なんだ、ところが問題は、我々が支部を作った頃はもう後期資本主義が始まっていたんだよ、その新しい矛盾がどんどん出ていたんだ、それに対応しなければならない、ところが「レーニンに帰れ」といういわば過去の正当性というものを主張する、だから現実の攻防の性格に合わないところがいっぱい出てくる、だけどこれを固執するから、抽象的なものにだんだんなっていく、
 ヨーロッパの場合は何が原則かと言えば、マンデル理論が原則なんだよ、レーニン・トロツキー派の今日的理論はマンデル理論であると、こうやって新しい学生が理論的に武装されたわけだ。だからいわば後期資本主義の矛盾に対応しようとするマンデルの理論に武装されているが故に、後期資本主義の社会的矛盾への対応力は理論的に保証されている。
 日本の場合は、女性差別なんかは頭にもない、ロシア革命の時期はそういうことにはまさしく鈍感だったわけだよ、だからものすごく軽視する、新しいエコロジーだとかフェミニズムだとか後期資本主義が生み出した部分について、それをかっての理論に照らし合わせれば問題にもならない、問題はこれだと、プロレタリアートのこれだ、革命的党の問題だと、こういう言い方で切り捨てる、その違いが噴出して対応力をもてずに、荘然自失してしまう。どういうふうに捉えたらいいかわからないわけだ、理論的に組み立てられない、ところがマンデルの方の組み立てからすれば、理論的な組み立てが可能な思想なわけ、資本主義論として分析したから、その違いはあったと思う。


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