第2期 「共同体」と「市民社会」の研究 第2回研究会用レジュメ     

               

2011年12月10日  

文責:江藤


 

『日本の村』―小さい部落―レジュメ(守田志郎)

 

1)本の概要と筆者

 

本書は1973年、朝日新聞社から刊行された『小さい部落』(のち『日本の村』と改題、農文協から復刻版)。その目次は以下の通り。

 

ひとりの読者として(鶴見俊輔)

初版序

第1章     部落のはみだしものとしての都市人間

第2章     「日本」が吹っ飛ぶ共同体理論

第3章     1枚の田のやりとりに知る部落の秩序

第4章     はみだす源治さん

第5章     部落が約束するのは全員の中位の幸福

第6章     小農の部落

第7章     小国寡民

第8章     部落の解体は進歩か、誰にとって……

第9章     私的所有と共同体的所有

第10章   小さい部落とコビトの都会

 

著者は初版序、第1章、第2章で自らの問題意識を提示した後、第3、4、5章で農村の実態を詳細に分析。第6章から終章で理論的結論を導き出す。しかも実態分析の第3章から第5章にページ数の半分を費やしており、ここに本書の大きな特徴がある。

私は一読して、40年前の本でありながら内容のみずみずしさに驚愕した。当時の高度成長経済が日本社会、とくに農村部を解体していく状況下で、生産力の発展=都市(市民社会)が善であり、生活に根ざした農業=農村が遅れた賤しむべきものという「常識」が左翼の世界をも覆っている状況をどのように打破していくのか。守田はここに全力を注ぐ。それは3.11の大地震・津波・原発事故に遭遇したわれわれの現在を40年の時空を超えて分析し、教え導くといったおもむきさえ見せるのである。

 本書の白眉は第3、4、5章での農村の詳細な実態分析にあるのだが、その検討から結論を導き出す能力を私は持たないので、初版序、第1〜2章の問題意識と第7〜10章の結論部分を紹介する。

 守田志郎(1924年〜1977年)。オーストラリア生まれ。1946年東京大学農学部卒。農林省、協同組合経営研究所、名城大学商学部教授。1977年没。主な著書:『地主経済と地方資本』『米の百年』(以上、御茶の水書房刊)、『農業は農業である』『農法−豊かな農業への接近−』『農家と語る農業論』『小農はなぜ強いか』『農業にとって進歩とは』『対話学習日本の農耕』(以上、農文協刊)、『小さい部落』『二宮尊徳』(以上、朝日新聞社刊)、『村の生活誌』(中央公論社刊)、『農業にとって技術とはなにか』(東洋経済新報社刊)

(なお、鶴見俊輔が執筆した「ひとりの読者として」は、これだけで十分検討に値する文章だと思う。短文なので当日、コピーで配布する。)

 

2)守田の問題意識

 

―「初版序」と第2章「日本」が吹っ飛ぶ共同体理論からの抽出―

 

➀まず「初版序」

「部落を、生きている化石として見る迷妄にとざされている間の私は、いくたび部落を訪れてみても、部落についての何事も知ることはできなかったように思う。そして、ようやく筆をとることができるようになったとき、どうやら私は農業史の研究者としての自分を捨てることができたようにも思う」。

「日本における、市民と自負する私達の背広はしだいに色褪せはじめ、その足は大地から離れて、いとも頼りなげに遊離するかに見えてくる」。

「私を含めて都市に住んでいるものが市民」で、「日々そこで暮し、米や野菜や牛乳や卵や蚕を生産している農家の人達は……市民になりそこねたのろまとでもいうことになるのだろうか」。

「いつしかその住む都市の巨大さに酔いしれている私達が、ふと心のどこかに不安のかげりを見るようになっている現代、その小ささという本性をけっして崩そうとしない部落の命脈のながさを知るとき」、「部落はこれまでのようなたんなる研究の対象としてではなく、都市に住み不安のうちにたゆたう自分自身にとっての標(しるべ)となって蜃気楼さながらにもう一度浮かびあがってくるようである」。

 高度成長以降の農業破壊の行きついた果て、3.11と震災・津波、原発事故を体験すると、ここに示された守田の謙虚さは改めて私の心を打つ。

 

➁第2章「日本」が吹っ飛ぶ共同体理論

まず「ヴェラ・ザスーリチの手紙」

「この農村共同体が、国庫の無制限の租税徴収や領主への支払いから、さらに恣意専制の行政から、ひとたび自由になれば、社会主義の道においておのれを発展させることができる。言いかえれば、集合主義的基礎の上に、生産物の生産とその分配を徐々に組織することができる。この場合にあっては、革命的社会主義者は、この共同体の解放とその発展とにむかって、全精力を捧げなければならないことになります」。

「このような見解とは逆に、もし共同体が死滅する運命にあるならば、社会主義者にとって次のことだけが残ることになります。ロシア農民の土地が彼らの手からブルジョアジーの掌中に移るには何十年かかるか、資本主義がロシアにおいて西ヨーロッパのそれに類似する発展を遂げていくためには、おそらく何百年もかかるであろうが、はたしてどのくらい先のことか、ということを予測するための、あまり根拠のない計算に専念すること、であります」。

「農村共同体は、歴史が、そして科学的社会主義が、つまり、この、論争の余地のないものが、死滅すべきものと宣告している、1つの復古形態である、と語られるのをわれわれは最近しばしば耳にします。このようなことを言い広めている人々は、自分たちのことを、すぐれてあなたの弟子すなわち“マルクス主義者”だと、みずから語っております」。

次に「マルクスの手紙」

「『資本論』に示されている分析は、農村共同体の生命力についての賛否いずれの議論にたいしても、論拠を提供してはいません。しかしながら……この共同体はロシアにおける社会的再生の拠点であるが、そのようなものとして機能しうるためには、まずはじめに、あらゆる側面からこの共同体に襲いかかっている有害な諸影響を除去すること、ついで自然発生的発展の正常な諸条件をこの共同体に確保することが必要であろう、と」。

平田清明が紹介する「マルクスの手紙」第4草稿の結論はさらに積極的。(<>内はマルクス自身による抹消部分)

「すなわち、この共同体はロシアにおける社会的再生の<ロシア社会再生のための>自然的拠点<出発点>である。しかしそれがそのようなものとして機能しうるためには、<言うまでもなく、共同体が活動しうる状態に置かれていることから始まらなければならない>まずはじめに、あらゆる側面からこの共同体に襲いかかっている有害な諸勢力を排除し、ついで自然発生的発展の諸条件をこの共同体に確保することが必要であろう、と」。

 守田がヴェラ・ザスーリチの手紙とマルクスの返書の引用を長々しくとり上げた理由は、「(日本で部落について語られる)言葉の意味するところの大部分は、部落を否定的にしか扱うことのできない角度から発せられていることは明瞭である」。「共同体は、封建的社会構成あるいはそれ以前の社会構成の基礎となる社会関係であるという、今日少なくとも日本ではひろく常識とされる認識、この認識が日本における今日の部落の認識にそのままあてはめられてしまうのである」。

 この例証として守田は大塚史学(大塚久雄)を上げる。

「この認識は当面経済史の研究にとってきわめて重要な意味を持っている。たとえば次のことがらに想到するとき、そのことは十分に明らかであろう。封建的生産様式の崩壊と資本主義的生産様式の展開という局面(いわゆる資本の原始的蓄積の基礎過程)は、この観点からすれば、その中に他ならぬ『共同体』の終局的崩壊という事実を重要な一環として含んでいるからである。」(『共同体の基礎理論』)

 その上で守田は次のように述べる。「日本の部落を考えるべく『大塚史学』的な共同体にかんする認識を適用、あるいは借用するとき、その瞬間に“日本の”という限定が姿を消してしまうのである。ひらたく言えば“日本”がどこかに吹っ飛んでしまうのである」。むしろ「部落のもつ共同体的な性格が……農民の生産と生活にとっての阻止要因であり、ひいては日本の社会発展にとって阻止的である……、したがって、このような部落は、早く『終局的崩壊』に導くべくあるのだ、という論理がこれら諸論に共通しているのである。」

 これは何も「大塚史学」に限ったことではなくて、当時のマルクス主義全般に共通した認識であり、このような観点からは今日の社会分析は不可能であるとの結論を持って、守田は農村社会の詳細な分析に入っていくのである。

 

3)理論的結論

 

➀まず「小農の部落」について

 

「うちの畑、うちの田というとき、農家の人は自分が耕している、耕地、というふうに自分と耕地の関係を言いこめているのであり、……『全部自作地ですか』というように質問を続ければ、……『あれとあれとは小作地です』といった答えを返す。そのとき、その人は、たぶん耕すという世界から所有権という世界に引き出された感じになっているのであろう。」

 この点では「日本もイギリスも同じ」としたうえで「自分の畑、自分の田を自分で耕す、農業が、そのことにもたせている絶対的なまでの意味を、そこに読みとりたいのである。」

 その上で守田は「農業に他人の資本はいらない」と述べ、理由として「農業には資本という範疇がなりたたないからなのである。……それは農業が生活だからである」。「農業に範疇としての資本が成立しないということは、工業などの資本をのせている、永続的な拡大によってのみ存続を許すというあの宿命的な軌道には、農業はのらずにすむことを意味している」。そして「私は農家はすべて小農だと言うのである」という結論を導き出す。

「農家は生活と生産において、つねに自然のある側面に接している。はた目には自然とともにあるかのようである」が、「農家は自然との対立のうちに日々を過ごさなければならない」。「平常、目に見えるかぎりの自然とおぼしき風景は……それぞれにかかわる人の必要によって人手をほどこされたものである」。同時にそれは自然の循環であるが、そこには人手がほどこされているのであって「全き自然のままの循環ではない」。「小農経済の論理の根幹は、……一重しかない大地の表面に種をまき、その収穫には成育や結実を待たねばならないことと、その種蒔きは自分が耕している範囲にかぎられること、この結びあわせが小農経済の論理のすべてをきめていくのである」。

 このように「小農経済の論理」を説明した守田は再び、大塚史学を引用する。「歴史上労働の生産性が上昇するにともなって、労働主体である人間は、(中略)……母なる大地の懐からしだいに離れて対立の形態をとり始めるが、しかしそれらが完全に分離しきるのは、労働力についても労働手段についても、いわゆる原始的蓄積という一時期を経過することによってである」。(大塚久雄『共同体の基礎理論』)

 この提起を守田は次のように整理する。「自然の中に埋没していた人間が、埋没状態からしだいに脱しつつ、自然との間に対置関係をもつようになる」。「ここで大切なことは、小農民の土地所有の喪失が、彼ら土地を失ったものにとって自然とのの兼ねあい離脱を意味し、したがって母なる大地からの巣立ちとなるということである。ここでの大地からの巣立ちは工業の成立過程を意味するものであり、資本の本源的な蓄積に照応するものである」。「そして一方、農業が、西ヨーロッパにおいても、大地を大きく翔きながら、そして幾度か多くの農業労働者を抱え資本家的な企業として飛び立つかにみえながら、しょせんその本来の性格である自然の営みとの兼ねあいにおいて暮らしかつ生産するという特性を失うことなく今日にいたっている」。「その結果、……いわばまじりっけのない小農の状態に到達した日本において、農業を、小農たる農家が自然の営みにおいて生活するものとして確認することは、あまりに自然のことなのである。」

 守田は「小農の部落」の結論を次のように述べる。

「『耕作者』からの土地の『根底的』な収奪をへなかった日本にあって、生活と生産の一体において自然の営みと取組む活動をおくる、そのような内容の十分にそなわった小農が一般的にどの村にも存在していることを、ことさら奇異に感じたり恥ずかしいことだと思ったり、えらく時代遅れだと嘆いたり、絶望的になってこれを何とかしなくてはと焦ってみたりすることに、私は必然性を感じない。そして、そういう小農であるがゆえに、その構成する部落について阻止的に評価することになってしまうのにも、同様の倒錯があるとしか思われない。」

 そして「あらゆる側面からこの共同体に襲いかかっている有害な諸影響を除去すること、ついで自然発生的発展の正常な諸条件をこの共同体に確保することが必要であろう」というマルクスのザスーリチ宛手紙の結語で、この項を締めくくる。

 

➁「小国寡民」について

B「部落の解体は進歩か、誰にとって……」について

➃「私的所有と共同体的所有」について

(この3つは別の機会に触れる)

 

 

➄「小さい部落とコビトの都会」について=結論

「小農、それは部落の構成員である。小農があらわす生活、したがって生産の、日常的具体性のなかに、人間の存在形態における本源性を感じとり、それを都市をふくめて人間のありようについての施策にまで深めさせる契機と場所を与えてくれるものとして、いま私はこの日本の部落を見据えたいのである」。

「部落は、自分の占める地域を、これまでと決める。そして、私たちはこのなかで生活し、このなかでそのための生産をします、と宣言をし、それを守る。だれによってでもなくみずからに加えた制約である。その約束のなかに人間が生きる。その人間がつまり小農である」。

「都市も、自己の版図をこれまでと決め、そのなかで暮らすと他に約束し、それを守ることもありうるのだと、市民革命をへた国々の都市が語っているとは思えないか。私にはそう思える。共同体社会である日本において、それが可能でないと決めてしまう根拠はないように思うのだが、日本の都市人間における市民の僭称が、拡大と巨大化への歯どめを失わせているようにも思う。だとすれば、理論も矯正されなければならないし、理念も変えなくてはならない」。

「理念をどう変える……。自信はないが、たぶん、市民の理念を小農の理念に……、であろう」。「はみだしものである都市人間が、自分のなかに人間の本源的存在形態としての小農の片鱗を見いだすことに成功すれば、それは都市じたいが可能性を発見したときでもあろう。」


 当日配布資料鶴見俊輔が執筆した「ひとりの読者として」

 

ひとりの読者として

 

鶴見俊輔

 

 

 戦争が終わってまだ数年しかたっていないころ、「日本の村のつくりだしたものに、くらべられるような思想的達成は、まだないのではないか」という意味の批評を、ひとりの友人からきき、それは、戦後の思想的唱和の中の、一つの別の声として、心にのこった。

 そうかもしれない、と思い、どういうわけでそういうことになるのか、とも思った。その友人とは谷川雁で、彼は自分の直感を九州の雑誌『サークル村』につぎこんだ。戦後のさまざまのサークル運動の中で、『サークル村』は、米軍占領後の日本民主化とむきあう姿勢によって、きわだっている。『原点が存在する』という谷川の詩論集は、村についての彼の直感の表現である。

 もう一つ、林竹二の田中正造への打ちこみかたは、私に、村の思想について新しい目をひらいた。1962年9月に、「民主主義の原型」と題して田中正造特集号を雑誌『思想の科学』でつくったことがあり、その特集号が仙台の執筆者を中心として出来上がるまでに、それまで日本の学者・評論家の間で忘れられていた田中正造の意味を、私は林竹二から啓発された。

 なぜ田中正造が、明治以後の日本にあって、近代文明批判を生涯にわたってゆずることなくつづけられたのか。その背景には、田中正造がいかなる種類の庄屋であったかという、幕末の経歴とのつながりがあり、そのまたうしろには、日本の村が、どういうものであったかという歴史がある。

 日本の村の持つ意味に戦争中から注目した人に。きだ・みのる(山田吉彦のペンネーム)がある。彼は、戦争中に疎開した体験を、「気違い部落周遊紀行」(世界、1946年9.10月号、単行本、1948年)という小説の形で戦後いちはやく書き、村の社会学的モデルを提出した。村への関心は、その後の彼の生涯にわたってつづき、「日本文化の根底に潜むもの」(群像、1956年1−11月号、単行本、1956年)というエッセイに最終的な結実を見ている。

 きだ・みのる、谷川雁、林竹二が、日本の村の対して持つ関心は、日本国民として日本の過去を美化しようという動機によってくもらされていない。日本の文化からヘソノオを切ったうえで、日本の過去を日本において見るという立場でつらぬかれている。

 守田志郎の『小さい部落』(『日本の村』と改題)は、きだ、谷川、林の仕事と関心をおなじくしており、現存の日本の農村について、さらにたしかな実証性をもつ記述と分析とをなしとげている。ここでも、特長をなすのは、日本の文化にたいして、ヘソノオがきれていることであって、国家主義と軍国主義のためにかつて利用された農本主義的な見方とは、ちがうものとなっている。同時に、日本の農村の思想構造を、ヨーロッパの近代のモデルにくらべておくれたものとしてきめつけた上で考えをすいすめてゆく流儀ともちがう。

 守田志郎のこの本が、日本の伝統にたいしてもつ角度に、私はあざやかな印象をうけた。

「部落というものが波をおもてに立てないようになっているのは、その慎み深さからでもあろうが、人々が、今日も明日も、そして将来ずっとその部落のなかで同じ顔ぶれで生産と生活を続けていくようになっているからなのだと思う。江戸っ子のきっぷの良さなどというが、いつでも荷物をたたんで長屋から出ていくという生活の軽さがそうさせるのであろう。そして、そこには生産がないということも裏腹なのだと思う。

 よそから物をとってくることもせず、領土を拡大するのでもなく、みずからきめた囲いのなかで作り暮らすという、人間としての一番本来的な存在のしかたを続けていくための、部落における約束ごとをつらぬく大切な原則を、波を立たせないという感じの物事の処理のうちに見なくてはならないようにも思えてくる。消極的に見せかけられてはいるが、そこには大変な積極性がひめられている。

 啖呵を切り尻をまくり、そして荷物をまとめて飛び出してくるなどということのほうが、よほど消極的な行動様式なのかもしれない。」

 ここには、日本人の思想(思想家の思想ではなくて、日本人の思想)についての、見事な要約がある。このような要約を、私たちは戦前にも、戦後直後にも、もたなかった。

 長屋の思想そのものが、私には、日本文化の高い達成のように思われ、それを表現した落語は、日本の文化遺産のもっとも重大なものの一つと思える。そこには、明治以後の都市文化のとりおとした、おたがいのつきあいの規則がふくまれているように思われる。しかし、長屋の思想を部落の思想から見て、このように批判することができるし、部落の思想は長屋の思想よりも、この島で日本人がくらしてゆく上で、生産に直接結びつくものとして、もっと根本的である。

 長屋の思想にあるほどの開放性を、部落の思想はもっていない。しかし、これまで考えられたほどに、部落の思想は、とざされたものでもない。ここのところを、守田志郎は、こんなふうに特長づける。

「よその部落のものが耕しにやって来る。それを苦にする わけでもないし、まして追い出そうなどとはしない。面倒でも必要があれば連絡にも出向く。どの部落にも必ずといってよいくらいにそういうことがある。つまりお互いさまなのである。しかし、この関係、一方的にふえていくということはあまり見ない。他部落に耕しに行っているものとしては、機会があればそれを自分の部落にひきおkみたいのである。その機会がくるまでの我慢のひとときなのである。自分の部落にひきこむといっても、売り買いか交換か、どちらかのかたちにせよ双方がうまく一致しなくてはならない。そういうわけだから、じきにその機会に恵まれることもあれば親子二代におよんでもだめな場合もある。」

 他部落に対するせっかちな侵略という方法はとられることがすくない。このような外部との接触の仕方は、他部落にたいしてそれを根こそぎ征服するという考え方をつちかわない。

 他部落に対してだけではない。自分たちの部落の中で、一風かわった家が出た時も、(村人としてのつきあいをしないいというよくよくの場合の方法があるにせよ)原理の旗をふりかざして、その家の人びとを根こそぎ倒してしまう、あるいは殺してしまうという考え方は、ここではつちかいにくい。

 軍隊は戦後しばしば農村共同体の強制を別の場に移したものとして批判されたけれども、軍隊でおこなわれた、「国体」とか「皇統連綿」とかいうスローガンをあびせかけて半殺しにする流儀は、部落の流儀にはなじまない、もっと近代的な方法である、

 部落の中で、自分の家の立場を少し有利にしようとして交渉する例が、この本にも書きこまれている。嘘をつく場合もあり、他人をたてるふりをする場合もあり、あきらかに悪知恵と言ってよい。守田志郎は、部落の人を、かならずしも正直一途の善人としてえがかない。そこで活用される悪知恵の行方を見ている。だが、その悪知恵も、使われる相手を根こそぎ倒してしまうことを目的としているものではない。

 「人を陥れるような本物の悪知恵は部落の教えるところではない。軽い悪知恵である。聞いていても気分が楽しくなるような悪知恵である。部落の知恵といえば、おおむねそうしたものである。」

 自分の顔見知りの人たちの間で長い年月ともに生きて来た日本人がつくりだした思想はこういうものだった。それは、相手の顔を見てものを言い、その言い方もかえるという特性の故に、原理としてのまとまりにかけるところがあり、そしてまた原理としての表現の独創性においてもかけるところがある。思想としての優劣の評価を、原理上の一貫性ならびに原理のとらえかたの独創性をものさしにしてくだすならば、日本人の思想は、劣ったものと考えられるだろうし、現にそういうふうに日本人の思想を評価する動きが、明治以後の学者・著述家の間では主流になってきた。

 しかし、誰しも、顔を知っている人にたいしては、その人を肉体としてとりのぞいてしまうという気にはなりきれない。原爆を相手の上に落とすというふうなことは、相手を人として見知らぬという条件ではじめて、やりやすくなる。

 見知らぬ人びとに対して適用する原理として思想をとらえる立場は、有効であり、能率があるとしても、そういう流儀の思想のそなえやすい残酷な側面にも、もっと私たちは眼を見開いているようでありたい。そのように考える時に、明治以前からの日本の農業社会がとくに部落の中で育ててきた思想は、もっと大切にされてよい。

 この思想の流儀が、今の日本でどういう形で保たれているかは、この本に記されている農村のわくをこえて、日本のさまざまな生活区域の中で、あらためてしらべてみる必要がある。そういう刺激をあたえる仕事として、私は守田志郎のこの本を読んだ。

「小国寡民を貫徹する部落には、たしかに利己心がある。しかし、その利己心をつらぬくについての償いとでもいおうか、他を絶対に侵さないという強い強い自制力をもっている。」

 この部落の思想は、それとしては、今の日本国家全体の思想を要約するものとは言えないし、今の日本の国家の思想とは大きなずれをもっていると言える。そのずれに、どのように対するか。今後の日本の方向の中に、部落の思想は生きてくることはないのか。そういう問題を、この本は私たちの前に、おく。

 私はこの本の著者に一度も会ったことがない。ただ、ひとりの読者として、その著作を読んできた。私よりも若い著者に突然におとずれた死をいたみ、読者としての敬意と感謝をここに記す。

 

 1977年10月31日


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