放射能の害が証明されるのは人類が滅びるとき」

(インターナショナル第218号:2014年7月号掲載)


 5月20日の「朝日新聞」に、福島原発事故に関する「政府事故調の『吉田調書』入手」 「所長命令に違反 原発撤退」の見出し記事が載りました。それによると、事故後の3月15日に福島第一原発にいた所員720人のうち約650人が吉田所長の待機命令に違反し、10キロ南の福島第二原発に撤退したといいます。
 「吉田調書」は非公開ということもありますが、当時の原発事故の状況は明らかになっていません。現在まで公開されているさまざまな報告書でもわかりません。だから事故が何とかなるものだったのか、もはや制御不能だったのか判断がつきません。そのなかで記事は待機命令に違反して撤退したことを問題として取り上げています。
 読者は、予想された最悪の事態までは至らず、結果的に所員はみな無事だったということを確認した3年後に、緊迫感が薄れてきているなかでその事実を知りました。当時と感性は違ってきています。そのことを踏まえても、所員は待機命令に違反したといえるのでしょうか。
 この問題について議論したら意見が分かれました。
 違反ではないという立場での意見です。

 現場には原子力発電に関するプロの技術者が大勢いました。(事故をまったく想定していないプロも含めて。しかし原発事故がどのような事態をもたらすかはプロとして想定できます)そこで事故が発生しました。
 被害を最小限に防ぐことができるのは自分たちしかいない、何とかしなければならないという使命感を抱く者もいました。しかし身体が危険に曝されるかもしれません、生命を失うかもしれません。
 それぞれの判断が違ってきます。違う行動をとります。そのような中で、待機命令を無視して避難したということを責めるのは酷です。誰でも助かりたいと考えます。みんなで助かりたいと思います。
 電力会社の社員だから事故に責任がある、犠牲になっても仕方ないという意見を実際に聞きました。反論します。「自分だけは何としても助かりたい」ために他者に犠牲を強いています。

 震災直後の4月に、放射能汚染に恐怖を感じた陸上自衛隊が現地を無断で離れた、海上自衛隊員が出動したくないために破廉恥行為を行ったことが問題になりましたが、うやむやに葬られてしまいました。彼らは命令違反で処分されなければならないのでしょうか。誰も恐怖感を規律で払拭することはできません。
 この時も議論になりました。敵前逃亡と同じだと主張する者の理由は、自分たちが払った税金から金をもらっているから、死ぬのを承知で入隊したんだろう、公務員としての職務などでした。
 一方、事故後の福島原発に放水活動を行った東京消防庁のレスキュー部隊隊員たちに対して皆感謝しました。しかし誰もそのような活動を当然だったとは受け止めません。当然の行為ではないから感謝しました。
 自衛隊員も消防隊員もみな怖いのです。被災者を助けたいけど自分も助かりたいです。

 だとしたら待機命令に従わなかった結果として事故が拡大してもよかったのかという反論が出ました。いいです。それよりも所員の命は比べものにならないくらい大切です。誰にも彼らを殺す権利はありません。誰もが、誰に対しても生命が危険に曝らされることを強制することはできません。
 自分以外の誰かに犠牲を強いてもかまわないという価値観が、有事法制を推し進めたり、労働者の深刻な職場環境・労働条件を放置することに結びついています。社会全体で命が軽んじられていきます。

 2012年2月10日の「活動報告」の再録

 1955年秋以降、韓国李承晩政府は、日本海の公海上に境界線を引き、その線を越えた日本船は沈没・拿捕すると声明を出します。いわゆる「李承晩ライン」です。実際に拿捕されたりしていました。
 56年2月下旬、電電公社所有の長崎港を母港とする海底ケーブル布設船「千代田丸」に、朝鮮海峡の海底ケーブル故障個所の修理命令が出されます。全電通労組本社支部千代田丸分会は、安全保障や外国旅費等の労働条件について交渉を続けたが前進しません。
 そもそも朝鮮海峡の海底ケーブルは公社の所有ではありません。さらに修理場所は「李承晩ライン」の内側であり、攻撃を受ける危険性は大きくありました。本部支部は、公社の労働者と公社の間には朝鮮海峡の海底ケーブル作業の労働契約はない、契約を結ばないかぎり就労の義務はないと主張して交渉を続けました。
 しかし3月5日、公社は団体交渉の途中、警告文を読み上げて席を立ちます。予定では出向は同日の午後5時。本社支部は千代田丸分会に「出航に応じるな」と指令。船は停りました。しかし全電通中央本部は6日、本社支部に指令を撤回するよう命令。本社支部は命令に従う判断をして分会に連絡。午後6時、千代田丸は出港しました。
 5月4日、公社は本社支部役員3人に解雇を発令します。当初、全電通本部はこの闘争を支持していましたが途中からやめました。
 解雇撤回闘争は裁判闘争に持ち込まれます。69年4月11日、「雇用関係が存在する」との判決がだされ3人は復職します。しかし公社は控訴。63年6月、3人は敗訴します。3人は上告しました。

 原告は最高裁への弁論要旨で主張します。
「労働者が働かなくてはならないのは、使用者と労働契約を結んでいるからで、その契約にないことは新しい契約をしない限り働かなくてもよい。この点が労働者と奴隷の違いです。契約にないことを無理に働かせ、まして、米軍の権威や日米安保条約を持ち出して危険な海域にひきずり出すのは、労働者に奴隷的拘束を課し、その意に反する苦役を強制することになるのではないか。その意味で、この事件では労働者の憲法上の基本的人権が争われているのです。」
 68年12月24日、最高裁は原告勝利の判決が言い渡されました。
「かような危険は、労使の双方がいかに万全の配慮をしたとしても、なお避け難い軍事上のものであって、海底線布設船たる千代田丸乗組員のほんらいの予想すべき海上作戦に伴う危険の類いではなく、また、その危険の度合いが必ずしも大でないとしても、なお、労働契約の当事者たる千代田丸乗組員において、その意に反して義務の強制を余儀なくされるものとは断じ難いところである」(『千代田丸事件』今埼暁巳著)
 このような闘いを経て“使用者の安全配慮義務”は認識が固められていきます。

 労働者は、法律や判例で守られているから危険を回避することができる、命令に従わなくてもいいということではありません。
 全電通中央本部は労働者を危険から守ろうとしませんでした。
 このような中で労働者が自らの生命を守ろうとする時、拒否しかありませんでした。それを裁判所であっても否定できなかったということです。
 安全か危険の判断は現場のそれぞれの労働者おこなうものです。

 原発と放射能を巡る問題で、連載漫画「美味しんぼ」が中止に追いやられました。
 この経過を見ていて、放射能問題とは別の恐怖に襲われました。
 漫画を批判する側は、描かれている内容には根拠がない、放射能は数値がいくら以下は安全だと主張します。
 安全とか健康は数値で測れるものなのでしょうか。そもそも判断基準の数値などありません。エビデンスがありません。ないのは、人間はモルモットではないからです。
 そのような数値を示されて安全を強制されるのは怖いです。不信感が消えません。それはこれまでの政府の姿勢への評価でもあります。
 恐怖によるストレスは様々な体調不良を発症させます。予想できないことがおきます。
 福島の人たちは、風評被害がやっと払拭されようとしているのにまた呼び戻されたと怒ります。しかしその怒りは、生活基盤が保障されない、将来への不安を抱えている状況で原発事故に対する怒りを抑えたうえでのものです。漁民の苦闘はまさにそこにあります。苦闘が自己責任にさせられています。
 しかしもっと怖いのは、風評被害を抑え込むために福島原発事故、関連して今も続く様々な問題、改修工事の困難さが隠され、忘れさせられようとしていることです。

 2012年7月20日の「活動報告」の再録

 チッソの責任追及をしていく中で、医師の原田正純さんは患者や支援者、医師たちと学習会を続けます。そのなかで核爆発実験の放射能をめぐる武谷三男著『安全性の考え方』と出会います。
 原田さんは、著書『水俣病』の中で孫引きをして紹介しています。
「死の灰が地球上にふりまかれているときに、一部の学者は、科学的に降灰放射能の害を証明することはできないから、核爆発実験は許されると主張した。アメリカ原子力委員のノーベル賞学者リビー博士は、許容量をたてにとり、原水爆の降灰放射能は天然の放射能に比べると少ないから、その影響は無視できると主張した。微量の放射能の害はすぐには病気にならない、すなわち急性症状を示さないところに、非常に困難な問題があったのだ。
 武谷三男氏らは、『許容量というのは、無害な量ではなく、どんなに少ない量でもそれなりに有害なのだが、どこまで有害さを我慢するかの量、すなわち有害か無害か、危険か安全かの境界として、科学的に決定される量ではなく、社会的な概念であること。害が証明されないというが、現実にそういうことをやってみて、そうなるかどうかはじめて証明されるというのでは、科学の無能を意味し、降灰放射能の害が証明されるのは人類が滅びるときであり、人体実験の思想に他ならないこと。放射能が無害であることが証明できない限り、核実験は行うべきではないというのが正しい考えである』ことを明らかにした。」

 放射線量に過敏にならなければならないということではありません。
 社会的な概念とは、ここまでは大丈夫というような数値ではなく、そのもっともっと手前の誰もが納得して安心できるものです。そしてそれを保障する状況・環境です。
 原子力は、人類が滅びないために使用してはいけません。これは命題です。

 「美味しんぼ」には政府が介入して中止に追い込みました。科学的判断の問題に政治が圧力を加えました。科学に政治が勝りました。目的は、東京オリンピック開催に向けて国際的「風評被害」を封じるためです。

 かつて科学の進歩は人類の共有財産でした。第一次世界大戦頃からは国家が所有するものになりました。今、原子力は国家と企業が所有しています。軍事力と産業としてです。その所有を維持するために自分らは安全なところにいて人びとに犠牲を強います。
 まさに、戦時中の大本営と特攻隊を連想させます。

 繰り返します。誰もが、誰に対しても生命が危険に曝らされることを強制することはできません。これは人びとが平和に生活するための基本です。

(6/7:いしだ・けい)


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