ハンセン病訴訟の控訴断念を歓迎する 民衆の反官僚意識
社会的公正をもとめる圧力とポピュリズム


評価すべき控訴断念

 ハンセン病患者の隔離政策に対する国家賠償をめぐって争われてきた訴訟で、5月11日の熊本地裁判決で全面敗訴した政府は5月23日夕、控訴断念を正式に表明して一審判決が確定することになった。
 小泉首相自らが控訴断念の最終決断をしたことで人気に拍車がかかっている。だが厚生省と法務省の官僚たちがリークし報道させていた「控訴して和解」という官僚の姑息な手法が小泉によって退けられた事実は、それ自身として評価されるべきである。なぜならそれは、何よりもハンセン病元患者たちのこれ以上の被害に終止符を打ち、その人権回復にとって積極的な意味をもつことは明らかだからである。
 かつてわれわれは、米軍兵士による犯罪に悩む沖縄民衆の米軍基地縮小・撤去という切実な要求について、日米安保条約を破棄して米軍基地を撤去するという、支払い期限のない約束手形のような教条的スローガンを自らも戒め、沖縄駐留海兵師団の撤退という具体的で実現可能な要求の実現のために、当時それを主張をしていた細川元首相とすら手を結ぶと主張したことがある。
 これとまったく同様に、ハンセン病政策に対する国家賠償を求めてきた元患者ら原告団にとって、一審判決の確定とこれに基づく賠償・救済策の即時実施は、彼らの年齢を考えれば一刻の猶予もない切実なものなのであって、控訴断念の動機がたとえ小泉政権の人気とりであろうとも、厚生族議員の大物でもある小泉がそれを決断したことは大いに歓迎されてしかるべきである。
 そのうえで階級的労働者は、小泉の控訴断念の決断に寄せられた大衆的支持の性格を検討し、小泉人気の秘密を探ることでこの政権との闘い方を見いだすように努めなければならないのだと思う。

国家官僚機構への大衆的嫌悪

 先にものべたが、控訴断念に強く抵抗したのは、厚生省と法務省という国家官僚機構であった。法律論的な口実がどうあれその本音は、地裁判決が指摘した憲法に違反する人権侵害の責任が国家に、今回の場合は旧厚生省にあることを認めないという一点に尽きる。要するに厚生官僚は、ハンセン病政策による人権侵害の責任を頑として拒否しようとしたのである。「控訴して和解」という、高級官僚たち以外には整合的な理解すら不能な対応策も、表向きは「国会の責任まで認定した判決は、これまでの最高裁判例と異なる」という法律論に隠れて、国家官僚機構による人権侵害の責任を認定した熊本地裁判決を、判例としては残さないためだけに考えだされたと言って過言ではない。
 しかも控訴した上で和解交渉をすすめるという手法には、元患者らの中に「名(判決)よりも実(和解による保証)」を求める原告も出てくるだろうとの、相手の弱みにつけ込む悪意ある思惑すら透けて見える。事実これまでの様々な賠償請求闘争でも、国家官僚のこうした思惑によって被害者たちが分断され、さらなる精神的苦痛にさいなまれた例は繰り返しあったからである。
 その意味で控訴断念という決断は、こうした「官僚機構の論理」を排斥するという性格を客観的にはもつことになったのであり、広範な大衆が小泉の決断を支持した本当の理由もここにある。
 つまり、中味も不明瞭な「小泉改革」に期待を寄せる多くの民衆にとって、現在の国家官僚機構は自民党の利益誘導政治の道具であり、既得権益を擁護する各種規制の温床であり、だからまた政官財癒着の要であるばかりか、公金を私物化する国家官僚の伏魔殿そのものであることも明らかである。小泉改革とは、これを変えることであろうとの期待が高まっても不思議はない。
 実際にも、田中外相が外務官僚との対決に忙殺されて外交上の混乱が生じようとも、これを追及する野党議員の方に人々の非難が集中する事態には、国家官僚に対する大衆的嫌悪がよく示されている。

利権政治の道具・官僚機構

 小泉がこうした国家官僚機構の旧弊を打破しうるか否かはどうあれ、「官僚機構の論理を排斥した政治決断」を歓迎する大衆的な反応は、労働者民衆が期待する改革とは何かを示唆するものである。
 今日、日本の国家官僚機構が抱える最大の問題は、大量生産・大量消費の経済活動に対応した業界保護の規制が省庁権益と化し、この規制と構造の破壊なしには日本経済の明日はないと言われている。小泉の主張する改革は、まさにそうした官僚的旧弊を解体し、徹底的に資本主義的な経済運営への転換をめざすものと言っていい。
 だがそうした構造改革は、戦後日本の経済政策に対応してきた官僚機構の硬直化への対処療法としては的を射たとしても、大衆的な嫌悪の的になっている国家官僚機構の非民主的体質の問題、とくに政官財癒着と自民党的談合政治の具体的手段に他ならない官僚機構が差配する無駄な公共事業、それに伴う恣意的な行政指導や官僚的秘密主義等々、民衆が実感している官僚機構の弊害の打破とは必ずしも一致しない。
 つまり小泉改革に素朴な期待を寄せる労働者民衆にとって、族議員を中心とする利権政治の巣窟である「自民党派閥政治」と、その道具と化している「国家官僚機構の論理」は一対の害悪であり、望んでいるのはその解体的再編ということができる。
 「派閥政治の打破」を訴えて自民党の新総裁になった小泉が、「官僚機構の論理」を排して控訴断念の決断をするのは、こうした脈絡からして、改革を期待する民衆にとっては当然の事であった。小泉が悩み抜いた末に控訴断念を決断したのは、この期待への裏切りが引き起こす反動を恐れた結果であるのは言うまでもあるまい。

国家官僚機構の精神構造

 では小泉は、このより本質的な大衆的期待に応えて、国家官僚機構の解体的再編を実現できるだろうか。われわれはこの点でも、小泉への期待が幻想に終わる可能性を指摘しないわけにはいかない。なぜなら、現在の国家官僚機構の大衆蔑視と対になった非民主的体質の要因を、小泉のみならず与野党とも、ほとんど理解してはいないと言わざるをえないからである。
 これまでも度々指摘してきたことだが、実は日本の国家官僚機構は天皇制の存続とあわせて、戦後、アメリカ占領軍主導の民主化による組織再編とは裏腹に、戦前の精神構造をそのまま継承してきたと言える。戦後日本の民主化は、官僚機構の再編に関してもまったく中途半端だったのである。
 断っておくが、それは戦後左翼運動が警戒してきた「旧大日本帝国の復活」と同じではない。それは行政機構を通じて行われる社会的再分配を「国家による恩恵」と解釈し、これを代行的に上位下達で実施することを当然と考える、欧米的民主主義の建前である公僕とは似て非なる、「陛下の官僚」としての精神文化の連続性である。
 この歴史的連続性の結果として、日本の国家官僚たちの忠誠の対象は、国民どころか国民の代表たる国会議員やそこで選ばれる内閣ですらない。その対象は国家の権能を実際に握る官僚機構それ自身であり、抽象的には国家もしくは国家を象徴する制度としての天皇である。蛇足になるが、外務省の元高級官僚の娘が、そのキャリアの可能性を捨ててでも皇室に嫁ぐ決意をしたことは、こうした日本の国家官僚たちの精神文化を象徴していると言えるだろう。
 当然のことだが、こうした歴史的連続性を継承する国家官僚機構が、戦後の、労働者民衆にも広く依拠する「新たな権力構造」に形式的順応はできたにしても、大衆自身による政策選択の可能性を保障し、その選択に必要な情報公開をなければならないといった問題意識をもつことはほとんどなかった。だからこそ、多くの場合は自民党系代議士である業界や地域のボスたちの談合政治と結託し、あるいはこうした旧来的な家父長的秩序と呼ぶべき社会秩序に依拠して、「国家の恩恵」としての社会的再分配を、官僚が仕切る上意下達の「公共事業」として実施する手法が、戦後の経済政策の基本的手法として築き上げられてもきたのである。
 ところで、小泉の連なる自民党・森派の系譜は、岸、福田ら歴代派閥領袖たちの言動や中曽根との近しい関係でも明らかなように、この国家官僚機構の歴史的な精神文化の多くを共有する勢力と言える。その思考体系は、官僚による代行か内閣(国会)による代行かという主導権争いをはらんではいても、大衆を蔑視する徹頭徹尾の代行主義と上意下達、国家の恩恵としての社会保障等々、第二次大戦後アメリカのヘゲモニーの下で世界に広げられ、帝国主義的世界支配への大衆的支持を動員してもきた戦後民主主義とは、かなりギャップの大きな体系である。ここに、小泉の大きなアキレス腱がある。
 その小泉が、今後ますます激しさを増すであろう国家官僚機構の抵抗を、ハンセン病訴訟の控訴断念と同様に押し切ることは可能だろうか。官僚との妥協か、官僚の抵抗を押し切る強権的政治かの選択が小泉に突きつけられる可能性がある。そしてもし小泉が強権政治を選択するなら(今のところ、彼にその準備があるとは思えないが)、彼はあやふやな大衆的人気ではなく力強い大衆的支持を組織するために、大衆を動員しうる明快なビジョンを示す必要がある。
 だが小泉政権にいま最も欠けているものこそ、この未来を示す展望なのだ。

小泉改革の矛盾をつく

 ところで、小泉がハンセン病訴訟の控訴断念を決断し、それを「官僚機構の論理」の排斥と受け取った民衆が歓迎するという構図は、いま諸悪の根源と見なされている国家官僚機構の再編をめぐって、階級的労働者がいかにして小泉との対決を準備すべきかに、教訓に富んだ示唆を与える。
 その第一は、ハンセン病訴訟に関する小泉の決断は、結局のところ元患者や施設に閉じ込められつづけた人々の長期におよぶ粘り強い闘いと、この闘いに対する大衆的で広範な共感という社会的な圧力の結果だったということである。
 それは小泉らポピュリストが、社会的圧力には敏感に反応することを物語る。
 そして第二は、その大衆的共感の根底にあったのは、日本国憲法が保障している基本的人権は国家によっても侵害されるべきではないだけでなく、侵害された権利は回復されるべきだという、いわば社会正義の実現の欲求だったことである。
 それは、今日の日本における社会的な憲法認識として、9条を含む第2章「戦争の放棄」以上に10条以降の第3章「国民の権利及び義務」、中でも基本的人権の思想が広く受け入れられていることを物語っており、労働者民衆の求める社会正義や公正がこれを基礎にしていることを教えている。
 ついでに言えば、戦後のいわば9条護憲の運動も、こうした基本的人権思想との関連や連動性にこれまで以上の関心を払わなければ、大衆的支持を獲得できないと思われるが、それは本稿のテーマではないのでここでは触れない。
 さらに第三は、そうした社会正義や社会的公正の実現にとって、国家官僚機構の論理と自民党派閥政治は決定的な阻害要因となっており、その排除と解体的再編が今の日本に必要であるといった大衆的意識が、漠然とだが、あえていえば小泉の思惑を越えて社会的に噴出する可能性が、客観的にだが広範に存在していることであろう。
 だとすれば階級的労働者は、現に闘われている国策と対立する労働者民衆の要求や闘いや、全国各地の公共事業反対闘争などを基盤にして、基本的人権を侵害する様々な政策をめぐって、あるいは国策として強行される大規模公共事業をめぐって、これに官僚的に敵対する「官僚機構の論理」を徹底的に暴きたて、その排斥の要求を小泉政権に直接突きつけて「小泉改革」の内実を明らかにさせる運動を、あらゆる機会をとらえて展開しようとするだろう。
 「小泉改革」への大衆的期待は、ただこうしたポピュリストたちに具体的に突きつけられる大衆的圧力と、それに対する彼らの反応のひとつひとつを通じて、その限界と理不尽さが暴かれる度合いに応じてのみ幻想として払拭されるのである。

(5/30:ふじき・れい)


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