第2期 「共同体」と「市民社会」の研究 第一回研究会用レジュメ     

               

2011年10月15日

文責:須長


 

内山節著「共同体の基礎理論」−自然と人間の基層から

 

●はしがき(この本の意図)

 

 ・日本での共同体の捉え方の歴史:

1)                   1950年代。共同体的な社会は封建主義の社会とほとんど同義で使われ、近代化・市民社会化・民主化が絶対善のように語られた時代。共同体は否定の対象であった。この時代に著された大塚久雄の「共同体の基礎理論」は、この代表的な著作。この本をを著者が読んだのは1960年代後半であったが、時代の雰囲気は同じで、歴史は封建主義⇒資本主義⇒社会主義、共同体社会⇒市民社会⇒社会主義社会、と考えられていた。共同体社会は欧米では乗り越えられた社会であり、「遅れた資本主義」である日本では、まだ乗り越えきっていない社会と捉えられていた。大塚の本では、共同体の特徴の一つである自然との結びつきを、人間が自然に緊縛されている、土地に隷属しているととらえ、共同体は乗り越えなければならない対象であった。

2)                   今日(21世紀初頭)。共同体をめぐる思想状況は激変。社会主義は色あせ、近代的な市民社会も問題点が目立つ。個人を基本とした市民社会は、孤立・孤独・不安。これに代わって、関係性・共同性・結びつき・利他が注目され、「共同体」が未来と同義になりかかっている。

 ・この変化の背景

1)共同体をありのままに、自然と一体のものとして捉える先駆的な研究の展開。

   守田志郎の仕事

2)市民社会のゆきづまり、自然に対する問いの変化、資本主義的な労働や消費者としての暮らしに対する疑問の拡大。

 

  こうした共同体の捉え方の変化を、理論的歴史的に検証する(本書の目的)

 

【第一部 共同体の基礎理論】

●第一章 現代社会と共同体

 

1)共同体への新しい関心

 明治維新の日本とは:▼国民国家形成▼個人を基礎とする市民社会の形成▼資本主義的市場社会の形成。この三つの課題を実現し、そうすることが歴史的な進歩だとする「共同幻想」を作り上げる過程であった。

 この変革への大きな壁=日本における共同体の存在。

 廃藩置県(国家統合⇒国家システムの整備)によっても日本人と言う共同意識を持たせることは、共同体が強固に存在し、人々は共同体と共に生きる個人であるかぎり、困難なこと。

 国民意識の形成は、日清・日露戦争を経過して次第に進展するが、日本から最終的に共同体をほぼ一掃するのは、戦後の高度成長を経てのこと。

 従って、日本では共同体は、(国家の側からも否定の対象であったが)国家よりリベラルな立場に立つ思想家・社会運動家、文化人たち、そして社会主義運動を担う人々にとっても解体の対象であった。

 

2)1970年代以降の変化

 1956年から20年続く高度成長は日本社会を大きく変えた。

  ・所得倍増・巨大な消費市場の形成・農村から都市への人口移動・農山村の過疎化と大都市の形成・核家族化の進行等等

 1960年代後半、「近代化された日本社会」が出現⇒「近代化」の幻想に気付く・近代化の負の部分が目に入る。

  農山村の過疎化、経済の疲弊・都市での公害・環境破壊・乱開発による自然の喪失等等

  これが「若者の反乱」を生み出す。

  1967年ごろまでの学生運動=エリートの社会的責任に基盤を置く

  1967年以降の学生運動=近代社会への不安・社会を変えようとの思いが基盤

  近代を問い直す機運の醸成

    ・「存在の空洞化」 「疎外論」の流行

  この流れの中で守田志郎の共同体再評価の仕事は展開された。

 

 3)自然保護か、自然と人間の関係か

  1950から1960年代の環境問題の捉え方

  公害問題=悪い企業や適切な手を打とうとしない行政の問題=環境保護

  1970年代以降の環境問題の捉え方

  文明生活自体が環境悪化の原因

  「人間のための自然・環境保護」の理論←アメリカ型環境保護理論の影響

  自然保護か開発化の対立 同じ基盤に立った論争

  アメリカ型環境保護理論の変化

  「人間のための自然・環境保護」⇒自然自身が生存権を持つ=「持続可能な社会」へ

  この動きへの疑問

  世界をある秩序下に置こうとすること自体に問題はないのか⇒先進国・途上国の対立

  持続可能とは何か 人間の文明の持続可能性なのか自然の持続可能性なのか

  日本では、自然と人間との関係を問い直そうとの動きが生れる【日本だけ?】⇒共同体の見直し

  近代以降の自然と人間との関係のゆがみを問い直そうと言う発想

  河と住民 里山と人間

 

 4)共同体をとらえる「まなざし」(の変化)

   社会が近代化をめざし、人々が個人を基調にした市民社会に未来の可能性を感じているときは、共同体は解体すべき対象であった。この時代には共同体は封建的なもの、個人の自由を奪うものと見えた。しかし個人の社会の問題点が意識され、現代における人間の存在に迷いが生じてくると、さらに自然と人間との関係を問い直そうという問題意識が芽生えてくると、共同体をとらえる「まなざし」も変わってくる。現代の共同体論はここから生れた。

 

●第二章 日本の伝統的な共同体を読み解く

 

1)共同体をとらえる方法について

 日本の共同体を、自然と人間が結びつき、人間と人間が結びつきながら展開した社会の形としてとらえれば、それは通史的に同じものではなかった。その時代その時代のかたちを持っていた。

  縄文時代的な共同体

  弥生時代的な共同体

  古代社会が出来てからの共同体  ※これらは史料が少なく復元は部分的

   日本の共同体の形がある程度浮かび上がるのは中世

    ・ 支配者である武士も一族郎党を率いて農村に土着し、農村に武装集団である武士団という共同体を形成した。【これは間違い。武士が土着したのは都市的な所。「百姓」と呼ばれた人々の共同体は武士の共同体とは別、対抗・並存関係。武士団×惣村の戦い】

   私達が今、共同体としてイメージしているのは江戸時代の共同体

  武士が都市へ引き上げ、村は村落共同体の自治となることで形成された共同体

  江戸期共同体も変化←新田開発 商品経済の浸透 幕府の介入(寺請制度など)

  地域によっても村落共同体のありかたは異なる

   明治時代になると、江戸期の共同体は壊され始める

  村と村人の国家への統合 天皇制への収斂

 

   共同体は時代によって地域によって変化するが、その基層に自然と人間が結び、人間が共有世界を持っていた精神が存在する。共同体が壊されていくことの意味は、自然と人間が結び人間が共有世界を守りながら生きる精神が壊されていくこと。

 

 2)私と群馬県の山村 上野村(省略)

 

 3)共同体の基層

    共同体という言葉は外来語。これは人間の共同体を指していて、自然と人間の共同体を意味する日本の地域社会観とは違う概念。日本では村とか集落とか言うとき、日本の村や集落は自然と人間の里を意味している。自然もまた社会の構成者。

    日本の伝統的な自然観を抑えておく必要。

  【西洋の昔の共同体も、これが入ってきた当時の日本の共同体と同じく、人間が自然と結びついて生きていく共同体であった。明治時代すでに西洋では、国民国家の形成の下で、資本主義的商品経済の発展と市民社会の形成され、自然と人間の共同体が切り離されつつあっただけ。】

 

 4)自然と人間の関係の矛盾に折り合いをつける

    日本の伝等的な自然観

     ・自然=ジネン オノズカラシカリ 【人知を超えて自立的に展開する世界=人間もまたこの世界の一員という考え方】

    この考え方のもとでは、動物もまた仲間である

    日本の伝等的な精神世界は合理主義ではない

 

 5)欧米の自治 日本の自治

    ヨーロッパに生れた自治は人間社会の自治。人間どうしの契約。民主主義も人間社会の統治

    日本の社会観は自然と人間の社会⇒日本の自治は自然と人間の自治 自然とは契約を結ばない。

    日本の伝統社会は、神への祈りを基本とし、自然である神を家に呼び込んで家のなかに神域をつくり、そこに祈りをささげてなりたっていた。

    人間として暮らすこと自体が、人間を自然から切り離し、精神の穢れをつくりだす。人間は「私」=我をもっているから。この穢れにまみれた自分にいやになると、山に入り修行する。自然の中で、自然と一体となった自分を取り戻す。

  【入山修行だけではなく、お遍路もまた同じこと。どちらの日本だけの風習ではない。現代ヨーロッパにすら、とくにカトリックと東方教会の強い地域には、お遍路が存在する。この二つのキリスト教は土着の信仰と一体化している。つまりヨーロッパ古層に属する自然と一体となった共同体の思想が今も息づいている。これに反し、プロテスタントの地域には巡礼はない。ここでは、自然と切り離されたヨーロッパの共同体は、自然とは契約を結ばない⇒侵略・開発の対象。自然に祈るのではなく絶対的な神に祈る。巡礼でも土着の自然=ではなく、すべてキリスト教の神・聖人に置き換えられている。しかし家族・村を離れて巡礼すること自体が、自然と一体となる行為。】

 

 6)共同体と多層的精神

    日本的な共同体に生きる人々の精神世界には、「人間の世界」に生きる精神と、「自然の世界」に生きる精神というように、多層なせ精神構造がある。それは人間の世界と自然の世界が一体だからだ。

  自然と取り戻す行為=山に入る=人間の共同体を捨てる、個人主義的行為

  しかしこれは一時的 自分を取り戻せばまた人間の共同体に戻る

  自然が単純に恵をもたらすものではなく、どうにもならない天災をもたらすことからくる

 

 7)日本的な個の確立

    欧米人は個が確立しているが日本人はそれが弱く集団主義だというのは誤り。個の確立のされ方が違う。

    欧米の個の確立は、人間である他者に対して自己を示す形の個の確立。自己を際立たせる。

    日本の個の確立は、自己を極めることが個の確立。⇒自己の内面を掘り下げる

     (伊藤整 「近代日本人の発想の諸形式」 なぜ日本は私小説なのか?)

     ・ 精神世界での自己の追求⇒個の世界の展開する「源氏物語」「土佐日記」【隠棲文学も】

     ・ 技を極める形での自己の追求=【芸能の世界・匠の世界】

    個を確立した日本人は、他者である人間からは離れても自然からは離れない

     ⇒ジネンのままに生きる

    他者を捨てて個を確立できない人は⇒死んでジネンの世界と一体となり仏になる

 

 8)ゆるやかな共通性をもつ日本的共同体

    世界によって多様な共同体の形がある

    同じ自然の中で、長い間一定の交通圏の中にある地域には共通した共同体が形成される

 

●第三章 共同体のかたち

 

1)地域共同体という誤解

   農村山村共同体は、地域共同体ととらえられるが、そんな単純なものではない

   村の中自身にさまざまな共同体が並存している

    ・ いくつかの集落からなる地域共同体

    ・ 職人や林業者、商業者などの職業ごとの共同体

    ・ 寺の檀家や神社の氏子という共同体

     ・ みんなのためになることをみんなでやる「おてんまの会」などの共同体

    村には様々な目的であつまったグループがあるが、それがみな共同体と化していく。

 

2)テンニェス、マッキーヴァーの共同体論と多層的社会

   共同体は二重概念。小さな共同体がたくさんある状態がまた共同体。共同体の中に小さな共同体が多層的に積み重なっている。

   共同体についての古典的な定義

    ・ テンニェスの「ゲマインシャフトとゲゼルシャフト」(1887年)

       ※ゲマインシャフト=地縁・血縁などで結ばれた有機体=共同体

       ※ゲゼルシャフト=利害関係や目的意識でつくられた人間の社会

      この書物では ゲマインシャフト⇒ゲゼルシャフト が歴史の発展

     ・ マッキーヴァーの「コミュニュティ」(1917年)

       テンニェスのゲマインシャフトとゲゼルシャフトの関係を、コミュニティとアソシエーションの関係としてとらえ返したもの

       ※コミュニティ=共同的な生活が営まれる場、社会のありかたや文化が共有される結合体=未来に向けた永続的な社会

       ※アソシエーション=ある目的を実現するための組織 コミュニティの中に内包される。これは共同体ではない

    しかしアソシエーションがコミュニティに転化する実例をマッキーヴァーは説明できない。

    コミュニティの中のグループだからそれ自身がコミュニティに変化する。アソシエーション

をいくら積み上げてもコミュニティはできない。

 

3)近代社会と「小さな集団」

     トクヴィルは社会の中に多様に存在する小さな集団に気付いていた。その小さな集団の存在が、社会に多様な「精神の習慣」を持たせるのであり、それこそ健全な社会だと考えていた。

     トクヴィル著「アメリカの民主政治」でトクヴィルが見た1930年代のアメリカは、もっとも民主主義が確立されている国と見られていたが、彼はそこに「強権的なもの」「全体主義的なもの」「抑圧的なもの」を見た。アメリカは一つの精神が「正義」として社会を支配する国であった。

     トクヴィルは「多様な精神」を維持するためには、人々が社会の中で、多様な小さな集団に属して、そのグループの精神の習慣を身につけることで維持されると考えた。

     これは著者内山の感覚と同じ。

     その小さな集団が共同体になるかどうかは、それが存在している社会との関係にかかっている。その社会が共同体であるかないかに関らず。

 

4)自治する社会と共同体

    今日西洋の共同体概念にとらわれずに、日本の共同体をありのままに捉えることが必要

    日本の共同体の前提基盤

      ・自然

      ・自治力の高さ=日本の共同体は国家との戦いを続け自治を守ってきた

         検地・刀狩でも、士農分離による政治的統合によってでも、宗門改めによってでも、江戸期の共同体はその自治を守りぬいた

       ※それは自然と結合した日本の共同体にはすべてがある独立した世界だったから

      【日本の共同体は、特に農村の共同体は、自給的共同体であり、商品経済の拡大に対して伝統的に共同体を守り、それを犯すものを排除する機能を持っていた。従ってその自給的基盤を破壊しないと共同体は壊せない。これをやったのが、明治以降の廃仏毀釈による共同体精神の破壊と国家への統合、そして産業資本主義の発展による村の破壊。最終的にはこれは戦後の高度成長で完成した】

   

  5)共同体と家業の社会

     江戸期の共同体は、家業の共同体として作られていた

      ・農村=家業としての仕事(農業・林業・漁業・工業・商業が一体となった家業)

      ・都市=家業としての仕事(武士=統治 商人=商業 職人=工業)

     家業は継続されなくては意味がない⇒共同体の永続性

    【江戸時代の身分社会は武士による統治の社会ではなく、諸身分毎の共同体が並存した共生社会であったと言うこと】

 

  6)伝等的な共同体と現代(略)

 

●第四章 日本の自然信仰と共同体

 

1)日本の自然信仰の性格

     日本には至るところに神社・寺があり、村や町の各所に様々な神(山の神・水神・地蔵・観音・石仏などなど)が祭られている。

     だがこれが伝統的な日本の信仰の形をどどめているわけではない。

     日本の伝統的な信仰とはどのようなものだったのか。それは共同体にいかなる影響を与えたのか。この問題を抜きに日本の共同体は語れない。

     日本の自然信仰がいつどのようにして発生したかはわからない。

     日本列島に暮らした人々は自分たちの神の世界を持っていた。そこに「新しい」神の世界が入ってきた。天皇家の神々である。土着の人々の信仰は、縄文時代からの自然信仰を受け継ぐものであったことは間違いない。

     ※自然信仰(アニミズム)⇒多神教⇒一神教へという神の発達史観はとらない。

    【原史共同体⇒封建社会⇒市民社会・資本主義社会⇒社会主義社会という段階的発展論の裏側にあった「神」理論だからこれは採用しないということ】

     日本には古代から、仏教・儒教・道教が伝えられ、そのうちの道教・仏教と土着の信仰が融合しながら日本の民衆の宗教が形作られた。神仏習合が自然な形。

    【日本の仏教は道教・儒教とも融合している。その意味で日本の宗教は、外来の三つの宗教と土着の自然信仰とが融合したもの】

     日本の寺社の多くは、地域の人々が祈りを捧げるお堂・社として出発している。

 寺請制度の下での寺檀制度を通じて、幕府(藩)⇒本山・大社⇒末寺⇒共同体 の支配を実現しようとした。

 それでも村のお堂はあくまでも村のものであり、その守り主の多くは修験者であった。この修験者=法印様は神との媒介だけではなく、病気・災害への対処を祈念してきた。

支配者や教団の直轄の寺社は、この地域の(共同体の)寺社をその傘下に組み入れようとしてきた。いわば共同体の国家への統合。だから寺の宗旨替えも珍しくはない。その一つの形が江戸時代の寺請制度。

江戸時代には修験者もまた天台宗か真言宗のどちらかに加わることが義務付けられ、京都の聖護院を本山とする天台系の本山派と、伏見の醍醐寺を本山とする当山派に統合される。これも村(共同体)を信仰を通じて国家に統合しようとする試み。

修験道は仏教・道教・自然信仰が融合したもの。

だから共同体の信仰とは、この修験道そのものであった。

 

2)日本の自然信仰と権現思想

   自然信仰と仏教が融合した形としての権現思想。この権現思想を日本の自然信仰は取り込んだ。だから自然の力、山も滝も岩も、自然の力=神が様々な姿形の神となって現れる=権現思想。

 

3)民衆にとっての自然と神仏

   村人は自然を人のように扱う。「森が嬉しそう」「森が悲しんでいる」。ご先祖様は遠くに行かない。村の自然と一体となって村を守っている、という信仰。

 【今日有名なアメリカインディアンの世界を元にしてつくられた「千の風になって」の世界と日本の自然信仰の世界の性格は全く同一。日本は仏教・道教の姿をとっているだけ】

 

4)日本仏教と修験道

   この民衆の信仰的世界をもっとも良く現していたのが修験道。

   修験道の発生は、600年代に実在した役行者(えんのぎょうじゃ)。この時期に古来からあった自然信仰が、山岳信仰として完成された。

   修験道の教義が一応の形を持ち、文献に残ったのが平安末から鎌倉。

   中世から近世の世界は、共同体とともにあった修験道の信仰が広がった時代であったと考えている。鎌倉仏教もその流れの一つであったが、まだこの時代には知識人の一部たる武士のものに過ぎなかった。

  【浄土宗・時宗・浄土真宗・日蓮宗が共同体と結合し、共同体の宗教として権力と対抗しはじめたのが室町・戦国期。惣村・町と結合した一揆の世界】

 

5)山の修験道と里の修験道

   里の人間の村で暮らしながら同時に山に入って人間の穢れを落として村に戻る信仰。

   これが形を変えたのが、山岳信仰の「講」の形。江戸幕府の「遊行禁止令」によって土着せざるを得なくなった修験者が講をつくり、その先達として霊山に村人を誘うと言う形に姿を変えたもの。

 

6)近世都市社会と自然

   近世までの社会は、資本主義社会のような、不断の急激な拡大再生産を必要としない商品経済の社会であった。

   このため村や町は、社会がゆっくりとしか変動しないために、それぞれ家業の共同体として永続することが可能となり、そこに共同体が生れた。

   近世の都市の共同体の中にも、さまざまな小さな共同体が存在した。職業別の共同体(同業者組合)、家業の暖簾わけを通じて生れる本家−分家関係、家主・店子からなる長屋の共同体、氏子や檀家の共同体、出身地別の共同体。

   そして山岳信仰と結びついた「講」という共同体。

 

7)都市の共同体と講(省略)

 

●第五章 都市型共同体の記憶

 

1)都市における共同体の形

   都市の小さな共同体はしばしば講と重なることが多い。

  【都市は、街路の両側の町という小さな共同体の集合。講は町ごとに作られた】

    ・富士講=富士山を霊山とする信仰

    ・善光寺講=長野の善光寺を信仰する。善光寺と戸隠・飯縄修験は一体。

    ・伊勢講=伊勢神宮の信仰。伊勢神宮は神宮の広大な森と一体。

    ・高尾講=武蔵の高尾山の信仰。

    ・御岳講=武蔵の青梅の御岳山の信仰。などなど。

   講は信仰の共同体であり、毎年講のメンバーがお金を出し合い、代表が霊山に代参。代表は講のメンバーに霊山の土産を持ち帰る。

   同時に講は、娯楽の共同体でもある。信仰の核に祭りが存在。祭りは信仰であり娯楽。

   また同時に講は、助け合いの集団でもある。

 

2)都市の助け合いと貨幣

   都市の共同体の助け合いは、貨幣を用いることが多い。メンバーがお金を出し合って、困っている仲間に融資する形。

   「講」の流を汲む助け合いの組織=「無尽」「頼母子講」

     ・毎月一度の例会。全員が会費を払う。その会費の山を、借りたい人が入札する。最も安い金額で入札した人がこれを借りる。利子は前払いなので、会費総額と入札額との差=利子。入札に成功したものは、入札額を借りて、のちに全額返済。最も安い金額で入札したものが、最も高い金利をつけたことになる。

     ・困っている者がいたばあい、最初にその者が最も高い金額で入札し、他のメンバーは入札に応じない形で、困った者に優先権を譲る。

     ・誰もお金を必要とせず入札者がいないとき。お流れまたは、順番制で借りる。もしくはメンバーの中で最も裕福なものが低い金額で入札=講への寄付。これを「貸し倒れ引当金」として貯蓄したり、メンバーで派手に遊興したりした。

 

3)伝統的な信仰が果たした役割

   都市の共同体が都市の内部だけで完結しておらず、遠隔地の自然や霊山と結ばれて成立している。

   これは農村でも見られる。

   日本的共同体は、地域外とも結ばれることによって成り立つ共同体。

   信仰が、共同体の外とのつながりを結ぶ役割を果たしていた。

 

●第六章 共同体と近代国家

 

  1)国家と共同体

   日本の歴史は、一面では、民衆が自立的につくりだした生きる世界と中央集権を指向する国家との相克の歴史だったのではないか。この生きる世界を共同体と表現すれば、共同体と国家の相克の歴史と言い換えてかまわない。

   中国は早くから中央集権的国家が成立したため、行政の末端組織としての村はあっても、自立的な共同体を持たない社会として展開することとなった。中国に成立した儒教・儒学は、天地の世界があっての「私」であり、国家あっての「私」であるとする特徴を持っているが、この背景には、古くから統一国家が形成され、民衆の自律的な共同体が形成されていないという現実があった。道教を説いた老子さえ、理想的な国家、理想的な君子を待望していた。

 【この中国観は誤り。中国でも統一国家と並存対抗する形で共同体が存続したことは、様々な例証がある。儒教は統治者である士太夫階級の統治論として出発したゆえに先のような特徴があり、より民衆の自律的宗教世界に根を置いていた道教は、これが日本の自然信仰と融合して修験道を生んだことにも現れているように、その背後には自律的共同体があった。老子は道教の創設者ではなく、統一国家とのせめぎあいの時期に、それをある程度理論的に整理した人物に過ぎない】

   日本の社会は各地に自律的な共同体があったため、中央集権的な統一国家をつくろうとするとどうしても共同体と衝突する。

   しかも中世に入って支配者である武士自体が一族郎党を率いて農村に暮らし、武装した共同体を形成してしまう。それは中央から見れば、限定的な中央集権機能しかもたない国家しか形成できないことを意味していた。

   だから鎌倉時代は、中央−地方の支配関係が不安定でありつづけたし、それは室町時代に入っても変わることなく、ついに戦国時代に突入してしまう。武装した共同体を基盤にした地方権力は、領内の共同体の反乱にたえず神経を遣っていなければならず、中央権力からみれば、たえず無政府情況に直面しなければならなかった。統一国家をつくろうとするなら、中央−地方関係をどうするのかという課題と、武装した共同体をいかに解体するのかという課題を解決する必要があった。

 【中国から中央集権的国家機構とその法体系を輸入したとき、日本はまだ部族社会の段階にあった。奈良時代に貴族と呼ばれた人々自身がまだ、部族という血縁共同体の長として、その元に多数の下層民を部族の共同体に隷属するそれらの共同体を率いた者として存在していた。だから中央集権的な国家は造られず、結局、各部族の統治に任せるしかなかった。これが聖武天皇の時代に墾田永代私有令を出し、土地国有制である公地公民制を解体していくことになった理由である。以後支配階級である貴族は、全国にその部族の支配網を広げてゆき、その下層支配階級であった武士もまた、全国にその部族の支配網を広げていった。それが荘園制である。この過程で武士は、各地に存在する民衆の自律的共同体(これ自身が部族共同体)の長である百姓衆を自身の武力として統合し、こうして各地に武装した共同体である武士団が成立した。武士団は貴族である武士の頭と、百姓として民衆の長であった人々の、国家と戦うための武装共同体だった。しかし武士の武装共同体同士の争いが激化するなかでまた、民衆の共同体もまた武装化せざるを得なかった。これが惣村。このため鎌倉〜戦国の世の中は、国家−地方権力(守護・地頭などの武士団と、大寺社)−惣村との激しいせめぎあいとなったが、地方権力は次第に惣村の長クラス=地侍を自己の武力として組織して力を蓄えて中央と対抗して行った】

   共同体を基盤とした「農民兵」から、職業軍人的な軍事力として兵力を切り替えた武将としては織田信長がいる。検地・刀狩によって共同体の支配を実現しようとしたのは豊臣秀吉であった。そして江戸時代にはいると幕府は、武士を農村から引き上げさせ、城下町に住まわせる転換を行っただけではなく、秀吉が実際にはできなかった検地・刀狩を実施し、武士と共同体の結びつきを断ちながら共同体の武将解除をはかっていった。こうして武士による中央集権国家の確立が目ざされ、そのとき儒学が国家の基本思想として位置づけなおされた。儒教的な中央集権国家と共同体の相克が新しい展開を見せる。

   幕府がめざしたのは国家と人民の統一体系の形成であった。だから幕府は共同体の解体を試みる。検地・刀狩もその一つであり、様々な宗教政策で共同体の精神世界を壊そうとした。

   しかしこの試みは実現しなかった。

   水戸黄門も廃仏毀釈を発動して共同体の精神の破壊を試みたが、着手したもののたちまち中止せざるを得なかった(共同体の反撃がはげしかった)。

  【ただしくは、検地も形だけ。田畑の実際の収穫量は隠され、共同体が申告した収穫量と田畑の面積を信用してこれに課税した。実際の収穫量は申告量の倍だと言われている。当時の年貢率は2〜3割。だから実際の課税率は1〜1.5割。刀狩も実現できず、百姓が帯刀することを禁止しただけで、百姓は刀も鎧も鑓も鉄砲の持っていた。強盗盗賊や野獣から村を守ると言う名目で。江戸時代は村や町のことはそれぞれの共同体の自治に任され、権力の出先機関である奉行所が処理したのは、共同体を超える広域犯罪と、死罪に該当する重罪の処分だけで、あとは共同体が処理しきれない広域の経済犯罪と揉め事だけであった】

 

2)明治維新と神仏分離令

   明治元年に神仏分離令が出される。神と仏を分けろということであり、神社と寺を分離せよという命令。しかし実際はこれにとどまらず、神社のご神体を変えさせて天皇家の神を祭らせ、国家神道を作り出す。

   神仏分離令は各地で廃仏毀釈の動きを生む。分離令はここまで命令していないが、これを寺の破壊と理解した人々が暴走した。

   神仏分離令は江戸時代の支配者の悲願だったのではないか。神仏習合の信仰が共同体の核だったからだ。

   神仏分離令と派生した廃仏毀釈で大打撃を受けたのは修験道。

   明治政府は明治5年に修験道禁止令を発した(公認されたのは昭和21年の新憲法発布後)。公称12万とも17万とも言われた修験者は、国家神道の神官に転職するか、薬屋や小学校教員となった。その薬屋は薬事法改正によって民間生薬の世界を破壊され、次第に追い詰められていった(こうして共同体の精神世界の核であった修験者がうばわれた)。

 

3)唱歌「ふるさと」の世界

   修験道廃止令が出された明治5年は、日本に近代教育をつくりだすための学制が発布された年でもある。

   人々の精神革命を促す動きの中で、文部省は明治14年に「小学唱歌」をつくった。

    ・最初の唱歌:「宮さん宮さん」

    ・もっとも有名な唱歌:「ふるさと」

   この唱歌の精神世界は、立身出世を目指してふるさとを捨てて都市へと行き、お国のために活躍する人間となることである。文部省唱歌にはふるさとを捨てる歌が多い。

 

4)共同体と国民国家の成立

     戦争の帰趨を決する要素が、勇敢さや参謀の力から、国力そのものに変わったとき、国民国家の形成が課題となった。

     国民国家とは、国民のための国家ではなく、人間たちを国民としてバラバラにし、そのバラバラになった国民を国家の元に統合し、国家と国民とが不可分の関係にあるという「共同幻想」を成立させながら、それを実態に変えていく国家のこと。

     明治維新はこれを目ざしたが、円滑には進まなかった。

     それは突然、日清戦争と日露戦争とによって劇的に促された。

 

5)近代における日本の共同体

   共同体は明治以降明らかに解体過程に入った。

   今日私達の記憶にあり、語り伝えられてきた共同体は、解体されつつある共同体。多く語られてきた「伝統的共同体」とはこういうもの。明治になって解体されつつある共同体。

   ・家墓制度:これまでは一人一墓。【家制度の確立とセット】

   ・町村制:明治になって成立【大規模な町村合併で旧来の共同体を統合解体した】

   それでも変形した共同体は消えなかった。

   なぜならとりわけ農村では、人々が暮らしを安定させていこうとすれば、どうしても共同体の支えが必要だった。

   ・農業用水の確保  ・燃料としての薪の確保 =これらの配分は共同体の領域

   国家が共同体の精神世界を破壊し、その解体に乗り出しても、村の生活自身が共同体を必要とするという現実は変えられなかった。

   だがこの共同体はその核の部分が変質している。神を天皇家の神に変えられ、ふるさとをすてて都市に出て、日本国民として働く男子像が理想とされた。

   共同体は、生活を維持するための共同体という一面と、近代国家の細胞としての一面が重なり合う、二重の機能を持つ。自由がないとか、家父長的だとか、相互監視機構的だとか批判された共同体は、近代日本によって解体過程に入った共同体だった。

 

6)共同体と戦後社会

     高度成長以後の農村の歴史は、最後に残っていた共同体の機能を不要なものにしていく歴史であった。

     ・エネルギー革命⇒共有林の役割を解体

     ・圃場整備と農業用水の確保⇒農地と水の確保と言う共同体の役割を解体

     高度成長で財政的に余裕の出来た政府は、財政を出動させ、農村の社会基盤の整備を次々と行った。村は近代化した。

     それでも共同体はその命脈を閉じたわけではない。

     共同体を維持しようとする意図が村人の中に存在したから。

     ・意識して村を守ろうとする動き

     ・共同体は守るべきものとする身体感覚

     ・共同体を守ると言う霊的衝動【この二つは村祭りという形で具現化されている】

 

●終章 共同体の基礎理論にむけて

 

1)共同体を考察する視点

   20世紀=共同体は過去ではなく、未来に繋がる歴史貫通的なものではないか。

       =民衆世界を復元しようとする新しい歴史学(アナール学派)の登場。

   共同体のなかで民衆がいかに生きたのかをとらえることによって、これからの社会における共同体のありかたをつかみなおすことが問われている。

 

2)共同体とローカリズム

   システムを変えれば世の中は良くなると言う発想から、それぞれが生きる世界を再創造しながら世の中を変えていくという方向に、変革理論が変化してきた。

   共同体は地域によって異なる。

   共同体はそれぞれローカルな共同体を基盤に考察される必要がある。ただし日本の共同体にはある種の共通性もあることも忘れてはいけない。

 

3)ともに生きる世界として

   私達がつくれるのは小さな共同体である。

   ここにともに生きる世界があると感じられる小さな共同体をいかに積み重ねていくか。それが積み重なっていけば、ここに共同体があると感じられる時空が生れる。

 

4)日本的共同体と外部(略)

5)日本の平等観について

   日本的な共同体といえども不平等なき社会ではなかった。

   それが伝統的な再配分システムを生んだ。

   共同体を再創造するのであれば、再配分システムを再創造することが欠かせない。

 

6)これからの課題としての共同体

   自然と共に生きていく実感が失われたのは、市場経済であったり、大きな社会システムや国家システム、さらには世界システムが原因である。

   これらをどう作り変えるか。

   そのためにも共に生きる社会としての共同体の再創造が不可欠。

 

●補論・第二部(省略)


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