漁協は甘言に釣られない

(インターナショナル第202号:2011年8月号掲載)


▼海に生きる者たちの共存

 仙台に定住し、宮城県を舞台にした小説を、会話はズーズー弁で書き続ける熊谷達也の短編小説集『稲穂の海』の最初は、鯨の町・鮎川港の捕鯨船を取り上げた『酔いどれ砲手(てっぽう)』。小説に登場する鮎川港は3月11日の東日本大震災で姿を消してしまった。
 ストーリーは、出港を翌朝に控えて砲手が急性盲腸で入院してしまったことから始まる。
 砲手がいなくては出港できない。そこで船長とボースン(甲板長)が考えたのは、引退をしている砲手を乗船させること。
 元砲手がキャバレーで酒を飲んでいるところに押し掛け、酔い潰れさせ、出港する船に乗せてしまう。元砲手が気を取りもどした時はもう遅い。観念して指示だけは出すことを了承する。
 元砲手の感は鈍っていない。
 眠っている長須鯨を発見する。しかし引き金を引くことを止めさせようとする。「おまんら、寝ている鯨を撃って気持ちええか? そらあ良ないわ。それが鯨に対する礼儀ちゅうもんじゃろ」
 目覚めた鯨を捕獲する。
 お礼を述べた砲手に元砲手が語りはじめる。
 「わしらはやっぱり鯨を捕りすぎちょる。南氷洋が駄目になったら北洋、それも駄目になったら近海ってか。この海ではそろそろ鯨の逃げ場がなくなっちょる。……ここらで一旦鯨はやめておいた方がいいだろう。また増えるまで休んでもいまの時代は食えるようになってきちょるからな」
 「あ、あんのう……もしかして、親父っさんはそれが理由で引退したのだすか」
 「まあな」
 海に生きる者たちは海の生きものをいじめない。漁獲量はわきまえる。そして今の世代だけではない長期の共存を目指している。

▼「復興」が利得あさりであってはならない

 この間進められてきた行政改革・「小さな政府」は、行政機関の定員を平時の最低人数とする。日常的にすでに対応能力は崩壊している。しかし納税者を名乗る住民からの攻撃と報道機関の煽りのなかで職員は声を上げられない。とっさのときは、今回の大震災ような事態でなくても対処できない。結局被災者は置き去りにされた。同じように医療機関・介護システムなど
の受け入れ態勢も崩壊していた。
 「民間主導」は震災のような事態では何もできない。行政の機能をカバーしているのはもう一つの民間・ボランティア。
 しかし何もできない「民間」は今、「復興」利得を「主導」しようとしている。
 7月5日、松本龍震災復興担当大臣は、村井宮城県知事との対談での発言内容が問題とされて辞任した。知事が大臣から遅れて応接室に入ったことを問題にした報道が繰り返し流された。しかし大臣はもうひとつ重要な発言をしている。被災した漁業協同組合と知事との対立について「県でちゃんとコンセンサスを得ろよ。そうしないと、我々は何もしないぞ」。
 この発言は的を得ている。しかしあまり放映されていない。
 
▼資本は海と共存しない

 現在、漁業権は漁業法に基づいて地元の漁協に優先して与えられている。
 これに対し村井知事は民間企業に漁業権への参入を促す「水産業復興特区」構想を発表した。現在の漁港を統合して大型化し、小さな漁港は切り捨てるとまで言い切る。
 政府の復興構想会議も提案に特区導入を盛り込んでる。
 この構想が進行したらどうなるか。海と漁村を資本の理論が席巻する。その指揮下に漁民と関連企業労働者は置かれていく。
 漁協組合員は「海はいい時もあるけど悪い時もある。だからだから面白い」と語る。だから「悪い時」でも海から離ないで次の漁の準備をする。海と共存する姿に利己的な個人は存在し
ない。
 しかし企業は「いい時を追求し、さらにいいことを追求する」利潤追求団体。悪い時は被雇用者を酷使して乱獲し、それでもダメなら海を捨てる。そのなかで漁民の横の人間関係は崩さ
れていく。海と共存してきた“漁村の共同体”が破壊されてしまう。
 数年前、貧困問題が深刻化する中で、悲惨な労働実態の例として小林多喜二の『蟹工船』がブームになった。
 『蟹工船』で見過ごしてならないのは、職を失った労働者や農民が騙され、流されて辿り着いた職場だったということ。故郷は東北や北陸の寒村からが多かった。
 「特区」構想は、漁民と関連事業関係者の姿が、時代は違うが『蟹工船』の労働者と重なってしまう。
 資本は海と共存しない。両者はここが大きく違う。
 だから多くの漁協は反対の意思を表明している。
 
▼自(分たち共同体の)力本願で再興

 宮古市田老地区には日本で一番強固といわれる防潮堤が築かれていた。海寄りと内寄りと二重に張り巡らされた、海面から10、45メートルの高さ、上辺の幅約3メートル、延長2.4
33mの防潮堤は集落を囲み、「田老万里の長城」と呼ばれていた。防潮堤は、1933年3月3日の昭和三陸津波による町の壊滅的な被害を受けて建設が開始された。
 1896年の明治三陸津波で死者は1.859人出た。昭和三陸津波で死者は911人、一家全滅66戸の被害が出た。しかし60年のチリ地震津波では、三陸海岸の他地域では犠牲者が
出たが死者を出さなかった。
 今回の大震災の時は約4.400人が暮らしていた。現時点で死者420人、行方不明者170人。津波は防潮堤を軽々越えてしまったが、もしなかったらもっとひどい被害があったと想
定される。
 
 31年8月、第63回臨時帝国議会で「農村経済更生に関する経費」が予算に追加計上され、疲弊した農村や漁村の救済運動が具体化される。更生計画を資本金不足などのために充分に推進できない町村に対して、特別に助成金を交付するという制度が設けられた。
 しかし、経済更生村指定に際しては詳細に規定された「経済更生計画樹立上留意スベキ事項」が付け加えられており、その最後には「当該村ノ更生上移住ヲ為スヲ必要トスルモノニ付イ
テハ移住計画(内地、朝鮮、満州等)ヲ立ツルコト」とある。
 移住政策の推進は、移住する人のためのものではなく、しないで残る人のためにおこなわる。
 昭和三陸津波の頃は、29年のウォール街の株の暴落をきっかけに始まった世界大恐慌の影響による30年以来の大不況に加えて、31年の東北・北海道の凶作、32年の不作と続いて
いた。
 33年、政府は満州移民計画大綱を発表する。
 田老村にも満洲への開拓移民の話が持ち上がる。国や農林省などが1938年から推進する満州分村移民の募集に積極的に応募することを迫られる。しかし生き残った村民は今度こそ末永く安住できる田老村にするための津波対策を考え、住居の高台への異動と防潮堤の建造を開始した。
 満洲に移民した人びとは困難を極める。敗戦が濃厚になると避難を開始するが同時に多くの人びとは「集団自決」に至る。
 田老村の人びとも移民を選択していたら同じ“運命”に遭遇していた。
 先人の英知と努力で守られてきた田老地区を、今度は生き残った者たちが留まって「地震に負けない」復興を実現し、後世に教訓とともに残していこうとしている。
 岩手県は宮城県とは違い、すべての漁港の復興を漁協を中心に進める方針を立てている。
 漁民は、守るべき宝物=“共同体”を維持しながら、自(分たち共同体の)力本願で再興する知恵と力、そして“希望”を持っている。それこそが漁民の未来を豊かにする。
 復興とは、経済がはじき出す数字ではない。
 
▼「大和民族」に安易に「帰順」してはならない

 柳田國男は民俗学を「新たなる国学」と捉えた。明治維新が、「国学」による政権の統一を目指したように、「新たなる国学」で日本列島の諸民族の「同化」の経緯を探り、その手法を
農商務省の役人、外交官、そして民族学者として朝鮮、台湾の植民地経営に加勢していく。
 『遠野物語』が刊行された1910年は奇しくも大逆事件がでっち上げられ、日韓併合が行われた年である。
 「戦時中の民族学は、戦争遂行のための基礎学問として、あらゆる国で利用された。」(中生勝美編『植民地人類学の展望』 風響社刊)
 「戦略展開地域での現地事情、とりわけ原住民の状況、社会組織、政治形態は、戦争遂行のための兵要地誌作成に必要最低条件として求められる情報である。これらは民族誌作成の必要項目と重複し、その意味で兵要地誌作成のための基礎学問として『民族学』が重視されていたのである。」(同)
 「日本でも、戦時中に『民族研究』の必要性が軍部から提起され、文部省から支援されて、民族研究所が設立された。また太平洋戦争が勃発すると、東南アジアの占領地を統合するため、統合調査が実施されたように、部分的にせよ、民族調査が軍事行動と直接結びつく『有用な学問』として支援されたのである」(同)
 柳田が『遠野物語』で言う「山人」は「我々社会以外の住民、即ち、我々と異なった生活をして居る民族」、平地に居住する『日本人』=「大和民族」に先行し、やがて「帰順」した人びと。
 歴史を遡ると、遠野地方の人びとは8世紀末に征夷大将軍(東夷を「征討」する将軍)の坂上田村麻呂が「征伐」した蝦夷地に住み、最近、世界遺産と認定された中尊寺を建立した藤原
清衡が参戦した「前九年の役」や「後三年の役」で「大和民族」と戦争をした他民族。
 柳田が言う「山人」は、平地人=「大和民族」に征服された「東北人」を指す。
 物語に登場する河童やキツネは山人の近くにいて人間の素振りをして騙くらかす。もしかしたら、遠野地方の人びとが語る河童は、実は侵略者「大和民族」で、その蛮行を遠巻きに語り
継いできたのかもしれない。
 遠野や陸前宮古の人びとは自分たちを「ケセンズン」(気仙人)、生活区域を「ケセンスー」(気仙州)と呼ぶ。
 今回の災害復興においては、『遠野物語』の河童のように化けた「大和民族」の大手資本が復興支援の名のもとに利権あさりを企んでいる。その行為には厳重な監視が必要である。
 
▼政府や県はおだづなよ(ふざけるなよ)!

 今回の震災にさいしては現在も仮設住宅を建設中である。そのうちこれまで地元業者が建設したのは岩手県が約1万4千戸のうち2500戸、福島県が約1万5千戸のうち5千戸、宮城
県は2万3千戸のうちわずか300戸でしかない。
 大手メーカーの方が合理的でスピードが速いということはない。今回は土地の確保が難しかったがそれにもまして当初の予定より遅れている。地元業者は、割り当ても受けられず、大手
メーカーの下請けに入り込むだけだったという。地元でできることも地元にさせない復興策が進んでいる。
 これが宮城の復興策である。
 さらに広大な農地を、農民がヘドロや塩分を排除したら大手資本による「農業株式会社」が襲ってくることが予想される。
 被災者の政府や県に対し「おだづなよ」(ふざけるなよ)と叫んでいる。この声を無視した復興はありえない。
 
 報道機関などでよく東北の被災地の人たちは”辛抱強い”と言われる。しかし被災者はそのことについて質問されると答え方がわからないという。風土、文化の違いを抜きにして「大和
」の価値観で解釈して質問する。
 8月7日付『毎日新聞』に「東北で触れる、日本の深淵」と題する一面広告が載っている。
そのなかで塩竈神社を紹介していた。
 「神社の社殿は普通東か南向きに建てられていますが、塩竈神社は西向きに、海に背を向けています。『地元の人は海から上がった鹽土老翁神(しおつちおじのかみ・塩の神)が、その
まま『海の苦労を背負って立ってくれているんだ』という言い方をします。この地方では大津波のたびに、塩の神様が千々に乱れた世の中を収斂し、鎮めることの繰り返しだったと思いま
す』」(野口禰宜)。
 海で働く者たちは、安全と安心を、神様を自分の側に引き寄せることまでして獲得してきた。神様を他力本願ではなく自(分たち共同体の)力本願の対象にした。
 だから“今の瞬間”ぐらい(・・・)は辛抱できる。そして災害、飢餓に遭遇した時こそ盛大に「はれ」の“祭り”を催した。それこそを“絆”と呼ぶ。
 
 東北地方は、かつては7年おきに冷害が襲った。最近は台風が上陸する。猫の目農政、切り捨て農政が続いている。
 それでもそこを離れなかった人たちが今回被災した。しかし立ち止まっていない。
 
 そこには現在の労働現場を見た時に、労働者が忘れかけていること、失ってしまったものがある。稼ぎがいい、暮らしやすい、人間関係がいい。このような中で生活する人たちの姿を本
心羨ましく思う。

(8/12:いわかわ・りょう)


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