歴史的転換に直撃される 戦後日本保守政治の迷走
保革を貫く非民主的体質と、闘う闘争団の登場

 


 これが日本政治の現実と言ってしまえばそのとおりだが、なんとも情けないばかりの混乱ぶりである。かずかずの失態と閣僚らのスキャンダルで支持率が急降下した森の「辞意表明」が、迷走をつづけている。
 時期も決められない総裁選挙の繰り上げ実施を、森が自民党大会で表明したのを「総理大臣の辞意表明」と断定するのは、普通教育が教えるブルジョア民主主義の一般的常識では、まったく理解不能であろう。だが反対にそれは、談合と密約、密談と暗黙の了解等々の、総じて情報公開や主権在民という民主主義の建前はどうあれ、密室の談合で事を決する政治手法を自らは転換できない、保守政治の現実を浮き彫りにする。
 連立与党幹部は口を揃えて「辞意表明と受けとめる」と公言し、辞意表明だと解説するマスコミ報道も後を絶たない。ではいったいいつ、森は辞任するのか。それは参院選の前という以外は、おそらく森自身にもよく判らないに違いない。茶番というよりも、たちの悪い冗談の類いである。
 もちろんこうした事態は、表では内閣不信任決議案も問責決議案も否決して不人気極まれる森政権を擁護しながら、裏では参院選惨敗への危機感から「森下ろし」に奔走する自民党主流派が、あの手この手で森を辞任に追い込もうと党内や与党間で密かな談合を繰り返し、裏の合意を演出するリーク情報をマスコミに漏らす、戦後日本の保守政治の伝統芸とでも言える本音と建前の使い分けがつくり出していることは、すでに多くの民衆に見透かされている。
 ところがマスコミも内閣総辞職という事件に期待し、リーク情報ほしさに伝統的腹芸に寄りかかって情報を垂れ流し、本音と建前の使い分けを批判する以上に、政治の専門家然として裏話の解説を得意げに披瀝する。保守政治の腹芸とリーク情報の入手で専門家ぶるマスコミのもたれ合い構造。これが現在の政治の迷走の土台にある。
 だがこうして、小渕のイニシアチブで生み出された圧倒的な議会内多数派を基盤とする連立政権が、政権の危機や経済的危機の進行にまったく有効に対処しえないことが、完膚なきまでに暴き出される。

政官財癒着構造の終焉

 われわれは一昨年9月、自自公連立政権のもとで戦後保守勢力の悲願である国旗・国家法などの反動的諸法が次々と成立したことについて、その戦略的有効性は「はなはだ疑わしい」と本誌(102号)で述べた。
 その最大の理由は、歴史的再編に直面する日本社会の要請と議会内多数派の意図の乖離であり、政治利権への関与と防衛を共通項に成立した巨大与党体制の基盤「政官財の癒着構造」と呼ばれる支配システムが、後期資本主義の危機の時代がいやおうなく促進する日本の社会再編の中ですでに機能マヒに陥りはじめ、今後も不可避的に衰退することになるからであると。
 そしていま、当時と基本的には同じ自公保連立与党は、史上最低の内閣支持率という社会的圧力に直面し、旧態依然の談合政治を繰り返して大衆的嫌悪をかき立て、政権維持と対になった利権政治の防衛という唯一無二の目的を、むしろますます深刻な危機に直面させている。この本質的な戦後保守政治の危機の前では、参院選用に総理・総裁の看板を取り替えたとしても、その効果はたかが知れている。もし仮に看板の架け替えが効を奏したにしろ、自民党の参院選での敗北をくい止めるのは絶望的であり、支持基盤の再建や効果の持続の面でも極めて限定的であろうことは疑いない。
 決定的なのは、機能マヒを深める「政官財の癒着構造」のもとでは、後期資本主義の危機という歴史的転換期のイニシアチブたる人材の育成や戦略的展望の再構築が、まったく準備されていないことである。
 後継総裁をめぐって迷走する自民党と、この与党の危機を追撃もできない野党・民主党の体たらくは、政界における準備の欠如を象徴する。またかつては日本資本主義の安定と繁栄の要とさえ言われた国家官僚機構は、外務省の機密費横領事件や労働省幹部のKSDスキャンダルでの懲戒処分が暴いたように、殉じるべき国家戦略を喪失した官僚たちが私利私欲に走って腐敗し、戦略的再構築を構想しようとする有意の人材は、むしろその無能を見限って流出しはじめている。そして財界すなわちブルジョアジーの世界でも、相も変わらず政治利権に依存した企業の延命を目論み、かつてのような輸出主導型の景気回復に望みを託し、バブルに踊ったツケを国家財政で穴埋めしてもらおうと悲鳴をあげ、日本資本主義再生の構想などそっちのけで右往左往している観がある。
 戦後日本の資本主義的再生をけん引してもきた「政官財の癒着構造」は、文字どおりの意味でどんづまりである。

保守の危機、総評左派の危機

 だがそうした戦後日本の支配システムの危機を、日本資本主義の「終わり」と断定するのは早計である。なぜならこの状況を打開するイニシアチブは、ブルジョアジー以外の陣営にも不在だからである。むしろ現在の日本資本主義の混迷は、他方では、この資本主義に順応し、その経済的繁栄と保守支配の安定を前提に改良を追求しつづけてきた、総評・連合とつづいた戦後労働運動の主体的混迷をも同時に問い返すからである。
 しかもこの問題は、労働組合を企業社会に合流させ、男性本工組合員の特権的労働条件の防衛にその役割を切り縮め、結果として雇用の防衛も増加しつづける非正規労働者の組織化もできずに閉塞状況に陥っている連合労働運動を、外から非難すれば事足りるわけではない。むしろ問われているのは、連合の成立に抗して「総評左派の継承と発展」を目指した左派労働運動が直面する課題を解明し、次代を担う運動を切り開く展望を見いだそうと努めることだろう。

 連合に抗した左派労働運動が、ひとつのサイクルの終焉を迎えて新たな課題に直面していることは、1月続開大会での国労の転換と堕落が明らかにした。
 だが4党合意をめぐる国労内外を貫く攻防の中には、いま日本の保守政治が直面する旧いシステムの機能マヒが、新たな政治規範の台頭と対立しつつ促進されるという、共通する構図があることも明らかになった。その共通項とは、大衆的な自己決定の要求に逆行する談合や裏取引という代行主義への固執、情報公開や説明責任の要求を欺く本音と建前の使い分け、そして統一と団結を名目に少数意見を押し潰す官僚主義などである。現在の自民党主流派の手法にも、そして国労本部の反対派への対応にも、じつはこのすべてが共通して刻印されていた。
 国労本部が、闘争団の自決権の要求をはねつけ、4党合意の実態を隠そうと本音と建前を使い分け、統一と団結を盾に「少数派」である闘争団に屈服を強いたとすれば、自民党主流派は、総選挙や党総裁選挙などあらゆる大衆的自己決定の機会に背を向けて談合を繰り返し、森降ろしで本音と建前を使い分け、連立与党の「統一と団結」を盾に陰険な恫喝で「加藤の乱」を鎮圧したのではなかったか。それはみごとなまでに、両者の体質的共通性を暴き出してはいないだろうか。
 つまりいま危機に直面している戦後日本の保守政治と、旧総評左派の「闘う伝統」の危機には、自己決定権の否定やより徹底的な民主主義の拒絶、形式的で官僚的な多数決の認識など、古色蒼然たる民主主義の理解という共通項が体質化してあると言っても過言ではない。しかもそれは55年体制という自社二大政党制の時期全体を通じて、保守勢力との談合で改良を実現する戦術に慣れ親しんだ総評労働運動の下で、左右をとわず育まれた歴史的な意識なのである。
 だがいまや、後期資本主義の危機を推進力とする日本社会の再編が、こうした談合と代行主義の「民主主義」を危機に直面させ、代わって自決権や少数派の権利を掲げ、官僚主義を嫌悪する民主主義の新たな規範が台頭する客観的基盤を拡大しつつある。
 そうであれば国労の堕落に抗し自立して闘う闘争団の登場【本誌12頁参照】は、保守政治の危機が問い返す左派労働運動の主体的問題にこたえうる、最先端の闘いとなる可能性をもつことになる。

(さとう・ひでみ)


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