●雪印乳業製品による食中毒事件●
製造現場の荒廃、食品大量販売の限界


雪印事件の2つの問題

 雪印乳業の大阪工場で製造・出荷された乳製品が原因と見られる食中毒は、事態を過小評価した雪印の、製品の回収や販売店への通知が遅れるなどの不手際によって、あっという間に1万人を越える被害者を出す大事件になった。さらには、一度出荷した製品を原料タンクに戻して次の製品の「原料」として利用としていたり、衛生上あってはならないパイプの連結が発覚したいりと次々と違法行為も暴かれ、記者会見では首脳部と現場の齟齬が露になるなど、食品工業をめぐる大きな社会問題として注目をあびた。
 この食中毒事件をめぐって、マスコミはこぞって「危機管理の甘さ」「食品製造メイーカーとしての非常識」「ブランドに胡座をかいた経営姿勢」などと雪印を批判したが、ここでは次の2つの点に絞って、少し考えてみたいと思う。
 ひとつは、これはマスコミでも指摘されたことだが、リストラと称する首切り合理化の蔓延が、東海村の臨界事故や都営地下鉄の衝突事故にも共通する、労働現場の荒廃を深刻にしている問題である。そしてもうひとつは、大量生産・大量販売という戦後資本主義が労働者大衆を巻き込んで築きあげた生産と販売と消費のシステムが、少なくとも生鮮食品の流通に関しては明白な限界に突き当たっているのではないか、という問題である。

労働現場の士気阻喪

 本紙4月号(108号)の時評で、東京の営団地下鉄日比谷線の脱線衝突事故にふれ、リストらと称する合理化が労働現場の技術の伝承を衰弱させ、それが「信じられない」事故を続発させており、戦後日本の合理化反対闘争にも、技術伝承の重要性という視点が弱かったかもしれないと述べた。
 その意味では、今回の雪印食中毒事件にも同じことが言えると思う。ただしそこに現れているのは、技術伝承の重要性ということにとどまらず、現場の実情を熟知せずあるいはそれを軽視して、企業業績(かつては売上高だったが、最近は資本収益率といった費用対効果の重視が持て囃されているそれ)の向上について〃有能な〃経営者ばかりが称賛され、反対に労働現場(それはとりもなおさず生産現場だが)を熟知し、だからまたその限界も知って企業業績を見通すような経営者や工場長などの現場責任者が、無能あつかいされる風潮があるのではないかと思う。
 労働現場の責任者は、現場の失敗や不良品について最終的な責任を取らねばならない立場でもある。他方で管理部門の責任者は、労働現場に犠牲を強いて生産効率を上げても、ある意味で現場の失敗の責任は負わずに評価されたりする。前者は減点法で、後者は加算法で評価されるのだ。だがこうした条件の下で、近年流行の株式資本収益率だの株価時価総額だので経営状態を評価する傾向が強まれば、生産現場から企業の最高責任者に就任する人材が減り続けて当然であろう。
 雪印の社長も、実は財務畑出身で現場をほとんど知らなかったのではと言われ、また最近の雪印は工場長も長くて5年程度で転勤になり、生産現場とその労働条件を習熟する以前に次の職場に移動するケースが多くなっていたと言われる。こうした状態が続けば、現場の士気が阻喪して不思議はないし、有能な人材は生産現場を嫌って流出し、生産を直接指揮する人材はますます枯渇するのも明らかであろう。利潤の観点から現場に押しつけられる犠牲は管理部門の手柄となり、他方で現場では些細なミスも許されない。あげくに現場たたきあげの出世コースがますます狭くなるのであれば、「やってらんねーよ」という生産現場の嘆きは当然だろう。だがこの嘆きの鬱積こそは、うっかりミスによる大事故の前兆なのである。
 医療現場のミスにしろ、列車運行の安全性の低下にしろ、そして今回の雪印乳業のような食品工業でのずさんな製造過程にしろ、こうした生産現場の荒廃が大きな底流となって、人間の生命と健康を脅かし蝕み続けているように思われる。

生鮮食品量販の限界

 もうひとつは、生鮮食品の大量生産・大量販売は、電気冷蔵庫の普及もあって便利で安くてと思われてきたが、それにはやはり限界があるように思われる点である。
 雪印が、明治や森永を押さえて業界トップの市場占有率を誇ってきたのには、販売する側とくに大手スーパーなどの強い支持があってのことだ。しかしこの販売側の雪印支持の内容を聞いて、今回の食中毒事件の本質のひとつが見えた気がしたのだ。
 雪印は販売側の要求、つまり今日は牛乳が少し余計に売れそうだから納品を追加してくれとか、こっちの納品を減らしてあっちの納品を増やしてくれとかの要求に、実に機敏に対応してくれるメーカーとしてたいそう評判が良かったのだという。でもよく考えると、それは雪印が販売側の要求に「機敏に応えるため」に、常に過剰ぎみに生産・出荷をしていたことを意味してる。だからコストを押さえるために、製品を「原料」に戻すなどという発想が生まれるのだ。「なーに、消毒するから大丈夫だ」と。製造日を細かく確認して買い物をする「食品にこだわる消費者」の方が、何も知らなかったのだ。
 ところで生鮮食品というものは、本来は製造日当日とか翌日に消費するから〃生鮮〃なのだが、量販店がのさばって町角の小売店が消滅し、スーパーの大量販売と消費の関係が常態化した結果、新技術と称する殺菌加工やら滅菌処理への依存がますます深まり、だからまた製造工程での些細なミスが大量の不良品を生み出す危険と常に隣り合わせの状況がつくり出されてもいると思う。
 私事ながら、私が10年来利用している生協の理事は、生協は地域に密着した5千世帯程度が適性規模だ、その規模なら地場の生鮮食品にもある程度責任が持てるという持論の持ち主で、規模拡張路線のつけで生協の経営難があちこちで噴出する近年も、それなりに安定した運営ができているという。
 これはほんの一例にすぎないが、日本の生協運動のはじまりには、巨大になりすぎて生産者と消費者の互いの顔が見えない流通を克服しようと、産直つまり生産者と直接結びついた消費をめざすことが含まれたいたはずである。バイオ技術を駆使するアグリビジネスに反対することも、食品に正確な表示を義務づける事も大切な運動だが、命の源である食品とくに生鮮食品については、巨大な流通に依存しすぎない調達方法をそろそろ本格的に考えてみる必要があるようだ。
 そういえば、家庭の生ゴミを堆肥化しその肥料を使った野菜を地域に供給する山形県長井市の「レインボープラン」の発案者は、かつて「地域循環型経済」と命名した地域密着農業の夢を語っていたっけ。  

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