グループ研究会 『アメリカ資本主義の今』第4回研究会レジュメ
2013年4月20日
文責:須長
アメリカ資本主義の勃興と覇権国家への道
使用テキスト:猿谷要「検証・アメリカ500年の物語」平凡社ライブラリー
サブテキスト:有賀夏紀著「アメリカの20世紀(上)1890〜1945年」中公新書
「アメリカの20世紀(下)1945年〜2000年」中公新書
時代区分:参考テキストとは少し異なる時代区分を行う
T:アメリカとの遭遇(アメリカ大陸「発見」まで:世界システムとアメリカ大陸)
U:アメリカ植民開始〜アメリカ合衆国独立まで(旧世界から絶縁した新世界の建設)
V:独立から南北戦争まで(資本主義アメリカの形成と南北の対立の醸成)
W:南北戦争から米西戦争まで(統一国家アメリカの再形成と帝国主義国家へ)
X:米西戦争から第一次世界大戦まで(「人権外交の開始」と「革新主義」の時代)
Y:第一次世界大戦から第二次世界大戦まで(「アメリカの世界」形成への準備期間)
Z:第二次世界大戦から1972年ごろまで(「アメリカの世界」形成へ)
[:1972年ごろ以後現在まで(「アメリカの世界」の衰退と新自由主義の勃興)
T:アメリカとの遭遇(アメリカ大陸「発見」まで:世界システムとアメリカ大陸)
前3万年頃 | アジア人が北アメリカに移動し最初の移住者となる |
前1万2千年頃 | 南北アメリカ大陸に広がりそれぞれに文化を形成 |
1488年 | ヴァスコ・ダ・ガマ喜望峰発見とインドへの進出 |
1492年 | コロンブス、カリブ海のサン・サルバドル島に到達 |
1521年 |
スペインのコルテスがアステカ帝国(中米)征服 |
1533年 | スペインのピサロがインカ帝国(南米)征服 |
・アメリカ各地に独自の文化圏が成立―相互の交通と旧世界との交通は確認されていない。
(アジアを中心とした「世界システム」からは孤立していた?)
・15世紀に旧世界に大きな三つの変化が起きる⇒ヨーロッパの東方進出(猿谷p28)
@ ビザンツ帝国の滅亡とオスマン・トルコ帝国の成立:トルコとこれと結んだヴェネチアの東方貿易の独占
A イベリア半島をイスラム勢力から奪還したスペイン・ポルトガルの海外進出とトルコ・ヴェネチアとの対立
B 科学技術の進歩:造船技術の進歩・羅針盤の導入・鉄砲の普及
※使用テキストは「世界システム」との関係の認識が希薄
旧世界の中枢はペルシア(イラン)・インド・中国を中心としたアジア。ここに人口の多数と資源の大部分が集中し、これを基盤として文明が栄え続けた。ペルシア・インド・中国の三文明は紀元前から相互に交通し、人や物を交換し続けた(この経路:陸のシルクロード・海のシルクロード)。三文明の周辺に位置する未開・半未開の地域も文明と交通し、自らの産物を持参して文明の産物を手に入れていた(中枢の文明=帝国 ←→ 周辺の未開・半未開=隷属国 として朝貢貿易)
※半未開としてのヨーロッパ:中枢に持っていくものとしては金銀しかなかった。
チェコ周辺の銀と交易を通じてアフリカから手に入れた金
※東方貿易をトルコに独占されたあと、チェコ周辺の銀はヴェネティアが独占。
新興国ヨーロッパを代表するスペインとポルトガルは金を手に入れるために中部アフリカ・南部アフリカ(ここに金があるとアラブ人からのうわさ)を目指す
⇒ポルトガルの海外進出と中部アフリカの「黄金海岸」=マリ王国の「発見」とその支配。
ポルトガルとイベリア半島で覇権を競っていたスペイン⇒ポルトガルより先にアジアへ
この動きにコロンブスが「地球は丸いのだから、西に海洋を越えていけば黄金の島ジパングを経てアジアに到達できる」と最新の地理知識をもとに提案
⇒アメリカ大陸の「発見」。スペインは中米・南米の帝国を支配しその黄金を独占。
*世界の金の三分の二=アメリカ大陸 三分の一=日本
※ポルトガル・スペインの金はフランドルの金融市場を通じて、ヨーロッパの産業中枢であったオランダ・イギリス・フランス(どこも毛織物産業の中心地)に還流。東方貿易の中心はスペイン・ポルトガルから次第に、オランダ・イギリス・フランスへと移行。
※ポルトガル・スペインは次第に金を掘りつくし、18世紀までにはほぼ枯渇。中南米の先住民は鉱山での過酷な労働とスペイン人が持ち込んだ疫病のために、多くが死に絶える(猿谷p31・34)。
(以上の補足は、アンドレ・グンダー・フランク著「リオリエントーアジア時代のグローバル・エコノミー」2000年藤原書店刊などによる)
U:アメリカ植民開始〜アメリカ合衆国独立まで(旧世界から絶縁した新世界の建設)
1565年 | スペイン人、フロリダ半島の根元にセントオーガスティンを建設。 |
1607年 | イギリス人、ヴァージニアに入植 |
1608年 | フランス人、セントローレンス河畔にケベックを建設 |
1619年 | 最初の黒人奴隷、ヴァージニアに到着 |
1620年 | メイフラワー号、プリマスに入植 |
1626年 | オランダ人、先住民よりマンハッタン島を購入、ニューアムステルダムを建設。 |
1664年 |
オランダとの戦争に勝ったイギリス人、マンハッタン島を占領。ニューヨークと改名。 |
1718年 | フランス人、ミシシッピ河口にヌーヴェルオルレアン(後のニューオーリンズ)を建設 |
1733年 |
ジョージア植民地建設、イギリス領13植民地となる |
1754年 |
英仏間に最後の植民地戦争(〜63年):フレンチ・インディアン戦争⇒イギリスがミシシッピ川以東のフランス植民地を手に入れる |
1770年 | ボストン虐殺事件 |
1775年 | 独立革命戦争始まる |
1776年 |
独立宣言公布 |
1781年 |
イギリス軍降伏(⇒1783年講和条約調印) |
1784年 |
中国との貿易が始まる(プリマス・ボストンが拠点) |
1787年 | 憲法制定会議 |
1788年 | ワシントン、初代大統領に就任 |
・北米では、スペインの南米における国家的侵略ではなく、個人または会社または国家による植民が行われる。⇒農業または商工業が育成される
・不足した労働力として、アフリカから黒人奴隷が投入(猿谷p35〜40)
・ヨーロッパの本国同士の戦争でアメリカでも戦争が起き、植民地争奪戦となる(猿谷p44)
フレンチ・インディアン戦争の勝利により、ミシシッピ川以東をイギリスが支配
・異質な三つの地域からなるイギリス植民地(猿谷p47)
○北部植民地:=ニューイングランド地方 ニューハンプシャー・マサチューセッツ・ロードアイランド・コネティカット州
ピューリタンなど宗教的雰囲気濃厚、林業、造船業、漁業(捕鯨:照明・潤滑油としての鯨油)、貿易業(西インド諸島・南ヨーロッパ・アフリカと)が盛ん
○中部植民地:ニューヨーク・ニュージャージー・ペンシルヴァニア・デラウェア州
自営農民による小麦、トウモロコシ、酪農。
ニューヨークとフィラデルフィア:国際的海港として発展(小麦・小麦粉・木材など)
フィラデルフィア:植民地最大の都市(三万)
○南部植民地:メリーランド・ヴァジニア・ノースカロライナ・サウスカロライナ・ジョージア州
大規模なプランテーション農業地域:黒人奴隷を使う大農場
タバコ・米栽培
※イギリス植民地相互間の貿易も発展⇒ブリティッシュアメリカとしての一体感の醸成
※ブリティッシュアメリカは、イギリス商品の最大の輸入地として、イギリスに砂糖を輸出する西インド諸島への必需品の輸出地として、イギリスの貿易において重要な地位をしめる。
(以上「アメリカ史1」(山川出版)から補足)
※本国イギリスから遠い「植民地」として、次第にイギリスから送り込まれてくる総督から自立した政治的風土が生まれる。
・南部ヴァジニア:総督の給料不払いで代議員会が抵抗
・北部および西部:タウンミーティングによる自治が発展
・イギリスの植民地政策を批判する自律的な新聞の創刊
植民地の政治機構(「アメリカ史1」山川出版より補足)
・イギリスからの独立に向けた動き
フランスとの植民地戦争に勝って、インドおよび西アフリカとアメリカに広大な植民地を得たイギリスは、財政強化のため植民地に対して強圧的な態度に出た(1763年〜68年 9つの強圧的法律を施行)
1)1764年 アメリカ歳入法:植民地と外国との通商を厳しく規制しかつ輸入税の増強
外国産精製糖・織物・コーヒー・葡萄酒などの関税引き上げ
2)1765年 印紙条例(植民地で発行する印刷物の課税)←代表なければ課税なし
3)1765年 駐屯条例(イギリス軍隊の駐屯とそれに関わる費用の現地負担の強制)
←1770年ボストンにて駐屯軍と市民との衝突。市民5人が殺される
4)1767年 タウンゼント諸法
ガラス・ペンキ・紙・茶などイギリス産品の課税強化(1770年茶以外は廃止)
5)1773年 茶法(東インド会社にイギリスを経ずして植民地に茶を運ぶことを許可)
←1773年ボストン茶会事件
破産寸前の東インド会社を救う目的でイギリス議会が送り込んだ茶を満載した船をボストン市民が襲い、茶箱を海に投げ捨てる。
6)1774年 ボストン港法(ボストン市民が東インド会社に賠償しないかぎり港を封鎖)
マサチューセッツ政府法(代議会から選出されていた評議会を任命制に)
司法行政法(裁判官を王の任命制に)
ケベック法(ケベック州でカトリックを公定教会と定めるなど)
(以上「アメリカ史1」山川出版より補足)
1774年9月第一回大陸会議開催 植民地人の権利侵害する諸法の廃止・常備軍の撤退を要求
1775年4月18日 ボストン近郊のレキシントンでイギリス駐屯軍と民兵が衝突⇒独立戦争へ
植民地側の武器庫(コンコード)を襲おうとした駐屯軍を民兵が待ち伏せ攻撃
※植民地側は独立で固まっていたわけではない
独立派:5分の2 中間派:5分の2 王党派(イギリス支持派):5分の1
※苦戦していた植民地側を勇気づけ独立へと動かしたもの:「アメリカ人」としての自立した意識の形成
トマス・ペイン著「コモン・センス」の出版(1776年1月)
1775年5月第二回大陸会議 臨時連邦政府の成立と外交交渉と戦争の方針を採択
1776年6月大陸会議 独立に向けての方針決定 独立宣言起草委員会を選出
1776年7月大陸会議 独立宣言採択:植民地アメリカ人の人権を無視するイギリス国王ジョージ三世を非難し、イギリスからの「独立革命」を宣言
1778年米仏同盟成立 フランスの援軍がアメリカの到着 スペインもイギリスに宣戦
1781年10月 イギリス軍降伏⇒戦闘の終結 王党派財産没収・国外追放(およそ10万人)
・混沌とした状況を統一へとむけたもの
1)1785年公有地条例:アパラチア山脈の西側の土地の売却基準と公有地確保⇒西部発展の基盤
2)1787年北西部条例令:西方に新しい州を作る際の基準(人口を元に・西部の奴隷制禁止)
3)1787年合衆国憲法:州利害の調整(上院州代表は各2名 下院人口比例・奴隷制の容認)
※二大政党の成立
中央集権の強化を必要として連邦政府の権限拡大に賛成派:フェデラリスト(連邦党)・北部
各州の自治を大事として連邦政府の権限の制限に賛成派:リパブリカン(共和党)・南部
⇒合衆国銀行設立問題・産業振興のための補助金交付問題・租税法の制定など
V:独立から南北戦争まで(資本主義アメリカの形成と南北の対立の醸成)
・人口の飛躍的増大:1790年(393万人)⇒1860年(3144万人)←社会の安定による自然増
↑
←←←←←←大量の移民の到来
※今までの移民はイギリス系⇒新移民はドイツ・アイルランド系
1820年代 12万9000人 ⇒40年代 142万人 ⇒50年代 300万人(「アメリカ史1」)
・領土の飛躍的拡大:1803年 フランスからルイジアナを購入
1819年 フロリダをスペインから買収
1836年 テキサスをメキシコから独立させる⇒1845年テキサス併合
1850年 メキシコ戦争に勝利しカリフォルニアを併合
※テキサス・カリフォルニア併合のやり方に注意=後年のハワイ併合や米西戦争と共通する
※この広大な地域に大量の移民と綿花プランテーション拡大で追い出された南部の小農民が到来し、次々と新しい州が出来ていく
1791年 ヴァーモント州(自由州)
1792年 ケンタッキー州(奴隷州)
1796年 テネシー州(奴隷州)
1803年 オハイオ州(自由州)
1812年 ルイジアナ州(奴隷州)
1816年 インディアナ州(自由州)1817年 ミシシッピ州(奴隷州)
1818年 イリノイ州(自由州)
1819年 アラバマ州(奴隷州)
1820年 メイン州(自由州)
1821年 ミズーリ州(奴隷州)
1836年 アーカンソー州(奴隷州)
1837年 ミシガン州(自由州)
1845年 フロリダ州(奴隷州)・テキサス州(奴隷州)
1846年 アイオワ州(自由州)
1848年 ウィンスコンシン州(自由州)
1850年 カリフォルニア州(自由州):フロンティアの消滅
1850年:全部で31州に拡大(大西洋から太平洋まで) ・自由州:16州 ・奴隷州:15州 |
・東部世界に限られていたアメリカ人の目が「外部」へと広がる
※領土拡大をアメリカ人の使命とする思想の出現
=「明白な運命(マニュフェスト・デスティニー」)
「年々増加していく何百万ものわが国民の自由な発展のために、神によって割り当てられたこの大陸に伸び広がって行くというわれわれの明白な運命」
1845年「若いアメリカ運動」の提唱者、ジョン・L・オサリヴァンがその著書「併合論」で使用したことに始まる⇒西部開拓・先住民の強制移住・メキシコからの領土奪取・海外への進出を合理化する思想の出現
(以上「アメリカ史1」山川 より補足)
※西部開拓が進む中で先住民インディアンは住処を奪われ西部山岳地帯に強制的に移動される
1830年 インディアン強制移住法の成立
・産業の急速な発展:1790年 イギリスの進んだ技術をモデルに自動織機を備えた木綿工場建設
1793年 ホイットニーが自動綿繰機を考案
1807年 フルトンが蒸気船の実用化に成功
※運河や鉄道網の拡大により急速に産業発展(北部:工業地帯 南部:綿花地帯)
北部綿工業の拡大 1815年〜33年 年平均15%の拡大
1840年代以降は機械工業が勃興
綿花生産の拡大 1790年 156万7000ポンド
1820年 1億6718万9000ポンド
綿花輸出の拡大 1803−07年 年900万ドル(総輸出の22%)
1815−19年 年2300万ドル(総輸出の39%)
(以上「アメリカ史1」より補足)
※北部工業化の進展⇒女性の社会進出拡大⇒女性の市民権獲得運動
1848年ニューヨーク州のセネカ・フィールズにおける女性権利拡大の集会
※南部における奴隷人口の拡大:1800年 85万人
1830年 200万人
1860年 395万人
・旧世界からの意図的な断絶:1823年モンロー宣言⇒アメリカは国内問題に専念
ヨーロッパ各国がアメリカ大陸に介入することに反対・アメリカもヨーロッパ大陸に干渉しない
※1820年代中南米各国がアメリカ独立革命・フランス革命の影響を受けてスペイン・ポルトガルからの独立を宣言。ヨーロッパ神聖同盟(ロシア・プロイセン・オーストリア・フランス・スペイン・ポルトガル)これに介入するのを阻止するため。
※ロシアがアラスカから北米を南下しカリフォルニアを狙っていたことを阻止する。
・政党活動の推移 フェデラリスト党の衰退解体とリパブリカン党の優位
1812−15年のイギリスとの戦争
フランスナポレオン政権孤立化のためにアメリカなどの中立国の貿易にイギリスが介入したことの結果として南部から輸出される農産物が激減したと判断したリパブリカン政権がイギリスに宣戦布告。イギリスとの関係悪化を懸念したフェデラリスト党は強硬に反対。
1815年アメリカ軍のイギリス軍への大勝とガン条約で大幅な領土獲得の実現
⇒フェデラリスト党、戦争非協力者として追及され衰退⇒地域利害に基づく地域政党へと分裂
⇒一党支配となったリパブリカン党→1820年代に地域政党へと分裂(最大政党:デモクラティック・リパブリカン党=民主党)
・南北の利害の対立(猿橋テキストは南北対立の深部を描いていないー奴隷制に焦点あてすぎ)
1)1828年 関税法制定時の対立:南北の産業構造を背景とする対立
平均税率40%・毛織物関税率45%の国内産業保護法
北部実業界の意思を背景(西部農業者を取り込むため大麻・亜麻・糖蜜にも高関税)
南部綿花プランターの反対
2)1853年 カンザス・ネブラスカ法制定時の対立:奴隷制をめぐる対立
アイオワ州の西部をネブラスカ準州(自由州)・ミズーリ州の西部をカンザス準州(奴隷州)とする法案。南部の支持を得るために1820年のミズーリ妥協(北緯36度30分以北に奴隷州は作らない)を反故にした。
北部の危機感を増大し民主党分裂
3) 大量の移民到来によるアメリカ生まれの新住民の増大⇒外国人排斥運動
文化の違いと貧富の差の拡大⇒外国人排斥・禁酒法・反カトリック運動
※西部・北部における国民分裂の危機
※以上の危機を背景に1854年 反奴隷制・反民主党を掲げる共和党が成立⇒南北対立の激化
(以上「アメリカ史1」より補足)
・南北戦争:深刻な国家分裂の危機
長引く内戦:イギリスやフランスの介入の危機
膨大な戦死者:合計61万8000人(北:36万人 南:25万8000人)
※独立戦争:4044人 米西戦争:5400人 メキシコ戦争:1万3270人
第一次世界大戦:11万5000人 第二次世界大戦:31万8000人
W:南北戦争から米西戦争まで(統一国家アメリカの再形成と帝国主義国家へ)
1867年 1868年 1869年 1871年 1876年 1877年
1882年 1883年 1886年 1890年 1896年 1898年 |
アラスカをロシアから購入 最初の日本人移民ハワイへ 最初の大陸横断鉄道開通
インディアン支出法制定(=インディアンは居留地へ) 建国100年祭・フィラデルフィア万博・電話の発明 連邦軍南部占領の終了・最初の鉄道ストライキ
中国人労働者入国禁止法 最高裁判決で黒人の公民権より州権優先 自由の女神像完成・AFL結成
フロンティアの消滅・先住民の組織的抵抗終わる 最高裁「分離はするが平等」判決=黒人差別の容認 米西戦争⇒フィリピンなど海外領土の獲得 |
・産業発展の政策をとり続けた共和党政権⇒産業の急速な発展⇒世界の工場への躍進
★第一次金ぴかの時代―共和党政権の時代★
・リンカーン(1860−65)
【共和党】
・ジョンソン(1865−68)≪民主党≫
・グラント(1869−77)
【共和党】
・ヘイズ(1877−1880)
【共和党】
・ガーフィールド(1881)
【共和党】
・アーサー(1881−84)
【共和党】
・クリーブランド(1885−88)≪民主党≫
・ハリソン(1889−92)
【共和党】
・クリーブランド(1893−96)≪民主党≫
・マッキンリー(1896−1901)【共和党】
・徹底した保護貿易主義:1864年関税法=平均47%の高関税(〜20世紀前半まで)
⇒政府収入の増大
⇒自国産業の成長を促す(鉄道業・製鉄業・鉱山業・機械工業・石油産業)
・巨大資本優遇策:
1862年:大陸横断鉄道会社への政府をあげての助成(建設予定地に沿って広大な公有地を与える、政府借款を与える)
ユニオン・パシフィク鉄道(オマハから西へ)→→→→→→→→
【1869年ユタ州オグデンで結合】
セントラル・パシフィク鉄道(サクラメントから東へ)→→→→
大陸横断北ルート:1881年ノーザン・パシフィック鉄道(⇒オレゴン)
大陸横断南ルート:1882年サザン・パシフィック鉄道(ルイジアナ⇒カリフォルニア)
・産業界への自由放任主義⇒カルテル・トラストによる産業独占化が進む
⇒企業王の出現:鉄鋼王カーネギー、石油王ロックフェラー、鉄道王グールド
⇒社会ダーウィニズム(適者生存説)・人種主義(白人の優越)を広げる
・技術革新の進展と新たな産業の発展
鉄道:1864年ブルマンによる寝台車の導入
1868年ウェスティングハウスによるエーブレーキの発明1875年冷蔵車の導入
レールの鉄製から鋼鉄製へ
電気:1877年蓄音機の発明(エジソン)
1879年白熱電灯の発明(エジソン)
1894年キネトスコープの発明(エジソン)
他に電気モーター⇒【1873年ケーブルカー(サンフランシスコ)
・1874年市街電車(ニューヨーク)
】
通信:1832 年モースによる電信の発明
1876年ベルによる電話の発明
1888年イーストマン、コダックカメラを完成
・イギリスを抜いて世界の工場へと躍進
米国の外国への輸出金額・1897(明治30)年 |
10億ドルを越える |
米国の外国への輸出金額・1900(明治33)年 |
15億ドル |
米国の外国への輸出金額(1896年前10年の平均) |
8億2500万ドル |
米国の外国からの輸入金額(最近5・6年平均) |
8億ドル |
※1900年の貿易黒字=約7億ドル
米国の製造品輸出金額(1897年前10年の平均) |
1億6300万ドル |
米国の製造品輸出金額・1898(明治31)年 |
2億9000万ドル |
米国の製造品輸出金額・1899(明治32)年 |
3億3900万ドル |
米国の製造品輸出金額・1900(明治33)年 |
4億3400万ドル |
※米国は原料・食料の輸出国⇒製造品輸出国(世界の工場)に転換
※製造品輸出の増加の原因は、鉄鋼製造・器械製造技術の発明による
米国と欧州との貿易(米国輸出−輸入)・最近3年平均 |
6億ドルの黒字 |
米国と欧州との貿易(米国輸出−輸入)・6年間の合計 |
27億4400万ドル |
※欧州が超過額を金貨で支払った額=1億3200万ドル 米国は欧州に対する巨額の債権国
⇒品質高く安いアメリカ製品が欧州を席巻
(1901年刊・前大蔵次官(財務省次官)ブァンダーリップ氏のパンフ「米国商業の欧州侵略」(1902年刊齋藤修一郎訳「米国商工大勢論」より)
・西部開拓の促進と先住民の組織的抵抗の排除:
1862年:自営農地法(ホームステッド法)農民への公有地(160エーカーまで)無償交付
1871年:インディアン支出法でインディアンの保留地を白人に開放し政府が定めた居留地に強制移動させることを制定
大陸横断鉄道の敷設に伴い大量にミシシッピ西部に白人が移住したことでインディアンの保留地はほとんど失われていった。
※1876年第七騎兵隊全滅(唯一の白人の敗北)
・南部における黒人差別の温存と承認
1863年奴隷解放宣言
1865年憲法修正第13条で奴隷の解放・自由を確認
1868年憲法修正第14条で黒人の市民権承認
1870年憲法修正第15条で黒人の選挙権承認
1877年の連邦軍による南部占領が終わるとともに奴隷解放は事実上骨抜きに
南部の南部人による再建が進む
⇒黒人差別の温存化と法律による承認⇒黒人自身の手による市民権獲得の運動
1883年最高裁判決:憲法修正第14条よりも各州の権限を優先
1890年最高裁判決:「分離はしても平等に」――――――――――1954年廃止
・独占資本と結びついた政界の腐敗と小農民を基盤とした人民党の躍進
1892年人民党の結成⇒大統領選挙で100万票以上を獲得(94年:150万票)
←州知事2名・連邦上院議員5名・連邦下院議員10名 ・各州議会議員1000人以上
※共和党政権が続く中で政界と財界の癒着が進む
有力な財界人はポケットの中に10人の連邦議会議員を入れている 。共和党だけではなく民主党も産業界・財界の意向を汲んだ政策に特化。
※農産物の価格低下←農業の機械化・世界市場での取引拡大
銀行からの負債の増加⇒負債のために土地を手放す農民の増大
農民に対する不当に高額な鉄道運賃
※労働運動の発展
1886年AFL(アメリカ労働総同盟)結成
1892年カーネギー鉄鋼ホームステッド工場大争議
★人民党の政策
政府の不正義を非難
※「浮浪者と百万長者」にアメリカ人は分裂
・インフレ政策
・累進課税
・外国人の土地所有の禁止
・鉄道電信電話の国有化
・上院議員直接選挙
・住民発議による立法
・秘密選挙制 ・女性参政権 |
1894年「コクシーの軍隊」(失業者)のワシントン行進
アメリカ鉄道労働組合のブルマンストライキ←――――――――クリーブランド政権(民主党)軍隊で弾圧
1896年民主党候補の支持⇒人民党の分裂と衰退
(以上、有賀「アメリカの20世紀・上」より補足)
・新移民の急増と大量の都市の貧民の増大⇒20世紀前半にかけて「国民分裂」の危機
旧移民(アングロ・ゲルマン系、イギリスやドイツでプロテスタント)
新移民(スラブ系かラテン系、東欧とイタリア・ギリシア、カトリックかギリシア正教)
(猿橋著「物語アメリカの歴史」中公新書より)
・帝国主義政策の採用
アメリカが世界の工場となり国内フロンティアが消滅する中で、資本家の目は海外市場へと向けられていった
1890年アルフレッド・マハン著「海上勢力の歴史に及ぼす影響」
今後の世界は市場獲得競争が中心となる
・海運力、海軍力、植民地(余剰生産物の吸収地)
1899年「今日我々は自分たちで消費できる以上の量を生産している。したがって製品のための新しい市場、資本の新しい活用の場、労働のための新しい仕事をさがせなければならない」(上院議員アルバート・ビヴァレッジの発言)(有賀著より補足)
1898年米西戦争:キューバとフィリピンの独立運動支援を名目にスペインに宣戦を布告。
⇒キューバ、プエルトリコ、グアム、フィリピンを領有
※実質は@キューバにおける米国資本の擁護(5000万ドル)
Aフィリピンを橋頭保とした中国市場への進出
⇒1899年国務長官ジョン・ヘイによる「中国門戸開放宣言」=世界帝国へ!
X:米西戦争から第一次世界大戦まで(「人権外交の開始」と「革新主義」の時代)
1898年 1899年 1900年 1901年 1904年
1905年 1906年 1907年 1909年 1914年 1916年 1917年 1918年 1919年 1920年 |
米西戦争。フィリピンなど海外領土獲得⇒帝国主義へ ヘイによる「中国門戸開放宣言」 中国で義和団の乱勃発・アメリカ議会承認へずに2500人派兵 ペンによる社会腐敗批判始まる――革新主義、アメリカ社会党結成 T・ローズベルト大統領中南米に干渉(パナマ住人の反乱保護で軍隊派遣⇒独立) パナマ運河の建設開始(アメリカの租借)
T・ローズベルト大統領極東・中国分割に干渉(日露ポーツマス講和) サンフランシスコ大地震、日系移民への差別表面化 この年、年間移民数最高の128万人 全国黒人向上協会結成
第一次世界大戦勃発、パナマ運河開通・中立宣言 南部黒人の北部移住が大規模に 第一次世界大戦に参戦・ロシア革命 ウィルソン大統領の14カ条宣言 ベルサイユ条約発効 国際連盟発足(アメリカは参加せず) |
・革新主義の時代
※革新主義(Progressivism)とは何か?
19世紀末から20世紀初にかけて、多様な人々が多様な考えに立って、社会の一部ないし全体的な改革をめざした動き(社会主義もその一部)
※実際には、資本主義経済体制の下で発展した工業化社会に合わせた新しい社会秩序の編成をめざす動きが、社会的には主導的な位置を占めた。
主な担い手:白人男性、大学・実業界・政府が一体となって推進(産学官共同体制)
つまり、産業の発展によって生まれた中産階級上層の企業の管理・経営者、弁護士、科学技術者、大学研究所の学者、医者などが主要な担い手
1)ペンによる社会腐敗批判(マックレーキング)
2)連邦政府による革新主義政策の推進
T・ローズベルト大統領(共和党)1901年〜1908年
天然資源保護、大トラストを反トラスト法違反として提訴、炭鉱争議解決のため雇用者に圧力、食肉検査法・純良食品薬品法の制定、
W・タフト大統領(共和党) 1909年〜1912年
トラスト訴訟、国有林の拡大、工場労働の安全・連邦児童局設立、8時間労働法
W・ウィルソン大統領(民主党)1913年〜1920年
関税率の大幅引き下げ(47⇒30%)、富裕層への所得税増税、連邦準備制度設立、クレイトン反トラスト法の制定(トラストの規制内容の明確化・労働組合ストライキを反トラスト法から除外)
(以上、有賀「アメリカの20世紀・上」より補足)
※この革新主義の伝統を引いて30年代に社会改革を推進したのが、F・ローズベルト大統領(民主党)
・「人権外交」という名の帝国主義外交政策の推進
1)ローズベルトの「棍棒外交」
1903年コロンビアからのパナマ住民の独立運動支援を名目に海軍を派遣し、独立したパナマから運河地帯の租借権を1000万ドルで獲得
1904年ドミニカ共和国の財政危機に軍事介入
※モンロー宣言を拡大解釈し、合衆国は外部からの干渉を招きやすい西半球の慢性的悪行を防ぐために警察官の役目を果たさねばならないと言明
1905年日露戦争に際してロシア・日本の勢力拡大を阻止するため講和を斡旋
以後満州に勢力を拡大する日本にたいしてアメリカの力を誇示して抑える
※中国では「門戸開放宣言」の沿った形で動き、日本の満州領有もこの範囲に抑えようとした。一方将来の日米戦争を予感し、当面日本人移民排斥運動を抑えて関係悪化を阻止するとともに、太平洋における海軍力の増強に力を注ぎ、将来の戦争に備えた
2)タフトの「ドル外交」
1909年ニカラグアの紛争に軍事介入
※アメリカ資本の海外進出を援助。中国におけるアメリカ資本の進出を後押しし鉄道建設権などを手に入れ、満州植民地化をはかる日本との対立激化
3)ウィルソンの「宣教師外交」
1914年海兵隊を派遣し、メキシコのヴェラクルスを占領
1915年ハイチに海兵隊を派遣(⇒1916年保護国化)
1916年アメリカ軍メキシコに侵入、海兵隊がニカラグアのサント・ドミンゴ上陸(⇒24年まで占領)
1917年ドミニカに海兵隊出兵
1918年ロシア革命に介入しシベリアに出兵(⇒1920年まで)
※アメリカの民主主義に基づいた外交を標榜し、友好と信頼を築くとしたが、実際は、進出したアメリカ資本保護のため出兵(ハイチ・ドミニカ・ニカラグア)したり、民主主義勢力を革命から守るとの名目(メキシコ革命・ロシア革命)で出兵したり、積極的に軍事介入を行った。第一次世界大戦においても当初は中立を標榜したが、実際はイギリスを物資で支援していたためアメリカ商戦がドイツ潜水艦に攻撃されて参戦。第一次世界大戦も世界の民主主義を守るためと標榜し、ドイツを民主主義の敵として介入。だが実際はヨーロッパに拡大しているアメリカ資本の権益を保護するものであった(←1937年、上院におけるアメリカが参戦した理由を調査するナイ委員会の結論)
【補足】革新主義と社会主義
革新主義は、社会主義と対抗して資本主義を守るという性格が強い。したがって社会主義者が指摘する工業化社会の進展に伴った社会矛盾を解消し、より安定した社会秩序を構築するために、資本の独占を抑制したり、労働者の権利を擁護したり、国家予算による福祉制度の充実で、拡大する貧富の差を抑制しようとする傾向大。
第一次世界大戦中にロシア革命が起き、社会主義がヨーロッパや世界に拡大する恐れが見えたことに対して対抗する策が、ウィルソンの14カ条でもあった。
※ウィルソンの14カ条:公海の自由・貿易の自由化・秘密外交の廃止・軍備の縮小・民族の自決・植民地住民の擁護・世界平和維持の国際組織創設など(戦勝国の賠償金と領土併合を否定=勝利なき平和)←→レーニンが出した宣言との共通性
【まとめ】W・Xの時代を通じて「アメリカの平和」に基づくアメリカの時代が20世紀後半に世界を席巻する基盤が成立した。1920年代の第二次金ぴかの時代を通じて大衆消費社会がアメリカに現出したが、「一握りの富裕層と大多数の貧困層」という社会は改められなかった。これを1929年恐慌の衝撃に応じて革新主義的に解決し「福祉国家」と軍産学官の複合体によるアメリカを建設したのがF・ローズベルトであった。