【安倍政権の崩壊】

戦後保守政治の終焉

−保守理念の再生を挫折させた、自民党の旧構造−

(インターナショナル第176号:2007年10月号掲載)


▼安倍辞任の衝撃

 これは「第三の敗戦」ではないのか。
 1990年代、バブル崩壊で「第二の敗戦」が語られたのは、まだ記憶に新しい。慢心した「経済大国」の夢が破れ、それでも何とか必死に「再生」への道を求めていた頃のことだった。しかし今はもはや、その意志もなくしたかのようである。

 この一節は、月刊誌『諸君』(文藝春秋社)11月号に掲載された、中西輝政・京都大教授の「真正保守勢力を結集し、福田政治に対峙せよ」の冒頭部分である。
 自称「保守派」の月刊誌『諸君』は11月号で、「福田康夫でいいのか」と題する緊急特集を組み、中西の他にも、安倍のブレーンと目されてきた評論家の西尾幹二、ジャーナリストの櫻井よしこをはじめ、佐々淳行(初代内閣安全保障室長)、八木秀次(高崎経済大教授)ら、右派論客による「安倍政権崩壊」についての論評を掲載した。
 これらの論評に共通しているのは、「憲政史上最悪」とまで言われた安倍の政権投げ出しに衝撃を受け、戦後レジームの脱却を目指した改憲が頓挫した要因が「日本人の精神的劣化」にあると嘆き、安倍を辞任に追い込んだ元凶を、「自民党の旧体質」と共に「美しい国」を破壊した小泉改革に求めてこれを強く批判し、自民党の旧態依然たる派閥政治と小泉後継という制約のために、靖国参拝や従軍慰安婦問題で「安倍カラー」を鮮明にできなかった「安倍の悲劇」を嘆息するという論調である。
 さらにこれらの論者たちは、@アメリカからの「自立」を含む日中協調アジア外交の転換、特に対北朝鮮強硬路線の堅持、A靖国神社への首相参拝の実現、要するに大東亜戦争を正当化する歴史の再評価、B現行皇室典範の堅持、つまり女性天皇容認論に反対することなどが安倍政権に託した期待、その戦略的骨格だったことも吐露している。
 これらの論評が、90年代半ばから台頭した「復古的ナショナリズム」の、いかなる現実を示しているのかという分析は別の機会に譲るとして、本稿では、前述の右派論客たちも言及せざるを得なかった、安倍の首相としての「資質」の問題を糸口にして、戦後保守勢力の人材の枯渇と小泉改革の関係や、「世襲議員」という旧い基盤と「安倍の悲劇」の関係を考察してみたい。

▼ねじれ自民党と論争の衰退

 周知のように、安倍政権の要職に就いた議員の多くは、安倍自身を含めて世襲の二世三世議員であり、当初から「経験不足」を指摘されてはいた。実際にも、彼らの言動の軽率さや説得力の薄弱な信念への過信などは、党内闘争で鍛えられて「実力者」と呼ばれた歴代の首相や閣僚と比べ、「危うさ」が際立っていたと言っていい。
 そして結局はこの「危うさ」が、相次ぐ閣僚たちの政治資金疑惑や年金記録問題での対応の遅れと迷走の要因となり、政権としての危機管理の無能を露呈して政府・与党への不信感を助長し、参院選の歴史的大敗という破綻に帰結したと言えるだろう。
 だとすれば、「自民党をぶっ壊す」と称して「改革」を推進した小泉の、後継政権としての安倍内閣の「危うさ」は、いったいどこに原因があるのだろうか。

 これまでも繰り返し指摘してきたように、小泉自民党総裁の登場は、戦後日本の保守政治の戦略的破綻の結果であった。
 右肩上がりの経済成長を無条件の前提にして、地域ボスと癒着した利益誘導によって政権を独占する自民党の政治は、90年代初頭のバブル景気の崩壊とともに、国家財政の膨大な赤字の累積によって行き詰まった。と同時にそれは、密室の談合によって政治利権を分配するシステム、つまり田中・竹下時代を通じて構築された「再分配システム」への不信を噴出させ、党内でも急速な主流派離れを引き起こした。
 ところが「党内の」主流派離れは、利権を失う野党転落への危機感と、反対に恣意的利権分配に対する党内外を貫く不満という、2つの側面を持った現象だったのであり、この矛盾した主流派離れが、自民党の防衛のために、その自民党を「ぶっ壊す」と絶叫する党総裁を選ぶという、「ねじれた自民党」を出現させたのである。
 こうして小泉は、「脱派閥」を掲げて「旧主流派(=守旧派)たたき」を推しすすめ、その利権分配機能と派閥間談合機能を弱体化させることで自民党内外の支持を獲得するのだが、それは同時に、高い内閣支持率を背景にした「トップダウン」によって改革を推進する、政権基盤の強化にもなった。
 この「脱派閥」と「トップダウン」の手法は、5年におよぶ小泉政権の特徴だったが、それは小選挙区制導入と政党助成金によって格段に強化された党首の権限、つまり公認候補決定権を含む強大な自民党総裁の権限ともあいまって、すでに弱体化していた派閥政治の無力化を加速した。だがそれは反面、自民党内の政策をめぐる論争の活力を奪うことにもなったのである。
 なぜなら自民党内の派閥抗争は、派閥領袖の独断で歪められているとは言え、政策をめぐる自由な論争を保障する「党内民主主義」の一形態と言えるし、その論争は自らの政策を貫く意志(胆力)や説得(駆け引き)など「政治技術」の伝承を含めて、諸政策を収斂する過程でもあったからである。
 断っておくが、私は派閥政治の復活が必要だと言いたい訳ではない。
 ただ「脱派閥」と一対になった「トップダウン」の政策決定という小泉の手法が、自民党内の活発な政策論争の衰退を加速し、同時に自民党の人材育成システムを無力化したのであり、それが安倍とその閣僚たちの「経験不足」の、大きな要因のひとつだったことを確認したいだけである。

▼旧い基盤と新スタイルの接ぎ木

 もちろんこれは、人材育成システムの衰退に止まらない問題である。というのも、小泉によるトップダウンの改革は、首相直属の諮問会議を設置してその答申を政策化することで推進されたが、それは諮問会議の「民間議員」になった財界首脳と、中央省庁の官僚が合作した答申をほぼそのまま閣議決定することで、自民党内談合システムの要であった政策調査会を有名無実化した。
 それは、派閥の衰退による低調な党内論争とあわせて、「包括政党」と言われた自民党の政策的多様性を狭め、抽象化された象徴的な政治理念を大衆に直接訴える、「理念型党首」の下に一元化された党へと自民党が変貌する過程でもあった。
 こうして、すべての派閥が、反主流派として次期政権の獲得を目指すことがますます困難になり、何らかの形で主流派に、つまり党首を支持する「安易な総主流派体制」へとなびく自民党の一元化が進展した。昨年の「郵政選挙」で、反対派が駆逐されたことでこの傾向は一段と強まり、それがまた自民党政治の、ひいては戦後保守政治の「劣化」を加速したと言えるだろう。
 つまり「脱派閥」と「トップダウン」方式という小泉の手法は、自民党内部の活発な政策論争と政策的多様性を奪い、結果として、戦後保守政治が築き上げてきた政策的収斂過程を著しく劣化させ、同時に新人議員たちを政治的に鍛える機能の低下を加速したことは疑いない。
 しかも安倍政権の場合は、小泉が採用した新たらしい政治スタイルが、政治利権の継承を目的とする「世襲議員」という、旧い基盤に接ぎ木されたのである。というのも自民党の世襲議員たちは、たとえ当人が利権まみれではなかったとしても、その支持基盤は「利権を失う危機感」と「恣意的利権配分への不満」とに引き裂かれた「旧来的な自民党の基盤」にほかならず、「保守理念の復権」といった大事業を遂行する準備も、意志もなかったからである。
 右派論客たちが嘆く「安倍の悲劇」、つまり安倍政権が「安倍カラー」を鮮明にできなかったのは、旧い自民党の利権構造の上に、絶大な権限を持つ「理念型の党首」が接ぎ木されたという、自民党の構造的矛盾に起因していたのであり、さらに言えば安倍が、旧構造に依拠している自らの現実に、あまりに無頓着だった結果なのである。

▼安倍の挫折に重なる戦後革新の敗北

 ところで、小泉政権の登場とその後継としての安倍政権の崩壊は、いわゆる戦後保守政治の終焉を画すものである。
 なによりも、理念を軽んじた利権の分配という、戦後日本の経済成長と共に顕著になった利益誘導政治の破綻の果てに、理念の再構築を追求した政権が崩壊した現実は、戦後保守政治の求心力が、いずれの方法でも維持も回復もできなかったことを物語るからである。自民党の「人材の枯渇」とは、歴史的に蓄積されてきた戦後保守政治の、「政治的予備力の枯渇」の現れだったのだ。
 こうして戦後保守勢力は、政治理念の再構築と共に、その理念を入れる新しい器=新党結成という二重の課題に同時に直面することになったのであり、ここに「小泉新党」の客観的基盤が在る。
 その上で確認しておきたいのだが、現時点で、戦後保守勢力が直面している戦略的な分岐は、必ずしも「理念の重視か、利権の維持か」ではないということである。
 つまり小泉政権の「改革」を通じて提示された「当面する」戦略的分岐は、グローバリゼーションの圧力の下で、いわゆる中産階級が没落しようとも、多国籍資本の国際競争力を強化し経済成長の持続を追求するのか、あるいは増税など高負担があっても所得再分配システムを再構築し、中産階級という保守的政治的基盤を防衛するのかという選択として現れていると言えよう。
 もちろん保守勢力が、こうした戦略的分岐を明確に自覚している訳ではない。それでも小泉が推進した「改革」は前者であり、郵政造反組は、迷走しながらも後者に向かおうとする傾向ではあった。その意味では、「小泉後継」を自他共に認める安倍政権が、郵政造反組の復党を平然と認めた事実は、この政権が、「当面の」戦略的分岐にそれほどの重要性を見いだしていなかったばかりか、「小泉後継」の意味を正確には理解していないことを暴くことになった。
 もっとも安倍は、国際競争力の強化か再分配システムの再構築かという当面する戦略的分岐を「飛び越え」て、経済主義的な国民統合つまり利益誘導による国民的多数派を形成してきた保守政治から「脱却」し、民族主義的理念によって国民を統合し、「思想的にグローバリゼーションを補完する保守潮流」の形成という、より本質的な保守政治の転換を目指したのであろう。
 そしてこれが、安倍を奈落の底に突き落とすことになったのだと、私には思える。安倍とその支持者たちの目指した転換がどれほどラディカルだったとしても、自らの存立基盤の矛盾する現実を直視することなく、現に直面している戦略的分岐とは乖離した「本質的転換」を提唱するのは、人々にとって最も中心的関心事である選択肢を軽視する主観主義であり、悪しきエリート主義と言う他はないからである。

 だが振り返って、参院選で敗北した「護憲派」もまた、「人々にとって最も中心的関心事である選択肢を軽視する」ように、9条改憲阻止に一面化された主張に終始しはしなかっただろうか。
 懸命に働いても生活が成り立たないワーキングプワが増加する現実は、日本国憲法25条に規定された「社会的生存権」が現にいま踏みにじられている証拠であり、格差というよりも貧困の問題である。こうした現実を前にして、反戦・平和を掲げながら生存権を脅かす貧困との闘いを語らないのは、客観的には「人々にとって最も中心的関心事である選択肢を軽視する」主張と受け取られても、やむをえないだろう。
 この戦後保守勢力の右派と革新勢力の挫折に通底する「ラディカルさ」は、戦後日本の政治体制であった「55年体制」の崩壊が言われて久しい今日、改めて変革主体の再生に関する大きな課題を突き付ける。少なくとも私は、故・清水慎三氏の「中衛論」を思い起こさずにはいられない。
 それは「革命的前衛党」の理論に対して、地域や職場の人々の現実=歴史的に形成された文化や風俗に根付いた現実=に寄り添い、その日常の中に「当面する」切実な必要を見いだし、それに依拠した、あるいはそこから始まる変革主体の形成過程を「共に歩む」組織論だからである。
 これは、戦略的思考の否定ではない。それはただ人々の現実から出発することで、はじめて「多数者による社会変革」が可能だという、基本的問題の再確認である。

(10/22:きうち・たかし)


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