七〇年代同盟その綱領と組織(2)

極東解放革命論と権力のための闘争
〜運動上の転換と綱領上の連続性〜

(労働者の旗第5号:89年5月掲載)                           寺岡   衛


はじめに

 前号においては、七〇年代同盟の破綻の政治・組織的源流をどのようなものとして認識するのか、それを同盟第四回大会を軸に解明しようとしたのである。それに続いて今号では、日本新左翼運動の崩壊過程に対応した同盟五・六回大会の路線転換の試みに焦点をあて、その転換がなぜ第四回大会の解党主義・急進主義の綱領的・組織論的性格を克服しえなかったのかについて解明し、総括してみようとするものである。
 同盟第四回大会の方針は、七〇年代前半の情勢と大衆運動の新たな展開のなかで、急進主義運動の崩壊過程に対応してその実践的破綻を暴落していくこととなった。
 こうして同盟は、七二年に第五回大会を、七三年に第六回大会を開催し、第四回大会からの路線転換を準備し、方針上における政治的手直しを試みた。
 だが今日の同盟の全面的確産の現状は、まさに同盟五・六回大会において試みられた転換が、第四回大会の路線を克服しえなかったばかりか、結局その政治的本質をひき継ぐものでしかなかったことを示したのである。
 すなわち同盟五・六回大会の路線上の転換は、第四回大会が内包した解党主義と急進主義の性格を根本的に解明し、批判しつくすことができず表面上(大衆運動上)のなし崩し的で乗りうつり的転換にとどまり、結局第四回大会のもつ政治性格をひき継ぐものであったのである。
 今号においては、同盟五・六回大会の転換がもつこうした問題点を総括することを通じて七〇年代同盟の破綻の構造を解明しようとするものである。 なおこの総括は、(上)(下)2回に分け、(下)は次号に掲載する予定である。

第一章、党建設方針をめぐる転換

(1)転換を強制した実践的破産

 同盟五・六回大会は、第四回大会の党建設方針の転換を提起した。それは次のようなものである。
 前号でも明らかにしたように第四回大会の党建設方針が「革命党を直ちに建設することを」課題とせず、急進主義運動を非妥協的に闘う「アジア革命派の全国分派」を確立することを当面の課題として提起したのに対して、五・六回大会は、「革命を政府権力として組織する党」建設(第五回大会「アジア革命 の勝利をめざし労農人民の多数派へ」)=すなわち「本格的な党建設」に全面的に挑戦することを提起したのである。
 以上のように、「アジア革命派の全国分派」確立が党建設上の今日的課題であると提起した第四回大会の方針と、「革命を政府権力として組織する党建設」、すなわち「本格的な党建設」を提起した五・六回大会との間には重大な相異があることは誰の目にも明確であろう。五・六回大会は、たしかに党建設方針をめぐる再検討とその転換を焦眉の課題とした。
 では、このように誰の目にも明確な五・六回大会での党建設上の方針転換が、第四回大会が内包した解党主義的傾向を理論的にも実践的にも克服しうるものとなったのかどうか。われわれは、同盟五・六回大会の総括の第一の焦点をまずここにおかなければならないだろう。
 党建設上の転換を総括するにあたってわれわれは、まずこうした転換がどのような実践過程と結びついて展開されていったのか。その点から検討を加えてみることにしよう。
 端的にいってわれわれは、五・六回大会に転換を強制した実際上の要因が、第四回大会の提出した急進主義的政治・組織路線の破綻の圧力にあったと結論づける。
 第四回大会が提出した「アジア革命派の全国分派」の方針は、 反戦・全共闘運動の発展の中で中核派との政治ブロックを軸とした急進派統一戦線を基盤とすることによって成立したものであった。
 だが七〇年代前半、日本新左翼運動の破綻と崩壊が顕在化するにおよんで、こうした急進主義左派ブロックは成立基盤を崩壊させ、その限界と破綻を全面的に暴露していくこととなった。さらにこの限界と破綻は、日本新左翼運動の内部に深刻な堕落と政治的腐敗を生み出していった。その典型的な姿が、中核派と革マル派による内ゲバとテロであり、連合赤軍による軍事路線の破産と腐敗の全面的暴露であった。
 中核派や革マル派によって典型的に示された内ゲバ主義、連合赤軍によって典型的に示された軍事路線の破産と腐敗は、単にこれら諸党派に固有なものと認識すべきではなく、日本新左翼運動に共通に内在する最後通牒主義と召還主義の破産や腐敗の典型的な姿として把握すべきものであった。日本新左翼運動のこうした破産と崩壊は、同時に急進派統一戦線にその基盤を与えられてきた同盟第四回大会の党建設路線=「アジア革命派の全国分派」の成立基盤そのものの崩壊でもあった。
 沖縄返還闘争における渋谷暴動路線とその実践的破綻は、こうした急進派統一戦線の破産の最後的な限界点を鮮明に暴露することとなったのである。
 こうして日本新左翼運動の闘いがその限界点を明らかにすることによって、中核派をはじめとする多くの新左翼諸党派は、それ自身に内在していた最後通牒主義や召還主義の政治傾向を建軍路線やテロ=内ゲバ主義へと純化させていった。 こうしてわが同盟は、建軍路線や内ゲバ主義へと純化する日本新左翼運動=急進派統一戦線への政治・組織的対応をせまられることとなった。
 中核派との政治ブロックの解消は、まさに建軍路線や内ゲバ主義への同盟の拒否の態度を明確に示すものであった。中核派との政治ブロック解消宣言は、まさに建軍・内ゲバ路線との決別を通じて、わが同盟を日本新左翼主義の堕落の過程から防衛しようとするものであったのである。だがこの路線との決別は、 同時に日本新左翼運動に内在する大衆運動上の最後通牒主義や召還主義との闘争なしには貫徹しえない。こうしてわが同盟の建軍・内ゲバ路線との決別は、同時に急進派統一戦線に内在する最後通牒主義、召還主義を克服する闘いへと行きつかざるをえず、それは急進派統一戦線の破綻の確認の上に、統一戦線に関する新たな積極的提起を必要としたのである。
 こうして、急進派統一戦線からプロレタリア統一戦線への転換! 急進主義的少数派運動から労働者階級の多数派への介入=大衆の中へ! 街頭急進主義闘争から労働組合の階級的奪権へ!等々に示される大衆闘争と統一戦線に関する転換と新たな政治・組織論的提起が、緊急の実践的課題として要求されたのである。
  同盟五・六回大会における「本格的党建設」への転換は、まさに第四回大会の党建設路線が依拠していた急進派統一戦線の破産と崩壊によって強制されたものであったと同時に、新たに依拠すべき党建設の基盤を労働者階級の多数派へ=労働者統一戦線へと移行させようとして生み出されたものであった。
 すなわち労働者階級の多数派(社共i総評運動)へと介入するプロレタリア統一戦線の闘いにとっては、最後通牒主義的傾向を色濃くもつ急進主義左派ブロックの運動構造から自己を政治・組織的に独立させることが必要とされたのである。こうした緊急の必要性こそが、五・六回大会の転換の背景だったのである。
 だが問題は、この大衆運動の必要に強制された転換を、依拠すべき大衆運動上の基盤の転換にだけとどめるのか、それともそれを党建設論をめぐる根本的再検討へと深めようとするのか。五・六回大会の党建設方針の転換は、まさに同盟が総括上の岐路に立されていたことをも示すものであった。
 一方七一年から七五年にかけた階級闘争の状況は、日本新左翼運動の破綻と崩壊に反比例して、総評左派をはじめとする既成の労働運動が新たな高揚を開始していた。沖縄・本土を貫く沖縄返還闘争、国労・動労、全逓等の反マル生闘争、春闘での順法ストとスト権奪還闘争など、青年労働者の闘いを基盤とした総評左派主導の運動が戦闘的高揚を示したのである。
 沖縄返還をめぐる全島ゼネストの闘いは、日本本土の労働者を闘争に引き込み、新たな大衆的・戦闘的動員を勝ち取っていった。全逓における反マル生闘争は、下部ー地方主導のもとに右翼的労戦統一の最初の提唱者=宝樹を追放し、また国労・動労の反マル生闘争は、職制支配解体の職場闘争の高揚を通じて職場既得権の拡大を勝ち取りマル生攻撃を粉砕した。
  民間先行による第一次の労戦の右翼的再編攻撃は、反マル生闘争を軸とした総評左派の攻勢によって挫折させられ、春闘での順法ストの高揚は、スト権奪還闘争をめぐって官公労の政治的対決環を浮上させていった。さらに部落解放闘争、在日朝鮮・韓国人の闘い、障害者解放闘争、女性解放闘争、また三里塚を頂点とする地域開発に反対する闘争、反公害地域住民の闘争等、諸階層をまき込んだ全人民的・社会的闘争が発展したのである。
 つまり日本新左翼運動の破綻と崩壊の過程は、同時に労働運動を軸とする諸階層の運動が、全人民的急進化の様相をおぴて発展していく過程でもあった。
 同盟五・六回大会の転換は、まさに堕落を深める日本新左翼運動からの同盟の独立と、他方新たな高揚を見せる労働運動を軸とした諸階層の闘争との結合をめざし、同盟が生きのびるための最低の必要事として要求されたものであった。
 大衆闘争のこうした事態に直面した同盟は、第四回大会の党建設方針=「アジア革命の全国分派」方針の破綻を確認せざるをえなかったのであり、五・六回大会はその点に関して次のような総括を提起している。

 「(われわれは)ベトナム革命……第三次アジア革命を自覚的に主体的に志向するアジア革命派の発生と成長の可能性をある程度予測した。しかしこれは見事に裏切られた」「日本急進主義大衆闘争が・…・・大衆闘争の発展と前進によって第三次アジア革命に合流し、そのー翼となるであろうという予測について・・・・・・徹底的に悲劇的な否定の立場に立つしかなかった」(第五回大会アピール)。
 また「『急進主義』の政治的・イデオロギー的破産」によって第四回大会の「任務規定は文字どおりそのまま実現されるための現実的根拠がなかった」「『アジア革命と極東解放革命の歴史綱領を徹底的に発展させる』という理論的課題はただわが同盟それ自体の完全に独立的任務であった」(第五回大会 「わが同盟の任務ならびに同盟第四回大会以降の総括」)。
 そして「この点でまたわれわれは、自らの綱領カンパニア主義にも多かれ少なかれ最後通牒主義が無意識のうちに宿されていたと指摘しなければならない」(第五回大会「アジア革命の勝利をめざし労農人民の多数派へ!」)と。

 こうして五・六回大会の「転換」は、第一に、日本新左翼運動の破産と堕落から同盟を防衛するためにそれからの独立をはかり、日本新左翼運動に内在しわが同盟自身に宿されている大衆運動上の最後通牒主義、召還主義を克服しようとすること。第二に、日本急進主義運動への幻想を基礎に成立した第四回大会の党建設路線=「アジア革命派の全国分派」方針が日本新左翼運動の崩壊とともに破産したことを確認すること。そして第三に、総評左派の闘いを軸とする全人民的闘争の発展過程に積極的に結合し、大衆闘争=統一戦線の基礎を急進派統一戦線から労働者階級の多数派(社共・総評)にむけたプロレタリア統一戦線へと転換をはかるものであった。
 だがここに示された転換の基本性格が、日本新左翼運動から政治・組織的に改めて独立しなければならず、第四回大会の党建設路線を破棄しなければならなくなった綱領的、思想的原因の解明、つまり党建設をめぐる根本的再検討へと結びつかないものであった結果、同盟はその基盤を労働者階級の多数派へと大衆運動主義的に乗り移ること以上のこととはならなかったのである。
 すなわち五・六回大会の党建設方針をめぐる転換は、最後通牒主義、召還主義との大衆運動上の闘争を、急進主義、解党主義との思想的、綱領的闘争へと発展させることができなかったのである。
 五・六回大会の「本格的党建設」の提唱は、第四回大会が内包した解党主義的本質を解明することには結びつかず、結局、大衆闘争=統一戦線をめぐる転換の枠を突破することができなかったのである。
  前述した五回大会の総括は、第四回大会の党建設方針が「見事に裏切られ=現実的根拠がなかった」としてその方針の破産を客観主義的に確認し、それを自動的に受け入れるものになっている。だがこうした破産の自動的受け入れは、その破産の背後にある原因の解明を放棄することにつながり、その結果として党建設をめぐる理論的・綱領的諸問題を素通りし、プラグマチックな大衆運動主義へとおちいることとなる。
 もちろんその転換が日本新左翼運動の堕落から自己を独立させ、大衆闘争ー統一戦線の基盤を労働者階級の多数派へと移行させたことの実践上の意義を過小評価することはできない。だがそうし評価にだけとどまってはならないのである。問題の核心は、現実によって破産を強制された党建設方針の批判的総括を通じ、そこに内包されていたより根本的な解党主義の理論的破産を明確にしていかなければならなかったのである。つまりわれわれは、「アジア革命派の全国分派」方針の実践的破産の総括を通じて、革命党に関する二段階論的な解党主義理論にメスを入れ、その本質的破産を明らかにしていく必要があったのである。こうして「本格的党建設」の建前上の提起とはうらはらに、五・六回大会は、結局第四回大会が内包した解党主義の路線をそのまま温存し、転換の性格を大衆闘争ー統一戦線上の転換へと限定してしまうこととなったのである。
 七〇年代同盟の基本性格は、こうして第四回大会から五・六回大会へと継承された解党主義の構造を共通の基盤とすることによって成立していったのである。七〇年代同盟が第四回大会ー第六回大会の政治的幅を共通の枠組みとしてきたとの認識は、まさに大衆闘争ー統一戦線上の相異にもかかわらずその解党主義の党理論を共通の枠組みとしてきたということを意味したのである。

(2)党建設をめぐる転換とその解党主義的本質

 五・六回大会の「本格的党建設」方針が、その建前上の提起とはうらはらに結局大衆闘争上の転換にとどまったのは何故なのか。
 五・六回大会の「本格的党建設」の論理が第四回大会が内包した解党主義の方法上の枠組みにどのように組み込まれているのか、解党主義との闘争は、第四回大会が内包し、五・六回大会が継承した理論上の構造のどの点をどのように批判することが必要とされたのか。ここではこうした点に関する理論上の諸問題について若干の検討を加えてみることにしよう。
 まず、同盟第四回大会の党建設に関する理論上の組立がどうなっているか、前号において提起してはいるがここで再度整理しておくことにしよう。
 第四回大会は次のように述べている。

 「今日の諸闘争は、・・…・革命党を直ちに建設することを課題かつ日程にあげるものではない。日本における社会階級闘争の当面する政治局面は、いまだそこまで成熟し煮つまっていない」のだからと。そして党建設に関するこうした認識は、 次のような党建設の方法論と結びついて提起されている。すなわち「一般に革命は大衆の自然発生性が圧倒的に主導する 一九〇五年の急進的な全社会的闘争の経験とつづいてついには、目的意識(つまり党)が決定的に主導権を確立するにいたる一九一七年型の最後の決着というニつの革命をもって歴史的に構成される」のであり、「プロレタリアートを中心とす る反帝国主義的な諸階層が、自から即自的な性格を自然発生性のうちに急進的かつ徹底的に闘いぬくことなしには革命の勝利、つまり自からの革命的政治権力樹立を直接の行動目標とする革命党を直接に建設しようとするわけにはいかない」のだと。  こうして今日の党建設の闘いは「革命党を直ちに建設することを直接の課題かつ日程にあげる」ことができないとの結論に達するのである。
 そしてこうした観点から当面の組織活動のあり方を次のように特徴づけた。
 「新しい革命党は…・・・トロッキズムの綱領的イデオロギー上の純粋性とは程遠い経験的で中間的要素をあまたおびて登場し、発展するであろう国際大衆闘争の自然発生的で経験的エネルギーと一度決定的に合流、合体しこの自然発生的エネルギーの中でその綱領的エネルギーを再生することなしには ・・・…新しい革命党の歴史的建設はありえない」こと、そしてこうした方法論に照らしてみるとき、今日の闘いは、いまだ「党建設を直接の課題」とする局面ではなく「ただ徹底的に急進的に広範に大衆を動員しようとし、もっとも遠くまで闘いぬくことだけが本質的な問題であり課題である」。ただ「わ れわれはアジア革命と極東解放革命の綱領的立場をもって経験的アジア革命派の活動家たちとともに登場し、これらの諸闘争をもっとも非妥協的にかつ戦闘的に闘いぬこうとする全国分派として自からを確立」することが必要なのだと。

 以上のような同盟第四回大会の党建設に関する方法論上の特徴は、第一に、党建設の基盤を自然発生性が圧倒的に主導する一九〇五年的段階と、目的意識性が主導する一九一七年的段階に区分することである。そして自然発生性が主導する一九〇五年的段階を党建設の基盤の未成熟の段階と規定し、自ら即自的な性格を自然発生性のうちに徹底的に闘う「アジア革命派の全国分派」=「党建設者同盟」が提唱されることとなる。他方権力をめぐる目的意識的闘争が主導権を握る一九一七年的段階を党建設の基盤の成熟した段階と規定することによって、政治権力樹立を直接の行動目標とする「本格的党建設」方針が提起されることとなる。
 党建設に関する方法論上の特徴の第二は、党建設上の基盤が成熟しているか、未成熟であるのかを区分する基準を階級闘争の性格が権力闘争の段階に入っているかどうかによって決定づけるということである。そしてこうした規範に照らして今日の局面(第四回大会当時)を革命党建設の未成熟の段階と結論づけ、そこから「アジア革命派の全国分派」=「党建設者同盟」の形成が提起されたのである。
 同盟第四回大会路線の解党主義的性格は、まさにこうした二段階的方法論によって理論的に基礎づけられてきたのである。こうした路線は、前号でも述べたようにボルシェヴィキ・レーニン主義=第四インターナショナルの党建設理論と根本的に衝突するものであることは明らかである。
 では同盟第四回大会のこうした党建設方針と比較して、五・六回大会によって提起された党建設方針の転換は、どのようなものであるのか。その点に関してみてみることにしよう。

 「アジア人民の闘いと米日帝国主義の崩壊という事態」を「まえにして……われわれは、アジア革命に応え勝利を準備する党、革命を政府権力として組織する党、革命を蜂起として組織し準備する党建設へと挑戦」する。(第五回大会「アジア革命の勝利をめざし労農人民の多数派へ」)
 「きたるべき新日本帝国主義の危機の展望とその死の苦悶への突入は、労働者農民大衆の勝利を準備しようとする革命の綱領とその党の建設を提起する」。「アジア革命の有機的一環としての日本社会主義革命の綱領のもとに労農大衆の広大な多数派を権力奪取にむけて組織しうる革命党建設を労働者の内部に確固として築きあげることーーこのことこそ今日われわれの直面しつつある歴史的根本的任務である」。(第六回大会「日本政治情勢」)
 次のようにも述べる。「階級闘争の性格が発作的で爆発的な=情勢にあっては、実際的闘争に対する革命党の直接的指導の意義が生じてくる」。「次の時期政治情勢の新たな変化と大衆闘争の鋭い左への発展は、情勢を決定する鍵がわが同盟の指導にゆだねられることを理解し、党建設の決定的意義を自覚することを要求されている」。「この時期における日和見主義の決定的表現は、大衆の闘いにのみ頼って党の問題を軽視することであり・・・党と革命的指導の建設の重要性を過小評価することに現れる」と。(第六回大会「わが同盟の任務」)

 先にも提起したように、「革命党を直ちに建設することを課題」とせず「アジア革命派の全国分派」の形成を提起した第四回大会と、「労農大衆の広大な多数派を権力奪取にむけて組織する革命党の建設」を提起した五・六回大会との間に大きな転換があることは明白である。
 だがここでの総括の核心は、第四回大会の「党建設者同盟」から五・六回大会の「本格的党建設」への転換が、自然発生的な急進主義運動から権力のための闘争へと階級闘争の基本性格が転換した、との認識を前提にして提起されたということである。
 すなわち第四回大会の「党建設者同盟」の方針が、「ただ徹底的に急進的に広範に大衆を動員しようとし、もっとも遠くまで闘いぬくことだけが本質的問題」だとする階級闘争に対する基本認識を前提として提出されたとすれば、五・六回大会の「本格的党建設」方針は、「労働者大衆の広範な多数派を権力奪取にむけて組織しうる革命党の建設を労働者の内部に確固として築きあげ」うる情勢の到来を前提として提出されたのである。
 第四回大会から五・六回大会での党建設方針の転換は、まさに「情勢」と「大衆闘争」の発展段階の相異を根拠として提起されたものであり、だからまた党建設路線の根本は解党的性格を一貫させていたのである。たしかにこの転換は、「アジア革命派の全国分派」方針の破産を確認し、「党建設者同盟」路線を否定することを意味していた。だが先にも見てきたようにこの転換は、そのことによって解党主義の理論的根拠=党建設に関する二段階的方法論を否定するものでもなければ、その克服を意味したわけでもない。むしろそれとは逆に、この転換は二段階的方法論を理論上の前提として、その継承の上に組みたてられたのである。
 すなわち、党建設に関するこうした二段階的理論は、両大会(第四回大会と五・六回大会)に共通する理論的前提として貫かれているのである。同盟第四回大会から五・六回大会への転換は、その方針上の相異にもかかわらず二段階的な方法を共通の理論的前提とすることによって解党主義の本質的性格をそのまま継承することになったのである。
 二段階的な党建設の方法論を前提とするかぎり「本格的党建設」の闘いは、「前革命的情勢」=「権力のための闘争」の到来をもって可能とされることになる。それは革命的危機に直面してはじめて「本格的党建設」に取り組むという泥縄式の解党理論であることを意味している。また「本格的党建設」の成立基盤を前革命的情勢に求めることは、党と革命の準備を大衆運動としての自己表現(革命にむかう大衆的萌芽)の中にのみ求める大衆運動主義的解党理論でもあることを意味しているのである。
 こうして同盟五・六回大会の転換は、結局第四回大会が提出した党建設に関する理論上の諸問題を根本的に再検討することなく、その解党主義的な党建設の方法をそのまま引き継ぐ結果となったのである。

(3)統一戦線のためのイニシアチブ情造

 党建設に関する二段階的な解党主義の方法を引き継いだ五・六回大会は、結局この転換の基本性格をひとつの政治的連続性の中の発展・飛躍として評価したのであった。その点について第五回大会は次のように述べている。

 「端的に表現すれば第四回大会は『綱領的立場を確立した大会』であり、第五回大会は『本格的党建設に着手する大会』であったといえよう」。「われわれは急進主義大衆闘争をかいくぐり、その急進性を全面的に防衛し前進させる立場を全国政治分派として獲得する地点に達した。われわれは……国際主義的党建設の新しい段階の可能性について確認した」のだと(第五回大会アピール)。
 また第八回大会は、この点を次のように整理した。
 「同盟五・六回大会は、同盟第四回大会の成果やその限界を土台とすることによって、はじめて成立できたといいうるであろう=われわれはこれらのあいだにある不統一、断絶、飛躍という要素を含めて同盟第三回大会から第六回大会までを一つの発展した政治的連続性として評価しなければならない」と(第八回大会「われわれの政治的・組織的総括」)。

 五・六回大会の転換は、限界や弱点があったとはいえ第四回大会の基本路線=反帝急進主義の成果の上にはじめて成立したのだとされた。すなわち五・六回大会における「本格的党建設」の着手は、第四回大会の「アジア革命派の全国分派」が獲得した成果を基礎にしてはじめて可能だったとされたのである。こうした党建設に関する二段階的方法論は、まさに「転換」の政治的連続性を正当化するための理論としても機能したのである。
 では五・六回大会へと継承されていった解党主義の路線は、六回大会以降どのような運動構造や組織形態をとって展開されていったのかその点を検討してみることにしよう。
 五・六回大会の転換は、前述したように、その実態は大衆運動主義的な乗り移り転換でしかないことを示した。
 したがって同盟は、第六回大会以降「本格的党建設」や「綱領のための闘争」を建前として提起はするが、その実際上の過程は理論的、綱領的闘争を放棄し、党建設の闘いを大衆闘争・統一戦線活動の中に解消していくこととなったのである。
  解党主義の路線的性格は、第四回大会以降は、党建設の課題を「アジア革命派の全国分派」=急進派潮流の闘争の中へと解消することになったのに対し、第六回大会以降は、党活動の統ー戦線活動への解消、すなわち党と統一戦線の混同として表現されることとなった。
 こうした点を五・六回大会は次のように表現していた。

 「巨大な可能性と主体の弱さとのあいだを突破し…・・・前衛として登場するためには、……敵の弱い環を密集した攻撃で粉砕する方法が採用されなければならない=党建設もまた闘争する拠点の建設ーー帝国主義と人民の抗争の最前線にわが力を結集して砦をきずく反帝闘争拠点の建設に従属する」ものでなければならない。
 「かかる拠点をつくりあげ…・・・人民の最前衛の位置におしあげる闘いを指導する党組織を建設することが…・・・全国階級闘争に前衛として登場する党組織建設である。これがわが党組織の場にゲバラの呼びかけを実現する立場である=党の基本的組織方針とは、統一戦線の方針である。今日の情勢のもとでいかなる打倒対象にむかって誰を統一するのかを決定することである=今日の党建設闘争においては、われわれは急進派統一戦線を突破し、急進主義を人民の最先頭にくみ込む反帝統一戦線の形成にむけて・・・…人民総体と急進主義青年運動の分断構造を打破しなければならない=かかる統一戦線の 拠点形成のカギは、わが同盟の独立した党組織建設がにぎっている」(第五回大会「当面する組織建設方針」)。
 また次のようにも述べる。
 「第六回大会は・・・・・・(真の党派の形成)は、労働者大衆との間に有機的な媒介性をうちたてねばならないことを確認した=必要なことは、急進派潮流や戦闘的大衆闘争……の活動家集団をこの新しい全国的な政治へゲモニーの建設を担う主体自身にと・…・・つくり変えていくことにほかならない。この点でまさにわれわれの本来の大衆獲得能力ーーしたがって統一戦線の駆使能力が要求され…重要性が提起される」こととなったと(第八回大会「われわれの任務」)。

 同盟五・六回大会は、日本新左翼運動の破綻と堕落に直面してそれからの独立を決定し、同時に労働者階級の多数派(社共ー総評運動)との結合を新たな統一戦線の基盤として設定した。 「本格的党建設」方針を提起することとなった実際的要因は、まさに大衆闘争・統一戦線の転換・再編にあったことは先に述べた通りである。
 だが社共ー総評左派との統一戦線は、同盟の独立した党活動を媒介とするだけでは有効にそれに介入し、その基盤を形成していくことが困難である。こうしてプロレタリア統一戦線にむけた政治的イニシアチブの構造を急進派統一戦線のつくり変えを通じて形成しようとしたのである。すなわち急進派の構造を「全国政治闘争」や「戦闘拠点」形成のイニシァテブへとつくり変え、そのことを通じてプロレタリア統一戦線のイニシアチブの構造をつくり出そうとしたのである。こうしてプロレタリア統一戦線のイニシアチブ装置は、「全国政治闘争」拠点、労働組合の「戦闘拠点」形成の闘いとして展望された。
  統一戦線のための闘争に関して第八回大会は、それを次のように定式化した。

 「労働者拠点の形成は……既存の労働組合運動をつくり変えようと不断に闘争することをとおしてのみ形成されうる。だからまた労働者拠点形成のための闘いは、労働組合の既存のへゲモニーに対する奪権闘争にほかならない」と。また「われわれは、全国的な政治課題をたえず提起して政治的活動家層を養成し」なければならず「この点でわれわれは、全国的な政治課題をにない…・・・このことをとおして自己の階級の利益と独立性を保障しようとする」のだと。(以上第八回大会「われわれの任務」)

 こうしてまさに「急進派統一戦線」の構造は、プロレタリア統一戦線のためのイニシアチブ装置として位置づけ直され、そのためにつくり変えられようとしたのである。この点に関して同盟は次のように述べている。

 「プロレタリア統一戦線と急進派統一戦線とを対立的に把握し二者択一するような誤りや混乱」があった(第八回大会「われわれの任務」)。「急進派内部の政治的破産は、青年急進化を帝国主義の全般的危機の発展がもたらす闘争の予備的 一段階としてとらえることができず、来るべき人民本隊の総対決(……)にむけてカードルをきたえ準備することの意味を理解しえなかったことによる」のだと。(第6回大会「わが 同盟の任務」)

 こうした五・六回大会で提起された「統一戦線」方針の実践的組織化は、「全労活」をめぐる闘争から「戸村選挙闘争」、「連帯する会」の闘いから「労働情報」の組織化、そして更に三里塚決戦へと登りつめていく過程において積極的に機能していったのである。
 統一戦線のイニシアチブ構造が、運動ー組織構造として定着していったのは、全労活運動の再編と戸村選挙の闘い、それを基盤に準備されていった「全国政治闘争」拠点としての三里塚闘争、労働組合の「戦闘拠点」としての「労働情報」形成の闘いを通じてであった。
 全労活=都労活再編をめぐる闘いは、新左翼労働運動ー急進派統一戦線が内包する最後通牒主義=召還主義の傾向を克服し、労働者階級の多数派=社共・総評運動内における左派的政治へゲモニーへとそれをつくり変えようとする闘いであった。
 全労活=都労活が内包した最後通牒主義=召還主義の政治傾向は、第一に総評既成戦線との決別を通じてそのもとにある労働者大衆から自己を分離する「分裂少数派組合主義」として、第二に自らの闘いを個別闘争の深化に限定し、その闘いの政治的発展を否定する「個別闘争深化論」として表現された。全労活ー都労活のこうした路線は、七一年から七三年における国労、動労、全逓等総評左派労働者による反マル生闘争や春闘順法ス卜等の闘いと自らを分離する召還主義の危険を示すものであり、同時に七四年参議院選における戸村選挙と全国政治闘争の拠点化をめざす三重塚闘争の否定へといきつくことを意味するものであった。
 七四年の戸村選挙への取り組みと第三回全労交集会は、全労活ー都労活に内包したこのような非政治的な最後通牒主義、召還主義の傾向と全面的に対決していくこととなった。わが同盟は、非政治的な召還主義の傾向=「分裂少数派組合主義」や「個別闘争深化論」と闘争しつつ、社共ー総評左派との統一戦線、左派活動家が杜共の影織下にある労働者へと向かって活動することを訴えた。そして戸村選挙は、左派活動家が労働者大衆を政治的に組織していく「全国政治拠点」を作り出す闘いとなった。
 こうした「全労活」再編をめぐる闘いと「戸村選挙闘争」は、急進派統一戦線の構造を内ゲバ・テロに反対し、最後通牒主義・召還主義を克服する方向へとつくり変えることを通じてプロレタリア統一戦線のイニシアチブ=その政治・組織的原型を生みだす闘いとして発展した。日本新左翼主義の負の遺産である最後通牒主義・召還主義との闘争を通じてわれわれは、まさに全国政治闘争拠点としての三里塚闘争「連帯する会」と、労働運動の戦闘的拠点としての「労働者委員会」=「労働情報」の運動と組織構造を作りだし、新たな統一戦根のイニシアチブの基盤を形成していったのである。
 七〇年代中ー後半の闘いは、まさに「連帯する会」ー「労働情報」を軸とした統一戦線の運動=組織構造を基盤として展開したのである。わが同盟は、こうした統一戦線の運動ー組織構造を積極的に推進し、組織することを通じて大衆闘争の基盤を再獲得していったのである。プロレタリア統一戦線のイニシアチブをめざした「連帯する会」や「労働情報」の運動ー組織構造は、多くの矛盾や限界をはらみながらも七〇年代階級闘争がかちとった大衆闘争ー統一戦線上の成果として評価されねばならない。そしてそのことは同時に、解党主義的破産を引き継ぐものであったとはいえ五・六回大会の転換が獲得した大衆闘争ー統一戦線上の成果の積極的側面を示してもいるのである。
 今日、七〇年代同盟の政治的破産は、十三期三中委から五中委の過程でその解党主義的姿を全面的に顕在化させたが、それと同時に、十一・七政治局確認と十二期六中委を通じて七〇年代同盟の大衆運動・統一戦線上のこうした成果を破棄するものとしてその姿を暴露したのである。すなわち七〇年代同盟の政治的破産は、その解党主義的転落が、同時に大衆闘争ー統一戦線上の成果を放棄する召還主義、セクト主義への〃まいもどり 〃と結びついて進展したことを示したのである。
  いずれにしてもこうした闘いは、わが同盟の党建設活動がこれらの大衆闘争や統一戦線活功へと解消されていったという問題点をばらみながらも、なお日本新左翼運動の政治的堕落を克服せんとし、労農大衆へと積極的に向かわんとした闘いとして積極的に評価されなければならないのである。

(4)党建設における大衆運動主義

 だが五・六回大会以降同盟の解党主義路線は、こうした大衆闘争ー統一戦線の運動=組織構造を推進しながら、その闘いの中に党建設の闘いを解消していくかたちで展開された。すなわち同盟五・六回大会以降実践化されていった解党主義の路線は、まさに統一戦線のイニシアチブへの党の混同、統一戦線活動への党活動の解消として表現されたのである。
 同盟五・六・八回大会の一連の党建設方針=建前的な「本格的党建設」と実態としての「乗り移り転換」は、「党の基本的組織活動方針とは統一戦線方針」であり、「統一戦線の駆使能力」であるとの提起の中に明確に示された。そして統一戦線の「拠点」建設こそ党建設のための基盤を形成する闘いであるとされたのである。
 「党建設」を「反帝拠点の建設に従属」させ、「党の組織活動」を「統一戦線方針」として設定し、また「大衆獲得能力を統一戦線の駆使能力」とみなすこれら一連の党建設方針は、まさに党を大衆闘争やその「拠点」建設にとって有効性を発揮しうる集団として限定的に位置づけることとなる。そのことの結果、党の綱領やその独自活動は、大衆闘争やその「拠点」建設が必要とする度合いにおいてだけ意識され、組織されていくこととなるのである。こうした党活動の方法は、まさに党建設に関する大衆運動主義的性格を最も集約的に示したものである。
 プロレタリア統一戦線の闘いは、先にも見てきたように、具体的には、そのイニシアテブ装置としての「拠点」建設の闘いとして設定される。そしてこの「拠点」形成は、「全国政治闘争拠点」として、また組合奪権を軸とした「労働者拠点」の闘いとして、そしてその闘いを全国的に結集する統一戦線のイニシアチブ装置の形成の闘いとして提起される。
 解党主義の路線は、こうした大衆闘争ー統一戦線のイニシアチブ構造とその拠点建設の闘いの中に党の独自の活動を解消していくかたちで表現された。すなわちそれは、「連帯する会」「労働情報」の運動=組織構造の最前線に「共青同」運動を位置させ、そのことを通じて同盟をその運動=組織構造の中へと解消していくかたちをとる。
 青年労働者の左翼バネのエネルギーを政治的に飛躍させ、共青同運動のもとにそれを組織するためには、こうした統一戦線のイニシアチブのもとに組織される全国的政治闘争や「労働者拠点」の闘いが必要である。そしてまた共青同の闘いが、その運動=組織構造の最前線に位置することによって統一戦線のイニシアチブ構造を強化していくこととなる。こうしてそれは相乗作用を強め、相互に一体化していく。こうした一体化の構造を土台に同盟の党としての活動が統一戦線構造の大衆運動機能へと解消されていくこととなるのである。
 統一戦線の構造への同盟活動の解消は、まさに共青同の大衆闘争における最前衛的機能を媒介とすることによって定着させられていったのである。そのことは同時に、「共青同」の運動=組織が実質的に党的機能を代行するものとして組織されていく過程でもあったのである。
 党建設における大衆運動主義のこうした構造は、五・六回大会の乗り移り転換が生みだした同盟の政治・組織的実像である。それはその本質的性格において急進カンパニア主義と労働組合主義の接ぎ木的性格を明確に示すものであった。
 同盟・共青同は自己の独立的活動を全国政治闘争とその統一戦線的イニシアチブの構造へと解消し、そうした基礎の上に党的機能を共青同が代行するという大衆運動主義の組織構造を定着させていくこととなった。そしてこのことば、また同盟の基本組織と党「細胞」の不在を生みだしていくことでもあった。
 それは、独立的であるべき同盟ー共青同の組織活動が、この大衆闘争ー統一戦線のイニシアチブの構造へと深くくみ込まれていくことを意味すると同時に、同盟=共青同の活動が統一戦線の運動=組織構造の大衆運動主義的先端として機能しうるものでしかないことを示したのである。
 このことは、同時に同盟=共青同の労働組合左派からの政治的独立の性格が、急進カンパニアのレベルでしかないことを示すものであった。
 同盟=共青同は、労組青年部運動の左翼反対派的機能に依拠してその先端の活動家を組織していくことによって発展した。だが同盟は、解党主義路線の結果として階級から独立した党の基本活動と「細胞」建設を職場で組織することができず、青年労働者の戦闘性を職場の日常活動の中で晋段に教育し変革していく革命的機能をもちえなかった。そのことによって同盟は、青年労働者活動家を労働組合左派の政治レベルへと放置してしまうと同時に、同盟=共青同自身が労働組合左派の政治レベルに不断に溶解していく危険性にさらされていくのである。
 しかし同盟は、青年労働者活動家を組織する場合、労働組合左派の政治レベルから独立した政治意識で獲得する必要にせまられる。そうした意識を形成する政治・教育的機能は、本来、党の基本組織と「細胞」の独立した日常活動の中で保障し発揮されなければならない。だがそうしたことは、同盟の独立活動の不在の結果不可能である。こうして、同盟=共青同が労働者大衆を政治的に組織化しようとするとき、全国政治闘争とその統一戦線的イニシアチブの役割が決定的に意味をもってくるのである。すなわち、同盟の独立した教育機能の不在に代わって、全国政治闘争によるカンパニア的な政治意識の独立、あるいは「労働者拠点闘争」に依拠した大衆運動主義的な政治意識の急進化に依存して組織化しようとするのである。
 同盟=共青同は、全国政治闘争とその統一戦線的イニシアチブ構造へと青年活動家を動員、結集し、そのことを通じて彼らを労働組合左派のレベルから急進主義的カンパニア政治のもとに獲得しようとしたのである。さらに同盟=共青同は、これらの統一戦線上の運動構造の最先端をになうことで労働者大衆を大衆運動的に引きつけ、自己のもとに組織しようとしたのである。同盟の組織活動は、まさにこの統一戦線の運動ー組織構造の最先端をになう共青同運動の中に体現されるのである。ここには、同盟の党としての独立した活動の完全な欠落が表現されている。
 同盟=共青同は、まさに急進主義的政治カンバニアや闘争拠点の大衆運動主義的急進化をつうじて、労働組合左派の政治レベルから活動家を政治的に〃独立〃させようとしたのである。同盟は、党としての思想的教育や政治的変革の闘いを欠落させたまま、統一戦線機能と戦闘的大衆闘争機能と結びつき、その基盤の上に共青同を軸とした組織活動を展開してきたのである。
 七〇年代同盟は、まさに全国政治闘争とその統一戦線的イニシアチブ構造に依存することによって、青年労働者を共青同のもとに組織することができたのであり、また同盟自身の政治的集中性もまた、こうした大衆闘争の全国性によって確保されてきたのである。
 同盟五・六回大会での解党主義路線は、七〇年代前ー中期の大衆闘争の攻勢を背景として、全国政治闘争とその統一戦線的イニシアチブの構造に依存する大衆運動主義的組織性格を同盟組織の性格として定着させていったのである。それは、まさに党の統一戦線への解消として特徴づけられるものであった。
 こうした同盟の大衆運動主義的組織構造が、その危機を全面的に顕在化させたのは、総評左派的運動の限界が明らかとなり、同時に三里塚決戦被告への処分攻撃をめぐる権力との攻防が職場における日常的攻防へと転化していった時であった。
 権力との攻防が職場における日常的攻防へと転化した時、同盟組織は、その大衆運動主義的組織に内在していた急進的政治カンパニア主義と労働組合主義左派の接ぎ木的構造の弱点を全面的に暴露した。同盟組織に内在したこの二つの傾向は、同盟組織の中に深い内部亀裂を生みだし、その政治的分解を基盤に、その双方が政治的に解体されていくこととなった。急進主義への解体と労働組合主義への溶解としてである。
 同盟の組織的解体過程は、それに先行する政治・綱領的破産をひきつぎながら、七〇年代後半から八〇年代にかけて、その解党主義的大衆運動主義的破産を全面的に暴露していくこととなったのである。(こうした同盟の政治的・組織的破産に関する総括については、後でさらに詳しく検討することにする。)

第二章、極東解放革命と権力のための闘争

(1)第四回大会路線の政治的手直し

 第一章で総括してきた党建設をめぐる転換ーそこに貫かれた解党主義の性格が、それに対応した綱領的、政治路線的転換とどのように結合していたのか。ここでの論点は、第四回大会からの転換を受け五・六・八回大会で定式化した綱領的、政治的内容総括してみることである。
 端的にいって同盟五・六回大会で定式化され八回大会を前後して実践化されていった綱領的性格は、第四回大会の路線=極東解放革命の綱領的立場を基本的に継承しつつ、同時にその破綻を「権力のための闘争」路線でつくろおうとする折衷的性格のものであったといえよう。
 同盟五・六・八回大会は、第三次アジア革命ーー極東解放革命論の実践上の破綻によって強制された転換の諸問題を次のように提起した。

 「第五回大会は、わが同盟の綱領的路線をいっそう確信をもって承認したがわれわれ自身がいまだ基本的に克服しきっていない綱領と大衆闘争の関係における弱点について大胆に切開した」と。(第五回大会アピール)
 そしてその克服すべき弱点を次のように指摘している。
 「(第四回大会)は、…政治的未熟によって・・・労働者大衆とその大衆闘争に対して急進王義・セクト主義的最後通牒主義的態度を導いた」(第八回大会「われわれの任務」)「それは綱領カンパニア主義が依然として根深い事=綱領的最後通牒主義と反帝闘争の民族主義、一国主義、改良主義的な闘争の即目的水準への屈服」として現れた。(第五回大会アピール)
 そしてこうした「綱領カンパニア」や「最後通牒主義」が生みだされたより根本的原因を次のように指摘した。
 それは「(アジア革命)とその展望が一般にアメリカ帝国主義の深まりゆく危機とアジア反帝闘争の自動的拡大」として認識され、そのことによって「ベトナム革命勝利の国際戦線の一翼として日本における独立した……闘争を・・・・・・築くという点が欠落し」(第六回大会「わが党建設の現段階」)、「任務提起の導き方が『アジア革命』や『極東解放革命』 の側からなされ、それを日本労働者階級自身の意識的で積極的任務として提起できなかった」。「そのことは『日本労働者階級がアジア革命に獲得される』(…)という水準に固定化された主張で明白」にされている。すなわち「日本労働者階級が…・・・権力奪取の達成と社会主義的任務の実現にまい進しそのことで国際革命の前進に決定的に寄与するという側面の強調がなされなかった」のである。
 こうした結果「日本プロレタリアートの・・・・・・平和主義的、 改良主義的意識についてはただ外からの、ただ国際的側面からの分解を強調」するだけにとどまり、「日本社会主義革命とその主体ーー日本労働者階級がのべられなかったために・・・アジア革命や朝鮮革命を自己否定主義的に把握されかねない弱さが内包」していたのであると。(以上第八回大会「われわれの政治的、組織的総括」)
 それに加えて、さらにその弱点の方法論上の諸問題を次のように述べている。
 「『極東』という一単位自身が固定的に把握され」、「『極東解放革命』や『アジア革命』の任務」については、「世界永久革命という究極的な規定がなされただけで・・・・・・帝国主義支配の動揺と危機が革命や急進的大衆闘争の発展を呼びおこし、それらは必然的に権力問題へと転化せざるを得ないという客観的な過程に関する把握が欠落していた」のである。(以上第六 回大会「わが党建設の現段階」)
 こうして極東解放革命は、「極東を一単位とする一つの複合革命であると提起されただけであり・・・・・・朝鮮半島の・・・・・・政治革命を内包する社会主義革命と日本社会主義革命との有機的で複合的な革命にほかならないという提起に至ら」ず、「二つの革命それ自身の性格を正確に規定し、その上での相互の結合関係を導くことができなかった」のだと。(第八回大会「われわれの政治的、組織的総括」)

 以上見てきたように同盟五・六回大会の転換は、「綱領カンパニア主義」や「最後通牒主義」の克服の課題を、第三次アジア革命論=極東解放革命戦略が内包した日本労働者階級の積極的位置づけや任務についての欠落の問題、さらに世界革命の究極的提起と現実の闘争過程の分断の問題としてとりあげたのである。すなわち「任務の導き方が『アジア革命』の側からのみなされ」、「平和主義や改良主義との闘争がただ外から=国際的側面からの闘争としてのみ認識され」、「アジア革命や朝鮮革命を自己否定主義的に把握」し、「アジア革命にむけた日本労働者階級自身の意識的で積極的任務が欠落」し、更に「『アジア』『極東』を一権力単位として把握」することにより「アジア革命=極東解放革命の一元的反帝性の中に各国革命=各国階級闘争がもつ独自の性格や、固有の発展経過が解消され」、また日本における「『社会主義』や『極力問題』が欠落する」ということの中に根拠があると把握したのである。
 だが同盟の五・六回大会や八回大会は、第四回大会が内包したこのような政治=路線上の破綻の現実を第三次アジア革命論=極東解放革命戦略に根ざした綱領上の根本的破産として認識せず、政治的手直しによって克服しうる部分的欠陥として認識した。すなわち第四回大会の「綱領カンパニア主義」や「最後通牒主義」的欠陥は、第三次アジア革命論=極東解放革命戦略の未成熟性と、その一面的な把握や固定的認識によって生じたものであって、その綱領上の根本的破産の結果ではないとされたのである。
 「アジア革命」論や「極東解放革命」論の未成熟性とは、第一に、国際永久革命の正しい究極的課題を提起するにとどまり、その世界革命=アジア革命の発展が、各国革命=階級闘争の発展を必然的呼びおこし、各国を単位とする「権力のための闘争」へと不可避的に結びつくことに対する認識が欠落していたこと、第二に、こうした前提の上に日本労働者階級の闘いの独自の性格や、固有の任務が、一元的なアジア反帝革命へと解消され、そのことによって日本労働者階級に自己否定性、受動性を強制するものとなったことにあったのだとされた。
 すなわちそれは、「政治的体系のための闘争と現実への政治方針の提起とを区別することができなかった」(第六回大会「わが党建設の現段階」)ことの結果であり、「われわれの目的意識性と所与の労働者大衆の政治的現状とを適切に結合させることができない弱さ」によるものとされたのである。(第八回大会「われわれの政治的、組織的総括」)
 こうして同盟五・六回大会は、「綱領カンパニア主義」克服の課題を第四回大会路線=「極東解放革命」戦略の綱領的再検討におくのではなく、その破綻の政治的手直しとして位置づけることになったのである。そしてその政治的手直しの基盤を、アジア革命の攻勢=日本労働者階級の「権力のための闘争」ーーそのアジア革命への合流という新たな情勢の可能性の中に求めたのである。そしてこうした「情勢」と「階級闘争」の攻勢的認識のもとで「政治的手直し」の課題を次のような政治スローガンによって集約した。
 その第一は、「アジア革命」の攻勢に日本労働者階級の「社会主義」的任務を結合する「アジア社会主義合衆国」の闘いとして、第二に、政府危機の発展と、全人民の急進化を基盤とした「権力のための闘争」として提起されたのである。すなわちベトナム・インドシナ革命の勝利を基盤とした第三次アジア革命の発展が、米日帝国主義に危機を強制すると同時に、日本労働者階級の「権力のための闘争」に基盤を与え、分断構造のもとにあった「アジア革命」と「日本労働者の闘い」を新たな結合関係へと転換させることになったとの認識にたったのである。すなわち、戦後階級情勢の歴史的、国際的分断構造が強制したアジア革命に対する日本労働者階級の受動性や自己否定性は、第三次アジア革命へと合流する日本の階級闘争の新たな発展局面によって突破されるとの認識にたったのである。
 こうして第四回大会で提起された第三次アジア革命論=極東解放革命戦略は、その日本における貫徹形態として「権力のための闘争」を位置づけたのである。
 「極東解放革命論」の一面的認識や未熟性は、まさに情勢の新たな局面と結びついて克服されうるものとして展望された。こうした「情勢」や「階級闘争」の新たな局面を前提とすることによって、同盟第四回大会から五・六回大会への政治的「転換」は、その綱領上の折衷的性格を隠蔽し、政治的連続性を正当化するものとなったのである。
 同盟第八回大会は、第四回大会から五・六回大会のこうした転換の性格、すなわち綱領上の折衷的性格を正当化して次のように述べた。

 「第四回大会テーゼは、われわれの政治体系にむけた重要な序説的な内容をもったものであった。……われわれは絶対にこのテーゼの擁護者の立場に立とうとするのである。」
「第四回大会の綱領的立場と第六回大会のそれとの関係を……対立的なものとして把握すべきではなく…・・・発展と評価されるべきものであ」る。そして「第五回大会や第六回大会で情勢や状況に適応させ『転換』を提起できたことも第四回大会での一定の綱領的政治的士台が形成されていたからはじめて可能となった」のである。「綱領そのものの形成という内容においては、同盟第四回大会の……内容を明確に再評価し、同盟第六回大会とあわせてわれわれの政治的出発点として把握されるべきである」と。(以上第八回大会「われわれの政治的、組織的総括」)

 同盟五・六回大会の基本路線は、こうして第三次アジア革命論=極東解放革命戦略を綱領的基軸として継承しながら、同時にその欠陥の手直しとして「アジア革命」と「社会主義」を結合し、その基盤の上に「権力のための闘争」を接ぎ木するものとして提出されたのである。
 だが五・六回大会でのこうした「極東解放革命論」と「権力のための闘争論」の接ぎ木的転換は、そのことによって七〇年代同盟に非和解的な綱領的対立を内在させると共に、その綱領的折衷によってその対立を克服する論争的契機を封じ込めてしまうものともなった。
 日本労働者階級の内在的論理に基礎をもつ五・六回大会の「社会主義」や「権力のための闘争」は、植民地革命や労働者国家の外在的衝撃力に依拠する「第三次アジア革命論」や「極東解放革命論」の綱領的性格と不可避的に衝突せざるを得ないのである。
 「第三次アジア革命論」や「極東解放革命論」の綱領的、理論的諸問題は、第一に、アメリカ帝国主義の一元的軍事支配に主導された戦後帝国主義体制を「世界国家」=「世界権力」と規定し、その対極に成立する中ソを軸としベトナム革命を前衛とした労働者国家と植民地革命の世界ブロックを「世界的二重権力」構造と規定することによって、世界永久革命を、世界同時革命としての性格を色濃くもつ一元的世界反帝革命として特徴づけたことである。その第二は、資本主義社会の内的矛盾に基礎をおく各国革命や各国階級闘争を「一元的世界反帝革命」へと従属させ、吸収することをもって世界永久革命の新たな今日的法則性として規定したことである。
 「一元的世界反帝革命」のこうした方法が前提とされることによって、各国革命は、世界反帝革命へと自動的(半自動的)に吸収され、各国固有の「権力問題」が「世界的二重権力」のもとに解消されていくこととなるのである。こうしてベトナム・インドシナ革命は、世界的二重権力との結合によって、自動的に第三次アジア革命の前衛として規定されることとなったのである。
 五・六回大会によって政治的手直しを強制された「綱領カンパニア主義」の根拠=「アジア革命への自己否定的認識」や「アジアにおける一元的反帝革命への日本革命の解消」、「社会主義的課題や権力問題の欠落」等の諸問題は、単に「永久革命の究極的課題」を「現実の闘争過程」と結びつけ得なかったというような戦略・戦術上の未熟性の問題ではなく、「第三次アジア革命」=「極東解放革命論」が内包する綱領上の本質的破産を表現したものである。ここで指摘された政治路線上の破綻のひとつひとつは、まさに「極東解放革命」の綱領上の本質問題が問われたものであることを認識しなければならない。
 「『アジア』や『極東』を一権力単位として認識」し、「アジア革命に自己否定的に対応」し、「日本における『社会主義』や『権力問題』を欠落」させるなどの諸問題は、まさに「極東解放革命」に内包する理論と方法ーー「世界国家」や「極東権力構造」というような国家ー権力規定の問題や、「一元的世界反帝革命」論に示される永久革命の根本的無理解に関する諸問題から必然的に導かれたものである。すなわち「極東解放革命論」の国家論や革命論は、その理論のもつ基本性格から必然的に各国の階級闘争の内的発展過程を改良主義、平和主義として切り捨て、各国革命に内包する「社会主義的課題」や「権力問題」に対応しようとすること自身を一国主義として排除する論理を内包していたのである。すなわち第四回太会の「極東解放革命論」と五・六回大会の「権力のための闘争」を接ぎ木することによって破綻の現実をとりつくるおうとすることは、破綻の綱領的性格を窺い隠すだけでなく、綱領的再建の可能性を封じ込めてしまう役割をはたすものであった。
 こうして同盟第四回大会から五・六回大会への転換は、綱領上の本質的対立を内包しながら、結局そのための根本的再検討へとむかう契機をつかむことすらできず、大衆運動上の手直しにとどまってしまったのである。

(2)帝国主義の危機と世界革命の攻勢

 政治方針上のこのような手直し転換は、先に見てきた党建設路線をめぐる乗り移り転換に対応するものであったといえよう。
 すなわちその基本性格は、党建設をめぐる転換が、党建設の組織的土台を総評左派運動へと移行させたのと同様に、政治路線上の転換もまた総評左派運動の発展の延長上に革命戦略をくみたてようとしたことにあった。すなわち第四回大会の「極東解放革命戦略」が反帝急進主義運動の延長線上に革命を展望しようとしたのに対して、五・六回大会の「権力のための闘争」路線は、総評左派運動を軸とした全人民の急進化の延長上に革命戦略を組み立てたのである。より厳密にいうならば、「極東解放革命論」が日本国家=社会の内的矛盾に基礎をおく日本労働者人民の内在的運動を一国主義として否定し、アジア反帝革命へと一方的に獲得されることの中に革命的主体形成を見いだしたのに対し、「権力のための闘争」は、日本国家=社会の内的矛盾に基礎をおく全人民的急進化の闘いが、権力闘争を組織することを通じてアジア革命へと合流する過程の中に革命主体形或の基盤を見いだしたのであるo
 ここに貫かれている共通の特徴は、革命や党建設の問題を現にある大衆闘争の急進的発展(反帝急進主義であれ、全人民の急進化であれ)の直接的延長上に展望するという、大衆運動主義の方法である。
 革命や党に関するこうした大衆運動主義的方法論が、まさに党建設や綱領問題についての根本的再検討の契機をとり逃がす根拠となったのである。
 では、現にある大衆闘争の延長上に革命や党建設を設定する大衆運動主義の方法が、何故同盟をとらえてしまい、それを定着させていくこととなったのか。
 それは、七〇年代における情勢展望=帝国主義の新たな全般的危機と階級闘争の革命的攻勢(分断構造から結合構造への歴史的転換)に関する情勢認識が大きく作用していたのである。すなわち党建設や綱領に関する大衆連動主義的性格は、現にある大衆運動の発展が、革命へと直結しうるとの情勢認識を前提とすることで正当化されていたのである。
 「情勢」と「大衆闘争」に関する五・六回大会の提起は、まさに日本における全人民の急進化の闘いが、ベトナム革命が切り開いた第三次アジア革命へと合流する新たな政治主体の登場であるとして描き出したのである。すなわち日本労働者人民の闘いがアジア革命から分断され、積極的位置と役割を与えられなかった第四回大会の路線的弱点は、こうした情勢の新たな攻勢的局面に依拠して突破されうるものとされたのである。だがそのことは、「情勢」と「大衆闘争」の革命的で攻勢的展望が挫折し、その基盤が失われるとき、その背後で覆い隠されていた綱領上の破産が全面的に顕在化していくこととなるのである。
 ではわれわれは、ここで五・六回大会の「転換」の原動力となった「情勢」と「大衆闘争」の新たな展望をどのようなものとして認識していたのか、またそれがどのように破産を強制されていったのか見てみることにしよう。
 「アジア革命」と「社会主義」の結合、「政府危機」と「権力のための闘争」、「過渡的闘争」と「統一戦線のための闘争」等によって定式化された「情勢」と「階級闘争」の攻勢的性格についての提起を、少々長い引用になるが見てみることにしよう。

 「六七ー六九年にかけて英雄的ベトナム人民によって作られた新しい歴史的な攻勢的力関係とアメリカ帝国主義の軍事的・政治的な支配の崩壊は、今や東アジアにわたって拡大化・一般化しつつある」。「第三次アジア革命は主体的全要素を次次と登場させ発展させている。アメリカ帝国主義の軍事的アジア支配は確定的に総崩壊の時代への戸口に突入した。極東の最前線南部朝鮮は最後の政治的な非妥協の対決局面にもはや突入した。……日本帝国主義の崩壊も幾何級数的にその動きが早められている」(第五回大会「アジア革命の勝利をめざし労農人民の多数派へ」)。
 また「(ニクソン訪中と中米会談>は、第二次世界戦争後アメリカ帝国主義の卓絶した絶対的主導者として組織されてきた攻勢的な世界反革命体制が最後的な後退と退潮と崩壊の局面に突入していることを示している」。「ニクソン訪中は…・・・新日本帝国主義のアジアにおける展望にたいして壊滅的打撃を与え…・・・自民党本流主導下の日本国家の旧政治構造はその根底において破壊的な打撃をこうむり」、「在沖米軍基地が労農大衆によってその機能を全面的にマヒさせられる時期をますます近づける」。(酒井「ニクソン訪中とアジア革命の展望」)
 他方「ドルの国際的地位の低下は、アメリカ帝国主義のベトナムにおける……破産とその経済的打撃によってもはや決定的となり・・・・・・IMF体制の国際的均衝は極度に不安定な状態におちいった」。「アメリカ帝国主義の経済的保護主義への傾斜、拡大ECの地域ブロック化の深化の中で、新日本帝国主義は・・・・・・国際的な経済的孤立化の条件をふかめる」。「国際スタグフレーションは、……帝国主義経済間の対立・競争の激化に新日本帝国主義経済が決定的に組み込まれることである」。
 かくして「ベトナム人民の反米武装抵抗闘争の貫徹は、アメリカ帝国主義の予備力の上限をついに突破し、新帝国主義、植民地世界体制と現状維持的世界二重権力体制の総体を深刻な危機の局面にたたきこみ、かくして全世界の被抑圧労農人民の解放をめざす闘いの条件を主体的にも客観的にも決定的に有利にした」。「現代の『神聖同盟』の企図は、『東西の壁』をこえた労農人民の真の統一の必要を前衛的闘士の意識のなかに深く刻み込んでいくであろう」。「『全ヨーロッパ社会主義合衆国』『アジア社会主義合衆国の目標』『全世界社会主義共和国連邦』のスローガンが全世界労農人民の闘いのなかで真によみがえってゆくだろう」。(以上六回大会「日本情報」)
 「日本帝国主義の危機は、@アジア革命の攻勢とそれとの衝突、A世界経済の無政府的衝突…日本経済の孤立、B高成長の破綻が生みだした解決不能な社会経済的矛盾の顕在化」であり「このような国際、国内的三つの要因が相乗しあうことによって戦後成立したブルジョア支配の構造的安定はその根本から解体を開始し、自民党支配の歴史的衰退」が進展するのである。(第六回大会「わが同盟の任務」)
 以上のような情報認識の上に、「階級闘争」と「任務」に関する次のような提起がなされた。
 「国際的国内的要因にもとづき一九六八ー七二年を転機として都市ならびに農村における広大な労働者大衆のまさに全社会的で全人民的な急進化の運動が開始されたのであり、大資本の日本社会総体にたいする政治的経済的ヘゲモニーの確実な衰退が開始され・・・・・・自民党議会制政府体制の政治危機の局面が開始されたのであった」(第六回大会「日本情勢」)。こうして「情勢の客観的土台は、……支配の均衝に対応した改良主義の時代を終えんさせ、情勢の急激な激動に対応する革命と反革命の激突を準備する時代へと突入しつつあ」る。「あらゆる社会的・経済的領域において部分的なニ重権力の状況を発展させ、工場委員会や地域人民の闘争的自治の体制が自己権力の萌芽を発展させていく」。「急進的闘争の街頭的孤立は、先鋭なストライキ闘争の開始によってうち破られ、政治闘争は経済闘争と結合し、より広範な大衆的基盤を発展させ、経済闘争は、相互に結合を深め権力との対決をめざす政治闘 争へと転化する。闘争における・・・・・・分断構造の解体は、一方階級内部の政治分化を深化させ、闘争をブルジョアへの圧力の段階から労働者階級の自己決定権の拡大と自己権力の萌芽を発展させることとなる」。「平和的で改良主義的な情勢にあっては分断を強制されてきた革命的要求と改良的要求は、その歴然たる区別を解体し、二つの要求は闘争の過程で相互に浸透し過渡的闘争の基礎を形成する」。(以上第六回大会「わが同盟の任務」)
 また「全人民の急進化において重要なのは広範な婦人大衆、部蓬解放運動・…・・障害者の闘争、在日朝鮮人運動にみられるように非常に広範な社会的諸階層が自己の大衆運動をもって登場するということであ」り、さらに「重要なことは、……アジアにおける労農大衆の解放闘争と同盟しようとする新しい反帝国主義的意識を大衆的潮流として生みだそうとしつつあることである」。(第六回大会「日本情勢」)

 「情勢」と「大衆闘争」のこうした発展段階に対応して、同盟の「任務」と「権力のための闘争」は、次のように設定されたのである。

 「このような情勢にあって……わが同盟の戦略のもとに大衆を獲得する闘争は、権力獲得を準備する最も重要な闘争である」。「〈労働者階級を>同盟のもとに獲得し、労働者階級を権力へと高める最も決定的手段は、過渡的闘争と統一戦線のための闘争である」。「過渡的闘争と統一戦線のための闘争は、まさに革命党と労働者大衆を結合する最も重要で決定的な指導の体系なのである」と。(第六回大会「わが同盟の任務」)

 以上のような帝国主義の危機と新たな革命的攻勢に関する情勢認識の特徴は、第一に、世界的二重権力構造という戦後世界に関する認識方法によって、ベトナム革命の民族的勝利が、アメリカ帝国主義の一元的世界支配(世界国家)の構造総体を崩壊させることになるとの認識にたっていることである。「アメリカ帝国主義の軍事的アジア支配は確定的に総崩壊の時代への戸口に突入した」との認識はそのことを端的に表現したものである。
 情勢認識の第二の特徴は、こうしたアメリカ帝国主義の一元的世界支配の崩壊の対極に、ベトナム革命を最前衛とする労働者国家と植民地革命の一元的なアジアブロック(権力)が世界的二重権力の現状維持の構造を突破し、第三次アジア革命を主導する主体として登場したとの認識にたっていることである。
 情勢認識に関する第三の特徴は、こうした世界的力関係を前提にすることによって「ニクソン訪中と米中会談」の情勢をニクソン白旗論=米日帝国主義のアジア支配の決定的衰退と認識し、アジア革命の攻勢を決定的に刻印するものとして評価したことである。
 情勢認識に関する第四の特徴は、アメリカ帝国主義のアジア支配の崩壊と、世界経済の新たな危機の発展が、アメリカ帝国主義の絶対的支配のもとに覆い隠されていた日本を含むアジア各国の内的矛盾の構造をー挙に顕在化させ、その闘いが第三次アジア革命の構成要素として新たに合流を開始したとの認識にたったことである。またそのことによって日本帝国主義は、アジアにおける革命と反革命の対立構造を自己の胎内へと引きこみ、危機を全面的に顕在化させることとなったと認識したのである。
 こうして第五の特徴は、アジアにおける階級闘争が、「東西」や「南北」の国境や不均衛の壁を突破して結合を開始したこと、こうした闘いの基礎の上に「アジア社会主義合衆国」のスローガンが労農人民の闘いをとらえる時代を迎えつつあるとの認識にたったことである。
 そして第六の特徴は、こうした闘いを基礎にして各国における「権力のための闘争」が発展していく。とくに日本における「権力のための闘争」は、労働者人民の要求や闘いが「権力の壁」へと衝突することによって、全人民の急進化を発展させ、その闘いの基礎の上に「過渡的闘争」と「統一戦線」のための闘争を発展させる。そしてまたこうした「権力のための闘争」を媒介として日本階級闘争がアジア革命へと合流する基盤が与えられるとの認識にたったのである。
 「情勢」と「階級闘争」に関する七〇年代同盟のこのような認識は、基本的に以上六点に集約され、その基礎の上に闘争の戦略と戦術が組み立てられていったのである。

(3)戦略上の破綻とその実践的挫折

 「情勢」と「階級闘争」に関するこうした認識は、七〇年代中ー後半期を通じて、その破産を全面的に暴露していくこととなった。
 そしてその情勢認識に関する破産の過程は、同時に、大衆闘争の発展の延長上に党建設や革命綱領を直結させる大衆運動主義的方法の破産、すなわち党と統一戦線(大衆闘争)の混同が生みだした綱領上の根本的破産を意味するものであった。
 七〇年代同盟の「情勢」認識や政治路線に関するこうした根本的破産は、第一に、世界革命の攻勢の原動力とされたベトナム・インドシナ革命を最前衛とする第三次アジア革命の発展という基本認識が、米中・日中平和共存と中ソの衝突、中越戦争、ベト・カン戦争等によって全面的に崩れ去ったことである。
 このことは、ニクソン訪中を「アメリカ帝国主義の・・・・・・世界反革命体制が最後的な・・・・・・崩壊の局面に突入した」とする認識や、「新日本帝国主義における展望に・・・・・・潰滅的打撃を与え」たものであるとの認識が決定的に誤っていたというだけではない。それはベトナム革命の民族的勝利が、アメリカ帝国主義のアジアにおける一元的な軍事・政治支配の権力構造を決定的に決壊させ、そのことによってアメリカのアジア支配を全面的に崩壊へと導くという認識や、ベトナム革命を最前衛とする労働者国家と植民地革命の一元的な国際体制(権力)が第三次アジア革命の主体として革命的攻勢を決定的に展開していくとの認識ーーこうした、七〇年代同盟のアジア革命=極東解放革命に関する綱領上の基本認識を根本から崩壊させていくことを意味するものであった。
 そしてそのことは同時に、世界的二重権力論を世界永久革命の今日的方法として認識する七〇年代同盟の綱領上の全体系が根本から破産したことを示すものであった。
 アジア情勢の構造を、世界的二重権力関係に基づく革命と反革命の軍事的対立・均衡として一面的に特徴づける方法によれば、ベトナム革命の局地的勝利が、必然的に帝国主義のアジア支配の構造全体を崩壊へと導くとの結論に達するのは当然のことであったといえよう。
 そしてまたアジアにおける帝国主義支配体制を、アメリカ帝国主義の軍事にのみ依存する一元支配(権力)の構造として認識するならば、アメリカ帝国主義の世界支配の衰退や崩壊は、必然的に帝国主義のアジア支配の成立基盤を歯止めなき解体過程へと突入させるとの認識もまた当然であった。
 こうした帝国主義アジアの崩壊の構図を背景として、アジアにおける労働者国家と植民地革命の一元的国際体制(権力)が、その官僚指導部の内部矛盾を抑え込んで第三次アジア革命として攻勢に転ずるとの展望が組み立てられたのである。
 だが、ベトナム革命の民族的勝利と米中会談以降の情勢の展開は、逆に中ソ対立が情勢の動向を決定づける中心環へと浮上することとなっただけでなく、中ベト対立とその戦争への転化、ベト・カン対立とその戦争への転化という形をとって、植民地革命のもつ民族革命としての限界とスターリニスト官僚間の本質的矛盾を一挙に顕在化させることとなった。こうして第三次アジア革命を担うはずであった主体は、その内部矛盾を顕在化させ、バラバラに解体していったのである。
 一方アメリカ帝国主義の世界支配の構造は、労働者国家の統一性の解体と裏腹に進展した米中平和共存体制を基礎として、その上に日本経済を動員しながら、アジアにおける新たな帝国主義支配の構造を再構築していったのである。
 こうした情勢の展開は、七〇年代同盟の綱領上の根本的崩壊を示すものである。
 七〇年代同盟の根本的破産は、第二に、全人民的急進化を基礎とした日本労働者人民の「権力のための闘争」という基本認識が、ロッキード政府危機をめぐる攻防を通じて全面的に崩壊していったことである。
 第三次アジア革命の一環として成立する「権力のための闘争」は、その国際的条件の崩壊によって成立基盤の前提を失うことになった。
 ロッキード危機を軸とした政府危機をめぐる攻防は、同時に生活防衛の闘いが労働者階級の闘争的自治と自己権力の萌芽を発展させ、政府危機が体制危機へと連動する闘いとして展望されていたのである。すなわちロッキード問題をめぐる政府危機の構造は、単に議会内的危機にとどまらず、国際的、社会経済的危機と連動し、労働者大衆の自己権力的闘争へと直結することによって体制的危機へと転化していくものとして認識されていたのである。
 ロッキード問題をめぐる議会的攻防が、同時に部分的二重権力を不断に顕在化させいく労働者人民の闘い(統一戦線)と結びつき、社共を軸とした労農政府のための闘争が労働者権力(労働者評議会)をめざす闘いの性格を強めていくものとして展望されたのである。
 労働者人民の利害の非和解性が、その闘いに権力闘争としての性格を与えていく。労働者階級のこうした闘いの構造が、社共を政府権力へとおしあげ、統制しつつ、それを二重権力の闘いの一環へと組み込んでいくとされたのである。ロッキード問題をめぐる政府危機の攻防は、こうした闘いを通じて階級的性格を強め、労働者権力(労働者評議会)をめざす闘いへと発展するものと把握されたのである。政府危機を背景とした「権力のための闘争」は、こうして「過渡的要求」の闘いとも、そして「統一戦線」のための闘いとも不可分のものとして認識されたのである。社共政府スローガンは、まさに労農政府のための現在的闘いとして位置づけられ提起されたのであった。
 だが、ロッキード政府危機を背景としたわが同盟の社共政府スローガンは、社共自身がそのための攻勢的意欲を持たないというだけでなく、労働者人民の闘いそれ自身の中から、社共を政府権力へと押し上げようとする闘いが登場しなかったことによって完全に破産を強制されたのである。
 たしかに政府危機は、きわめて深刻な様相をおぴて発展した。しかしそれは議会内的危機を突破しうるものとはならなかった。議会を通じた政府危機の顕在化は、しかし同時に社会・経済的要求を基礎とした労働者人民の生活防衛闘争の政治的後退と交錯し、二つの闘いは結びつくことなく、闘いの分断が深く進行していくこととなった。こうして同盟の社共政府スローガンは、ただ一般的な政治的願望を表現するものにとどまり、現実的基盤をもたない抽象的空文句となってしまったのである。
 階級的利害の非和解性を基盤に、労働者大衆の生活防衛の闘いが権力のための闘争へと発展するとの展望は、ロッキード政府危機をめぐる攻防の現実を通じてその破産を全面的に暴露していくこととなった。
 総評左派の闘いを軸とした全人民的急進化が、敗北と後退を強制されたのは、第一に、順法ストに対する上尾・国電暴動に直面した労働者階級の対応力の喪失という局面からはじまっていた。そしてそれは第二に、経済危機下における大量の首きり倒産攻撃を伴った資本の減量経営戦略への屈服を通じて、全面的に明らかになっていった。そして第三に、官公労のスト権奪還ストをめぐる敗北を通じて決定的となったのである。
 ロッキード政府危機の顕在化と、減量経営攻撃への屈服、スト権奪還ストの敗北が交錯することによって、政府危機をめぐる攻防は、労働者大衆の社会・経済闘争と深く分断され、結局議会的枠組みの中で収拾されていくのである。社共政府をめぐる「権力のための闘争」の破産は、権力の攻撃に直面して敗北と後退を強いられた総評左派の労働組合主義左派としての政治的限界の暴露と一体のものであったといえよう。
 同盟五・六回大会において綱領的「鍵概念」として提出された「権力のための闘争」路線は、ロッキード政府危機を背景とした社共政府をめぐる闘いの挫折によってその路線の破産を全面的に暴露することとなった。それは、戦後における労働運動の敗北を決定的に刻印したものというだけでなく、また同盟五・六回大会の政治路線の敗北を意味しただけでもない。それは同時に、七〇年代同盟を貫いた綱領的体系そのものの根本的破産を意味するものであったのである。
 七〇年代同盟の根本的破産は、第三に、日本経済の深刻化する危機を背景とした「日本労働運動」の戦略的分化に関する見通しの崩壊であった。
 「権力のための闘争」の破産の項でも若干ふれたように、七〇年代同盟の日本労働運動に関する基本認識は、日本労働運動の戦略的分化を、「極力のための闘争」に連動する大衆的な階級的再生の闘いとして展望するものであった。それは「権力のための闘争」が、「労働組合の奪権」の闘いと一体的のものとして認識されてきたことの中に示された。
 日本労働運動の戦略的分化に関するこうした展望や構想は、国家・資本の減量経営攻撃や行革攻撃、スト権奪還闘争における総評左派の敗北と屈服の過程を通じて全面的に破産を強制されていくこととなった。
 こうした日本労働運動の戦略的分化に関する認識は、総評労働運動が内包する二面的性格に依拠したものであった。すなわち総評労働運動を構成する内的要素を次のようなものとして把握したものであった。その第一は、政府=資本との改良主義的癒着を強める側面であり、第二に、政府=資本に対する自立的抵抗の側面である。そして総評労働運動の「戦闘的改良主義」としての中間的性格は、まさにこの二つの側面が相互に補完し均衡することによって成立したものという認識である。それはまた世界的二重権力関係=その対立・共存構造に対応するものとして位置づけられた。そしてこの二つの側面の相互補完的な均衡の成立は、アジアにおける革命と反革命の均衡と日本資本主義の相対的安定、高度経済成長を前提とすることによって可能とされた。
 だがベトナム革命の勝利と第三次アジア革命の攻勢、日本資本主義経済の危機は、総評が内包するこうした二つの内的傾向の相互補完的均衡関係を崩壊させ、一方は国家ー資本との癒着の深化=同盟・JC化の方向へ、他方は国家ー資本に対する自立と抵抗を基盤に、それを政治的独立と戦略的対決の道へと発展させ、「権力のための闘争」に連動する階級的労働運動の再生として展望したのである。
 世界経済の危機を背景とした国家ー資本による減量経営ー行革攻撃の政治的特徴は、企業内労働者(企業内組合)を企業帰属意識(企業防衛意識)のもとに動員し、新たな社会的上層労働者層としてそれら労働者を再編・再組織することを意図したものであった。
 七五年、深刻化するスタグフレーションのもとで展開された資本の減量経営攻撃は、一五%ガイドラインにもとづく賞金ストップ攻撃(春闘連敗の開始)と共に、バート、臨時工等、下層・未組織労働者の大量首きり攻撃として展開された。
 こうした攻撃に直面して、同盟・JC派はむろんのこと、総評労働者もまた下層・未組織労働者層の首きりを許容し、そうした労働者の犠牲の上に組織労働者層の生活防衛(雇用確保)の基盤を確保しようとする特権的意識構造を促進、定着させていったのである。
 減量経営攻撃に対する組織労働者のこうした対応を通じて、資本による社会的上層労働者層としての再編の骨格が形成されていったのである。
 総評左派の「企業内組合」としての政治的限界が、こうした政府・資本の再編攻撃と対決できず、ついにその多くがそれに屈服し、歯止めなき後退へとおちいっていった。
 こうして、春闘の連敗、総評青年協運動の解体、中小企業の倒産攻撃に対する屈服と解体が強制されていった。敵の減量経営攻撃への労働者のこうした屈服の上に、ロッキード政府危機の議会主義的収拾がはかられ、自民党挙党協による保守本流支配の再建がはかられていった。宮公労のスト権ストは、こうして再建を開始した保守本硫支配の壁と激突し、重大な敗北を強制されることとなった。こうした敗北の土台の上に行革攻撃は開始されたのであり、総評左派(宮公労)のナダレのような後退と敗北が進行し、民間先行の「労戦統一」から「全的統一」に至る右翼再編攻摯の基盤が形成されていくこととなったのである。
 かくして、「権力のための闘争」に連動する労働運動の左への戦略的分化に関するわが同盟の展望は、完全な破産を暴露していくこととなったのである。
 以上見て来たように、「第三次アジア革命の攻勢」「権力のための闘争」「日本労働運動の左への戦略的分化」ーこの一連の七〇年代同盟の綱領的、戦略的土台は、完全な全面的破産を明らかにしていったのである。だが最大の問題は、誰の目にも明確となったこうした政治路線的破産にもかかわらず、同盟は依然として綱領的領域における根本的再検討へとむかうことができず、再び当面の政治的手直しに終始したことである。こうして同盟は、ますます当面する戦術的、なし崩し的対応におわれ、それとともに同盟の綱領的、戦略的意識はバラバラに解体されていくこととなるのである。(こうした局面についての検討は、次の機会に詳しくしていくこととしたい)

(4)綱領討論の放棄と同盟の崩壊

 これまで見てきたように、七〇年代同盟の崩壊は、明らかに党建設とその綱領上の根本的破産であったことを明らかにした。だが同時に同盟は、その政治的、組織的破産が明確にもかかわらず、綱領的再建へと踏み込むことを一貫して放棄してきた。何故そうであったのかについては、これまで五・六回大会の「転換」に関する総括を通じて明らかにしてきたところである。
 だがここでは、こうした総括を前提としつつ、「綱領」そのものについての取り扱い方はどのようなものであったのか、その点に関して若干の検討を加えてみることにしよう。
 第六回大会は、その転換にもとづいて「綱領のための闘争」を重要な課題として設定し、「綱領委員会」を設置してそのための闘争を組織しようとした。第八回大会もまた、第六回大会の「綱領のための闘争」の重要性を継承して「理論委員会」を選出してその活動を継続することを確認した。
 だが「綱領委員会」「理論委員会」は、その最初の段階から事実上の開店休業状態へとおちいった。
 「綱領委員会」「理論委員会」が開店休業におちいった最大の原因は、先にも検討してきたように同盟五・六回大会の転換」が大衆運動上の転換にとどまり、綱領的領域においては第四回大会路線を原点とし、それを継承するとの一貫した方法をとってきたからである。すなわち、党建設と綱領に関する大衆運動主義の方法がもたらした端的な結果であったといえるのである。
 こうして、綱領上の根本的再検討へと踏み込むことを放棄すると共に、検討すべき対象を「大衆連動テーゼ」に限定していくことになったのである。
 「綱領委員会」「理論委員会」が検討すべき対象を「大衆運動テーゼ」に集中した根拠は、まさに五・六・八回大会の政治、組織路線の大衆運動主義的性格から生じた必然的結果であったといえよう。そしてその「大衆運動テーゼ」の結果は、個別闘争の領域が必然的に「権力のための闘争」へと結合することが不動の前提とされ、その結果として、個別闘争を「権力のための闘争」へと結合する「大衆運動テーゼ」の作成が要求されたのである。それは逆に、「権力のための闘争」路線の破産が、「大衆運動テーゼ」づくりの挫折へと直結することとなった。こうして「綱領委員会」「理論委員会」そのものが機能しなくなり、開店休業となるのである。
 第八回大会は、「綱領委員会」「理論委員会」の問題点を検討して次のように述べている。

 「第四回大会の綱領的主張と第六回大会のそれとの関係をジグザグもしくは対立的のものとして把握すべきではなく、……発展として評価されるべきである」。「『綱領委員会』が設置されたのも・・・・・・以上の内容的土台の発展を基礎としていよいよ『綱領』そのものへの挑戦をはじめようとした」。
 第六回大会は以下のように述べている。
 「『日本プロレタリア革命』の・・・…基本骨子の提示にとどまっている」。「以上の段階にとどまっていたことこそが第四回大会が具体的方針をもちえなかった…・・・主要な要因となった」。「われわれはなお自らが各分野の大衆運動に十分に結びついていなかったからだ」。綱領委員会の「前進は・・・各大衆運動分野において『政治テーゼ』の作成にむかって挑戦が開始されていることであった」。「こうすることによって『綱領』は抽象的な存在から真に身近かで物質的なものに転化し、かくして『綱領のための闘争』は全同盟的闘争へとますます発展」する。「同盟の全ての力が情勢や大衆運動との結合の深化にむけられ『綱領のための闘争』という独自的闘争を展開できる力が存在しなかった」。「この点でわれわれは…『綱領のための闘争』をある程度切り捨てざるを得ないことによって、以上の『転換のための闘争』を展開してきた」のだと。(第八回大会「総括」)

 以上見たように、「綱領」は、まさに「大衆運動」の必要の度合いによって意識され、また「情勢」や「大衆闘争」との結合なしには、「綱領のための闘争」を展開しうる独自的力や条件さえもが成立しないとされてきたのである。
 こうした「綱領」についての大衆運動主義的方法こそが、まさに七〇年代同盟の解党主義的性格を決定づけるものであったと同時に、その政治路線における急進主義と組合主義の混合を生みだすこととなった最大の要因であったといえるのである。

一九八九年四月二五日


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