●福田辞任と総選挙の焦点

政官業ゆ着の政治に終止符を

−政権交代-政党再編の渦中で、改憲阻止の意思をどう表現するか−

(インターナショナル第182号:2008年10月号掲載)


▼衆院解散・総選挙への流れ

 福田首相が、突然辞任した。自前の閣僚を揃えたはずの内閣改造からわずか1カ月、弟分である安倍晋三の政権投げ出しから1年足らずで、またもや国家の最高権力者の一方的な辞任劇である。
 その福田は辞任会見で、「私が首相では民主党が協議に応じてくれない」ので「ほかの首相の下で事態を打開してほしい」と、後継総裁に政権運営を丸投げするような辞任理由を述べたが、他方では麻生幹事長らに、「総裁選挙で自民党に注目を集め、一気呵成に解散・総選挙に打って出るのが、自民党が政権にとどまることができる最良の方法だ」と語った、とも報じられている。
 後者が福田の真意だとすれば、それは計算づくの「党利党略」と言う以外にはない。もっとも福田の本心は、彼自身にしかわからない。だから一般の人々には「身勝手で無責任な辞任」と見られるのは当然だし、ここで彼の真意なるものを詮索しても、なんの意味もないだろう。
 というのは、いずれにしても福田の辞任によって、衆院解散・総選挙が早ければ10月中に、遅くとも11月半ばまでには投票が行われるのが確実になったからだ。
 問題は、その総選挙で何が問われ、だからまた社会変革を目指す私たちは、どんな選択を迫られるかを考えることである。

▼寄り合い所帯化した自民党

 福田の真意かどうかは別にして、自民党は「派手な総裁選→自民党への注目度アップ→支持率上昇→早期解散」で政権を維持するシナリオに沿って総裁選を実施し、9月22日には、麻生太郎幹事長が、有効得票の66・9%を獲得する圧勝で新総裁に選出され、翌々日の24日には、国会の首班指名選挙を経て麻生新内閣が発足した。
 この流れは、自民党のシナリオどおりの展開とも言えるが、実態は必ずしも期待どおりとは行かなかった。発足直後の麻生内閣の支持率は、福田のそれを下回る50%以下にとどまり、自民党議員の間からも落胆の声が出る始末だからだ。
 まずは総裁選による「自民党への注目度アップ」の目論みは、外国人記者クラブでの共同会見が、「政策の違いが解らない。本気で総裁選を闘っているとは思えない」と酷評されたように期待はずれに終わり、汚染米の不正転売事件や年金記録改ざんの暴露が自公政権への不信をむしろ増幅し、さらにはアメリカの大手証券会社リーマン・ブラーザーズの経営破綻による世界的な金融不安が、「総裁選の空騒ぎ」に対する厳しい視線となって自民党に向けられたのだ。
 だが何よりも特徴的だったのは、5人の総裁候補の乱立が、「自由な議論ができる自民党」という自画自賛にもかかわらず、この党の分解と流動化を印象づけることになったことであろう。

 昨年の参院選前までは、マスメディアの主要な論調は「寄り合い所帯の民主党」と「政権を接着剤にした自民党の結束」というのが通り相場だった。
 そこには、政権を担う「責任政党」としての自民党には「それなりの結束力」があるのに対して、小泉改革や改憲をめぐって、政党としての統一性を持てない不安定な民主党への批判が含意されていた。
 ところが今回、石原元政調会長や石破元防衛相ら、軽量級と揶揄される候補者までが乱立した自民党総裁選と、小沢代表の再選が早くから確定的となった民主党の代表選挙は、この「寄り合い所帯」と「責任政党」の評価をめぐって、文字通り攻守ところを代えた観がある。
 自民党総裁選の候補者たちは、小沢代表の無投票の再選を「非民主的」とか「自由な議論ができない民主党」と口を揃えて批判したが、当の自民党総裁選も、当初から麻生圧勝が予想された「出来レース」の茶番といった印象しかなく、したがって次期政権の構想をめぐる活発な議論が展開されたとは、到底言えない低調ぶりだった。
 何よりも、二代つづけて政権を投げ出すような総理大臣しか出せなかった「責任政党」としての自覚もなく、だからまた党の立て直しに言及しない総裁選候補者たちは、軽薄で無責任で「本気で闘っているとは思えない」との謗(そし)りを免れることはできなかったのである。
 いまや自民党が「寄り合い所帯」と化して百家争鳴の空騒ぎを演じ、対する民主党は、目の前にぶら下がる「政権」の二文字を接着剤にして「結束」するといった構図が、福田の突然の辞任を契機に姿を現したとは言えないだろうか。
 では何故、自民党は「寄り合い所帯」と化しているのか、それはこの国の政治にとってどんな意味をもつのだろうか。

▼ねじれ自民党と総裁候補の乱立

 誤解を恐れず大胆に言えば、自民党は、すでに単一政党とは言えないまでに分解がすすみ、予算編成に介入できること、つまり国家資金の分捕り合戦に関与できる政権党であることで、かろうじて結束を保っていると言って過言ではない。
 そして言うまでもなく、自民党をここまで分解させた直接の原因は、「保守本流」を自認する橋本派との熾烈な権力闘争を経て01年に党総裁になった小泉が、官僚・業界と癒着したバラマキ政治で支持基盤を扶養するという、田中・竹下政権下で構築された利益誘導システムに打撃を加え、その派閥利権構造の解体を促進したことであった。
 もちろんそれは、業界に依存する自民党支持基盤を劇的に転換するのに大いに効果を発揮したが、他方では過疎地の農家から都市の零細事業者まで包含する「国民的多数派」を支持基盤にして、自らを「包括政党」と称した「戦後保守政治の本流」の支持基盤の分解と衰退を促進し、独占的な政権党の地位を脅かすことにもなった。
 本紙176号の「戦後保守政治の終焉」でも指摘したが、わずか1年で安倍政権が崩壊せざるをえなかった要因も、バラマキ政治によって扶養された「旧構造の自民党」に、小泉が唱えた「改革政党・自民党」を接ぎ木したことでこの党が抱え込んだ「ねじれ」に潜んでいたのであり、「経験不足」の安倍は、このねじれに無頓着だったのだ。
 そして福田の辞任もまた、大連立構想の挫折によって小沢民主党が政権交代戦略へと転換し、政府の施策にことごとく反対する挙に出たという「外患」はあったが、同時にこの自民党のねじれによる党内基盤の動揺という「内憂」が、福田を挟撃した結果だったと言うべきだろう。
 したがって総裁候補の乱立は、この党の分解とねじれの反映である。しかしより注目すべき動向は、いわゆる政党再編を睨んで、軽量級候補者の擁立をめざす議員集団が党内に次々と現れ、「些細な政策的違い」の演出に奔走した現実であろう。

 総裁派閥である清和研究会の「実力者」中川元幹事長が、「財政出動派」の麻生と「財政健全派」の与謝野という両候補に対抗し、第三極と言える「上げ潮派」候補として小池元防衛相を擁立しようとした「仕掛け」が、一時は20人の推薦人集めに支障が出るような抵抗に直面したことは、派閥の締め付けが効かなくなったというよりも、この党の分解が、いわゆる「実力者」の暗躍程度では集約できないほどに深まり、個々の議員たちが、文字通り自身の生き残りを懸けてうごめきだしたことを物語っている。
 それは、自民党が政権の座を失う可能性まで見越して、誕生するかもしれない非自民党政権との関係でフリーハンドを手にし、あわよくばその一角に潜り込むことで個々の議員としては与党でありつづけようとする、したたかだが姑息な計算が、この党に蔓延しはじめたことを示唆している。
 つまり「本気とは思えない総裁選」は、自民党内に働きはじめた遠心力と、政党再編を睨んだ議員集団の離合集散の胎動の表現であり、政策的相違を派閥抗争に修練し、政権をたらい回しで独占する「包括政党」システムを清算する動きが、当の自民党からさえ現れつつあると言えるだろう。

▼政党再編の推進力=政治不信

 包括政党・自民党の分解がいよいよ最終段階に入ったとすれば、この党に代わって政権に就く可能性をもつ政党は、もちろん民主党である。
 麻生新内閣発足の御祝儀相場で、自民党の支持率が幾分回復したとはいえ、「自民党中心の政権」と「民主党中心の政権」に対する人々の期待は、なお僅差である。
 ただし改めて指摘するまでもなく、民主党もまた自民党に負けず劣らず、深刻な「ねじれ」を抱えている。もっともここで指摘したい民主党のねじれは、共産党と社民党に代表される戦後革新が指摘する、9条改憲に関するそれではない。
 改憲をめぐるねじれの問題は後述するが、当面する政治課題つまり目前の総選挙の争点という点では、改憲は必ずしも焦点とは言えないし、むしろ深刻さを増す「格差」が大きな焦点だろう。
 そのひとつは、地方経済の疲弊と「東京の一人勝ち」に象徴される地域格差の是正であり、もうひとつは、「労働市場の規制緩和」で急増した正規雇用と非正規雇用の格差、とりわけ都市の若い世代の貧困に対処する格差の是正である。
 この課題は、基本的には小泉改革が解体した旧い再分配システムに代わって、グローバリゼーション時代に対応する新たな再分配システムをどう構築するかを問うものだが、まさにこの課題をめぐって、民主党もまた自民党と同様の「ねじれ」を抱えていることに注目すべきだと思うのだ。
 この「ねじれ」で見ると、実は民主党の小沢支持派と麻生内閣は、業界中心に金をバラまくか個々人(と言っても世帯単位だが)に直接金をバラまくかの違いはあれ、共に「財政出動派」と呼べるだろう。その限りでは小泉改革が促進した経済格差を是正し、内需主導型(これも公共投資牽引型と個人消費牽引型の違いがあるが)の景気回復を目論むという点でも同じである。
 これに対して自民党内には、小泉改革を継承すべしとする勢力があるのは周知の事実だし、民主党内にも、松下政経塾出身者を中心に、小泉に共鳴して「改革」を唱えた反小沢勢力があるのも周知のことである。
 だがそうだとすれば、麻生自民党と小沢民主党は、程度の差はあれ共に「小泉改革からの政策転換」と「格差是正」を唱えて総選挙を闘うことになり、「政権交替」は無意味なのではないか?
 しかり。まさにそれ故に、政界再編の動きが繰り返し現れるのである。
 なぜなら自民党と民主党を貫く「ねじれ」は、「政策の一致を土台にした政党」という近代政党制の建前を歪め、有権者の「政策にもとづく選択」を混乱させて「選挙による政権交替」を事実上は封殺し、自民党の政権独占を可能にしてもいるからである。
 だがそれが、選挙と代議制という近代民主主義への信頼を掘り崩し、政治不信を助長することで、この国の政治の混迷を再生産しつづけているのだ。しかもこの政治不信は、政官業の癒着と利益誘導という「国家資金のムダ使い」に苛立つ、日本の多国籍資本も「共有する」政治不信なのである。たとえその国家資金の使い道が、社会保障の充実に振り向けるべきか、小泉改革のように多国籍資本の国際競争力強化に投じるかの違いがあってもである。
 つまり自民・民主両党を貫く「ねじれ」こそは、民衆と多国籍資本が共有する「自民党政治への不信」を基盤にした、政党再編の強力な推進力に他ならない。
 その上この「国家資金のムダ使い」は、国家官僚機構と癒着した自民党政権と、国家資金のバラまきに依存する業界の相互依存構造を一旦は清算しない限り、「自民党をぶっ壊す」と大見得を切る総理・総裁をしても変えられないことを、小泉改革の5年間が証明したと言えるだろう。
 小泉が仕掛けた郵政選挙で自民党を追放された「守旧派」議員が、次の安倍政権ではあっさり復党できる「ねじれ自民党」のヌエのようなしたたかさが、この国の政治の閉塞感を強めつづけているのだ。

▼政党再編と政治的予備力の枯渇

 だが、政党再編の「客観的な」推進力がどれほど強力であろうと、政党・官僚・業界が癒着した利益誘導システムに代わる新たなシステムの構想と準備がなければ、それが自ら解体することはあり得ない。
 結局、小泉改革は、旧主流派の派閥利権構造には打撃を与えても、政官業の癒着ともたれ合いの構造全体を「改革」することはできなかったのだ。
 こうして小泉政権以降の個々の自民党議員は、政権を維持する与党議席を担保にして、政府施策の換骨奪胎に奔走する面従腹背を常とする、自民党の「内憂」となった。道路特定財源の一般財源化という安倍と福田の方針が、立法化されずに閣議決定に押さえ込まれたのは、総理・総裁の首のすげ替えで、閣議決定はいつでも反故にできると考える面従腹背の輩の抵抗の結果であり、「責任政党の堕落」を暴いて余りあろう。
 したがって「小泉改革からの転換」と「格差是正」を含意する「財政出動派」の麻生が、新たな再分配システムの構想を提示しない以上、それこそ道路建設のような公共事業で業界に金をバラまき、その「おこぼれ」所得でセーフティーネットを代替する、旧態依然たる財政政策が行われると推測する以外にはない。だがそうであれば、「ムダな公共事業」の復権とワンセットで「格差是正」が図られることになる。
 そこには、社会的再分配システムを制度として設計し、これを法によって保障する、ごく当然な社会保障制度やセーフティーネットの発想が皆無であるだけではなく、小渕政権の財政出動が国家財政の赤字を膨らませ、その結果として小泉改革が登場したという、自民党政治が行き詰まったことへの検証も総括も見当たらない。
 では小沢の民主党は、新たな再分配システムの構想を示しているだろか。はっきり言って、それは判らない。
 ただひとつだけ言えるのは、民主党が昨年の参院選マニフェストで掲げた再分配の手段は、農家への所得保障や子育て支援など、いわば国家資金を個々人もしくは個別世帯に直接バラまくという点で、業界へのバラまきという旧態依然の財政出動とは大きな違いがあるということである。
 ただそれが、制度的な再分配を意図したワンステップなのか、それとも一時的な目くらましの措置なのかは、今の時点ではまったく不明瞭だということだ。その意味では、来る総選挙で「民主党中心の政権」を選択するにしても、それは「よりマシな選択」に過ぎないことをあらかじめ確認しておかなければならない。
 こうした現実は、前述の「利益誘導システムに代わる新たなシステムの準備」と、そのシステム転換を推進する主体である政治勢力が不在であることの証しである。しかもこのような「準備された主体」は、今回の総選挙を含む今後数回の総選挙を通じた、自民・民主両方の離合集散を経て形成される以外にはないだろう。
 と言うのは、今回の総選挙の争点が「当面する課題」であるのに対して、次代を担う政治勢力の結集を意図する政党再編に必要な争点は、外交や政治制度を含む、この国のあり方全般にかかわる政治理念と政策体系でなければならないが、戦後日本の保守勢力の現実は、自民・民主両党の「ねじれ」が象徴するように、これを短期間で収斂できるような政治的予備力が枯渇しているからである。結果として理念的、政策的収斂には、それなりの時間と論争が不可避となる。
 そしてこの数年に及ぶであろう政党再編をめぐる論争を見据えたとき、「憲法改正」は不可欠にして重要な争点となる。

▼「小沢丸」には錨が必要だ

 当面の課題と争点はどうあれ、民主党の小沢はかつて「普通の国」を提唱し、自衛隊の海外派兵を推進する急先鋒として、非軍事に徹した戦後日本外交の転換を図ろうとしたことは、周知の事実である。
 もっともこの主張は長い間封印されていたようだが、それが小沢の信念であることを再確認させたのは、昨年秋の「新テロ特措法」をめぐる国会審議で海上自衛隊の給油活動を違憲だと批判し、それに代わる国際貢献として、陸上自衛隊のアフガン派兵を念頭に「派兵恒久法」の制定を唱え、その後の「大連立騒動」でもこれが確認されたときである【本紙177号「外交戦略の変更嫌う親米保守勢力の画策」参照】。
 もちろん小沢は明文改憲派ではないが、その点では麻生も同じである。だが小沢は「国連安保理決議があれば、海外での武力行使も合憲だ」とする「国連中心主義」を唱え、軍事的な「国際貢献」の実現をめざしており、麻生もまた、集団的自衛権の行使を違憲とする、現行憲法解釈の変更を検討すると公言している。
 つまり小沢も麻生も、名分より実利を優先する解釈改憲で海外での武力行使をなし崩し的に合法化しようとしているのだが、こうした「解釈改憲」なる手法もまた有権者を混乱させ、政策中心の選択という政党政治の建前に背くものであろう。
 だがいずれにしろ、今回の総選挙が「よりマシな選択」を問われるのだとすれば、私たちは、「政権交代」を契機に加速するであろう政党再編の争点を見据え、「この国のあり方全般にかかわる政治理念と政策体系」の柱として、明文であれ解釈であれ9条改憲に反対する明確な意図を、むしろ積極的に「埋め込む」ような、思慮深い選択が求められるとは言えないだろうか。
 海外での武力行使を、なし崩し的に合法化しようとする「小沢内閣」が船出する可能性があるとすれば、その船=小沢丸には、9条護憲のアンカー(=錨)をあらかじめ取り付けておかなければならない。
 このアンカーの可能性を持つ政党は、共産党と社民党以外にはないが、民主党に対する「外在的」批判勢力である共産党は、総選挙における野党間の選挙協力にさえ消極的で、常に「最良の選択」を訴えて「よりマシな選択」を許容しないという意味で、端から小沢丸と切り離されている。
 他方の社民党も、自民・社会・さきがけ連立政権で、なし崩しに自衛隊合憲論へと転換し人々の信頼を裏切った「前科」がある。それでもこの党には、保守勢力内の改憲反対派を含む9条改憲反対勢力の期待が向けられ、民主党内の旧社会党系議員との人的関係も残っているという意味では、アンカーの条件を備えてはいるのだ。
 つまり当面の課題としては、格差是正や政治不信への対応として「よりマシな選択」が問われる一方で、それを契機に進展するだろう政党再編を見据えた「より良い選択」(それでも「最良の選択」とは言い難い)が、当面の課題とは相対的に別個に問われてもいるのである。

 最後に、ひとつだけ確認しておきたい。それはグローバリゼーションに対応する小泉改革の継続あるいは「曖昧な転換」か、それとも小泉改革で拡大した格差を是正する社会的再分配システムの再構築かという、人々の最大の関心事を「飛び越えて」は、9条改憲に抗する大衆的運動を発展させることはできないということである。
 本紙175号の「07年参院選のバランスシート−挫折した自民党改革路線と民主党のバラマキ公約」でも述べたが、「平和のうちに生存する権利」を謳う日本国憲法9条の擁護を訴える者は、社会的生存権を保障する日本国憲法25条の遵守を行政に迫り、格差と貧困による生存権の侵害と真っ向から闘うのでなければならない。
 なぜなら、格差と貧困によって生存権を脅かされ、眼前の絶望的な状況の故に「現状が変わるなら戦争も賛成だ」と言い放つまでに自暴自棄に陥った若い世代を、「平和的生存権」を擁護する運動の新しい担い手として獲得する可能性は、護憲派を自認する人々が彼らの生存権のために頑強に闘い、その信頼を勝ち取ることによってのみ切り開かれるだろうからである。

(10/7:きうち・たかし)


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