第3期 戦前戦後を貫く「日本的雇用システム」の解明・総括 第4 回


                             2014・7.26

 

『日本の雇用と労働法』 濱口桂一郎

 

W 労使関係システムと法制度(P148)

1 団体交渉・労働紛争システム

(1)労働運動の展開

 @労働運動の発生

  ・明治期 労働条件が劣悪であったり、特に職工の待遇が不公平であったりすると不満が爆発して紛争に

 

日本近代成立期の民衆運動ということで、同時期の労働運動を見てみます。

 明治19年6月14日、山梨県甲府の雨宮製糸工場でストライキが起こります。

 2月に山梨県が製糸業組合準則をつくり、区域の業者はこれに基づいて同業組合を作って規約をさだめ、実施します。

 それにより、人員が114人とも198人ともいわれる雨宮製糸ではこれまで実労14時間労働だったのが14時間半に延長されました。賃金も下げられます。

「……女工連中は腹をたて、雇主が同盟規約という酷な規則をもうけ、わたしらを苦しめるなら、わたしらも同盟しなければ不利益なり。優勝劣敗の今日においてかかることに躊躇すべからず、先んずれば人を制し、おくるれば人に制せらる。おもうにどこの女工にも苦情あらんが、苦情の先鞭はこの紡績場よりはじめん、と言いし者あるやいなや……」 (『山梨日日新聞』) 一斉に職場を退場して、付近の寺に立て籠って大会を開きます。

 会社はこの事態にあわて、首謀者と協議の上、@出場時間を1時間ゆるめること、Aその他何らかの方法で優遇策を考えると譲歩し、女工たちの大勝利のうちに解決します。

 この他にも製糸工場でストライキが起きます。

 また、炭坑においても、蒸気による巻き上げ機の発達で竪型に坑道が掘られるようになり、石炭が地中で大量に掘り出されるようになると爆発事故が頻発します。そのような過酷な労働に坑夫たちは暴動を起こします。

 徳富蘇峰は労働者のおかれている状況に関心を示し、論文を発表して啓発します。

   

   cf.1898年の日本鉄道機関方のストライキ

 

 労働組合期成会の9割が、東京砲兵工廠、鉄道関係、逓信省施工場、東京紡績場などの鉄工組合であった。

 片山潜と西川光二郎の共著『日本の労働運動』には、99年4月に創立された日本鉄道矯正会を「交戦的労働組合の標本」、11月に結成された活版工組合を「調和的労働組合の標本」と評している。

民営企業の日本鉄道矯正会は火夫、機関方が待遇改善の要求をかかげたストライキを通じて創立された。そのきっかけとなったのは、99年2月に各駅の機関方にまかれた文書。「27年、8年の(日清)戦争中に鉄道従業員は準軍人とみなすとされ、辛苦して軍隊輸送の任にあたったのに、どれだけの待遇をうけたか、駅長、助役は20円、50円と賞金をうけ、保線課では甲乙の別なく増給したのに、機関方、火夫はなにももらえず、『馬』とよばれ、駅員の一言によって遅れ時間を取り戻すために、まるで馬車馬のように運転しているではないか、と訴えていた。そして『待遇を改善すること』、『機関方、火夫一同臨時昇給のこと』、『機関方を機関手に、心得を機関手心得に、火夫を乗組機関生に、掃除夫を機関生に、……名称を改むべきこと』を要求し」と書かれている。(大河内一男 松尾洋著『日本労働組合物語』)

 このころ日本鉄道会社には1万200人働いていたが、機関方、同心得、火夫取締りらは日給制の雇いであった。

 結果として「一、機関方および機関方心得を三等役員(書記、技手、駅長、助役など)に列すること 一、機関方以下の名称を改むこと 一、増給は相当に詮議すること」(『日本労働組合物語』)を実行させ、争議は労働者側の勝利となり、矯正会を創立された。

 「従業員の中の機関士、火夫常務雇員全員約1千人をもって組織し、『館員たらざるものはともに業につかざること』として、いまでいうクローズド・ショップ制を確立した。」(『日本労働組合物語』)

 しかし、共済活動の救済手当て制度の財政悪化で活動は衰退していき、1901年、「お召し列車」の追突事故未遂を口実に警察から解散を迫られ、応じた。

 

  ・高野房太郎は、労働組合期成会を設立  ジョブに基づくメンバーシップ 

 

アメリカに出稼ぎに行っていた高野らは帰国し、1897年7月、労働組合の奨励と結成のために「労働組合期成会」を設立した。労働組合のあり方は、AFL(アメリカ労働総同盟)に倣った職業別組合(Craft Union)で、性格は「産業の発展は資本と労働の並進に求むべく、其の調和によりて振興するを得べし」であった。期成会の主たる活動は演説会だった。

機関紙『労働世界』第1号は叫ぶ。「労働は神聖なり」「団結は勢力なり」。

12月、日本で最初の近代的労働組合である鉄工組合が砲兵工廠の職工を中心に結成され、さらに翌年日本鉄道の機関手・火夫らによって日鉄矯正会、活版工組合などが結成されていった。会員は99年末には5.700人におよび、そのうち鉄工組合が多くを占めた。

「工場内で第一に賛成して来た職工は主に上等職工であって、往々工場内に於て職工の上に全権を取って人の上に立つ者、故に其工場内に運動するに於ても大いに都合が宜い。それだから工場主もそれ程反対を為ない。従って3600人の労働組合員は皆立派な労働者にして純粋な職工であって、傭とか若くは新参者と云うような者は極く少ない」(片山潜)

 

 A労働運動の激発

 

  ・1905年から07年にかけて各地で労働争議  大企業を中心に直接管理体制へ

 

しかしこの頃はすでに職工−職長と技術官はコースが分断されていた。

組織者としての高野の認識とは別の、労働者にたいする市井の認識を紹介しよう。

 「現代(1900年ごろ)では労働者といえば何かにつけて問題となり、世の注意を引くほどにも数も殖えたが、その時分の職工で通っているのは砲兵工廠の職工位だった。……当時砲兵工廠は失業者の収容所だった。田舎で財産を失い、土地を失った百姓の子弟が、今日東京へ出て電車の車掌となるように、当時の失業者は大部分砲兵工廠に身を寄せた。賃金は相変わらず安いもので、初めは日給25銭、よくなって35銭のものだった」(生方敏郎著『明治大正見聞史』)

 

  ・1912年に鈴木文治、友愛会設立。友愛会は親睦団体から職種別の支部からなる労働組合へ。大日本労働組合総同盟友愛会。横断組合。

 

   「自分たちも企業の中で人格を持つ人間として認めてほしい」

 

1919年のベルサイユ講和会議は「国際的立場から労働条件を調査し、及び国際連盟と協力しかつその指示の下に右の調査及び考慮を係属すべき常設機構の形式を勧告する」とILO創設にむけた国際労働法制委員会設置を決議した。

委員会は35回開かれ、ILOの創設と「国際労働規約」に盛り込む社会正義のための「一般原則」を決定した。その第一は「締結国は現に労働が単なる商品と見なさるべきものに非ずと認めるが故に労働条件を規律する方法及原則にして……」とうたった「労働非商品」である。さらに団結権の保障、最低賃金制、1日8時間・週48時間、毎週1回の休日、年少労働禁止、男女同一労働同一賃金、移民の自由、労働保護監督制度の9原則をうたった。

 この委員会に日本代表として途中から友愛会の鈴木文治が参加した。6月28日国際労働機関(ILO)が設立された。

 

 B戦闘期の労働運動

 

  ・1930年代、総同盟は産業協力運動を展開、協調的な労働組合と労使協定を締結する企業が増える。

  ・中小企業分野にも工場委員会体制が拡大。

   工場委員会とは、企業の中に使用者と労働者の双方から選ばれた委員からなる機関を設け、作業方法や労働条件などについて話し合う機関。

   この流れを受ける形で1938年以降、産業報国運動が展開

  

 

 

業績による賃金確定制度はいつ頃から始まったのだろうか。

 38年産業報告会が結成され、労働者の組織も「皇国」への協力が強制されたが、41年9月には産報運動の目標として生産増強が掲げられた。

 「皇国勤労観」は「大日本産報は、41年11月、パイロット万年筆の工員月給制度を紹介するパンフレットを発行したが、そこには、職員にならって生産現場の労働者についても、『功利心』を刺激するような請負制を廃し、年齢に応ずる基本給を主体にすえた月給制を導入し、生活確保をはかるのが『人を人として取り扱う』道であり、職分奉公の精神を振起しようとする産報運動の指導理念に適うのではないかという思いが込められていた。つまり、月給制への転換をはかることによって、『経済人』から『職分人』への転換を促そうと追いのであった(広崎真八郎『工員月給制度の研究』1943年)。」(兵藤サ著『労働の戦後史』上)

 経営者は企業の自主性保持を盾に抵抗した。

しかし戦局が重大化し軍需生産の急増を求められると、「政府は、42年の重要事業場労務管理令の施行にあたって、少なくとも年1回従業員全員を昇給せしめることを盛り込んだ昇給内規を設けるよう指導した。さらに翌43年3月、政府は『賃金対策要綱』を閣議決定し、緊要事業場とされたものにもこの方式を導入しうることとした。これは、請負賃金製、奨励加給制の併用を認めながらも、『年齢、勤続年数ニ応ズル基本給制度』を確立し、『勤労者ノ生活ノ恒常性』を確保することによって、職分奉公の精神を振起しようとするものであった。だが、これに応じて昇給内規を設けた企業では、人事考課による昇給額に差等をつけてモラール・アップをはかることに力点をおいていたことも留意しておかなければならない。」(『労働の戦後史』上)

戦後の年功序列賃金制度はこのようななかで確立していった。

 

 C終戦直後の労働運動 

 

  ・工職混合企業別組合への大勢に流される。1企業1組合。

 

 戦後の労働組合は、インフレがすすむなかで生活保障の闘争として公務員は職場ごとに、旧軍関係の輸送、通信などを完全掌握していた事業体はそのままの機構に労働組合を結成した。自治労、教組、国労、全逓などである。

民間は財閥や巨大企業を中心に、内部で自然発生的に企業別組合やその連合体を結成していった。たとえば三井鉱山、三菱重工、東芝、日立などである。

45年10月23日、政府はGHQの指令で「労働法制審議委員会」を設置、12月22日には「労働組合法」が公布された。

46年8月からGHQの指示で財閥解体の事務作業が開始されたといったが、財閥解体の前に財閥の事業所、工場単位でいわゆる「企業別労働組合」が結成されたのである。

46年8月上旬に日本労働組合総同盟(総同盟)、8月下旬に全日本産業別労働組合会議(産別)が結成されたが、半分以上の組合はいずれにも属さなかった。

 

  ・生産管理闘争

 

「このように生産管理は、戦後の労働争議の特徴として続発する傾向を示し、資本家を驚かせずにはおかなかった。資本家の驚がくと恐怖は、同時にときの幣原内閣を驚がくせしめたことは當然である。

 生産管理は果たして合法か非合法か――こうした新聞の大見出しが輿論を反映して、盛んに現れ出してきた。労働者は生産管理がきわめて建設的であり、しかも政府自身が見てみぬ振りをして容認している資本家の亡国的な生産サボを打破すると共に、資本家に代わって労働者が生産に努力し、この民族的破局を救わんとしているのだと主張した。資本家用語の立場に立った幣原首相も、資本家の生産サボを指摘されては、一方的な弾圧も出来ず、例の顔を一そう渋くした。しかし政府がそのままで労働者の圧倒的勝利の下に進められている生産管理を見逃すはずはなかった。」(『労働運動見たまま 第一集』労農記者懇話会著(時事通信社))

 

  ・労働組合運動よりも、工場委員会から産業報国会への流れが企業内従業員組織へ

 

 D急進的労働運動の挫折と協調的労働運動の制覇

 

  ・47年2月1日ゼネスト中止。

  ・公務員労働組合から団体交渉権と争議権をはく奪

  ・49年労組法改正  管理職の加入を認めず。労働協約の自動延長なし

  ・産別会議から民主化同盟

  ・50年、総評結成。

  ・レッドパージ

 

 1950年6月25日、朝鮮戦争がはじまると、警察予備隊(現在の自衛隊の前身)が創設された。

 戦争特需は部分的には景気を上向きにさせたが、賃金遅配や失業問題を解消しなかった。むしろ軍需支出が増大したため、失業対策費を削り、失業登録手帳の交付を制限した。職安労働者は職場に座り込んで大衆団交を展開した。これに対して渋谷、新宿の職安では警察予備隊が襲いかかり、ピストルを発射して弾圧を加えた。

7月28日の報道関係の労働者を皮切りにレッドパージ(赤狩り)攻撃が始まり、電力産業、官公労へとすすみ、化学、炭鉱、鉄鋼などの民間に吹き荒れた。

 レッドパージについてはたくさんの経験談が発表され、研究書も出ている。しかし在日朝鮮人労働者がどのような目にあったかに触れているものはほとんどない。

 

・反転攻勢に出た経営陣が合理化を断行。争議、敗北。

  ・左派が支配していた組合指導権が右派に。労使協調。

 

 E春闘の展開

 

  ・55年、日本生産性本部設立。

  ・55年、総評主導で春闘の賃金交渉方式が開始。=産業別レベルで要求額や闘争スケジュールを統一して、各企業ごとに賃金交渉を行っていく。

 

経営陣は、60年半ばになると新しい情勢に即応した労使関係」樹立のために「能力主義」を打ち出した。「もともとの発想からいえば、日本企業の国際競争力の弱さは間接部門の効率の低さにあるという認識にもとづいて、ホワイトカラーの人事管理の刷新を焦点にすえて打ち出されたものであるが、すべての従業員をその視野のうちに収めていたことはいうまでもない」(『労働の戦後史』上)

「能力主義」とは「従来の資格制度を一歩進めて、役職秩序とは別個に、職務遂行能力にもとづいて全従業員を階層的に秩序化する職能資格制度を導入し、人事考課をテコとした『実力主義』にもとづく『資格昇進』のシステムを確立することが提唱された。このような昇進管理の再編は、『能力にもとづく個人別管理』の実現に目的があると謳われたごとく、人事考課を通じて昇進における選別を強化し、企業をさらにいっそう競争主義的な社会たらしめようとするものであったといっていい」(『労働の戦後史』上)

 

  ・73年、オイルショック。労働側は賃金要求を低額にとどめる。解雇抑制の要求。

   日本経済は安定成長路線に。

 

73年のオイルショックで失業者が増大した。このとき失業者を吸収したのは公共事業とサービス業だった。しかし、職種を違えたサービス業への転職、特に消費者への訴求の精神労働は、労働者の精神状況に大きな苦痛をともなわせた。このころからメンタルの問題を訴えるものが増えている。

終身雇用と言いながら、出向、転籍が行われる。

労働組合は、「企業を守ることで雇用が守れた」の評価。

 

(2)ジョブ型労使関係法制のメンバーシップ型運用

 

 @戦前の試み

 

  ・労使関係法制は、1900年の団体交渉やストライキの誘惑扇動を刑罰をもって禁止した治安維持法に始まる。

  ・20年に政府内部で労働組合法が作成。職業別組合や産業別組合を想定。

   26年に提出。経営側の猛反発で衆議院で廃案。31年、貴族院で廃案。

 

戦後の物価高騰が進むなか、戦中の賃金の上昇は追いつかない。06年2月、東京・石川島造船所、8月、東京小石川の砲兵工廠、呉海軍工廠、12月、大阪砲兵工廠、07年2月、足尾銅山、三菱長崎造船所、4月、北海道幌内炭鉱、6月、別子銅山などで賃上げ、待遇改善を要求してストライキや暴動が起きた。

これに対して政府は工場法の制定に向かうとともに、大企業では共済組合方式や企業からの補助金による企業内福利厚生施設の完備がおこわれた。このことは、職工の企業に対する忠誠心が培わせた。そしてその忠誠心は、まさに「経営家族主義」に包含されるものであった。

以前、20世紀初頭の鉄工組合などの共済制度が解体したあと、1906年の全国の鉄道の国有化の翌年、事業体による、官業では最初の全員加盟の共済組合として帝国鉄道庁職員救済組合が発足したと書いたが、これもその理由による。

 

  ・26年に治安維持法の改正と労働紛争調停法が成立。労働者の争議行為は原則として適法な行為として公的な調停の対象に。

 

 日本の工場法は、1911年に制定され、しばらくたった第一次世界大戦中の16年9月1日から施行された。好景気で労働者も増大していた。15人以上雇用する工場での12時間労働制などが盛り込まれた。しかし製糸・紡績工場で働く女性労働者などは適用除外となった。

工場法制定の動きはもっと早くからあったが工場主などの反対にあい、制定した時には労働者の保護は薄められてしまった。

 

 Aジョブ型労使関係法制の形成

 

  ・45年12月に労働組合法、46年9月に労働関係調整法成立。ジョブ型労使関係を前提。

   企業の外に企業から独立して設立。想定する労働協約は企業を越えて。

   しかし現実に設立されたのは企業内組合。企業内組合=メンバーシップ型

  ・49年に労働組合法改正。不当労働行為制度。

 

 B労使協約の役割

 

  ・労使協約が就業規則に優越するのは、企業を越えて労働条件を規制するため。

   しかしほとんどが企業内組合。

 

 Cメンバーシップ型に部分修正された労使関係法制

 

  ・ユニオンショップ協定。従業員は組員でなければならない。

   チェックオフ。従業員代表機関としての性格。

   便宜供与

 

 GHQは当初の占領政策を変更し、労働運動に対しても弾圧を開始した。

 48年7月、政府はマッカーサー書簡に基づいて「政令201号」を交付、全官公庁労働者の団結権とスト権を奪おうとした。反対運動に立ち上がった国鉄、全逓などに弾圧が続いたが、GHQはさらに民間の個別紛争にも介入をしてきた。

そのようななかで4月8日、日本映画演劇東宝砧撮影所労組の274人に指名解雇が発表され、労組は第3次争議に入った。解雇者も出勤して映画作りをするという「不服従闘争」、「横ばい闘争」を展開して撮影所の占拠を続けた。6月1日会社は占拠を続ける組合にロックアウト攻撃をかけてきた。

8月19日、支援を含めて2千人で占拠していたところに仮処分が強行された。米軍機が上空を徘徊、戦車4台が包囲するなかで武装警官隊と150人の米軍憲兵が到着した。まさしく「こなかったのは軍艦だけ」だった。

 組合は仮処分を受諾、門を出た。そこには五所平之助監督や中北千枝子、久我美子、若山セツ子の姿があった。

 会社と組合はユニオンショップを結んでいた。しかし当時の社長の大沢善夫は労働争議を解決する一番早い方法は「分裂」だという確信で対応してきた。46年、第1次争議が始まると組合は分裂、第2組合、第3組合が結成された。第2組合結成の中心は大河内伝次郎で高峰秀子も参加した。彼らは別会社「新東宝」に移った。しかし第4組合、第5組合が結成されると、社内には複数の組合が存在することになった。

 

Dメンバーシップ型の争議行為

 

  ・ストライキ。労務不提供型争議行為。

 

2 企業内労使協議システム

 

(1)工場委員会から労使協議会へ

 

 @確立以前

 

  ・明治期は親方職工が仕事を請け負い、その指揮命令の下に一般職工が作業。間接管理。「組」のメンバーシップ。

  ・職工個人が直接作業を請け負う。しかし企業のメンバーシップには入れない。

 

「製鉄所労働力としては、工員および納屋制労働のもとにおかれた職夫より成る。しかし1905年以降、納屋制労働力は急速にその絶対数、比率ともに減少し……。しかしこの納屋制度労働力としての職夫群の駆逐は、同時に基幹労働力をかたちづくる職工群のプロレタリアートへの編成過程であった。もともと、重工業部門における職工は、熟練した職人層を基幹労働力の中心である熟練工に転化し、徒弟的な技術伝習をつうじて労働過程に組織されてきた。このような重層的編成のもとに、単純労働力としてのぼう大な職夫群が、結集されていたのである。したがって、職夫群の駆逐は、このような徒弟制的重層の解体と平行する」(大江志乃夫著『日本の産業革命』)

 「熟練工として集計したのは、瓦斯職・運転職・平炉職のような基幹部分や鍛冶職・木工職・煉瓦職にいたる専門技術を要する労働力群の集計」(『日本の産業革命』)である。

「1906年におこなわれた職制改正は、この職工長のもとに組織された徒弟制職人的な熟練職工群の一部を抽出して、職工長→工長のもとに、あらたに組長・伍長なる役付職工群を編成し、熟練工群の大部分と工夫とを平工員として編成しなおしたのである」そして「1910年、高等小学校卒業を入所資格とする幼年工養成所が設置され、70名を募集し、3年の養成期間をもってする役付職工候補生としての若年熟練労働力の養成が開始された」(『日本の産業革命』)

 このようななかにあっても賃金の低い職夫労働者数は再び急上昇し、工員の3分の1を越えるにいたった。

 

 A工場委員会体制

 

  ・日露戦争後の労働争議の勃発。

 

日比谷焼討事件は、戦前の日本における最大の民衆闘争であった。

「9月の民衆運動を経た国民は、もはや挙国一致のスローガンのもとに政府に盲従する国民ではなくなった。……戦時下『吾輩は猫である』の筆をおこしていた夏目漱石は、講和の翌年、最終章で次のように書いている。

『昔は御上の御威光なら(・・)何でも出来た時代です。其次には御上の御威光でも(・・)出来ないものが出来てくる時代です。今の世はいかに殿下でも閣下でも、ある程度以上に個人の人格の上にのしかヽる事が出来ない世の中です。はげしく云へば先方に権力があればある程、のしかヽられるものヽ方では不愉快と感じ反抗する世の中です。だから今の世は昔と違って、御上の御威光だ()から(・・)出来ないのだと云う新現象のあらはれる時代です。』

この新時代こそ、大資本と地主階級に依拠しつつ、民衆の収奪の上に帝国主義体制を作り上げてきた藩閥支配の矛盾の所産にほかならない。土地を奪われ、都市に流出してきた貧民層。解体の過程に入った職人層。これと未分解ながら、いまや階級的結集の前夜にあたる近代的労働者階級。これら無産大衆とともに重税とインフレに悩むサラリーマンなど都市新中間層。……以上の都市民諸層との不満の代弁者としての新聞と、既成政党の枠からはみ出た政客および記者・弁護士・実業家などよりなる反藩閥の急進政治グループ。このような諸要素が一挙に歴史の上に姿をあらわしたのが、講和反対運動であり、これが新時代の起点となったのである。」(松尾尊~著『大正デモクラシー』)

 

  ・政府は工場法制定して職工の最低労働条件を確保しようとした。←工場主側の反発。

   経営家族主義を打ち出す。先駆的に工場委員会の設立。

  ・工場委員会が大企業に広まったのは第一次大戦後の不況下で。労働争議の勃発。

   床次竹次郎内務大臣、企業ごとの縦割りの労働組織=工場委員会を認めようとした。

 

現在の企業別組合を戦前は“縦の組合”と呼んだ。最初に呼んだのは床次竹二郎内務相だったという。第一次世界大戦のあと拡大した労働運動への対策として、家族関係にみたてた温情主義の労務管理、労使の意思疎通をめざして奨励した。「労働者の組合を同業の関係で大きくつくる代わりに、1工場、1鉱山、1仕事場という狭い範囲で職長も組長も工場長も技師も、ないしは支配人も社長も、ことごとく組合に取り込む仕組みをいう」(『労働』20年2月号の鈴木文治論文)ナチスの労働戦線は工員だけで職員は入っていなかったが、日本では「丸ごと」をめざした。

 この“縦の組合”を早くから進めていたのが武藤山治社長の鐘淵紡績。女工が他の工場に移動、逃亡するのを防ぎ、企業への帰属意識を高めて長く留まらせる方法としてだった。

そして労働意欲を刺激するために臨時物価手当、家族手当、勤続賞与、皆勤賞与などを支給した。定着化がすすむと勤続の長さに応じた賃金体系が成立していった。外国の温情的工場操業法に日本古来の伝統的労使関係を結びつけて、いわゆる鐘紡的労務管理方式を確立した。

ちなみに武藤社長は19年秋、ワシントンで開かれたILO第1回国際労働会議に日本からの使用者側代表として出席している。

対抗して“横の組合(産業別組合)”をすすめる労働者は“縦の組合”を“御用組合”といって批判した。

 

 ・21年に工場委員会が急増。

 

   団体交渉の確立を求める争議が熾烈に。工場主側は外部の横断的労働組合との団体交渉は断固拒否。

 

米騒動は炭鉱、鉱山などにも波及した。

米騒動の時、8月27日から9月8日にかけて、三池炭鉱の宮浦、宮原、大浦、万田坑で坑夫たちが立ち上がった。きっかけは坑夫の昇給問題、選炭方法の厳格化、さらに会社による売勘場(売店)での日用品の値上げである。1000名の坑夫に家族も加わった。売勘場は放火され、施設、機会は破壊された。軍隊、警察が出動。結果としては坑夫側の敗北となった。

しかしその後の会社・係員の坑夫に対する対応はがらりと変わったという。そして坑工夫たちはこのときの経験を1924年の争議で生かし、敗北はしたが着実な成果をあげた。(中村政則著『労働者と農民』)

 

しかし足尾鉱山では起きなかった。

「坑夫にとって日常必要な日用品は銅山(鉱工業所)が倉庫品(売店用品)として一括購入し、鉱夫たちに貸下げ(月末に賃金から差し引く)した。……このような倉庫制度により、従業員たちは作物の作不足や物価の変動にほとんど左右されることなく生計の営みができるようになった。

 米騒動の時も足尾では貸下制度のため騒動は起こらなかった。米価の差額は鉱業所が出した」(太田貞祐著『続足尾銅山の社会史』)

 倉庫制度での取り扱い以外の日用品は、鉱業所の働きかけで1908年に設立された「三養会」という鉱夫の「自治的」組織の購買組合が扱った。

ただし1918年8月から相次いで労働組合が結成され、飯場制度反対の要求のなかで鉱夫の管理として世話役制度が生まれた。

 

  ・この頃、大企業を中心に形成された新卒定期採用、企業内熟練形成による長期雇用慣習や、年功賃金制度、企業内福利厚生からなる日本型雇用システムと整合的な労使関係システムがあった。

   企業負担で戸外の養成工として訓練を受け、内部労働市場の中で年功的な賃金コースを歩んでいく新たな大企業労働者たちには、工場委員会であれ縦断組合であれ、企業内労働者代表制がふさわしい仕組みであった。

   30年代に入ると総同盟が産業協力運動を展開し、協調的な労働組合と労働協約を締結する企業が増え、中小企業にも工場委員会体制が拡大していった。

 

「第一次大戦後の不況、とりわけ大正12年の関東大震災後、金融機関の整備統制がすすみ、また三井・三菱・住友・安田の4大財閥を中心とする企業の集中と系列化が進行していた。そして大企業にかんするかぎり、不況切り抜け策として新しい生産設備と労務管理方式が「合理化」の名のもとに開始されたが、これは日本だけの現象ではなく、戦勝国のアメリカでも敗戦国のドイツでも、「合理化」は不況切抜けのための合言葉であり、「流れ作業」が時の話題であった。製品の規格統一、大量生産、コスト引下げ、競争能力の強化がそのねらいであった。もはや従来の職人的な熟練やクラフト的な能力は必ずしも必要でなくなった。……そこでこの頃から、新しい労働者の給源として、新規学校卒業者が直接雇い入れられはじめた。」(大河内一男著『暗い谷間の労働運動』)

 

戦時中、安全なところにいられた上流階層はどのようにして登場したのだろうか。

「社会的悪弊を指す意味で『階級差別』という言葉が多く使われるようになったのは大正10年代らしい。同時に明治初期の純粋な『封建的な』階層性が、『近代的な』学歴による階層性に譲るようになっていきました。

身分平等化と階層の近代化・学歴化。その2つの傾向が合流したのは、たとえば、明治末期の日本鉄道東北線で起こった鉄道スト(1898年2月)でした。機関士たちの『待遇期成大同盟会』の訴えの1つは『青二才の中学卒の“書記”が、長い経験を持って責任の重い仕事をする熟練の機関士を平気で呼び捨てにするのはけしからぬ』ということでした。それに応えて『職工』という軽蔑の含みを持つ言葉は回避されるようになりました。芝浦製作所(現東芝)では大正時代に『職工』が『労役者』となり、昭和に入って『工人』となります。日本鋼管では大正10年(1921年)の年次報告に『従業員』がはじめて登場します。」(ロナルド・ドーア著『働くということ』)

 

 B産業報国会体制

 

  ・30年台を通して日本型雇用システムと整合的な労使関係システムが大手企業から中小企業に徐々に広がっていく。

 

30年代から、企業においては管理職として新卒が登場したが、軍隊においても藩閥が解消し陸軍・海軍学校出身者が出世を果たした。民と軍の分離が進んだ。軍事色が強まるなか「散る桜」が美とされていった。

 

  ・38年に協議会が労使関係調整方策要綱を建議し、産業報国の精神に基づいて労使が一体となるべきことを主張。―→産業報国連盟が結成。政府の指導下、全国の企業に労使協議機関が設置される。

   1941年に8万6000団体、会員数546万人、組織率7割超。

  ・産業報告会体制の初期は労働組合の存在を許していた。

   41年に解散が命じられ、大政翼賛会に接収される。

 

 C経営協議会体制

 

  ・産業報告会の経験は戦後の労使関係に大きな影響を与えた。

  ・労働組合は、企業ごとにホワイトカラー職員とブルーカラー労働者を包含した組織として誕生。

   WもBも皇国の産業戦士として平等だという戦時中の思想が社会主義的な予想で再確認される。

  ・労使協議により経営協議会を設立し、労働条件のみならず、人事、経理や経営方針まで協議の対象としていく。―→生産管理闘争

  ・経営者の立ち直り。

 

 46年4月30日、若返った経営者が経営の民主化を勉強するということで、GHQから経済同友会は設立を認められた。

 47年3月のトルーマン・ドクトリンは冷戦構造を固定化した。そしてGHQは経営者団体の結成についても、制止から容認へと態度をかえた。

 47年5月、財界は経営連合結成し、48年4月、経営者の協同歩調の促進をはかるため改組して「経営者よ正しく強かれ」を合言葉にした日本経営者団体連盟(日経連)を発足させた。

 

  ・49年に労働組合法の改正。労働協約が自動延長されなくなる。経営協議会は消滅。

  ・労働省が労働協約締結促進運動を展開。協議会は経営参加的色彩から生産性向上のための労使協議機関に。

 

 D労使協議会体制

 

  ・50年代前半、経営側が合理化を断行。大規模な労働争議へ。しかし労組の敗北。

   民間企業で組合指導部の大転換。

   労使紛争を労使協議で処理する方向性に。

・50年代後半、労使協議制が普及。生産性本部が推進役。経済同友会などの経営団体。

   労使協議はパイを拡大のため。団体交渉はパイの分配のため。

   さまざまな形で労組幹部や一般労働者に対する労使協議思想の注入活動も。

 

労働時間短縮は戦後におよんでも日本だけの問題ではなかった。

60年代にはいりILO総会で論議が進められたが、日本政府は反対の論陣を張った。理由は、労働者の生活条件を改善するには労働時間と賃金の2つが問題になるが、どちらを優先するかはその国の社会的・経済的条件によって異なる、時短は団体交渉の課題で国際労働基準によって規律されるものではない、そして被占領期間中のアメリカの援助の返済、旧占領国への賠償、破壊された都市の建設など戦後処理が終っていないからハードワークはまだ必要ということだった。そこに労働者の人間性や生活は出てこない。

 結果的には62年、第116号の時間短縮の勧告は圧倒的多数で採択された。

 

 この日本政府の主張は正当性があるだろうか。例えばドイツと比較してどうだろうか。2度の敗戦を経験したドイツは第二次世界大戦後、ヒットラーを許した「過去を克服」するためにすでに1200億マルク以上の賠償金を支払っている。それでも時短問題にはしっかりと取り組んでいる。

 

  ・しかし生産性向上運動(マル生運動)は国鉄で失敗

 

 E労使協議制の再確立と衰退

]

  ・高度経済成長期は合理化が生産拡大のため。

 

日本の雇用状況は「終身雇用」といわれてきた。しかし「金の卵」はけっしてそうではなかった。

「『川崎市統計書』(43年版)によると、500人以上の事業所は68社、その労働者は13万7000人(全労働者数20万人口94万人)。このうち電気機械器具製造業の総労働人口は9万4000人、女子が3万7000人、それに加えて18歳未満の年少労働者が9000人強となっている(「川崎市労働概観」)。つまり、これによって川崎の大企業の労働者の6割強が電気工事で働き、そのうちの半分が女子および年少労働者であることがわかる。」(鎌田慧著『ドキュメント労働者』収録「川崎・鬱屈の女工たち」)

「(東芝)小向工場は戦前、軍の無線機関係の生産の主力工場だったが、いまは、白黒、カラーTVの受像機、カメラなどの放送機器、防衛庁関係の無線機からホークまで生産していて、労働者数は4300人、うち女子が60パーセント。平均年齢は女20.1歳、男26.5歳、勤続年数は女2.9、男6.6」(『ドキュメント労働者』)

「労働省の『新規学校卒業者の離職状況』によれば、66年3月中卒者の男子は3年間で58.6パーセント、女子で49.6パーセント、高卒男子51.9パーセント、同女子54.1パーセントと、それぞれ半数以上離職している」(『ドキュメント労働者』)

これが、東京オリンピック直後の、集団就職を受け入れた工場地帯の実態であった。

 

・70年代の石油ショックを経て労使協議制が再確立。生産縮小のため。パイが縮小する中での分配。

 

   一時帰休、希望退職募集、退職勧奨、etc    

  ・整理解雇判例法理

  ・雇用調整給付金(雇用調整助成金)。過半数以上の組合または従業員代表と書面での協定が必要。

  ・70年代以降の労使協議制を設置する企業の割合は減少傾向。

   理由は、株主重視の企業統治や市場が求める短期的な経営成果の追求ですり合わせが困難に。

 

 ドトールコーヒーショップに創業のきっかけを紹介したパンフレットが置いてありました。

 日本にセルフスタイルのコーヒー店がオープンしたのは1980年で、きっかけは 「ストレス」 という言葉が使われ始めた頃、労働者が疲れているように映ったので、それまでの喫茶店スタイルを、短時間に安価で安らぎと活力を与えるスタイルに変えたのだとのことです。

 外食産業のコンサルタントの方に聞いたら、コーヒーは淹れてから15分以内ならどんなものでもおいしいのだそうです。原価が安いコーヒーを安価で提供しているのだそうです。このおいしいコーヒーが活力になります。

 営業社員に持たせた携帯から動向をチェックしている会社があります。コーヒーショップに入ることを禁止します。しかしただ動き回ったからといって成果は上がるものではありません。

 

(2)労使協議法制への試み

 

 @戦前の試みし

 

  ・19年に内務省が労働委員会法案を非公開に作成。任意設置。労使双方の委員。

   21年に協議会が発表した労働委員会法案は強制設置。

   29年に与党の政友会などから産業委員会法案が議会に提出されたが経営者の反対で成立しなかった。

   産業報告会は、「事業主従業員双方を含めたる全体組織」として「労資懇談の器官を設け」ることをめざした。

 

 A戦後の試み

 

  ・終戦直後は労使協約に基づいて。政府も奨励。

   46年には中央労働委員会が経営協議会指針を作成。

  ・商工省が経営協議会の設置要綱を起草。

   経済同友会の企業民主化研究会は「企業民主化試案―修正資本主義の構想」を提案。

  ・47年の労基法改正で時間外労働の書面協定で法制度を導入。

   その後、雇用調整給付金、継続雇用の選定などにおいても導入。

 

3 管理職

 

 @親方から職長へ

  ・明治期の間接管理体制では、親方職工が管理職機能にとどまらず雇用管理、報酬管理などの人事部機能を果たしていた。

  ・日露戦争前後から雇用管理・報酬管理を会社が直接握る直接管理体制に移行。親方が現場監督。

  ・終戦直後は、現場の職長層がリーダーシップを握る。生産管理闘争。

  ・それに反発する労使協調派も主導権はWと職長層。

   50年に政府は監督者訓練を推進。職場秩序を再建するため監督技術を合理化、近代化。

  ・高度成長期は、年功型監督者。

   「青空の見える労務管理」

 A労働組合と管理職

  ・終戦直後は、人事課長や労働課長も組合員。

  ・49年の労働組合法改正で、使用者の利益代表者の参加禁止。本音は、上級管理職組合員にしては労使の力関係が偏りすぎるため。

  ・これ以降は、おおむね課長以上を利益代表者とするのが普通に。

  ・90年代になると不況の中で管理職がリストラ対象。

 B労働時間と管理職

  ・労基法は管理監督者に労働時間等の規定を適用しない。

 C日本型雇用システムにおける管理職

  ・日本型雇用システムにおける正社員には、なにがしかの管理職的性格が含まれている。

   日本の正社員は管理職でなくても企業のメンバーとしてこのような性格を分け持っている。

   日本の平社員は欧米の平社員に比べて仕事の裁量性が高い。非正規労働者に対する指揮監督権限がかなり拡大している。

   その反面、日本の管理職は欧米の管理職に比べて裁量性が低く、人事権も乏しい。

 

D 日本型雇用システムの周辺と外部

1 女性労働と男女平等

(1)女性労働の展開

 @女工哀史と温情主義

 製糸工場主は女性労働者が賃金の高い、労働条件のいい工場に移るのを防ぐため、「製糸同盟」をつくった。その結果は女子労働者を工場に縛り付け、自由を奪うことになった。そのため大正の中ごろから労働組合運動の進展のなかで解散させられていった。

 一方、明治から大正にかけて女性労働者を送り出す地方の役場、学校関係者、家族らは「労働保護組合」や「女工供給組合」という名称の組織をつくり、見るに耐えられない労働者の争奪、工場内での非人間的待遇にたいし、工場視察や未払い賃金の代理交渉などさまざまな活動をおこなった。

27年長野県で設立された小作組合連合会は綱領のなかで「製糸労働者の両親に自覚を促し製糸労働組合を組織すること」を盛り込み、労働者と農民の協力を提唱した。そしてまだ残っていた製糸同盟を廃止させた。

 

 A女事務員

添田唖蟬坊は、明治・大正期の演歌師、今でいうストリート・シンガーであり、市井のジャーナリストでした。政治を痛切に批判したり、労働者の実情を訴えた

りしています。その一方、テンポのいい歌もたくさんあります。その1つが19

22年(大正11年)に 発表した『職業婦人の歌』です。

1.わたしゃ会社のタイピストよ タイピスト 働きゃいつでも心が躍る

   躍る心に光が満ちて 一字一字と打ち出す字にも

   云うに云われぬ味さえ出ます

   男たよっている女には こんな気持ちはサ わかるまい

 

2.番は交換手、3番は教師、4番は自由労働者が主人公です。「男たよっている

女には こんな気持ちはサ わかるまい」は共通です。(インターネットで聴くことができます)

 

しかし職務が限定された女性労働は楽しいとは言い切れません。社会的に男女差別はひどいものでした。その頃ILOに勤務していた市川房枝は、労働運動における女性差別の酷さを目にして、まずは社会における男女差別撤廃が必要と確信し、辞めて婦人解放の運動を開始します。何だか現代と似てい…… 

 

 B戦時体制と女性の職場進出

 

 C戦後改革と女性労働

 

 DOL型女性労働モデルの確立

 

 Eコース別雇用管理

 

2 非正規労働者

(1)臨時工から主婦パート、フリーターへ

 @「非正規労働者」以前

 

 A臨時工の誕生

 

 B戦時体制の影響

 

 C臨時工問題の復活

 

 Dパートタイマー

 

 E派遣労働者

秋葉原事件は単なる殺人事件ではない、現在の状況への負の側面からの問題提起と受け止めて捉え直しが進んでいる。

事件当初、犯人の生い立ちが家族と一緒に取り上げられた。20歳を過ぎて離れて暮らす子供の行為を、親がマスコミの前で謝罪する。取材する側は、親にどれくらい責任があると捉えているのだろうか。人間形成は家族・家族によって行われなければならない、その教育が誤ると秩序を乱すという国家主義的価値観を浸透させながら世論誘導をしている。

事件当初は出身高校名も伏されていた。名門校の卒業生は社会の落ちこぼれになるはずはなく、彼は例外だという取扱だったのだろう。

事件を起こしたすべての責任が本人と家族にあるという結論になっていた。

だから「ワイドショー」というドラマは転職の繰返しの経歴と家族関係の接続がうまく説明できない。木に竹を接ぎ木するようなものだからである。

当初の報道は、派遣労働者が事件を起こしたという報道だけで、派遣元も派遣先も明らかにされなかった。

会社が製造する商品には会社の名前が一緒の商品名がある。たとえば「トヨタのカローラ」という風に。そしてトヨタの社員は「カローラを製造しているトヨタの社員」なのである。しかし彼には会社名がつかなかった。社名のない「派遣労働者」なのである。派遣元も派遣先も彼を「うちで働いている労働者」とは認めない。

これが現在の派遣社員の置かれている現状を物語っているのではないだろうか。まさしくトヨタが考えだした「ジャスト・イン・タイム」で必要な時に「取り寄せ」、不要になったら「返品する」部品でしかなく、派遣労働者は商品以下に取り扱われている。

「派遣社員」は勝ち組社会から排除される状況に追いやられてきたが、その結果、逆に派遣社員の抱える問題を世に問うことになった。

 

 Fフリーター

 

 G契約社員

 

(2)非正規労働法制の展開

 @臨時工対策

 

 A非正規労働者の雇用終了法理

 

 B非正規労働者の均等待遇

 

3 中小企業労働者

 @二重構造の誕生

また30年代は軍事体制が確立するなか財閥資本を中心に重化学工業への転換がおこなわれ、後半からは大企業による中小・零細企業の下請制度が本格化した。

 38年から産業報告会運動がはじまり、40年にはすべての労働組合が解散させられ、国民勤労協同体の創出をとなえる大日本産業報告会が創立された。各職場の最末端には5人組常会という労働者の共同体的小集団が置かれた。労働力不足が深刻化するなかで熟練した労働者を長く確保するため終身雇用制が浸透していった。

 43年軍需生産に関係のない不要不急産業の転廃業を強行させる企業整備令が公布され、中小・零細企業の再編成が進められた。中小企業の企業系列という言葉は43年から登場するという。

 

 A中小企業対策としての最低賃金制

 

 B中小企業と合同労組

 

 C中小企業労働者の性格

 

 

Y 日本型雇用システムの今後

1 雇用管理システムの今後

(1)日本型採用システムの動揺

 @年齢差別禁止政策の浮上

 

 A大学と職業との接続問題

 「格差社会」が社会問題化して久しい。

格差は常に存在するが、現在は政策放棄のなかで下方に益々拡大し、個人の努力では這い上がるチャンスを掴めないという状況がある。少し前、『300万円で暮らす方法』の本がベストセラーになったが、今はそれさえ夢となった。反貧困ネットワークの湯浅誠さんは「滑り台社会」と表現するが、まさしくその通りである。

現在に繋がる格差社会を最初に問題提起したのは佐藤俊樹著『不平等社会日本 さようなら総中流』(2000年刊 中公新書)だった。日本で1955年以降10年ごとに行われている「社会階層と社会移動全国調査」(略称SSM調査)を分析して報告した。内容を一言でいうと「努力すればなんとかなる」という説教はまやかしであるという結論である。

説教に対する「痛烈な反論が、1つは、女性の側からあがるはずである。――スタート地点が平等だなんてとんでもない。女性が専門職・管理職になるにはさまざま壁がある。逆にいえば、実績主義の三分の二を占める男性の地位は、『性別』という障壁に守られた、虚構の『実績』なのだ、と。」。性別は、女性が多く占めていた非正規労働者の地位を“不動”のものにもしてきた。同じ発想で外国人労働者の地位を“固定”してきた。

 

「ヨーロッパのような明らかな階級社会であれば、たとえ競争という形をとっても、それ自体の不平等さが目に見える。目に見えるがゆえに、競争に勝ち残った人々は勝ち残ったという事実だけでは自分の位置を正当化できない。自分がその地位にふさわしい人間であることを目に見える形で積極的に示さなければならない。……ところが、戦後の日本では選抜競争が平等な競争であると信じられてきた。そのなかで…生まれによる有利不利が発生すれば、…既得権が「実績」化し「実績」が既得権化するメカニズムが働く」。

 既得権化の具体例は世襲政治家、特に最近の歴代首相就任者を見れば明らかである。麻生邸は、麻生一族が汗を流して築き上げたものではない。麻生一族による戦前からの強制連行・労働者からの収奪による富の蓄積である。

 

 B大卒採用システムの今後

 

(2)継続雇用政策の動揺と雇用維持法理への疑問

 @継続雇用から年齢差別禁止へ?

 

 A雇用維持法理への疑問

 

(3)配置転換法理(勤務地変更)の動揺

 

2 報酬管理システムの今後

(1)賃金制度の今後

 @同一労働同一賃金原則の浮上

 

 A迷走する成果主義を超えて

 

(2)実労働時間規制の導入へ?

 

3 労使関係システムの今後

 @労使委員会制度をめぐる動向

 

 A非正規労働者と集団的労使関係システム

 

 


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