七〇年代同盟ーその綱領と組織(3)ー

「権力のための闘争」戦略と戦後労働運動の敗北

(労働者の旗準備第7号:1991年10月刊・掲載)                                       寺岡衛


はじめに

 同盟の五・六回大会をつうじて確定した七〇年代同盟の政治路線ー「権力のための闘争」戦略は、第八回大会とそれ以降の各中央委員会を通じて精密化され、より実践方針化されていった。そしてその過程は七六年前半におけるロッキード政府危機と「社共政府」スローガンの闘いとして、また七六年-七七年における「労働情報」運動の成立として、更に七七年-七八年における国家と対決する「三里塚決戦」として組織され展開された。七〇年代同盟の綱領的、組織的危機は、こうした「権力のための闘争」の一つ一つの実践化とその破綻、それを通じて顕在化していった組織的分解過程の中から明らかにされていった。
  今号においては同盟第八回大会以降三里塚決戦にいたる「権カのための闘争」の実践方針化の過程を総括しながらそこに内包された綱領上、党建設上の破綻(それは八〇年代にはいって全面的に顕在化)の性格を検討してみることにしよう。

第1章 「社共政府」スローガンの綱領的性格

(一)ロッキード政府危機

 同盟五・六回大会で定式化され、第八回大会でより精密化された「権力のための闘争」路線は、ロッキード疑惑が全面的に暴露されていく政府危機の中で「社共政府」のための闘いとして展開されることとなった。同盟八期三中委(七六年四月)は「権力のための闘争」の中心環を政府をめぐる攻防にさだめ「ロッキード徹底糾弾・生活防衛・資本家政府打倒の労働者統一戦線にもとずく社共政府」を当面の扇動、行動のスローガンとして提出した。
 同盟は、「社共政府」スローガンを提出するにあたって、今日の政府危機が特徴づける情勢の性格を次のように提起したのである。
 その第一は、「ロッキード疑獄の暴露によって政治情勢の流れは一変し、明らかに激動の局面に入っている」こと。しかも「今日の時代は明らかに帝国主義の、しかも国際的な帝国主義の本当に最後の衰退の時代である」こと。そのことは「日本においては自民党ー資本家政府の慢性的な政府危機構造として表現され」、同時にそれは「ブルジョワ改良主義、ブルジョワ議会主義支配の崩壊」を意味するのである。すなわち「ロッキード事件の本当の根本的解決は、ブルジョワ民主主義・ブルジョワ議会主義では絶対に不可能である。そして労働者大衆の深い怒りもこの枠をはるかにこえている」のだと。(以上八期三中委に提出された「木原論文」)
 そして第二にそのことから今日の「階級闘争の最大の対決環は、ブルジョワジーの政治支配がゆらぐ危機の時代の特徴からして一事件、一闘争から出発しようとも、たちまちのうちに(政府)の問題へと集約されてしまう」のである。「権力のための闘争は第三の水路(政府危機)をとおして今日現実の問題に転化しているのである」(同じく「木原論文」)。
 まさしく「現下の労働者人民の切実な要求は、すでに資本家政府にかわる新しい政府権力の樹立を確固として支持するところまできている」のであり、「この事実は大衆の新しい政府にたいする要求が、この両党(社共)にむかわざるをえないことをしめしている」のだと。(以上八期三中委決定にもとずきWRに執筆された「織田論文」)
 そして第三にそのことは「今日の情勢が議会の外でますます多くのことが決着をつけられていく情勢だという真実が反映している」ことを意味している。すなわち「今日の日本晴勢で社共政府ができるとしたら、議会内の力関係によってではない。それは強力に組織された労働者人民の統一戦線の巨大な圧力のもとでしか生まれない」。ここから「政府はこの統一戦線に直接に立脚し、すべての政策をここで審議し、全ての措置の遂行をこの統一戦線の実力行使に依拠しておしすすめ」ていく以外にない。そしてそのことから社共政府の「裏切りこそ逆に、大衆がこの政府をのりこえて、一層革命的な労働者・農民の政府えとつきすすんでいく絶好のチャンス」となるのだ。まさにこうした「社共政府の提案はーーーそれは同時ではないにせよ、すぐさま二重権力の局面に移行するだろう。さらに二重権力の局面は内乱の局面に突入するだろう」「われわれの提出する政府スローガンはこの厳しい段階の第一歩を踏みだすためのものである」のだと。(以上「織田論文」)
 第四にこうした観点から「全てのたたかう勢力に開かれた全国統一戦線を全国つつうらうらの各地に至るまで組織」し、「ロツキード疑惑の真相を完全にあばき、一切の資料を捜査当局の隠し金庫から奪還して白日のもとにさらし、労論者人民が参加し、監視する人民の法廷を組織ーー」すること、そして「労働者人民の生活防衛の緊急課題を実現するために巨大商社、巨大金融機関、巨大企業を没収し、無償国有化し、労働者人民の管理に置く」こと。更に「ブルジョアジーとその権力による抵抗を粉砕すべく労働者人民の自衛武装、労働者民兵を組織すること」(以上「織田論文」) 以上のような目標をかかげ「七六春闘でロッキードと春闘を結合させ、大ブルジョアジーの政治支配をゆさぶる大闘争を展開」することを通じて、社共を「労働者階級の側に引きつけ」ていくことを、提案したものであった。(以上「木原論文」)
 ロッキード政府危機に関する以上のような同盟の認識を要約すると次のようになる。
(1)今日進行している自民党ー資本家政府の慢性的政府危機は、戦後日本の政治支配構造の根本、ブルショワ民主主義、議会主義支配の崩壊の全面的顕在化を意味する。すなわちこのことは、労働者人民のあらゆる領域の社会経済的、政治的闘争が「政府」をめぐる攻防へと集約され、更に政府危機をめぐる攻防はブルジョア支配体制の根本的な解体をめぐる闘いへと転化していく。
(2)そしてこうした危機の性格からして労働者人民の個別的な闘争の発展が、ブルジョア民主主義、改良主義の分断的性格を越えて合流、政治的統一戦線=労働者権力を準備していく闘いとなる。
(3)そして具体的にはロッキード政府危機と七六春闘が結合し、大衆的ゼネストを基盤に過度的闘争が準備されていく。そしてこうした大衆闘争の暴発的圧力によって社共を引きつけ政府権力の奪取を社共に強制していくこととなる。

 以上のように同盟は、ロッキード危機を契機とした「政府」をめぐる攻防を、五五年体制のもとで定着したブルジョア民主主義、議会主義の政治構造の基盤をその根本から危機へと転化し、同時に社共ー総評の改良主義機構のもとに政治的に組織されてきた労働者大衆の多数が、政府権力を自ら組織する闘いへと飛躍しようとするものとして評価したのである。

(二)「政治危機」の構造と世界的二重権力論

 「政府危機」と「階級闘争」にかんする七〇年代同盟のこうした認識をわれわれはどのように総括すべきか。同盟の「政治危機」と「階級闘争」に関するこうした認識の根拠を解明することこそまさに七〇年代同盟の戦略路線ーー「権力のための闘争」を綱領的に総括する鍵となるものである。
ロッキード政府危機を契機としたブルジョア民主主義、議会主義支配の根底的な危機への転化、社共ー総評のもとに政治的に組織されてきた労働者大衆の権力闘争への飛躍ーー「政治危機」や「階級闘争」に関する同盟のこうした認識は、七〇年代同盟を綱領的に規定した世界的二重権力論ー一元的世界権力(国家)論とどのように関係しているのかを解明してみることが必要である。
 世界的二重権力の方法論によれば、日本における戦後ブルジョア民主主義支配の政治的上部構造は、基本的に日本における社会経済的土台によって決定されたものではなく、戦後世界の政治・軍事力学ーー世界的二重権力構造ーーアメリカ帝国主義主導の一元的世界権力支配の構造に大きく規定されたものであると把握されてきたのである。そしてそこから日本における戦後ブルジョア民主主義政治の危機の基盤は、アメリカ帝国主義の一元的世界権力(国家)の衰退に直結しているものと考えられてきたのである。七〇年代同盟の「政治危機」と、「階級闘争」に関するこうした認識の根拠を解明するためにわれわれは、ここでまず同盟第六回大会のために起草した酒井論文(「第二次世界戦争後の世界政治構造とその過度的性格」ーこの草稿自身は大会議案として採用されなかったが、世界的二重権力論を理論的に定式化したものであり、同盟の綱領的枠組みに影響を与えた)を参考資料として引用しながら若干の検討をくわえてみることにしよう。
酒井論文は次のように述べている。少々長くなるが引用してみる。

 「世界的二重権力関係のーー全面的確立はーー主体的には三〇年代-四〇年代にかけて帝国主義世界体制の決定的没落と崩壊的危機にもかかわらず、この危機の時代においてヨーロッパとアジアの革命の国際的勝利を全面的に実現しえなかったことによるのである。」こうした条件のもとで「世界的二重権力関係を現状維持的なものとして固定化し、全世界における一切の大衆闘争をこの現状維持的な世界構造のなかにとどめていった主導的力、その物質的根拠はアメリカ帝国主義が第二次世界戦争をつうじて実現していった全世界にたいする圧倒的に卓越した巨大な資本主義的生産力であり、その圧倒的に優越した生産力にもとずくアメリカ帝国主義の軍事的、政治的、経済的能力にあった」のだ。このことば「ーー第一次帝国主義戦争以降決定的な危機と衰退にむかった帝国主義世界体制の(危機を支える)ための巨大な歴史的予備力(つまり巨大な資本主義的生産力の可能性)がアメリカ帝国主義のうちに秘められていたということであった」。アメリカは、「世界戦争をつうじていわば歴史上『例外』的ともいうべき力を獲得した」。
 こうして「アメリカ帝国主義を背後地として、西ヨーロッパならびに日本においてブルジョア民主主義政治体制がつくられた。すなわち一九三〇年代-一九四〇年代にかけて公然たる反革命体制はアメリカ帝国主義の『例外』的な力にもとずく世界的な軍事・政治・経済体制によってとってかわられた」。だが「西ヨーロッパと日本において反革命的政治体制をもたらした旧帝国主義の危機と矛盾そのものは本質的には何ら除去されないままである」。この旧帝国主義の危機と矛盾の結果が「ヨーロッパ、アジアにおけるーー崩壊的危機とその結果としての労働者国家の過度的拡大という帝国主義存亡の危機」を今日もたらすこととなったのである。そしてそれに対抗する「巨大な世界的軍事体制が帝国主義にとって政治的にも経済的にも必要なー恒久的な要因となった」のである。すなわち「現代帝国主義のこの恒久的世界軍事体制は、全歴史のなかに位置づけるとき永久的世界革命の過度的前進に対する本質的に防御の体制なのであり」「危機の体制であるということを意味する」ものである。まさに「現に過度的に成立している永久革命の全重圧そのものがアメリカ帝国主義を中軸とする全世界反革命軍事武装として端的に表現されているのであり、この恒久的世界軍事体制の重圧がまたーー予備力そのものを確実につぶしていく」こととなっているのである。すなわち「アメリカ帝国主義はその資本主義的生産力の全世界にたいする卓絶した優越性という巨大な予備力にもかかわらず、新しい資本主義的安定を全世界において決定的につくりだすことはできなかった」のである。「世界的二重権力によってつくられた現代世界の構造は、この全世界的構造それじたいのうちに危機と革命をはらんだ体制であり帝国主義の最後の没落を、それ自身において用意する過度的な体制にすぎない。それゆえにこの世界体制はまた永久的世界革命の最後の勝利の可能性を準備し、全人類に提起する体制である」のだ。そして「ベトナム革命はーーついにこの最大最強の軍事反革命の戦略的敗退へと歴史的局面をきりひらき、旧来の世界的二重権力関係の世界的大変動と反帝国主義闘争の新しい世界権力創出の巨大な端緒をつげ、永久的世界革命の新しい前進を自らの世界史の前衛として担ったのである」と。(酒井論文「第二次世界戦争後の世界政治構造とその過度的性格」)

 以上みてきたように世界的二重権力論は、単なる「東西対立論」や「体制間矛盾論」のやきなおしではない。その世界戦略としての特徴は、第一に中ソを軸とした「労働者国家群」と「植民地革命」のブロックを世界永久革命の過渡期における世界権力として規定していることであり、第二にこれに対抗するアメリカ帝国主義の戦後における世界反革命軍事体制を世界帝国主義の危機防衛のための一元的世界権力(国家)として認識しようとしたことである。
 すなわち世界的二重権力論の世界戦略としての特徴は、国際的な政治・軍事ブロックと、その対立の構図を世界革命の過渡期における世界権力(国家)の成立過程としてとらえかえしたことによる。
 こうした世界戦略論の根拠は、わが同盟の戦後論に深くかかわっていると思われる。ここで七〇年代同盟のもつ戦後論の特徴を検討してみることにしよう。
 わが同盟の戦後論の第一の特徴は、戦後帝国主義世界体制を基本的に規定しているのが依然としてヨーロッパ、アジア(ユーラシア)における没落帝国主義としての旧構造であり、その没落と崩壊をベースとした危機の体制である、ということである。すなわちその基盤は、レーニンやトロツキーによって「死滅しつつある資本主義」「死の苦悶の資本主義」として規定され、第一次帝国主義戦争とロシア革命以降、全面的に顕在化した旧帝国主義の没落と崩壊の構造を基本的に引き継いだものとして把握したのである。そしてアメリカ帝国主義の戦後世界支配の体制は、その経済的、政治軍事的な絶対的優位にもかかわらず、国際帝国主義の歴史的没落の流れからするとき、それは一時期の「例外」的予備力として評価されたのである。絶対的優位のもとにあるアメリカ経済が、戦後世界を支える一時期の「例外」的予備力でしかないとの認識は、アメリカにおいて発展した巨大な生産力が資本主義世界の次の時代を主導する普遍性を体現しているのではなく、特殊アメリカ的基盤(豊かな資源と広大な土地、活力ある労働力、歴史的遺制の桎梏からの自由など)においてのみ成立しうるものとされたからである。それは、アメリカ主導の後期帝国主義体制が、ヨーロッパを軸とした前期帝国主義の没落と崩壊の構造を一時的に支えることはできても、それを土台から資本主義的に再生させていくことはできず、逆に没落帝国主義の旧構造の崩壊過程に引き込まれ解体されていくと展望されたのである。
 アメリカ帝国主義の戦後世界支配は、帝国主義の没落のテンポをゆるめたり、一時的に先送りしたりすることはあっても、その没落の構造を基本的におしとどめることはできないものとされた。こうしてヨーロッパとアジア(ユーラシア)を軸とする没落帝国主義と植民地の危機と崩壊の旧構造が、アメリカの戦後世界支配ー新帝国主義の基盤を不断に侵食、解体していくものと展望したのである。そして戦後帝国主義のこうした危機の構造は、潜在的ながら革命主体を不断に強化ー蓄積していく体制でもあると考えられたのである。
 酒井論文はこうした視点を次のように述べている。

 「西ヨーロッパと日本においては反革命的政治体制をもたらした旧帝国主義の危機と矛盾そのものは本質的に何ら除去されないままであ」り、それをベースとした「現代世界の構造は、この全世界的構造それ自体のうちに危機と革命をはらんだ体制であり、帝国主義の最後の没落をそれ自体において用意する過渡的な体制にすぎない。それ故にこの世界体制は、また永久的世界革命の最後の勝利の可能性を準備し、全人類に提起する体制である」のだと。(以上酒井論文)

 そして「労働者国家」と「植民地革命」におけるスターリニスト官僚のブロックは戦後帝国主義のこうした危機と没落の歴史的趨勢と結びつくことによって、必ずしも重大な障害として機能するのではなく、逆に大衆の「革命的蓄積」を支える背後地としての機能を強制されていくものと展望したのである。 一国主義の算術連合でしかないスターリニスト官僚支配の「労働者国家群」と「植民地革命」のブロックを「過度的に成立している永久革命」として把握する世界二重権力論の方法はスターリニスト支配(社民支配)のもつ反革命的障害が不断に凍結され、無力化されていくとする戦後世界の政治力学のこうした趨勢に根拠をもって組み立てられたのである。

(三)各国のブルジョア政治体制とアメリカ主導の世界権力構造 

 次に、七0年代同盟における戦後論の第二の特徴を見てみよう。それは、戦後における没落帝国主義の危機の旧構造を防衛しうる力がアメリカ帝国主義によって戦後一元的に組織された世界軍事権力の成立であり、世界各国のブルジョア政治体制はこうしたアメリカ帝国主義の世界軍事権力の成立によってのみ維持されてきたということであった。
 ヨーロッパ、日本を軸とした旧帝国主義ー植民地体制は、戦後革命の発展に対抗して自からの政治基盤を組織することができず、アメリカ帝国主義の世界軍事反革命の力に全面的に依存することによって自己を防衛してきた。
 没落帝国主義の危機と崩壊の歴史的趨勢は、各国における社会経済的矛盾を深め、労働者大衆が戦闘性、革命性を強化していくと共に、革命運動=階級闘争の国際的な連動を強め世界永久革命の基盤を発展させていくこととなる。
 こうした戦後情勢の趨勢は、国内における階級闘争の相互の結合ーーすなわち政治闘争と経済闘争を、個別的要求と過度的要求を、更に急進的前衛と大衆的多数派を結合して労働者統一戦線の基盤を強めていくと共に、国際革命の相互連動ーーすなわち労働者国家と植民地革命のブロックを、旧帝国主義諸国の大衆闘争と植民地革命の結合を生み出していくこととなるのである。
 アメリカ帝国主義による一元的な世界反革命軍事体制は、まさに労働者国家を封じ込めるだけでなく、こうした革命や階級闘争の相互の連動ー結合関係を国際的にも国内的にもバラバラに分断ー解体することによって、永久革命の発展の基盤を阻止していくことであった。そしてこうした階級闘争の分断と抑圧の基礎の上に各国のブルジョア政治体制の安定的基盤が確立されていったのである。すなわちアメリカ帝国主義主導の戦後における世界反革命体制は、世界的な軍事武装装置として機能するだけでなく、各国におけるブルジョア政治体制の成立基盤を保障し、支えるための世界権力(国家)としての機能を発揮していくことであるとされた。
 日本のブルジョア民主主義政治の成立基盤は、こうしたアメリカ帝国主義主導の世界権力としての機能が、日本の労働者人民の戦闘性を、アジア革命から分断し、その革命性を潜在的なものへと封じ込め、個別主義、改良主義の枠内に抑えこんできた結果であると考えられてきたのである。七0年代同盟の戦後論の特徴は、まさに各国における政治体制の成立基盤が、アメリカ帝国主義によるー一元的な軍事反革命体制(世界権力)に全面的に依存しているものとされてきたのである。そして同時にそのことは、各国の政治体制の動向が、アメリカ帝国主義の一元的な世界軍事権力の動向に直結したものと考えられてきた。
 だがこうした認識は、第二次世界大戦以降の革命的発展を阻止した力が、アメリカ帝国主義の一元的な軍事反革命の力に還元され、アメリカ経済を主導力とした国際資本主義再生の問題として、とりあげられることはなかった。すなわちアメリカ帝国主義経済の絶対的優位性の前提が、ヨーロッパ主軸の没落帝国主義の生産ー蓄積様式の旧構造と区別されたアメリカ型資本主義の新たな生産ー蓄積様式を土台として発展していることの意味を明確に分析することができなかったのである。まさに戦後におけるアメリカ経済の絶対的優位の問題を世界軍事体制を支える基盤として認識することはあっても、世界資本主義経済の再生のイニシアチブの問題として把握することはなかったのである。すなわち各国の政治体制の基盤が、戦後のアメリカ主導による社会経済的土台の再生との関係で把握されず、アメリカの世界軍事権力に全面的に依存するものとしてのみ認識されてきたのである。ここからアメリカ帝国主義の世界軍事反革命の後退は、各国の政治体制の直接的危機を意味し、アメリカ帝国主義の一元的世界権力の崩壊が各国における権力闘争の噴出と、その国際的連動ー結合関係の発展をもたらし、「旧来の世界的二重権力関係の世界的大変動」と「新しい世界権力創出の巨大な端緒をつげ、永久的世界革命の新しい前進」をもたらすとしたのである。
 こうした観点にたつときベトナムーインドシナ革命の軍事的勝利は、まさに各国の政治体制の成立基盤を決定ずけるアメリカ帝国主義の世界権力としての機能を根底からゆるがすことであった。すなわち、ベトナムーインドシナ革命の軍事的勝利はベトナムーインドシナ地域の民族的勝利にとどまらず、アメリカ帝国主義の世界権力としての基盤を根本から解体していくことを意味し、同時にそのことは、世界権力の庇護のもとで成立してきた各国の政治体制を直撃し、それを危機と動揺のなかへとたたき込むことを意味することであった。
 ロッキード疑惑を契機とした日本の政治危機が、ブルジョア民主主義、議会主義政治を根底からゆるがし、社共ー総評下の労働者大衆の多数が権力闘争へと飛躍せんとするーー情勢と階級闘争に関するこうした七0年代同盟の政治的展望は、まさにこうした戦後世界の構造把握が前提となってなりたってきたのである。(こうした世界永久革命戦略の諸傾向は、七0年代同盟の固有のものではない。それは七0年代同盟によって一面化され、理論的に変質されていったとはいえ、第四インターナショナルの歴史に内在した傾向を引き継いだものである。こうした世界認識の第一は、第二次帝国主義戦争の危機を展望し、「ヨーロッパとアメリカ」の矛盾を、国際的矛盾の中心環としてとらえたトロツキーの世界永久革命ーアメリカ革命論のなかに、また第二は、第二次帝国主義戦争後の激動期に反帝ー反米の世界戦争ー世界革命を展望したパブロー「来るべき対決」のなかに内包されていた。ーー七0年代同盟のこうした歴史的視点に関する理論上の総括については次回において全面的に検討することとする。)

(四)帝国主義衰退期の革命戦略

 こうした戦後世界の危機の構造認識を前提として七0年代同盟は、自己の戦略的方法を第一次帝国主義戦争後の危機の時代に提起したトロツキーの戦略論と結びつけて次のように提起した。
 八期三中委で「社共政府」スローガンを提起した木原論文はトロツキーの論文を引用しつつ次のように提起している。まずトロツキーの引用部分は次のようである。

 「では戦後の時期はヨーロッバではどうか?。経済では生産力は不規則に、発作的に収縮あるいは拡大し、一部の産業部門では戦前の水準付近に沈下している。政治的には政治情勢はあるいは左にあるいは右へと狂ったように振動している。一、二あるいは三年間におけるこのような鋭い政治情勢は、基礎的な経済的要因の何らかの変化によってもたらされたものではなく、純粋に上部構造的な性格の原因や衝動によってもたらされたものであって、このことはその体制の土台が和解しがたい諸矛盾に蝕まばれていることは明瞭である」と。(トロツキー「帝国主義時代における戦略と戦術」)

 トロツキーの以上のような分析と結びつけてベトナム以降、ロッキード以後の政治危機の情勢を次のように提起したのである。「今日世界全体において三0年代、四0年代と同じ様相、否はるかに深く先鋭な危機が帝国主義と植民地世界をおおっている。」「ベトナム・インドシナ革命の勝利によって完全に、最後的な帝国主義の衰退にあっては、政治的上部構造だけがーしたがって階級間の具体的な上部構造だけが情勢の流れを決定する。ーーここから階級闘争の主体的条件だけが情勢を左にも右にも押しやる決定的要因である。今日の政治情勢が完全にこのような局面に入ったことをわれわれは確認しなければならない」と。(八期三中委に提出された「木原論文」)
第一次帝国主義戦争を通じて全面化した没落帝国主義の危機の構造をトロツキーは次のように特徴ずけると共に、そこから革命的戦略の定式化をはかった。その特徴を要約すると次ぎのようになる。
 その第一は、経済的土台が麻痺し、無政府的混乱へとたたき込まれ、階級利害の非和解性が社会的、政治的危機の前提条件となったこと。第二にこうした経済的土台の非和解的矛盾のもとでは、情勢の動向を決定するのは純粋に政治的上部構造の衝動や力学によるものであること。そして第三にこうした情勢を基礎に階級闘争の戦略と戦術が組み立てられなければならないこと。すなわち労働者人民のあらゆる要求や闘いを政治的攻防の戦略的環へと集中する能力が問われることになるということである。それは後に第四インターナショナルの過度的綱領として定式化されていった。

 「死の苦悶の戦間期資本主義」のもとで定式化したトロツキーのこうした革命的戦略を七0年代同盟の「権力のための闘争」の戦略のモデルとしてそのまま全面的に採用したのである。なぜなら今日の政治危機の性格が「ーー三0年代、四0年代と同じ様相、否はるかに深く先鋭な危機が帝国主義と植民地世界、をおおっている」(同「木原論文」)からであり、「ここで闘われているのは、基本的にコミンテルン三回、四回大会と同質の問題であり、レーニン、トロツキーの『共産主義における左翼小児病』『革命的戦略の学校』をどう具体的にプロレタリアートの最良部分が実践するかという問題であ」つたからである。(同「木原論文」)

 こうして同盟は「ベトナムーインドシナ革命の麟利」=「最後的な帝国主義支配の衰退にあっては、政治的上部構造だけがーーしたがって階級間の具体的な上部構造だけが情勢の流れを決定する。ーーここから階級闘争の主体的条件だけが情勢を左にも右にも押しやる決定的要因である」(同「木原論文」)との結論へと達したのである。
 以上のような観点からみるとき、戦後における世界的な上部構造としてのアメリカ主導の「世界権力」は、没落帝国主義ー植民地の危機と崩壊ーーそのもとで発展する労働者人民の革命前的状況(植民地革命はもとより旧帝国主義諸国の闘いにおいても潜在的には同質)を軍事的に封じ込め、資本主義的に防衛した唯一の力として評価されることとなる。だがその過程は、同時にアメリカ主導の「世界権力」によって分断、封じ込められているにもかかわらず、その政治的枠組みの中で労働者人民の革命性、戦闘性が潜在的ながら不断に蓄積されていっていたことをも意味したのである。すなわちそのことは、労働者国家と植民地革命の分断と封じ込め、帝国主義本国の労働者入民と植民地革命の分断など国際的闘争の分断、封じ込めの枠組みにありながら、アメリカ帝国主義の反革命軍事体制を頑強にくい破ろうとする植民地革命の発展として、またブルジョア民主主義政治と社共ー総評改良主義機構の枠内にありながらその枠内で蓄積されていく労働者大衆の戦闘性として、更に改良主義的多数派の枠内でそれを不断に糾弾、突破しようとする急進的青年の少数派イニシアチブ等の表現をとって、労働者人民の潜在的革命性が不断に蓄積されていったと評価されたのである。
 ベトナムーインドシナ革命の勝利は、世界的上部構造としての「世界権力」を崩壊的危機へと追込み、その庇護のもとで成立してきた各国のブルジョア政治体制を根底から動揺へとたたき込むことを意味した。こうしたアメリカ主導の「世界権力」の危機と崩壊は、「世界権力」の抑圧と分断の枠内で潜在的に蓄積してきた労働者人民の革命性が一挙に解放され、顕在化していくこととなる。こうした発展は、国際的には、三セクターの分断構造を突破し、世界永久革命と「アジア合衆国」のスローガンが現実性を与えられること、国内的には政治闘争と経済闘争の分断、急進的潮流と労働者大衆の多数派の分断等が克服され、政府危機へと集約される政治的統一戦線が基盤を獲得していくものと考えられたのである。
  ロッキード政府危機を契機としたブルジョア民主主義、議会主義支配の崩壊、社共ー総評のもとで組織された労働者大衆の権力闘争への飛躍、こうした情勢を背景にした「社共政府」の提起ーーこうした同盟の政治的展望は、まさに先に見てきた戦後世界を支えてきたアメリカ主導の一元的な「世界権力」の崩壊という事態を根拠として提出されたものであったのである。

第二章 「社共政府」方針の挫折と政治的イニシアチブの不在

(一)政府危機と保革中道派潮流の登場

 以上「社共政府」スローガンに込められたわが同盟の政治的展望は、情勢の進展の中で直ちにその挫折を暴露することとなった。
情勢の推移は、自民党政府危機の進展が、労働者権力のための闘争へと転化するのではなく、逆に議会主義的連合政治を求める保革中道派潮流の登場の基盤となって進展していったのである。
 ロッキード政府危機は、大資本の政治的イニシアチブを体現する保守本流政治の衰退と深く結びついて進展した。
 戦後一貫して日本政治の本流を体現してきた自民党保守本流体制は、政官財癒着を基盤とした大資本の政治的イニシアチブとして保持されてきたのである。すなわちそれは、大資本の政治的イニシアチブが、小ブルジョアジーをはじめとする国民的多数を統合する政治装置として作動してきたのであった。だが、ロッキード政府危機の構造は、保守本流のこうした国民的統合機能が分解し、有効に作動しなくなったことを表現したものであった。
 高度経済成長を前提としたそれまでの日本経済の発展の構造は、大資本の発展が、同時に小ブルジョア層の経済利害の拡大とつながり、労働者の生活向上とも結びついていた。自民党の議会における安定多数の構造は、まさにこうした小ブルジョア層の利害を大資本のもとに包摂することを基盤として成立してきたのである。保守本流を体現した田中金権政治の構造は、まさに大資本の利益のおこぼれを国家財政の運営を利用して小ブルジョア層にバラまき、その基盤の上に大資本の小ブルジョア層への政治統合のイニシアチブを利益誘導の政治システムとして組織したのである。
 ロッキード政府危機は、まさに石油危機と高度経済成長の破綻が、大資本による小ブルジョア層統合を政治的に体現してきた田中政治の基盤を直撃したことを意味したのである。すなわちロッキード政府危機は、こうした小ブルジョア層の大資本のイニシアチブからの離反を基礎とした自民党保守本流の衰退として体現されたのである。
 保革中道派の登場と、その連合政治の提唱は、まさにこうした小ブルジョア層や下層プロレタリアートの大資本からの離反を議会政治の枠内においてつなぎとめようとする政治手段として登場したのである。
 三木政府の成立そのものが、まさに、大資本に対する小ブルジョア層の反発をつなぎとめるための手段とされたものであった。自民党内で保守本流に抵抗してきた彼の歴史的遺産が新たな情勢の転換期において役割をはたす力となった。彼はロッキード徹底解明、不公正是正、独禁法改正、スト権容認等小ブルジョア層や労働官僚層を取り込むための政策を展開しようとしたのである。
 だが、ロッキード政府危機を背景とした保革中道派潮流の本格的登場は、自民党においては河野新党ー新自由クラブとして、また野党各党をつらぬいたものとして江公民ー「考える会」として、更に社会党内における「流れの会」の公然たる活動の展開として進展した。そしてそれは、労戦の右翼的再編の動向とも連動する動きとなって進展した。
 ロッキード政府危機は、こうしてわが同盟の「社共政府」スローガンにこめられた政治危機の顕在化ーーブルジョア民主主義、議会主義政治の根底的な危機、また労働者大衆の権力闘争への飛躍の契機としてではなく、議会主義政治の枠内における保革中道連合政府にむけた再編の動きへと直結したのである。それは、まさに自民党保守本流の分解(それは自民党単独支配の分解とも結びついて)に対応して、中道派をも巻き込んだ保革連合政治をめざす右翼的再編の力学として機能していったのである。
 こうしたロッキード政府危機は、自民党保守本流の衰退ー自民党単独支配の基盤の崩壊に対応して連合政治をめざす河野新党ー新自由クラブの公然たる分裂が組織された。自民党のこうした動向に対応して江公民中道派による「考える会」が潮流形成のための活動を公然と展開した。彼らは労働戦線における同盟ーJC派を基盤とし、大資本ー保守本流に反発する小ブルジョア層をそれに結びつけようとするものである。
 こうした事態の展開の中で社会党内において連合政権を準備するための潮流として「流れの会」が反協会ー反左派連合として組織された。彼れらの成立は、総評ー官公労労働運動を基盤とした富塚路線と、その労働戦線へのイニシアチブに連動していた。
 総評ー富塚路線は、国労を軸とした官公労の戦闘的労働者大衆の圧力(反マル生闘争の勝利から順法スト、スト権ストにいたる闘い)を背景としつつ、一方自民党における保守本流の衰退と連合派傾向(とりあえず三木政府)の登場に依拠して攻勢的妥協路線ー労使正常化のイニシアチブを確立しようとするものであった。
 彼らは反マル生闘争の勝利からスト権ストにいたる労働者大衆の戦闘性を圧力に「政策決定過程への参加」、「経営参加」「スト権奪還」等を前提条件として実質的な保革連合の攻勢的イニシアチブを形成していくことを展望したのである。そしてこうした保革連合の左からの実質的なイニシアチブを基盤とした官民一体の全的統一をめざし、同盟ーJC派の画策する労戦再編にも積極的に参加していこうとするものであった。
 「流れの会」が連合政治にむかうイニシアチブとして力を発揮しうるかどうかは、総評ー富塚路線がヨーロッパ型改良主義の新路線として定着し、労戦再編の攻勢的イニシアチブとして有効性を発揮しうるかどうかにかかっていたといえよう。
 いずれにしてもロッキード政府危機は、社共ー総評を議会主義的連合政治の枠組みへとひきこみ、右翼的政治再編に契機をあたえ、労働者大衆に戦略的後退を強制するものとして作用したのである。ロッキード政府危機をめぐるこうした動向は、まさに戦後帝国主義の危機の構造のなかで潜在的ながらも蓄積されてきた労働者人民の戦闘性、革命性が一挙に顕在化するであろうとの同盟の展望を根底から挫折させたことを意味したのであった。

(二) ロッキード春闘の不発と敗北

 ロッキード政府危機をめぐる政治的再編の動向は、社共ー総評を議会主義的連合政治の枠組みへと引き込むと同時に、右翼再編の軌道へと急展開させることとなった。
 政治再編をめぐる社共ー総評のこうした右翼的展開は、労働者大衆に戦略的後退を強制することでもあった。
わが同盟は、七六春闘をロッキード疑獄への怒りをスタグフレーション下の生活防衛闘争を結びつけて、敵の減量経営攻撃を突破し、議会における政府危機を大衆的政治危機へと転化する重大な決戦場として展望した。だが七六春闘の現実は、七五春闘の完敗とスト権ストの敗北を引きついで惨敗におわった。
 ロッキード政府危機が議会主義的な保革連合の論理へと吸収されていくということは、生活防衛のための春闘が企業防衛ー国益擁護の論理へと吸収されていったことと深く結びついていた。
 七六春闘の敗北はその闘いがロッキード危機と結びつかなかっただけでなく、生活防衛闘争それ自身をも自ら放棄していくこととなったのである。
 石油ショックを契機とする日本経済の危機を背景にブルジョアジーは、経済再建戦略としての減量経営攻撃を展開した。その攻撃の第一弾が、七五春闘から七六春闘にかけた賃上げ抑制のためのガイドライン攻撃であり、パート・臨時工等未組織労働者の大量首切りであり、中小零細企業に対する倒産整理攻撃であつた。
 経済危機ー企業危機を口実とした資本の側のこうした攻撃に対して労組幹部は、第一に賃上げ自粛論を展開した同盟ーJC派はもちろん総評ー官公労にいたるまで賃上げガイドラインへと屈服した。第二は本工組織労働者の自己防衛のためパート、臨時工等未組織労働者の大量首切りを許し、見殺しにしたことである。そして第三には、中小零細企業の倒産攻撃に抵抗することなく容認すると共に、倒産攻撃下の労働組合を解散へと追い込んでいったのである。
 こうした敵の減量経営攻撃に対する屈服は、日本労働運動の戦略的敗北に道をひらいた。すなわち同盟ーJC派から総評にいたる企業内組合の構造は、日本経済の危機ー企業危機に直面して企業防衛ー国益擁護の論理へと全面的にくみこまれると共に、未組織労働者の犠牲のうえに本工組織労働者の特権的性格を顕在化させ、それを防衛しようとした。この論理は、今日アジアー第三世界労働者の犠牲の基礎の上に日本労働者総体の特権的性格を生みだす基礎となったのである。
 こうした春闘における戦略的後退の軌道の上に日本労働運動の歴史的敗北を決定づけたスト権ストの敗北があった。
 ロッキード政府危機が議会主義的な保革連合の論理へと吸収され、七五-七六春闘が減量経営攻撃に全面的に屈服していくなかで政治危機の収拾の見通しを得た自民党保守本流は、反三木の挙党協体制を組織し反撃に転じた。
 野党との政策連合を志向する三木政府のスト権容認路線をみこした上で総評ー富塚は、労使正常化を基礎に新改良主義の政治的イニシアチブの確立をはかろうとした。こうした総評ー富塚路線のイニシアチブ形成にとって鍵を握っているのがスト権奪還の行方であった。
 こうしてスト権容認の政策連合を志向する三木政府に依拠して総評ー富塚路線は、スト権奪還を最大の戦略環として設定したのである。そしてスト権奪還闘争の勝利は、彼の構想の中では予定済みのことであった。だが自民党保守本流の奪権をめざす挙党協の反撃によって、スト権奪還をめぐる妥協の基盤が三木内閣もろともふきとんでしまうこととなった。
 こうして総評ー富塚路線はそのイニシアチブの基盤を失い、全面的破綻におちいることとなるのである。総評ー富塚路線のこうした解体は、労戦再編をめぐるイニシアチブが総評ー官公労から同盟ーJC派へと完全に移行したことをしめした。スト権ストをめぐる攻防を分岐点として労戦における政治的イニシアチブは、まさに総評ー官公労から同盟ーJC派の側へと移行したのである。
 その後の展開は、構造不況業種における本工労働者の大量首切りを含む第二次減量経営攻撃から国鉄分割民営化を軸とした行革攻撃へと進み、そのイニシアチブは、まさに大資本と同盟ーJC派のブロックによって発揮された。総評ー官公労は、この時期(七〇年代後半から八〇年代前半)、戦わざる敗北と共に、イニシアチブを完全に放棄し、同盟ーJC派主導の右翼労戦再編へと歯止めなく屈服していく過程となった。
 こうしてロッキード政府危機を背景としたわが同盟の「社共政府」スローガンは、宙に浮いてしまい、その破綻は歴然となっていった。

(三) 総括の鍵ーー政治的ヘゲモニーの不在

 ロッキード政府危機は、保革連合派潮流登場の契機となり、ロッキード春闘(ゼネスト)の展望が不発に終わっただけでなく、労働運動の戦略的敗北の契機となって進展していった。こうした情勢の推移を背景に同盟の「社共政府」スローガンの破綻は歴然となった。
 同盟は、この路線の政治的破綻を総括するにあたって、「権力のための闘争」戦略を根本的に再検討することが問われていたのである。
 世界的二重権力論や、戦後における「政治危機の構造」論、労働者人民の「潜在的革命性の蓄積」論等に関する七〇年代同盟の綱領的立場を全面的に再検討することなしには、この破綻の現実を解明することはできなかったのである。
 だが同盟はこうした政治的破綻の総括を、「権力のための闘争」戦路ーその綱領的前提を正しいものとして保持した上で、局面的、部分的、戦術的な問題点を総括すべき核心間題として導きだしたのである。こうして導きだされた総括の核心問題を同盟は、社共ー総評幹部の裏切りにとって代わる新しい政治的ヘゲモニーの不在の問題に求めたのである。
 保革中道連合派潮流の公然たる登場、七六ロッキード春闘の不発とスト権ストの敗北によって、ロッキード疑獄に対するイニシァチブは完全に国家権力の側に移った。
 このような情勢の推移の中で同盟は、八期六中委(六七年一二月)においてロッキード政府危機と「社共政府」問題について総括上の検討をおこなった。同盟八期六中委は、ロッキード危機をめぐる大衆闘争の不発と政府危機の後退に関して次のように提起した。ロッキード情勢をめぐる「ヘゲモニーは支配階級ー自民党の側に移行ーーこの度合いは革命的な危機が深ければ深いほどその振幅を大きくする」。「もっと具体的に言えば次のように言える。自民党支配体制にたいする労働者人民の側の不満は巨大であり、次第に闘争意欲は充満しつつある。だが労働者人民の側は既成指導部の裏切りをのりこえて自らの力を決定的にテストしようとしてみる闘争体制を整えきってはいなかった。」なぜなら「労働者階級の側ははじめて本格的な時代の転換をむかえーー突如の政府危機をむかえたが故に、闘争への意欲、怒りは十分すぎるほどもっているもののその表現の方法手段について明確な意識をもちえなかった。」
 すなわち、労働者階級の圧倒的多数が政府と統一戦線問題について全く政治的に末経験」であり、「自民党ー資本家政府打倒のあとに労働者統一戦線にもとずく労働者、農民の政府をという大胆な発想をもつことに訓練されていな」かったからであると。労働者の側のこうした闘いへの未経験が大衆をして「闘争したいが中途半端には立ち上がれない、本当に考えなおしてみなければだめ」であるという政治的準備の必要を実感させたのだと。
 「したがって結果としてーー問われていた闘いはーー社共に統一戦線と政府闘争を展開、または強制できる全国的な政治ヘゲモニーの建設の努力ーー急進派のつくりかえ、そして全ての労働者人民にたいして『闘争の発展はただこのような道によって可能である』という政府と統一戦線問題にかんする大胆な宣伝と系統的な教育のための闘争なのである」としたのである。
  こうして「社共政府」スローガンをめぐる闘いの総括の鍵として、「全国的政治ヘゲモニーの建設と統一行動を通じた健康な急進派の再組織化ーーが結節点ともいうべき重要な闘いとして問われ」たのだと結論したのである。(八期六中委報告「同盟第八回以後のわれわれの経験についての総括」)
 この政治総括からするならば、ロッキード危機を契機に顕在化した根底からの政治危機の構造、また潜在的に準備されてきた労働者人民の革命的闘いの可能性ーーこうした「権力のための闘争」戦略とその綱領的前提は無条件に正しいものとされたのである。そして革命的危機ゆえにもたらされる情勢の振幅の大きさが、ロッキード問題に対するヘゲモニーを支配階級の側ににぎられた現状を説明する根拠とされたのである。
 そして検討すべき問題点を戦術的、経験的側面に限定し、その核心を権力闘争の方法と手段を教育、訓練する政治的ヘゲモニー(急進派統一戦線 ー急進派大衆運動潮流)の不在においたのである。

第三章 「労働情報」運動の成立と総評戦略

(一) 労働者統一戦線のための政治ヘゲモニー

 ロッキード政府危機と「社共政府」のための闘争が挫折したのは、「労働者人民の潜在的戦闘性や広範な不満」の不足にあったのではなく、その蓄積された労働者大衆の潜在的戦闘性を労働者統一戦線へと結実する社共から独立した政治潮流ーーその政治ヘゲモニーの不在に原因があったと総括した。
 すなわちロッキード危機をめぐる「社共政府」の挫折という今日の構図はーー「それは、権力のための闘争が客観的に接近しているが故に、社会党、民同、共産党が旧来の改良主義的圧力闘争を放棄し、意識的に裏切り、その結果として自民党ー資本家政府の危機が救済されていくという構造」なのである。(同「八期六中委報告」)
 こうした危機下における、現状維持の政治的均衡をうち破って、労働者人民の潜在的戦闘性を労働者統一戦線に結集する力は、まさに社共から独立した政治潮流の形成ーーそのための政治ヘゲモニーとを確立していくことだとされたのである。そして「このことは重要な職場、産別、地域の労働者に一定の影響力をもつ革命的な全国的指導部(急進派統一戦線の形成)の意識的な指導なしには考えられない。(同「八期六中委報告」)とし、労働者大衆の職場、地域における闘いと深く結びついた急進派統一戦線のつくりなおしー再組織化を、構想したのである。それは労働者大衆に対する最後通牒主義ー内ゲバ主義や建軍路線、少数分裂組合主義などと一線を画した健全な急進派統一戦線の再結集をはかり、労働者人民の自治と自決の反乱型闘争と結びつこうとするものであった。
 こうした観点については、「内ゲバー建軍派」との決別、全労活ー都労活における「分裂組合主義」に対する批判、戸村選挙を通じた職場・地域の自立型闘争との結合ー「連帯する会」「労働者委員会」への結集等前号において検討しているのでそれを参照されたい。
ロッキード危機の不発、七五-七六春闘の惨敗、スト権ストの挫折は、まさに先に述べてきた流れーー労働者人民の自立型闘争と結びつき社共から独立した政治潮流ーーの形成の緊急不可欠性を強く意識させることとなったのである。
 「労働情報」運動の形成は、まさにこうした労働者統一戦線の闘いをめざす、独立した全国的指導潮流の形成として位置ずけられたのである。それは、第一に健全な急進派を再結集して政治的指導潮流としての「急進派統一戦線」をつくりなおすこと、第二に総評民同の戦略的破綻に代わる階級的労働運動の戦略路線の再構築をめざす、第三に総評の再編分解の過程に介入しつつ、日本労働運動の階級的再建(新革同構想)と、権力のための闘争を準備する労働者統一戦線の基盤を確立しようとするものであった。すなわち「労働情報」運動にこめられていた内容は、以上のような三位一体の構想であった。
 わが同盟は、「労働情報」運動の成立をロッキード政府危機の不発の根拠として総括した「独立した全国政治ヘゲモニー」の不在を克服し、情勢を主体的に切り開く重要な鍵をなすものとして積極的に評価したのである。

(二)自主管理闘争と「労働情報」運動の成立

 先に述べたように減量経営に対する屈服とスト権ストの敗北は、日本労働運動の戦略的敗北の出発点となった。
 石油ショックを契機とした経済危機の深刻化は、日本労働運動の企業内組合としての性格を企業防衛ー国益擁護へと積極的に作動させ、労働再編における労使一体の右翼的イニシアチブを一挙につよめた。そしてそのことは、終身雇用構造のもとで身分を保障されてきた本工組織労働者が、臨時工、パート等下層未組織労働者の犠牲において自己の地位(雇用や労働条件)をまもろうとすることと深く結びついていた。減量経営攻撃への屈服は、下層未組織労働者の切り捨てや、中小零細企業の倒産を見殺しにし、その犠牲の上で生き残りをはかった本工組織労働者の企業との運命共同体化、特権的身分化を基盤としたものであった。その結果は、構造不況業種における第二次減量経営攻撃や、行革攻撃への歯止めなき屈服へと道を開き、総評が全民労協ー連合へと雪崩のように屈服、解体していく基盤を形成することにもなったのである。
 そしてこの時期のこうした戦略的敗北が、今日アジアの下層労働者人民の犠牲の上に帝国主義的特権の運動として組織されている連合の基盤を成立させたのである。
 「労働情報」運動の成立は、まさにこうした日本労働運動の戦略的後退に正面から対抗する経験的な反抗の闘いとして結集したものであった。
 敵の減量経営攻撃は、日本資本主義経済の危機を非採算的、非効率的要素の全面的切り捨てによって安定成長の軌道へと軟着陸させようとねらったものであった。それは必然的に、徹底的合理化、省力化を推進する「企業社会」の労使共同体構造が土台をなすと同時に、非効率的要素としての中小零細企業、農漁業、小商店、臨時工・パート等未組織労働者、女性、障害者高齢者などが徹底的に切り捨てられることによって成立する社会でもある。
 「労働情報」運動の成立基盤は、こうした「企業社会」の労使共同体の構造と対決し、企業ー資本からの独立を原点としつつ、切り捨てられる中小未組織労働者、農漁業者、女性、障害者、高齢者等の抵抗と反乱を積極的に組織する闘いであった。
 「労働情報」運動を成立させた最大の闘争拠点たる全金港合同の闘いは、七五春闘において賃金ガイドラインを唯一突破しただけではない。彼らの闘いの最大の戦略的意味は、労働組合の立脚基盤を企業から独立させ、切り捨てられる下層未組織労働者人民の利害を代弁する地域運動として組織してきたことであった。
 企業内組合として組織された日本の労働組合は、敵の倒産攻撃に直面してその圧倒的部分は組織的解散へとおい込まれていった。
だが企業から独立した地域共同体運動として自己を位置づけてきた全金港合同は、敵の倒産攻撃に対抗して、企業を占拠没収し労働者による自主管理、自主生産の闘いとして組織と運動を継承していくことができたのである。
 港合同の自主管理、自主生産の闘いに典型的なように「労働情報」運動の成立は、まさにこうした企業から独立した自立、自治の闘い、自主管理の闘いの結集として、既成の改良主義労働運動からの左にむけた戦略的分化と再編の開始を意味するものと評価できる。そして「労働情報」運動を成立させた全金港合同の闘いは、下層労働者の自立と自治、抵抗と反乱の同質の闘いと大きく連動しつつ発展した。
 それは、「狭山闘争」を軸とした部落解放同盟の闘いと大阪市従における「狭山スト」の展開として、また教組における全国的な「解放教育」運動として、共産党の教師聖職論、スト否定論と対決した西多摩教組の山猫スト等の展開として、またさまざまな首切り撤回、不当労働行為に抵抗する地域運動などと連動して展開されたのである。
 「労働情報」運動は、まさに敵の減量経営攻撃にたいして、同盟ーJC派はもちろん総評もまた戦わずして屈服していくなかにあって、その攻撃と正面から切り結ぶ戦略的攻防の核心へときりこんでいったのである。
 だが「労働情報」運動がもつ戦略的攻防の意味について必ずしも戦う本人自身が自覚的であったわけではなく、きわめて地方的な、経験主義的運動として蓄積されていったのである。こうして「労働情報」運動は、その闘いが客観的に示している戦略的意味の重要性にもかかわらず、自覚的な全国政治のヘゲモニーとしては、十分に機能せず、地域運動の全国的運動交流体の枠をついに突破することができなかったのである。

(三)総評の政治分化とその戦略構想

 ロッキード政府危機をとり逃がした同盟は、その総括を通じて情勢を切り開く闘いの鍵が、労働者統一戦線を組織する全国政治ヘゲモニーの形成にあると結論した。そして同盟は、その基盤を減量経営攻撃とスト権ストの敗北を分岐点とする総評運動のドラスチックな政治的分化の中につかみとり、そこから戦略的闘いの展望とその政治ヘゲモニーを獲得していこうとしたのである。
 同盟八期五中委の報告(「統一戦線に関する情勢と課題」)は、総評労働運動のドラスチックな政治的分化を次のように提起している。
 それは、(1)「ブルジョア国家との癒着を通じて国民経済への政策的イニシアチブを獲得」し、保革連合派潮流を支え、右翼労戦再編を推進する槙枝ー富塚中央官僚派として、(2)「闘争や生産を自主的に管理する真の労働者民主主義と職場闘争を基盤とし、労働者の地区的団結を出発点とする真の階級統一の萌芽をしめしている」「自主決定型闘争」潮流としての「労働情報」運動の流れ、そして(3)その中間に位置する「保革中道派勢力に対抗する社会党ー総評内の改良主義左派ブロックの結集としての岩井「三月会」。以上三潮流への分化として展望したのである。
 第一に総評新主流たる槙枝ー富塚体制は、資本との改良主義的協調ー癒着を強める中央官僚層の立場を政治的に体現している。さらに彼らは、「総評を舞台にその中枢から労戦の右翼的再編のイニシアチブを発揮」し、保革連合派潮流を積極的に支えようとする。だが槙枝ー富塚中央官僚派のこうした右翼的イニシアチブの試みは不可避的に労働者大衆の激しい抵抗と離反(青年労働者の構造的離反と現場中堅カードルの経験的対立)にそうぐうし、深刻な孤立と分解を強制されていくこととなるだろうと。
 第二に「自主決定型闘争」を基盤とした「労働情報」運動の流れは、権力闘争へとむかう過度期の闘争表現であり、潜在的に蓄積してきた労働者大衆の戦闘性、革命性を「青年労働者」と「現場中堅カードル」の自発的結合を通じて顕在化させていく闘いである。
 この闘いの流れは、「中央官僚からの離反を完成させ、労働者大衆の下からの自発的闘争の大衆的基盤を形成」してきた青年労働者と、「労働者大衆の不満の圧力を不断に受け」ながら「中央官僚への批判を経験的に強めてきた」現場中堅カードルが自発的に結合するという労働運動の下からの大衆的地殺変動が基盤となったものであると。すなわちこうした闘争潮流の登場は、戦後社共ー総評のもとで蓄積してきた大衆の潜在的革命性を顕在的闘争へと転化するための闘争の表現形態であるのだと。
 第三にその中間にあって「中央の右傾化に不満をもつ現場カードル層」を「『協会』の枠を越えた左派ブロックに総結集」しょうとする岩井「三月会」は、現場中堅カードルの不満に基盤をおきながら、その批判を中央官僚の右傾化を統制するための圧力に限定するのである。中央官僚の右傾化にたいする労働者大衆の激しい抵抗は、「岩井(改良主義左派)の攻勢」の基盤となるが、同時にその力は、「社会党ー総評のもつ改良機能と抵抗機能を分裂へと導き」「中央官僚と現場中堅カードルの統一を構想する岩井の改良主義左派戦略は破綻を強制される」
 すなわち現場中堅カードルの中央官僚に対する批判は、中央官僚の右傾化を統制する圧力の枠を越えて不可避的に激突へと転化する。こうした中央官僚との悲和解性は、現場カードルの多数を「自主決定型闘争」ー「労働情報」運動との統一戦線へとひきこんでいくこととなる。こうして成立する「労働情報」運動と岩井「三月会」の統一戦線の構造は、労働運動の現場における多数派構造を基盤に、右翼中央官僚を孤立、追放し、総評労働運動の階級派による奪権を展望しうるものとしたのである。(新革同構想)
 それは、まさに「自主決定型闘争」を大衆的基盤としつつ階級的統一戦線派による総評の奪権を展望するものであった。少なくとも総評を二分し、階級的労働運動のための大衆的基盤の形成をめざすことを展望していたのである。
そして「労働情報」運動は、こうした総評奪権(とりあえず青年協奪権)をめざす展望の中で少なくとも「(1)自発的闘争の拠点闘争、地区闘争を軸とした全国闘争ーー全国統一戦線のイニシアチブへの飛躍、(2)『保革連合』勢力から離反する労働者階級の多数を独立した労働者統一戦線へと組織」することを任務とすべきであるとしたのである。(以上「 」による引用は八期五中委報告「統一戦線に関する情勢と課題」)
 総評労働運動の階級的、戦闘的奪権路線は、先にも検討した「権力のための闘争」戦略ーーすなわち「世界的二重権力論」や、「戦後世界の危機構造論」や、「労働者大衆の革命性、戦闘性の潜在的蓄積論」など七〇年代同盟の綱領的立場と深く結びついていたのである。
 社共=総評の改良主義的指導機構の成立の源泉は、基本的にアメリカ帝国主義主導の「世界権力」がその軍事的、政治的力を維持しえていることと結びついており、他方労働者大衆がその改良主義機構の枠内において潜在的ながら革命性、戦闘性を蓄積しえてきたのは、まさにアメリカ帝国主義の庇護のもとで支えられ、隠蔽されてきたとはいえ戦後のヨーロッパ、日本の没落帝国主義としての危機と崩壊の構造が継続されてきたことの結果であると把握されてきた。
 こうした戦後構造の政治的枠組を前提として同盟は、労戦再編をめぐる労働官僚相互のイニシアチブ抗争において同盟ーJC派官僚ではなく、総評ー官公労官僚が圧倒的に強力であると考えてきた。すなわち労戦再編のイニシアチブが同盟ーJC派官僚(アメリカ型労働運動)ではなく、総評ー富塚路線(ヨーロッパ型労働運動)によって握られるとの想定は、まさに日本帝国主義の成立が、全体としてはアメリカ主導の「世界権力」にささえられながらもその内的構造が依然として没落帝国主義としての旧構造の矛盾に浸食されているものとの認識にたっていたからである。
 日本帝国主義と改良主義機構のこうした潜在的な危機の構造を全体として現状維持的に支えてきた力が、まさにアメリカ帝国主義の「世界権力」としての力であると考えられてきたのである。
 アメリカ帝国主義主導の「世界権力」としての機能の崩壊はこうした前提にたつとき、日本のブルジョア民主主義支配の基盤を一挙に危機へとおいこみ、社共ー総評改良主義の政治的枠組みを左から大衆的力で解体し、労働者大衆の潜在的革命性、戦闘性が一挙に顕在化し、登場することになると考えるのは当然であった。
 過度期の闘争形態としての「自主決定型闘争」の基盤は、まさにそうした根拠にもとずいており、また総評労働運動の階級的奪権の展望もまたこうした前提の上にに構想されたのであった。
 それは、社共を政府権力へとおしあげるであろう、との認識や、後に検討するが三里塚決戦を通じて国家と対決する労働運動の大衆的登場を展望した基盤もまたこうした綱領的認識の基礎の上に成立したものであった。そしてこれも、後に検討するが、自然発生性への拝跪や、解党主義の組織論もこうした戦略的認識や、綱領的方法と深く結びついていたのである。
 「労働情報」運動の成立を基礎としてうちたてたこれら総評奪権の戦略や構想は、まさに以上のような前提のもとで組み立てられたのである。

(四) 総評戦略の破綻と全国政治ヘゲモニー論

 「労働情報」運動は、これまで見てきたように総評奪権ー階級的労働運動の大衆的再生をめざす闘いであると同時に、ロッキード政府危機の不発を政治的に突破するための鍵ーー「全国政治ヘゲモニー」を切り開く闘いであると考えられてきた。
 七0年代同盟の「権力のための闘争」戦略からしてそれは、同一の闘いの二つの側面であり、共通の闘いとして認識されてきた。そうした認識は、先にも述べたように労働者階級の左からの圧倒的攻勢という時代認識と、深く結びついていたのである。だが七五年-七六年を転換点とした日本労働運動の戦略的後退は、わが七0年代同盟の綱領的、戦略的破綻を集約的に表現する二つの実践的誤算を明らかにした。
 その誤算の第一は、日本労働運動の右翼的再編のイニシアチブが同盟ーJC派官僚に握られることはないとの認識であり、その結果として労戦の右翼的再編統一は不可避的に挫折を強制されることとなるとの結論であった。
 日本帝国主義の歴史的、国際的危機の構造からして労戦のイニシアチブは、結局総評ー官公労(当面は富塚路線として)運動を基盤に成立していく。すなわち総評ー官公労の政治分化の力学が、労戦のイニシアチブの動向を決定していくこととなる。かくして労戦の右翼的統一策動は、労働者大衆の抵抗と反撃にあって挫折を強制され、その攻防の結果は、階級的労働運動の側に有利な条件を準備していくものと認識されてきた。総評奪権の戦略は、まさにこうした展望を根拠として組み立てられてきたのである。
 だが減量経営とスト権ストの敗北を転機とした日本労働運動の現実は、戦略的後退を開始し、労戦再編のイニシアチブが明確に同盟ーJC派の側への移行し、総評の右からの解体攻撃が全面的にはじまったのである。しかしわが同盟の総評奪権の旧戦略は基本的に八0年代に入るまで保持されつずけた。
 その誤算の第二は、「自主決定型闘争」を基盤とした「労働情報」運動の流れが、総評奪権ー階級的労働運動の大衆的再生の源流ー萌芽として発展していくものと、位置づけたことである。(こうした位置づけに関する戦略的根拠については先に述べた通りである)
 だが「第一の誤算」の項で述べたように日本労働運動の戦略的後退ーー労戦再編のイニシアチブの同盟ーJC派への移行ーーそれを契機とした総評労働運動の歯止めなき解体の過程は「自主決定型闘争」の孤立と、「労働情報」運動の停滞をもたらし、総評奪権にむけた戦略的構想の挫折を明らかにしていった。
 こうした展望と構想の挫折は、その戦略に内包していた二つの側面ーー総評奪権にむけた多数派獲得の闘いと、全国政治ヘゲモニー形成のための闘いが、現実の活動上における分裂ー分断の要因となって顕在化したのである。
その第一の側面ーー「総評奪権」戦略論は、活動家を労働組合主義へと解体(それは後に「連合」へと吸収、解体されていく)していく要因となり、第二の側面ーー「全国政治ヘゲモニーの形成」戦略論は、活動家を急進主義的突破のためのセクト集団へーーそれはさらに少数分裂組合主義を正当化する温床となっていくのである。
 (1)同盟ーJC派官僚が労戦のイニシアチブを握って右翼的統一を実現する条件はない。(2)労戦の右翼的再編策動は逆にその挫折の契機となり階級派による総評奪権と同盟ーJC派逆包囲の闘いの基盤を提供することとなる。ーー労戦に関する七0年代同盟の以上のような展望が、先に見てきたようになぜ誤算と挫折へとおちいらざるを得なかったのか。問題はその綱領的根拠を解明することである。労戦に関するこうした展望もまた、七0年代同盟の綱領的立場と深くかかわっており、その破綻もまた七0年代同盟の綱領的破綻の帰結であったと考えることが必要なのである。
 すなわち日本労働運動がもつ矛盾の深さを同盟は、アメリカ帝国主義の庇護のもとで隠蔽され、潜在的に蓄積されてきた日本の没落帝国主義としての矛盾の構造が、アメリカ帝国主義の新たな危機と共に一挙に顕在化したことによるものと考えたのである。
戦後日本の没落帝国主義の危機の構造にあっては、アメリカ型資本主義の発展に基礎をもつ同盟ーJC派型労働運動が、社会的多数派として日本労働運動のイニシァティブを発揮することは不可能であると考えたのである。
 アメリカ主導のもとで戦後組織された大量生産ー大量消費の新たな資本主義的生産ー蓄積構造が、日本再建の土台になったにもかかわらず、アジアに基礎をおく、日本資本主義の伝統的な没落帝国主義としての旧構造の矛盾を克服することはできない。すなわちアメリカ主導で組織された大量生産ー大量消費の新資本主義の構造(フォード主義的生産ー蓄積体制)は、大資本優位の「企業社会」の発展に基盤を与え、一部上層労働者を組織する力となったとはいえ、一方こうした「企業社会」主導の構造は、社会的な無政府的危機を爆発させ、大量の労働者人民に矛盾を強制し、不満を深刻化させていくものであると考えられた。
 戦後日本の大量生産ー大量消費の生産ー蓄積体制に基礎をおく「企業社会」の構造は、社会的矛盾をくり返し爆発させ、労農人民の生活基盤の旧構造を切り捨て解体し、社会的無政府性の危機を再生産していくと。
 没落帝国主義としての日本社会の危機の構想は、まさにこうした「企業社会」のイニシアチブを社会的、人民的矛盾が逆包囲(更にアジア人民による反帝、反日の重層的包囲がそれにかさなる)することを士台としたものとされた。この逆包囲の構造が、「企業社会」に依存する同盟ーJC派の社会的孤立の基盤であり、社会的、人民的矛盾を反映せざるを得ない官公労ー中小労働運動・地域闘争(総評運動)が同盟ーJC派を包囲、封じ込める力でもあるとされた。
 こうした戦後日本の危機の潜在的構造を前提とした総評ー官公労と同盟ーJC派の力関係は、アメリカ帝国主義の戦後体制の危機と崩壊が重なることによって、その矛盾が一挙に顕在化し、「企業社会」・同盟ーJC派の基盤が浸食、解体されていくものと展望されたのである。それは、「労働情報」がJC派と対決する労働運動をめざし、上部ー背景資本包囲の戦略を組み立てた前提でもあったのである。
 だが労戦に関するこうした展望は、本質的には第一次減量経営とスト権闘争の敗北によって破綻し、第二次減量経営(第二次石油危機にともなう構造不況業種の産業再編と大量首切り)民活ー行革の攻防を通じてその挫折は歴然となった。
 二つの経済ショツクを通じて全面化した世界経済の危機を背景として、七0年代-八0年代前半に展開された日本経済社会構造の再編(第一次、第二次減量経営と民活行革それにともなう産業再編のハイテク化と国際化)は、戦後日本の階級闘争の性格を根本的にテストし、歴史的敗北を強制した。
 大量生産ー大量消費の新資本主義的生産ー蓄積体制は、高度経済成長ー春闘をつうじて、生産性向上と生活防衛(向上)を一体化した企業内労使の運命共同体構造へと組織労働者を基本的に組み込んでしまった。
 こうして世界経済の危機ーー企業危機の顕在化は、企業共同体の論理が生活防衛を企業防衛へと結びつけ、更に国益擁護へと組み込んでいくこととなった。それは、企業防衛ー国益擁護のためには貸金自粛や、未組織労働者の首切にとどまらず、本工組織労働者自身の大量首切でさえ許容するものへと変質していったのである。かくして「連合」の形成と総評解体の基礎が成立したのである。
 七0年代を通じて顕在化した「企業社会」を逆包囲する社会的矛盾、人民的切り捨ての攻防は、基本的に企業防衛=国益擁護の論理へと組み込まれた総評を含む組織労働者の戦略的敗北を通じて抑え込まれてしまったのである。
戦後労働運動のこうした戦略的敗北は、まさにわが同盟の総評戦略の破綻ーーそれは同時に同盟の綱領的立場の根本的破綻を示すものでもあった。
 だが問題は、「全国政治ヘゲモニー」の提起が日本労働運動のこうした後退局面の中で同盟の綱領的ー戦略的路線を正当化する論理としてもちだされたことである。すなわち、わが同盟は、労働運動が後退を強制されている局面を説明して次のようにのべている。労働者大衆の戦闘性は依然として強化されているにもかかわらず、今日ぶつかっているのは国家の壁である。それを突破する力は自然発生的戦闘性を越えた目的意識性ーー社共ー総評指導部から独立し、国家と対決しうる「全国政治ヘゲモニー」の形成であり、それが今日最も重要な闘いの戦略的環であるとしたのである。
 かくして「自主決定型闘争」の孤立と、「労働情報」運動が停滞していく中にあってそれを突破する戦略環を三里塚闘争を軸に国家と対決する「全国政治ヘゲモニー」形成のための闘いにおいたのである。そして三里塚闘争のこうした闘いが国家の壁を突破することによって、潜在的に準備されてきた階級的労働運動の水路をきりひらくことになるとされたのである。
 こうした情勢の進展と、論理的組み立ての上に三・二六-五・二0三里塚決戦が準備されていくこととなった。

第四章 国家権力と対決する三里塚決戦

(一)四ー五月三里塚闘争が切り開いた全国政治ヘゲモニー

 以上のように同盟は、日本労働運動の戦略的後退を正しく評価できず、社共ー民同の裏切りと、それにとって代わる社共から独立した全国政治ヘゲモニーの不在によって一時の戦術的停滞が生み出されたものとみた。そしてこうした情勢の膠着状況を突破する「全国政治ヘゲモニー」の登場が、四ー五月三里塚闘争(七七年四・一七-五・八闘争)の発展によってつくりだされたものと評価した。
 同盟の八期八ー九中委は、三里塚四、五月闘争の成果をうけて、その意義と闘いの展望を次のように提起した。

 「五・八闘争(鉄塔撤去)ーー非妥協的な戦闘的闘争を頂点とする四ー五月三里塚闘争こそは、それまでの戦闘的拠点闘争の地方的、個別的な展開という段階をこえて、自民党政府と対決する戦闘的大衆闘争の成立という新たな段階へと突入した」と。 それに先だつ情勢の局面において、「ーーロッキード危機は収拾され、福田自民党政府はほんのつかの間の『息つぎ』を獲得した」「だがこの『息つぎb や政府危機の一般的収拾が情勢の基本的流れや労働者階級・農民とブルジョアジーとの力関係の逆転をもたらしたと評価することはできない。ーー慢性的政府危機の構造や基盤は依然として持続しているのである」「ロッキード政府危機が収拾されざるを得なかった今日の過度的な一時期においてーー客観的な危機の進展は、自動的に労働者階級、農民の闘いの高揚をもたらすものではない」「この一時期において決定的に問われているのは、この客観的危機の進展と結合して労働者階級の現にある主体的条件の弱さをどこまで克服できるかということであ」った。すなわち「福田政府の戦術突破の道(成田空港開港など)を労働者階級と農民の闘争で阻止、粉砕できるか否かが今日の情勢と大衆運動全体における最大の環にほかならない」「そうであるが故に階級協調主義路線を深めている社会党ー民同、共産党から政治的に独立した総評労働者、青年労働者を軸にした戦闘的な大衆闘争の隊伍で今日の力関係の均衡状態を突破させていくことーーただかくすることによってのみ、潜在的に増大している労働階級と農民の戦闘性を現実の攻勢へと主体的に転化する水路をきりひらいてい」くことができる。(以上八期九中委報告「日本政治情勢の現局面と展望について」)
「この突破口、大衆運動情勢におけるその現実的可能性は、総評民同の直接的な改良主義的ヘゲモニーの外で展開された三里塚反対同盟を軸とする四ー五月三里塚闘争によってきりひらかれた」。かくして「三里塚芝山連合空港反対同盟を軸とする空港年内開港阻止の戦闘的三里塚闘争は、総評民同と社会党・共産党の改良主義指導部の階級協調的裏切りと闘争放棄にたいする不満と不信を蓄積しつつあった総評労働運動の先進的部分を独自的な戦闘的大衆運動へと結集する現実的可能性をきりひらいたのである」(八期九中委報告「わが同盟の当面する基本任務」)

 以上八期八ー九中委は、労働者人民の自然発生的戦闘性の限界が社共ー総評の裏切りを許し、情勢の膠着状況をつくりだしてきたこと、そして四ー五月三里塚闘争の発展によってこうした情勢の膠着と、闘争主体の限界を突破し、社共ー総評改良主義指導部から独立した「全国政治ヘゲモニー」と独自の「戦闘的大衆運動潮流」を形成する出発点を切り開いたものであると提起した。
 八期八ー九中委は、まさに三里塚における急進主義的突破の戦術を、「権力のための」戦略的闘争の中心環として位置づけなおしたのである。すなわち、四ー五月三里塚闘争が切り開いた闘いは、権力にたいする急進主義的突破の戦術が、同時に(1)社共ー民同にとって代わる「全国政治ヘゲモニー」を登場させる闘いであり、また(2)社共ー民同の裏切りによって離反した労働者大衆が独自の戦闘的大衆運動へと結集し、新たな労働者統一戦線の基盤を形成していく闘いともなると提起したのである。
 すなわち四ー五月三里塚闘争の成果を基盤に八期八ー九中委は、急進主義的戦術突破の意味を戦略的任務へとくみたてなおしたのである。では急進的突破戦術の戦略的組み立ての論理はどのようなものであろうか?。その戦術の戦略化の論理は、七0年代同盟の綱領上の特徴ーー急進主義と革命的戦略をごちゃまぜにし、そのことによって急進主義路線を革命路線として正当化しようとするものであった。
 同盟五・六回大会は、三・四回大会がもつ急進主義的限界を総括し、階級の多数派の獲得を通じて「権力のための闘争」戦略をくみたてようとした。だが前号で総括したようにわれわれは、同盟三・四回大会から五・六回大会への転換をその現象上の転換にもかかわらず、その急進主義的本質は何ら変らず、基本的にそれを継承したものとして評価した。
 すなわち同盟五・六回大会による急進主義と革命的戦略論のごちゃまぜ一体化は、権力に対する急進主義的突破が、労働者人民の革命的闘争に道を切り開く闘争であると位置づけたのである。
 こうした戦術の戦略化の論理は、まさに同盟五・六回大会が継承した綱領上の急進主義を権力闘争の戦略論としてくみたてなおしたのであった。
没落帝国主義としての日本危機の構造ーーアメリカ主導の「世界権力」の力がそれを隠蔽ーーにもかかわらず労働者大衆の多数派の革命性、戦闘性は潜在的に蓄積されていくーーそして「世界権力」としてのアメリカ帝国主義の新たな危機の発展は潜在的に蓄積してきた労働者大衆の革命性、戦闘性を一挙に顕在化ー噴出させる。ーーこうした論理の中に急進主義の綱領的本質があり、急進主義的突破の戦術を「全国政治ヘゲモニー」形成の戦略的任務と一体化する論理の前提がある。

(二)大衆闘争における「小長征」と急進主義への回帰

 ところが八期九中委は、急進主義的戦術突破のもつこうした戦略的意味を一九六七年-七一年の急進主義大衆闘争の時期と一九七二年-七六年の労働組合的戦闘化の時期の対比を通じて明らかにしようとした。
八期九中委報告は次のようにのべている。

 「最初にわれわれは、一九六七年-七二年の急進主義大衆闘争と一九七二年-七六年の総評労働者大衆の全般的な労働組合的戦闘化ーーを現在の観点からふりかえり、同時にこの二つの時期をつうじたわが同盟活動と大衆運動との基本的な相互関係について総括的に検討してみることにする。」以上の視点から次のような規定がなされた。「本年(七七年)四ー五月の闘いをもって決定的に開始されたーー三里塚闘争は、ーー改良主義指導部たる総評民同と社会党、共産党に公然と対立する反政府的な戦闘的大衆闘争という点において一九六七年-七一年にかけて展開された急進的大衆闘争に政治的に連続するという性格と位置をもっている」。すなわち「ーー四ー五月三里塚闘争は一九六七年-七一年の急進主義大衆闘争を政治的に継承し、かくして総評労働運動を中心とする一九七二年-七六年の大衆運動情勢の決定的な政治的限界を実践的に克服する現実的可能性をきりひらいた」のだと。(以上八期九中委報告「わが同盟の当面する基本任務」)まさに「情勢の膠着状況を全国的対決の環において一点中央突破をはかることによって次の情勢を切り開いていった構造はその限りにおいて十・八闘争(羽田闘争)と同じ位置」にあったと。(八期八中委報告) そしてこの「一九六八年-一九七一年急進主義的大衆闘争はーー既成改良主義指導部と公然と対立し、彼らの直接的な政治的ヘゲモニーの外部において、議会制ブルジョア政府とその警察機構と真正面から対決する、戦闘的大衆運動として展開された。」すなわち「この時期には全共闘、全国反戦ーーを舞台とする急進派統一戦線という明白かつ一貫した大衆運動組織方針ーーあるいは現実の大衆運動情勢にたいする統一戦線戦術ーーがあった。」
 こうした急進的大衆運動潮流と対比するとき「一九七二年-一九七六年にいたる」「大衆的戦闘性の回復と発展は、総評民同官僚の改良主義指導部のもとにおける労働組合主義的戦闘化としてしか表現されなかった」「かくして総評労働者の大衆的戦闘性の発展は、総評民同官僚の改良主義的ヘゲモニーのもとに労働組合主義的にとじこめられ、これをその自然発生性において突破することはできなかった」「労働者運動の以上のような構造の政治的帰結が、一九七六年のロッキードーー自民党政府体制の危機、その政治的麻痺状況下における総評労働運動の完全なる政治的無能力であり、総評民同と社会党、共産党のーー屈服ーー政治的敗北であった。」そして「ーーわれわれをまちうけていたのは、ーー 一九七二年-七六年にかけたまことに容易ならざる大衆運動情勢の構造であった。かくして一九七二年-七六年にいたる時期は、わが同盟にとって現実の大衆運動情勢との関係において一つの小さな「長征」であったということができる。」
 以上のような大衆運動上における「小長征」の結果、「わが同盟活動の積極的成果は、基本的に組織の建設に集中せざるを得なかったし、また総評民同と社会党、共産党の改良主義的ヘゲモニーに抗する新しい大衆闘争拠点を積極的にほりおこし攻撃的につくりあげていくことはできなかった」「われわれが有効に介入するための主体的条件ならびに客観的条件がかけていたのである。」
 だが「四ー五月三里塚闘争は、ーー既成改良主義指導部と公然と対立しつつ、危機にたつ自民党資本家政府ならびにそのもとにたつ国家権力と真正面から対決する政治的極を全国大衆闘争としてうちたてた。」その結果「政治的表現の可能性をうぱわれていた労働者農民大衆がそのもっとも先進的部分を通じて全国政治情勢にーー直接介入する現実的環がーー形成されはじめた」のであると。(以上「八期九中委報告」)

 以上のように四ー五月三里塚闘争の成果を八期九中委は、社共ー総評にとって代る「全国政治ヘゲモニー 」をきり開いた闘いとして評価した。そしてその闘いの意味を一九六七年-七一年における急進主義統一戦線の再生として歴史的に位置づけたのである。しかもそれは、「(十・八羽田闘争)ーー十年前のそれが少数派急進主義運動の出発点であったのに比較して、今日のそれは戦闘的多数派全国大衆運動」の「先端的闘争として位置している」ものと評価したのである。
 四ー五月三里塚闘争のこうした位置づけは、きわめて重大な転換と政治的すり変えが含まれている。
 同盟五・六回大会は、三・四回大会を批判して(1)戦後社共ー総評政治の枠内で潜在的に蓄積した労働者大衆の革命性、戦闘性が、アメリカ帝国主義の戦後世界支配の崩壊の過程で一挙に顕在化していくこと。(2)そこから急進派統一戦線のもつ少数派主叢ー最後通牒主義的セクト主義を克服して、労働者階級の多数派をめざす労働者統一戦線ー社共との統一戦線を積極的に提起した。(3)そして大衆の中へをスローガンに階級の多数を獲得することー総評労働運動を基本的に階級派によって奪権することー以上のように提起したのであった。
 だが八期九中委の論理は、五・六回大会が提起した基本的性格を転換、変質させるものであった。
 まず第一に潜在的に蓄積された労働者大衆の革命性、戦闘性は、社共を統制しつつ、同時に新しい革命的指導部を準備していくものとされてきた。もちろん社共の裏切りは、彼らを少数派へと転落させることを意味すると同時に、労働者大衆が革命潮流との結びつきを早めていくことを意味するものであった。
 だが現実の情勢は、労働者大衆によって、社共の裏切りが統制され、反撃されることなく後退していった。もちろん社共が一挙に少数派へと転落することはなかった。
 第二に社共から独立した「全国政治ヘゲモニー」論は、ロッキード政府危機下の大衆闘争不発の事態を、政治的に正当化するために導入されたものであったことである。それは労働者大衆の潜在的な革命性、戦闘性は保持されながらも、それを現実の力として顕在化させることができなかったのは、社共に代る公然たる指導潮流が存在しえなかったからであると。
 そして「われわれ自身の労働組合内勢力は、ーーとるにたりない力であるか、またようやく形成されはじめたばかりの非常に未経験な活動家たちによってになわれたにすぎない」状況にあったからだと。かくして、ロッキード政府危機の不発はまさに社共ー総評の政治的枠組に労働者大衆の戦闘性が封じ込められた結果であったのだと。
 以上のようなロッキード闘争不発の実態を根拠として社共ー総評から独立した「全国政治ヘゲモニー」ー全国大衆運動潮流の公然たる決起の意味が導きだされたのである。
 第三に五・六回大会での階級の多数派戦略は、「われわれ自身の労働組合勢力」としての「とるにたりない力」や、「非常に未経験な活動家たちによってになわれ」ている現状を急速に克服し、「社共ー総評の政治的枠組」をその内部からうち破っていく闘いを意味していた。そして情勢は、こうした階級の多数派戦略にとってきわめて有利な条件が与えられているということであった。
 だがロッキード闘争不発の総括は、「われわれが有効に介入するための主体的条件ならびに客観的条件がかけ」た「まことに容易ならざる」「小長征」の時代であったとしたのである。
 だが問題は、「有効に介入するための主体的条件ならびに客観的条件がかけていた」ということの意味がどういうことなのか、その解明がなされなければならなかったのである。
 階級の多数派戦略は、労働運動の日常闘争を通じて大衆を政治的、思想的に変革、獲得し、社共ー総評指導部を労働者大衆自ら突破していく闘いである。だがロッキード政府危機の結果は、こうした日常の闘いにおいて、階級派が「とるにたりない力」でしかなく、その結果として「労働者大衆が社共ー総評政治の枠組に封じ込められること」は、明らかなことであるとされた。だがここから導かれる総括の核心は「権力のための闘争」戦略の前提そのものを根本的に問うことであった。すなわち七0年代同盟の綱領的立場そのものが根本的に再検討されなければならなかったのである。(日本労働運動の戦略的後退については先に論じた。)
 「全国政治ヘゲモニー」論は、まさにロッキード闘争の敗北が、「権力のための闘争」ー「七0年代同盟の綱領的立場」の再検討へと進まなかった結果、その戦略的、綱領的立場の正当化の論理として導かれたのであった。そしてその政治的帰結が六七年-七一年急進主義統一戦線に対する再評価、それえの積極的回帰であったのである。
 「権力のための闘争」戦略は、まさに階級主体の内的な未成熟・未形成の克服を急進主義的な政治的突破によって代行させようとしたものであった。
 こうして七0年代同盟の戦略論上の帰結は、社共ー総評の政治的枠組の中で蓄積したとされた労働者大衆の自然発生的な革命性、戦闘性を急進的前衛の突出した闘いに依拠して全面的に噴出させようとするものであった。
 四ー五月三里塚闘争は、かくして「情勢の膠着状況を全国的対決の環において一点中央突破をはかることによって、次の情勢を切り開いた構造は、その限りにおいて十・八闘争と同じ位置」にあり、「ーー十年前のそれが少数派急進主義運動の出発点であったのに比較して、今日のそれは戦闘的多数派全国大衆運動が成立し、発展するーー先端的闘争として位置している」(八期八中委報告の第四章第一頃「四・一七、五・八三里塚闘争が切り開いた地平、そしてその意味」)としたのである。

(三)平和主義的国家構造と急進主義の攻勢

 「全国政治ヘゲモニー」論ー「全国大衆運動潮流」形成戦略は、一方戦後日本国家の平和主義構造としての脆弱性と関連して提起されたものであった。
 四ー五月三里塚闘争からはじまり、三・二六-五・二0空港開港阻止決戦は、日本国家との急進的対決が、日本国家の成立基盤の根拠と切り結ぶ戦略的攻防へと発展するとの考えにもとづくものであったことは先に述べたとうりである。そしてその理論的根拠として戦後帝国主義がもつ歴史的危機の構造(その脆弱性)、また労働者大衆のもつ潜在的戦闘性、革命性の蓄積にもとづいて提起されたものであることもまたさきに述べたとおりであるo
 そして戦後帝国主義がもつ歴史的危機の構造(その脆弱性)を日本において最も集中的に体現しているのが、日本の平和主義的国家構造がもつ脆弱性の問題であると考えられてきた。
 先にも述べたように七0年代同盟の戦後論の特徴は、戦後没落帝国主義としての危機の構造を支えた唯一の力が、アメリカ帝国主義の主導する「世界権力」としての能力にあったとの考えであった。そしてそのことは、日本資本主義の再建過程はもとより、日本帝国主義が成立するための国家的基盤もまたアメリカ帝国主義の「世界権力」としての機能に大きく依存する以外にないものと考えられた。
 それは特に、日本階級闘争をアジア革命から切り離し、抑圧する国家の暴力装置としての機能を全面的に依存してきたことにあった。それは日本国家の暴力装置としての機能の一部をアメリカ帝国主義の「世界権力」としての機能に依存してきただけでなく、その歴史的性格を正当づけてきた平和主義的国民意識の問題とも結びついていた。
 かくて国家の暴力装置としての本質を引きだし、暴露することによって支配体制を国民的に孤立させるという方法は、六0年安保闘争以来日本の政治闘争における一つの闘争パターンをつくりだしてきた。六0年代-七0年代における急進主義的闘争の成立基盤は、そのようにして大衆的基礎を与えられてきたのである。
 三・二六-五・二0三里塚決戦へとのぼりつめる闘いは、こうした日本急進主義の伝統的闘争パターンを引きついだだけでなく、その闘いが、新たな危機の顕在化と結びつき、日本国家の平和主義的構造を麻痺させ、新たな政治危機へと引き込む戦略的展望に結びついたのである。
こうした日本国家の平和主義的脆弱論は、三・二六-五・二0三里塚決戦における急進主義的攻勢のための重要な理論的根拠となっていたのである。
 だが三・二六-五・二0闘争は、同盟が戦略的に展望した新たな政治危機を開きえなかっただけでなく、平和主義的国家構造を基礎とした急進主義の伝統的な闘争パターンの有効性の基盤もまた失なわれれていったのである。それは先に見てきたように減量経営とスト権ストの敗北がもたらした戦後日本労働運動の戦略的敗北が急進主義的闘争パターンの有効性の基礎を解体していたのである。それは次回に総括する三里塚処分をめぐる同盟ー共青同の孤立と苦闘の背景でもあった。(未完)

(一九九一・九・一)


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